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2019年01月09日
1月9日は何に陽(ひ)が当たったか?
宋の皇帝、徽宗(きそう。位1100-25)が即位した時代のお話です。この時代は依然として新法改革を推進する新法党と、保守派旧法党の政争で荒れていました。徽宗の親政前は、摂政の計らいで新旧両法折衷策として比較的穏和に動いていました。しかし親政を始めた翌1101年からは、父神宗(しんそう。位1067-85。新法改革を断行)の遺志を受け継ぎ、政情の把握なく新法を支持してしまい、さらに重要な政局は宰相である蔡京(さいけい。新法派。1047-1126)に任せ、帝自身は道教への狂信、また画院(がいん。翰林図画院。かんりんとがいん。宮廷の絵画製作を管理)に属する宮廷画家を保護して院体画(いんたいが。院画。北画。花鳥・山水・人物画)に趣味が走り、自身も『桃鳩図(とうきゅうず。こちら。Wikipediaより)』を描くなど、"風流天子"と言われるほどに、政治よりもむしろ芸術に熱が入るようになりました。このため、宮廷では乱費が進みました。徽宗も即位時に"軽佻な君主"と言われており、細かいことを避けて何事も感覚的に動く人物であったといわれております。
蔡京は新法導入によって国税を厳しく取り立てますが、これら歳入は、すべて宮廷の浪費と消えていきました。不足すれば、物価高騰を予測することなく交子(当時の紙幣)を乱発しました。徽宗の命により、専売強化やさらなる重税が度重なり、挙げ句の果てには、徽宗芸術の一環として宮廷庭園に飾る植樹用の珍しい木々や奇岩奇石を、特に江南地方から貢納させ(花石綱。かせきこう)、農民に強制運搬をさせるという暴挙に出たのです。このため、浙江省出身のマニ教徒の農民・方臘(ほうろう。?-1121)を中心とする農民反乱(方臘の乱。1120)が勃発し、やがて6州12県にまたぐ大反乱となっていきました。反乱は、徽宗に慕われ軍の指揮官を任された宦官・童貫(どうかん。?-1126。14世紀に作られる長編武侠小説『水滸伝(すいこでん)』では、蔡京とともに悪役として登場)によって鎮圧され、方臘も殺害されました(1121)。
契丹(きったん。北方のモンゴル系民族)の国家、遼(りょう。916-1125)が滅亡した1125年は徽宗の時代でしたが、蔡京や童貫の助言で、遼領となっていた燕雲十六州の奪還を目指すことを第一に、遼を攻めることを提案しましたが、宋の国家体制は武断主義ではなく文治主義の立場でここまで来ており、宋の軍隊である禁軍は、国勢下り坂の遼軍と比べても明らかに劣り、一国で勝つのは不可能でした。そこで、蔡京や童貫らは、これより先に遼・天祚帝(てんそてい。位1101-25)の軍を一度敗退させていた女真族(満州のツングース系民族)の国家、金(きん。1115-1234)の太祖、完顔阿骨打(ワンヤンアグダ。位1115-23)に接近して、金と遼という異民族同士で戦わせて、漁夫の利となる燕雲十六州を奪い返すことを考えるなど画策を練り、金の太祖に遣使をおくって、北から金が、南から宋がそれぞれ遼を挟撃し、成功すれば燕雲十六州を宋が、それ以外の遼全土を金がそれぞれ領有する、また遼と澶淵の盟(せんえん。"せん"はさんずいに亶。宋の、1004年から続く遼との対外和親策)で決めていた歳幣を、そっくり金王朝に贈与することを約したのです。やがて、遼の軍隊と、宋・金の連合軍が対峙することになりましたが、宋軍は方臘の乱鎮圧にかかる手間で、思うように首都や副都を攻略できず、結局金の軍隊によって遼の軍隊を殲滅させたのでした(燕山の役。1125)。どうにかして宋は念願だった燕雲十六州を奪還、そして金は広大な領土を獲得しました。しかし金は、役に立たなかった宋に対し、宋銭百万分(毎年)や食糧20万石など、開戦前の約定以上の要求を言いつけたのです。
徽宗は、この要求には不満でしたので、金の太祖が没し弟である太宗(完顔呉乞買。ワンヤンウキマイ。位1123-35)が即位すると、歳幣などの支払を怠るようになりました。しかも、金の抵抗者を匿うなどの行動を起こしたので、金は宋を攻めて、燕雲十六州を陥れました。金の首都となる燕京はこうした経緯によって金が支配することとなるのです。1125年、金の軍隊が、宋の首都である開封まで南進した時、徽宗ははじめて、自身の行政に誤りがあったことに目覚め、謝罪の詔を発して、勤王の軍を全国に募り、自ら退位して皇太子欽宗(きんそう。1100-61)に譲位しました(位1125-27)。
1126年、金はいったん北へ引き返しました。宋の王室では、金に対して和戦論争が生じていましたが、優勢だったのは和平論で、首都を開封から南遷して安全をはかるというものでした。しかし勤王の軍は戦争続行を主張しており、また強力な軍隊に成長していたことで、たびたび侵攻する金軍を撤退させていました。欽宗は勤王の軍の功績を黙殺して金と講和をはかりましたが、金は、財政難の宋には到底受け入れられないような多額の歳幣と要地の割譲を要求してきました。欽宗は無理と知りながらも応急措置としてこれを受託しました。当然、支払いは怠るどころか、金に内紛を起こさせる謀略を練りだしました。このため主戦派は、和平派に激しく抵抗して、得策もないまま宋の首都開封の死守を訴え、欽宗もこれに押されてしまいます。
ところがこの謀略が金に知られてしまい、金の太宗は宋の違約を名目に開封に侵攻、同1126年末、戦術を練る時間もなくたちまち開封は包囲されました。翌1127年1月9日(諸説あり。靖康元年11月5日)、金軍は欽宗を廃位、王室の財宝を略奪するとともに、欽宗をはじめ、前皇帝の徽宗、皇后、皇族、重臣ら約3千人を捕らえ、首都会寧へ連行、黒竜江省の五国城に幽閉されました。この一連の事件は靖康の変(せいこうのへん。1126-27)と呼び、北宋は滅亡に至ります。徽宗も欽宗も、帰国の望みを捨てませんでしたが結局は許されず、異国の地で生涯を終えました(徽宗1135年没、欽宗1161年没)。
引用文献『世界史の目 第91話』より
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2019年01月08日
1月8日は何に陽(ひ)が当たったか?
7枚目のスタジオ・アルバム、"Relayer(邦題:リレイヤー)"からの作品ですが、"Soon"としての単独作品で収録されてはおらず、A面全体を飾る22分近い大作、”The Gates of Delirium(邦題:錯乱の扉。個人的には12分50秒あたりののドラムの連打が印象的)”の終盤のスローテンポに入る最終パートを切り取って編集し、シングル盤としてタイトルを付けてリリースされたナンバーです。シングル盤は4分程度の編集でしたが、2003年リリースのベスト盤"The Ultimate Yes: 35th Anniversary Collection(邦題:アルティメット・イエス)"では5分44秒の最新エディット・ヴァージョンが収められています。
シングルB面は同じく"Relayer"収録で、"Soon"とは対照的にジャジーかつヘヴィーなインプロヴィゼーションを聴かせる"Sound Chaser(邦題:サウンド・チェイサー)"で、この曲もまたシングル用に3分程度に編集されたヴァージョンが収録されました。また"The Ultimate Yes: 35th Anniversary Collection”がでた2003年には"Relayer"のリマスター盤もリリースされ、ボーナス・トラックとして"Soon"、"Sound Chaser"のシングル・エディット盤や、"The Gates of Delirium"のリハーサル・ヴァージョンなども収められ、"Soon"を様々な編集盤で聴くことができます。
"Relayer"唯一のシングルとして"Soon"はリリースされましたが、チャートには至りませんでした。
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2019年01月07日
1月7日は何に陽(ひ)が当たったか?
1988年、CSN&Yとしてのシーン復帰は、1970年リリースの名作、"Déjà Vu(邦題:デ・ジャヴ)"以来、18年ぶりとなりました(ライブ盤、ベスト盤を除く)。ただその間Neil Young抜きでのCSNの集まりとしては継続的な活動があり、Billboardの各チャートでも成果を収めておりましたが、80年代はどちらかと言えばNeilの活動がより目立っていたこともあり、復活アルバムとなった"American Dream(邦題:アメリカン・ドリーム)"は、Neilが他の3人よりもやや前面に押し出たような、Y&CSN的なアルバムで、復活の話題性は充分にありましたが、サウンドや構成は"Déjà Vu"とははるかに異なり、時代に合わせた音作りが中心となりました。
アルバム、"American Dream"は1988年11月にリリースされました。エアプレイされた、"American Dream"、"Nighttime for the Generals"、そして今回のハイライトであります、"Got It Made"はAlbum Rock Tracksでもアクションを見せ、まず"American Dream"では1988年12月3日付で2週続けて4位を記録し、10週チャートインしました。これに並行して"Nighttime for the Generals"では12月10日付で39位を記録、7週チャートインしました。
同じくこれらに並行してチャート・アクションを見せていたのが"Got It Made"で、個人的にもアルバム収録曲の中で大いに気に入っているナンバーです。Stephen Stillsの楽曲で、ギターはNeilが担当しています。印象的な歌声は健在ですが、80年代のポップなロック・サウンドを反映しており、フォーク・ロックやカントリー・ロックの音作りはやや控えめになっています。
Album Rock Tracksでは1988年11月26日に46位で初登場、その後39位→26位→14位と上昇、12月24日付で8位と、CSN&Yとしては"American Dream"に続くTop10入りを果たしました。翌31日付は休刊のため同位となり、陽の当たった1月7日付で"American Dream"に並ぶ4位を記録、翌週は2位に上昇し、1月21日付で初の1位に輝きました。1位は2週続き、その後は後退(6位→12位→22位→35位→47位)、15週チャートインし、アルバムの中で最も売れた作品となりました。その後Album Rock Tracksでは"That Girl"もチャートインしています(1989.3.18付で最高位25位。12週チャートイン)。
"Got It Made"はAlbum Rock Tracksでのチャート・アクションが良かったため、"American Dream"に次いでシングル・カットされました(カップリングは"This Old House")。すると1989年2月4日付Billboard HOT100シングルチャートで96位に初登場し、CSN&Yとしては1970年9月のGraham Nash作"Our House(邦題:僕達の家。HOT100最高位30位)"以来のエントリーを果たしました。その後84位→73位と順調にアップしましたが、2月25日付の69位を最高位にその後は後退(71位→81位→88位→99位)、7週のチャートインに終わっています。
なお、アルバム"American Dream"のBillboard200アルバムチャートとしての成績は、1989年1月17日付の16位が最高で、22週チャートインで終わりましたが、Radio &RecordsのAOR Albumsチャートでは底力を見せつけ、1988年11月18日に40位内で3位に初登場、12月2日付より8週間2位を記録し、当時のエアプレイでは強さを誇りました。
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2019年01月06日
1月6日は何に陽(ひ)が当たったか?
ルクセンブルク伯家から出たドイツ王カール4世(王位1346-78)は、父ヨハン(1296-1346)没後はベーメン王カレル1世としても王位につき(ベーメン王位1346-78)、神聖ローマ帝国の都をベーメン(ボヘミア。現チェコ西部)の中心都市であるプラハに遷し、プラハ城を再建してこれを王城としました。
カールは青年期にパリで養育を受け、語学において高い教養を身に付けた経験から、ドイツ語圏において最初の大学であるプラハ大学(現在のカレル大学)の創設を決め(1348)、またカレル橋の建設(1357年着工)などプラハの有力都市化およびベーメンの発展に尽力しました。こうした功績により、カール4世は"文人皇帝"、"ベーメンの父"と称されました。
陽の当たった1355年1月6日、カール4世は1355年に戴冠を受けて、ついに神聖ローマ皇帝カール4世としてその名を轟かせました(帝位1355-78)。
同1355年、カール4世が召集したニュルンベルク帝国議会、および翌1356年に召集したメッツ帝国議会において、皇帝カール4世はいわゆる"金印勅書(黄金文書)"を発布しました。これは、これまでの悪習でした、ドイツ王を選出する権利を持つ選帝侯の強権化によって、弱小貴族からしか王位を継承できない状態から脱するための手段であり(これまでは選帝侯によって、都合よくドイツ国家を動かせられる状態にあった)、君主を選定する聖俗の選帝侯を7人定め(7選帝侯)、選挙王制の安定化をはかったのです。7選帝侯とは3名の聖職諸侯と4名の世俗諸侯で定められ、内訳はケルン大司教、マインツ大司教、トリーア大司教、ザクセン選帝侯、プファルツ選帝侯(ファルツ選帝侯。ライン宮中伯)、ブランデンブルク辺境伯(ブランデンブルク選帝侯)、そしてベーメン王の7名で構成されました。これにより、選帝侯の格付けや権力が定まり、過去にあった、対立王を擁立するための重複選挙といった不正・不合理を防ぐことが可能となりました。 また皇帝選出に関して、ローマ教皇の承認も必要としなくなり、これまでローマ教皇との結びつきを重視するために神聖ローマ皇帝がとってきましたイタリア政策(これまでは教皇領のあるイタリアの治安安定のため、ドイツの神聖ローマ皇帝がイタリアまで駆り出されておりました)を第一とする考え方が弱まることで、カール4世は強い皇帝権によって統一された領邦国家体制によって、強力なローマ帝国を築くことを目指していきました。
しかし結局は選帝侯を強化したことだけが一人歩きし、皇帝権強化というよりは諸侯の強権化、つまり領邦(帝国を構成する地方諸侯の国家的性質をもつ領域や有力都市)の主権国家的性質をかえって助長することになってしまい、領邦の自立化がはかられて帝国の統一性は妨げられる形となっていくのでした。
引用文献『世界史の目 第249話』より
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2019年01月05日
1月5日は何に陽(ひ)が当たったか?
ドイツ革命が勃発し、帝政が崩壊した1918年11月、政権を取り仕切ることになったドイツ社会民主党(SPD)では、臨時政府宰相として党首フリードリヒ・エーベルト(1871-1925。党首任1913-19)が就任し、ドイツ共和国樹立宣言(1918.11.10)を行い、ドイツ共和政が始まりました。翌11日には休戦協定(ドイツ休戦条約)がパリ北東のコンピエーニュの森で調印され、第一次世界大戦(1914-18)は終わりました。
共和政が開始された11月10日、ドイツ社会民主党は、独立社会民主党(USPD)に協力を求めたことで、かつての社会民主党内の左右両派が集う連立政権が樹立されました。しかし、急進的極左派で独立社会民主党に所属するスパルタクス団は、この政権の在り方を拒絶し、革命後全国各地に自主成立した、兵士や労働者からなる評議会、レーテを支持基盤・活動拠点に据えようとしました。ただし、革命で政権を握ったのはあくまでも社会民主党であり、レーテも革命政権はドイツ社会民主党であるとしてこれを支持しましたので、社会主義革命政権を目論むスパルタクス団は重要な支持基盤を失い、革命の機会を逸しました。
エーベルトは復員兵士を中心に結成した志願兵組織(フライコーア。ドイツ義勇軍)を使って共産主義者の武力活動の鎮圧を行いました。このフライコーア結成によってエーベルト率いるドイツ社会民主党の向かう先、つまり社会主義革命を目標に行われる武力活動をつぶすことが明確に打ち出されることになったのです。
こうした状況から1918年12月29日、連立政権内では左右両派の対立は当然のことながら避けられず、独立社会民主党は政権を離脱を表明しました。さらに独立社会民主党はその後左右両派(つまり政府寄りか反政府寄りか)に分裂して、やがて衰退の方向へ向かいました、同党に属していたエドゥアルト・ベルンシュタイン(1850-1932)、カール・カウツキー(1854-1938)らはその後社会民主党に戻りました。
そして、スパルタクス団を率いるカール・リープクネヒト(1871-1919)、ローザ・ルクセンブルク(l1871-1919)、フランツ・メーリング(1846-1919)、クララ・ツェトキン(1857-1933)は12月30日、ベルリンで大会が開催され、独立社会民主党からの離脱を表明すると同時に、新党「ドイツ共産党(KPD)」の結党を発表しました(党成立は1919.1.1。結党当初の名は"ドイツ共産党・スパルタクス団")。
共和政となった議会は帝国議会から憲法制定議会(人民代理委員会)へと変わりましたが、スパルタクス団のローザ・ルクセンブルクは、現状の共産党に支持母体が弱いこともあり、国民議会選挙(国会選挙)が重要である主張していました(ローザは民主主義と革命双方の実現を目指していました。いわゆるルクセンブルギズムといわれるものです)。しかし共産党全体の見方としては暴力を用いてでも"革命"を重視することであり、国会選挙の不必要性を打ち出しました。結局国会選挙の棄権が党内で可決され、武力クーデタで政権を倒し、労働者のための社会主義政権をおこすことが目標として定められました。
独立社会民主党は連立政権を離れましたが、これを拒否した独立社会民主党員がいました。ベルリンで警察を取り仕切っていたエミル・アイヒホルン(1863-1925)という人物です。政権内における極左派の人物で、自身が編成した軍隊も抱えており、極左派、とりわけ極左勢力の労働者や社会主義者にとっては大きな拠り所でありました。しかしエーベルトの右派政権を取り仕切る社会民主党にとって、極左派で革命的なアイヒホルンは要注意人物でありましたので、独立社会民主党離脱にともない、アイヒホルンは社会民主党から解任通告を受けました(1919.1.4)。これによって極左勢力は翌5日から首都ベルリンを中心に、20万人規模に及ぶデモを行いました(1919.1.5。1919年の蜂起)。
独立社会民主党やドイツ共産党はこのデモを支持し、社会民主党政権の批判を行いました。また新聞局が占拠されたり、社会民主党支持者が襲われる等武力による過激さが増大化しました。アイヒホルンも解任は不当として警察庁に居座りました。ドイツ共産党・スパルタクス団のカール・リープクネヒトは左派政権樹立の革命にむけて同1919年1月8日に独立社会民主党とともに革命委員会(Revolution Committee)を設立して、全国のレーテにゼネストを呼び掛けてエーベルト政権を脅かしていきました。
革命委員会が呼び掛けたゼネストは約50万人規模で行われましたが、肝心の独立社会民主党とドイツ共産党・スパルタクス団との間では、当然のことながら左右両派の対立が依然としてあったことで、意見がまとまらずにいましたので、レーテを構成する兵士や労働者たちは業を煮やしてデモから撤退したり、エーベルト政権支持に戻るなどして、独立社会民主党とドイツ共産党・スパルタクス団との関係は破綻し、革命委員会は崩壊しました。しかしあくまでもエーベルト政権の転覆を目的としたドイツ共産党・スパルタクス団は依然としてデモ・ゼネスト・武力闘争を強行する極左勢力を支持しました。
今回の事件で、ドイツ共産党・スパルタクス団の暴力革命による社会主義政権樹立という恐怖を、エーベルト政権は完全払拭しなければなりませんでした。政情安定と社会民主党の威信回復のため、エーベルト政権は極左勢力を壊滅することを決め、政敵をドイツ共産党・スパルタクス団に集中し、1919年の蜂起の名称を"スパルタクス蜂起"と呼んでフライコーアの召集を行い、1月8日、エーベルトは革命派の徹底鎮圧を命令しました。
1月8日に始まったスパルタクス蜂起の鎮圧は1週間ほど続きました。デモやゼネストは武力で鎮圧され、占拠地は次々と開放されていきました。多くの抵抗する共産党員や労働者が降伏・逮捕されるか、無抵抗・無惨に殺されていき、各地のレーテも衰退していきました。それだけでなく蜂起に参加していない市民も巻き添えに遭い、多くの命が失われました。そして15日、蜂起を主導したスパルタクス団のカール・リープクネヒトと、もともとは蜂起に反対していたローザ・ルクセンブルクが、ベルリンでフライコーアによって逮捕されました。
1月15日、カールとローザは、ベルリンのエデンホテルに連行され、そこで何時間にもわたって激しい拷問・尋問を受けました。そしてカール・リープクネヒトは後頭部を撃ち抜かれて処刑され、身元不明者の遺体と共に死体安置場に放置され、一方のローザ・ルクセンブルクはライフルのストック(床尾。銃床をいう)で撲殺され、付近の運河に投げ込まれました。これによってドイツ共産党・スパルタクス団は"ドイツ共産党"の呼称が使用され、スパルタクス団としての活動は停止しました。ドイツ共産党としても政府からは危険分子として武力活動を抑えられ、路線修正を余儀なくされました。フランツ・メーリングは2人の虐殺から2週間後、失意の内に没しました。
極左勢力の主導者の2人が虐殺されたことで、スパルタクス蜂起鎮圧は終了しました。国内で数千人の犠牲者が出たと言われています。1月19日、国会選挙が行われましたが、共産党の国会選挙排斥運動も虚しく、社会安定を切に願う多くの国民は投票に向かい、結果80%以上の高投票率を記録しました。2月6日に開催される議会については、ベルリンがまだ混乱状態であったため、かつて社会民主党がエルフルト綱領を採択したテューリンゲン州(現・州都エルフルト)が選ばれ、当時州都であったヴァイマル(ワイマール)にある国民劇場で行われることになりました。この1919年2月6日に開催された議会をヴァイマル国民議会と呼びました。
このヴァイマル議会で、改めて共和政の仕切り直しが行われ、エーベルトが共和国初代大統領に指名され(エーベルト大統領就任。任1919-25)、8月には当時最も民主的憲法とされたヴァイマル憲法の制定が行われました(1919.8。ヴァイマル憲法制定)。行政では社会民主党と中央党が中心となる連立政権(ヴァイマル連合)による共和政が敷かれることになりました(ヴァイマル共和政)。こうしてドイツ共和国はヴァイマル共和国(1919-33)として生まれ変わりましたが、大戦の敗戦国としてヴェルサイユ条約(1919.6.28調印。1920.1.20発効)を背負わなければならず、前途多難な幕開けでありました。
引用文献『世界史の目 第189話』より抜粋
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2019年01月04日
1月4日は何に陽(ひ)が当たったか?
1972年の5枚目スタジオアルバム"Thick as a Brick(邦題:ジェラルドの汚れなき世界)"のBillboard200アルバムチャート1位、同年、間髪入れずリリースしたベスト盤"Living in the Past(邦題:リヴィング・イン・ザ・パスト)"の3位、そして1973年の6作目"A Passion Play(邦題:パッション・プレイ)"の1位と、難解ながらも斬新で、確実にロック界の注目に値する話題作を放ち続けたJethro Tullですが、その後リリースするアルバムは、"War Child"という映画を2枚組のサウンドトラックでリリースしようとする計画でした。前作"A Passion Play"をモチーフにした内容で、ティーンエイジャーの少女の来世を物語にし("A Passion Play"では男の来世の話)、イギリスの俳優、Leonard Rossiter(レナード・ロシター)やイギリスのコメディ・グループ、Monty Python(モンテ・パイソン)のJohn Cleese(ジョン・クリーズ)らがキャスティングされ、バレエの振り付けにイギリスのバレエ・ダンサー、Margot Fonteyn(マーゴ・フォンティン)が選ばれるなどの計画があったのですが中途でこの話は流れてしまい、1枚のスタジオアルバム、"War Child(邦題:ウォー・チャイルド)"としてリリースされました。
"A Passion Play"がリリースされる前まで、グループの中心のIan Anderson(イアン・アンダーソン)は、"The Chateu D'isaster Tapes"という作品群をパリでレコーディングしましたがリリースされず、改編されて"A Passion Play"にも盛り込まれました。そして同じく"War Child"にも周力された "Skating Away on the Thin Ice of the New Day(邦題:スケーティング・アウェイ)"や"Only Solitaire(邦題:オンリー・ソリテア)"と共に、陽の当たった"Bungle in the Jungle"も"The Chateu D'isaster Tapes"からの流用となりました。ちなみに"The Chateu D'isaster Tapes"はのちの1993年に未発表曲を集めた"Nightcap: The Unreleased Masters 1973–1991"にて収録されました。
"Bungle in the Jungle"は、"War Child"のB面2曲目に収録されました(アナログ盤)。いかにもJethro Tullらしい、独創的でなおかつカッコいいロック・ナンバーで、イントロの効果音からタイトルの"Jungle"を彷彿とさせ、いっきに中へ引きずり込まれるTullの魅力は健在です。のちに正式メンバーとなるDavid Palmer(Dee Palmer。デヴィッド・パーマー。Key,Orchestral Arrangement)の、劇的でシンフォニックな作風に加えて、Ianのあまりにも独特で幻想的なフルートの音色が抜群にマッチし、間奏部分では、ギタリストMartin Barre(マーティン・バレ。gtr)による、エレキからメランコリックなスパニッシュ・ギターに切り換わっての奏では素晴らしいの一言に尽きます。そして何よりもグループの柱であるIanの魅力的な歌声と彼しか出せないパフォーマンスでなお一層重厚な作品として聴き手をつかみます。
HOT100シングルチャートでの"Bungle in the Jungle"のアクションを見てみると、1974年11月2日付で82位にエントリーし、71位→60位→50位とほぼ10ランクずつの順調なアップで、5週目の11月30日付で40位とTop40入りを果たしました。Jethro TullとしてのHOT100シングルチャートTop40入りは1973年1月13日に記録した"Living in the Past(邦題:リヴィング・イン・ザ・パスト。初回リリースは1969年)"の11位に続いての記録でした。後はこれを抜く、つまりTop10入りを目指すことになるのですが、その後は32位→25位→20位→16位と来て、ちょうど10週目にあたる陽の当たった1975年1月4日付で14位、そして翌週11日付で12位を最高位に後は後退(18位→24位→34位→55位→70位)、念願のTop10入りは逃し、計16週のチャートインでアクションは終了しましたが、シングルでは"Living in the Past"に続く、堂々のシングル代表曲としてその名を連ねました。カナダのRPMシングルチャートでは大健闘し4位を記録、RPMの1975年Year-Endチャートでも51位を記録する大ヒットとなりました。
アルバム、"War Child"は、Billboard200アルバムチャートで1974年12月28日付から3週2位を記録、31週チャートインし、当時のアメリカでは不動の人気を確立しています。
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2019年01月03日
1月3日は何に陽(ひ)が当たったか?
The Georgia Satellitesは、ジョージア州アトランタで1982年に結成されたロック・グループです。1980年、Dan Baird(ダン・ベアード。gtr,vo)、Rick Richards(リック・リチャーズ。gtr,vo)、Keith Christopher(キース・クリストファー。bass)、そしてDavid Michaelson(drums)の4人で1980年に"Keith and the Satellites"というグループを結成したのがきっかけでした。その後メンバーチェンジがあり、Dan、Rick、Dave Hewitt(bass)、Randy DeLay(drums)の4人の編成で"The Georgia Satellites"を名乗り、バーでプレイする日々が続きました。しかし"陽"の目は当たらずに1984年にいったん解散しました。
しかしアメリカのロック・グループ、Kansas(カンサス)のアルバムをヒットさせた敏腕プロデューサーで知られるJeff Glixman(ジェフ・グリックスマン)の目に留まり、1985年にEP盤"Keep The Faith"を制作、B面1曲目にDan作の"Keep Your Hands to Yourself"は収録されました。これを機にThe Georgia Satellitesが1985年に再編成され、Dan、Rick、Rick Price(Bass)、Mauro Magellan(drums)の布陣で1986年、レーベルのElektra Recordsと契約を交わし、1986年10月、Jeff Glixman制作によるファースト・アルバム、"Georgia Satellites(邦題:ジョージア・サテライツ)"でデビューを果たしました。その第一弾シングルが、EP盤"Keep The Faith"にも収録されていた"Keep Your Hands to Yourself"です。
"Keep Your Hands to Yourself"はDanがヴォーカルをとるAメジャー・スケールの痛快なサザン・ロック・サウンドで、ヘヴィー・メタルやAOR、ユーロビートなどが流行していた当時のアメリカの音楽シーンにおいて、懐かしささえ感じるロックンロール・ナンバーをあえて前面に押し出すという、当時としては無謀であったはずの戦略が、逆に新鮮さが出て、チャートでも異色の存在感が出た楽曲でありました。プロモーション・ビデオもトラックの荷台で楽しく演奏するメンバーの光景が見られる他、結婚シーンなど歌詞を一部再現した演技も見られて、非常に興味深く作られています。
この曲は1986年11月22日付Billboard HOT100シングルチャートで96位にエントリーし、The Georgia Satellitesにとって初めてのチャートインとなりました。その後、79位→60位→48位と大きく上昇し、エントリーして5週目で40位に到達、Top40入りを果たしました。その後も勢いは衰えず、1986年最終の12月27日付で10ランク上昇する30位に入り、陽の当たった休刊日である1月3日付、同位である30位を記録、形の上では2週連続30位となりました。年末年始はチャート・アクションは弱まるのがこの頃のHOT100の特徴でしたが、続く27位→20位→14位→11位と上位まで突き抜けそうなアクションを見せ、2月7日付で7位と、堂々のTop10入りを果たし、5位→2位と、1位を狙える位置まで達しました。
しかしこの時のチャート上位では、Bon Jovi(ボンジョヴィ)の"Livin' on a Prayer(邦題:リヴィン・オン・ア・プレイヤー)"が2月14日付から4週1位を続け、下からもHuey Lewis & The News(ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース)の"Jacob's Ladder(邦題:ジェイコブズ・ラダー。1987年3月14日付1位)"が迫っており、1987年2月21日付で2位を記録した"Keep Your Hands to Yourself"はこの2曲に挟まれた状態でした。結局このランクを最高位に次週より後退が始まりましたが(3位→6位→16位→28位→47位→77位)、結果的にはHOT100内20週、Top40内14週チャートインする、デビューにして大成功を収めるのです。1987年のYear-Endチャートは100位内35位で、Hueyの"Jacob's Ladder"が記録した41位を上回りました。
本場のメインストリームロックチャート(当時はAlbum Rock Tracks)でも1986年12月20日付から2週連続2位を記録していますが、この時ここでの1位はSteve Miller Band(スティーヴ・ミラー・バンド)の、あのKenny G(ケニーG)のサックスが導入された傑作、"I Want To Make The World(Turn Around)"で、6週間1位を記録しており、ここでも1位進出を無念にも阻まれた形となりました。アルバムからは、セカンド・シングル"Battleship Chains(邦題:バトルシップ・チェインズ。ノースカロライナのミュージシャン、Terry Andersonの作品)"もチャートインし、4月11日付で87位を記録しました。
その後のThe Georgia Satellitesは、50年代のロックンロール・ナンバー、"Hippy Hippy Shake(邦題:ヒッピー・ヒッピー・シェイク)"をカヴァーして映画の挿入歌に使われ、1988年11月26日付HOT100で2週続けて45位を記録するなど、地道な活動を続け、現在もRick Richardsを中心に活動を続けています。
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2019年01月02日
1月2日は何に陽(ひ)が当たったか?
8世紀前半、イスラム勢力によって占領されたイベリア半島を奪回しようと、キリスト教徒によって始められたレコンキスタは、13世紀になってもその活動の手は止みませんでした。彼等は半島中央部のメセタ中央高原にカスティリャ王国(カスティリャ・レオン連合王国。1035-1479。実質王国は1715年まで存続)、半島北東部を流れるエブロ川中流域一帯にアラゴン連合王国(1137-1479。1035-1137間はアラゴン王国ですが、その後カタルニャと同君連合。アラゴン王国としては実質には1715年まで存続)、そして半島西南部のポルトガル地方にポルトガル王国(1143-1910)の3国を中心に発展を遂げ、国土回復運動を展開していきました。
13世紀では、イスラム勢力の強国ムワッヒド朝(1130-1269)の衰退もあって、レコンキスタはより一層促進され、イスラムの支配下におかれた地域は次第にキリスト教勢力によって占領されていきました。13世紀半ばにおいて、イベリア半島のイスラム勢力は半島南部に位置するアンダルシア地方のグラナダ(イベリア半島南部)を残すのみとなっていました。つまり、イスラム勢力のイベリア半島の領域、いわゆるアンダルス(アル・アンダルス)と呼ばれる一帯は、この時代ではグラナダを中心とするアンダルシア地方を意味しています。
このグラナダは、後ウマイヤ朝(756-1031)の衰退に乗じて、11世紀初めに国家として自立したものの(イベリア半島内における、イスラム支配におかれた小国家。タイファともいいます)、ムワッヒド朝と、その前のムラービト朝(1040/56/61-1147)といったベルベル系イスラム勢力に長く支配され続けてきました。しかしムワッヒド朝が衰退すると半島南部も混乱状態になっていきました。このときアンダルシアのハエン(グラナダ北方)からムハンマド・イブン・ナスル(ムハンマド・ブン・ユースフ。1191?-1273)という人物がでて、1232年、彼はムハンマド1世(位1232-1273)として王朝を創設しました。これがナスル朝です(1232-1492)。ムハンマド1世は1237年頃(1238?)にグラナダに遷都してここを首都と定めたため、ナスル朝はグラナダ王国とも呼ばれました。その規模は小さく、半島南東部にその勢力はとどまりましたが、レコンキスタに対抗しながらも徹底して国勢を維持しました。
ナスル朝はムワッヒド朝滅亡後も、北アフリカにおこったベルベル系のマリーン朝(1195-1465)との関係を保ちつつ、キリスト教勢力、特にその中で最も強かったカスティリャ王国を警戒していました。1246年、カスティリャ王国のフェルナンド3世(位1217-1252。コルドバ及びセビリャの征服者)は、レコンキスタは完了させるには、イスラムの牙城であるナスル朝の都グラナダを陥落させなければならなかったため、積極的に同王朝を圧迫しました。規模の小さかったナスル朝が独立を保つためには、カスティリャ王国、マリーン朝それぞれに友好関係を保たなければなりませんでした。そこで、ナスル朝はレコンキスタ抵抗のもとで、マリーン朝と友好関係を保ち、カスティリャ王国には朝貢、つまり臣従関係を作って貢納を行い、関係を保持したのです。フェルナンド3世がセビリャを攻略した時、カスティリャ王国を助けたのはナスル朝の軍隊でしたが、カスティリャの威力が増すにつれて、ナスル朝をも攻め込む計画が出されました。そこでナスル朝はモロッコのマリーン朝と友好同盟を結んで、カスティリャ王国に対抗しました。マリーン朝も大国ムワッヒド朝を滅ぼした強国であり、カスティリャ王国がナスル朝を攻めるとマリーン朝の逆襲もあり得るため、念入りに警戒していました。ナスル朝・ムハンマド1世は、こうした巧みな外交戦術によって、王位と国家を保持し続けました。
カスティリャ王国にしてみれば、ナスル朝を服属までこぎつけたので、あとは同王朝が滅んでしまえば、レコンキスタが完成するところまで来ていたのです。ただナスル朝がカスティリャ王国に服属したという点においてレコンキスタは成功したのも同然であり、フェルナンド3世は英雄視されました。その反面、膨大な戦費で財政が行き詰まり、イスラム勢力の排斥で国内の諸産業が下降線をたどってしまいました。
またフェルナンド3世の治世でもって、レオン王位はカスティリャに吸収され、フェルナンド3世の退位でもって、レオン王国は消滅、連合王国もしくは同君連合の形はなくなり、単にカスティリャ王国と呼ばれるようになります。次のアルフォンソ10世(位1252-1282)の治世では、レオンの諸制度は廃されて、カスティリャ王国の一本体制へと移っていきました。
一方でナスル朝は国力をなんとか維持しながら、生存を続けました。この間、文化的にも大いに繁栄しました。後ウマイヤ朝時代、グラナダに建築された軍事要塞"アルカサーバ"は、ナスル朝になって13世紀にその規模が拡張され、その東部には多くの建築物が建てられていきました。14世紀になっても建築工事は止めどなく行われ、城塞的要素を持った宮殿となっていきます。その後、有名な"アラヤネス(天人花)の中庭"や"獅子の中庭"などが建築され、これがやがてイベリア半島に残るイスラムの歴史的文化遺産である"アルハンブラ宮殿"となっていくのです。こうした文化的成長はナスル朝の君主、ムハンマド5世(位1354-91,1362-91)の治世に見られました。きっかけとなったのはマリーン朝が1340年のカスティリャ軍との対戦で大敗を喫したことです。このためマリーン朝は半島政策からの撤退を余儀なくされたため、半島内のイスラム勢力がグラナダに流入、その中で逃げ込んだ建築家をはじめとする文化人をムハンマド5世が保護奨励したことにより、ナスル文化が開花したという経緯によります。
アルハンブラ宮殿のみならず、それより東にあるヘネラリフェ離宮(14世紀初めに建築開始)も有名です。アルハンブラ宮殿は、"イスラム建築の華"と呼ばれ、ナスル朝が残した世界規模的な重要建築物で、ヘネラリフェ離宮、またアルハンブラ西部にあるベルベル系民族の居住区だった"アルバイシン"とともに世界遺産に登録されています。
一般的にムハンマド5世の時代が、ナスル朝の全盛期とされています。マリーン朝が半島政策を断念し、半島から撤退したため危機的状況を迎えると思いきや、レコンキスタの足踏みもあって(後述)、王朝の国力は維持できました。ムハンマド5世は文化的功績を残しただけではなく、版図最大の領域を確保しつづけ、また外政においてもイタリアのジェノヴァ(ジェノヴァ共和国。1096-1797)、エジプトのマムルーク朝(1250-1517)といった地中海周辺諸国との友好関係を樹立するなど、強い政治力でもって王朝の存続を図りました。
カスティリャ王国を中心とするキリスト教勢力は、レコンキスタの完成を夢見て、ナスル朝の都グラナダを落として王朝滅亡させる準備を整えました。ところが予想外の展開に巻き込まれてしまいます。マリーン朝の半島撤退でナスル朝は簡単に落とせるはずでしたが、レコンキスタはあと一歩で完成といったところで、思わぬ敵が舞い込みました。それは黒死病(ペスト)でした。14世紀の大流行はヨーロッパ全土に蔓延し、人口2000〜3000万人(ヨーロッパ全人口の3分の1)の病没者を出したと言われ、マリーン朝と戦ったカスティリャ国王アルフォンソ11世(位1312-50)や、次王ペドロ1世(位1350-66,67-69)の妃もペストの犠牲となりました(ペドロが王子の時)。
そればかりか、カスティリャ王国では内紛も起こっていました。折しもヨーロッパ大陸では英仏百年戦争(1339-1453)の最中でしたが、ペドロ1世が貴族の粛清を断行して王権強化に努めたため、ペドロの対抗派(イベリア発祥の名貴族トラスタマラ家で、ペドロの異母兄エンリケが中心。1333-79)はアラゴン連合王国を支援に取り付け、また百年戦争を続けるフランス・ヴァロワ朝(1328-1589)のシャルル5世(賢明王。位1364-80)と軍事同盟を結びました。フランスは百年戦争の一時休戦で仕事が亡くなった傭兵が略奪行為におよび、治安が悪化していたため、これらの制圧を目的としてカスティリャに支援を頼んだのです。これに対し劣勢となったペドロ派はあろうことかレコンキスタの標的であったナスル朝と同盟を結び、対抗派がフランスならこちらはイギリスと、プランタジネット朝(1154-1399)のエドワード3世(位1327-77)の長子、エドワード黒太子(Edward,the Black Prince 1330-76)に取り入って支援を受けました。ペドロは王家の嫡流ですが、エンリケが庶流であったことを優位に話を進め、遂にイギリスと軍事同盟の締結にこぎ着けたのです。こうして英仏百年戦争はイベリア半島においても戦争の一環として戦闘が展開され、両軍それぞれペドロ1世とエンリケを中心として一進一退を繰り返しました。このためレコンキスタは一時停滞することとなりました。
その後ペドロ派とイギリスとの同盟はまもなく破綻、ペドロ1世も戦没してペドロ派は衰退、エンリケがカスティリャ王として即位しました(エンリケ2世。1369-79)。これにより継承戦争はいったん終息し、レコンキスタも1410年に再開されました。
一方、アラゴン連合王国では、シチリア島やサルディーニャ島、そしてナポリ王国(1282-1816)を配下に入れるなど、"地中海帝国"の名にふさわしい活動を行う一方で、国内ではカスティリャ同様、貴族抗争が絶えませんでした。またポルトガル王国は、自国の版図から早々とイスラム駆逐を完了してレコンキスタを終わらせました(13世紀半ば)。14世紀に興ったアヴィス朝(アヴィシュ朝。1385-1580)では、首都リスボンは大いに栄え、絶対王権化と海外進出がすすめられました。アヴィス朝の初代国王だったジョアン1世(位1385-1433)の王子が、有名なエンリケ航海王子(1394-1460)であり、大航海時代の幕開けとなるのです。
15世紀、カスティリャ王国はエンリケ4世(位1454-74)の治世となりました。エンリケは次の王位に娘フアナ(1462-1530)を推しましたが、”実子ではない"という噂が貴族の間で持ち上がり、対立貴族側はエンリケ4世の異母妹のイサベル(1451-1504)を擁立しました。またもや内乱に突入したカスティリャでは、フアナ派(ポルトガル支援)とイサベル派(アラゴン支援)で戦闘が繰り広げられましたが、結果イサベル派が勝利してイサベルの即位が決まり(トロス・デ・ギサント協定)、カスティリャ女王イサベル1世(位1474-1504)が誕生しました。
イサベルは王女時代の1469年、アラゴン王子のフェルナンド(1452-1516)と結婚していました。フェルナンドは結婚を機に、カスティリャ王フェルナンド5世(位1474-1504)としてイサベルと共同統治を担当することになりました。そして、1479年、フェルナンド5世はアラゴン王フェルナンド2世(位1479-1516)としても即位を決め、2人が統治するカスティリャとアラゴンが同君連合として統合に向かいました。その結果、両国はスペイン王国の成立となったのです。大国スペインがイベリア半島に誕生した瞬間でした(スペイン王国誕生。1479)。
この統一に驚倒したのがナスル朝でした。1470年には全盛期を過ぎた親玉のマリーン朝が既に滅亡しており、アンダルスのイスラム勢力はこの首都グラナダを拠点とするナスル朝のみでした。地中海をはじめとする海上政策もスペインによって身動きできず、経済打撃は深刻な状態でしたので、グラナダ陥落は時間の問題でした。1480年代になると王室の内紛も頻発し、ボアブディル王(ムハンマド12世。位1482-92)の時代になるとレコンキスタによるカスティリャ王国(ここでのカスティリャ王国はスペインを構成する一王国)の侵攻も激化しました。
1490年に突入すると、グラナダはカスティリャ軍によって遂に包囲されました。そして陽の当たった1492年1月2日、ボアブディル王は遂に北アフリカへの亡命を決め、アルハンブラ宮殿と王都グラナダは陥落、ナスル朝の260年の歴史に幕が下ろされたのでした(1492。グラナダ陥落。ナスル朝滅亡)。イベリア半島のキリスト教勢力によって展開した国土の完全回復は、800年近い時を経てようやく現実となったのです(1492。レコンキスタ終了)。
1496年、レコンキスタを完成させたカスティリャ女王イザベル1世とアラゴン王フェルナンド2世(カスティリャ王フェルナンド5世)は、ローマ教皇によってその功績を称えられ、"カトリック両王"を授与されました。その後もイベリア半島におけるイスラム教徒やユダヤ教徒はキリスト教に迫害的に改宗させられ、改宗できない各教徒は半島から外へ出されました。そして、イベリア半島に住むイスラム教徒の聖地であったアルハンブラ宮殿のモスクは教会へ修築され、カトリックの宮殿と変わっていくのでした。
その後スペインは"王国"から太陽の沈まぬ"大帝国"として大成長を遂げていくのです。
引用文献『世界史の目 第171話』より
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2019年01月01日
1月1日は何に陽(ひ)が当たったか?
キューバ本島は、クリストファー・コロンブス(1446/51-1506)の第1回航海によって発見(1492)されたカリブ海最大の島で、それ以来スペインの統治下に置かれていましたが、革命党を立ち上げたホセ・マルティ(1853-95)によってスペインの悪政に対する独立運動を展開しました(1868-78,95)。時のアメリカ大統領マッキンリー(任1897-1901。共和党)はこの独立運動を大いに利用して、1898年2月、アメリカ巡洋艦メイン号がキューバのバハナ港内で深夜、爆沈したのを口実にスペインと戦い(米西戦争)、アメリカの勝利でキューバの独立が認められました。ただし、その時定められたプラット条項(1901)ではアメリカの政治的干渉をうけるなど事実上の保護国となっており、完全な独立とはなりませんでした。1902年に共和国として再独立をするも、アメリカの支配はさらに続きました。
やがて民主党フランクリン・ローズベルト(任1933-1945)大統領の善隣外交政策の方針により、プラット条項が破棄され(1934)、アメリカはキューバの完全独立を承認しましたが、その後キューバを引っ張っていったのは、アメリカの資本と強く結ばれた親米的なバティスタ大統領(任1940-44,52-58)の独裁政権でした。キューバは当時から砂糖生産の経済力をアメリカに強制され、バティスタ政権はアメリカの砂糖買付保障政策によって政治が腐敗していきました。政権は1944年の選挙で敗れましたが、クーデタを起こして再び親米政権を立ち上げ、恐怖政治を展開していきました。
バティスタ政権に抗議をおこしたのがフィデル・カストロ(1926-2016)でした。1953年7月カストロはモンカダ兵営を襲撃するが失敗、逮捕され、有罪判決に対して、彼は「History Will Absolve Me(将来、歴史は私に無罪とするであろう)」と述べました。特赦を受けたカストロは1955年、メキシコに亡命し、アルゼンチンの革命家チェ・ゲバラ(1928-67)と出会いました。2人は共鳴して人と資金を集め、バティスタ打倒を掲げてキューバに再上陸し(1956.11)、ゲリラ戦を展開しました。カストロは農民・学生・一部の軍隊の支持を得、陽の当たった1959年1月1日、バティスタをドミニカに亡命させ、翌2日首都バハナに入城、2月にカストロは首相(任1959-76)となり、民主主義的な革命政府が誕生しました(キューバ革命)。
カストロ革命政府は、農地改革(1959。小作人に土地分配)などの民主主義的改革を行うが、アメリカとの対立が急速に深まった翌1960年には米系企業を含む大企業を国有化するなど、徐々に社会主義化していきました。アメリカはキューバに対する砂糖の輸入量を削減して経済圧迫を加え、ついに1961年1月には国交を断絶し、禁輸品を増やして経済制裁を強化していきました。
その後、冷戦下による米ソ間の緊張にも波が及び、1962年の"キューバ危機"を引き起こす事態になっていきます。アメリカとキューバの国交回復は2015年まで待たねばなりませんでした。
引用文献『世界史の目 第19話』より抜粋
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2018年12月31日
12月31日は何に陽(ひ)が当たったか?
カトリック教会、正教会ともに列聖され、聖人崇敬された教皇です。そのうち、カトリック教会での彼の記念日が12月31日とされており、ドイツなど西ヨーロッパではこの日を"聖ジルヴェスターの日"と呼んで大晦日を祝います。
日本国内では、大晦日のカウントダウン時に放送される"東急ジルベスターコンサート"が有名で、クラシック演奏を年越しとなる1月1日午前0時に終わらせて、新年を祝うというもので、モーリス・ラヴェルの代表曲”ボレロ”などが演奏されました。
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