2019年01月01日
1月1日は何に陽(ひ)が当たったか?
本年もよろしくお願い申し上げます。1959年1月1日は、キューバ革命が達成された日です。
キューバ本島は、クリストファー・コロンブス(1446/51-1506)の第1回航海によって発見(1492)されたカリブ海最大の島で、それ以来スペインの統治下に置かれていましたが、革命党を立ち上げたホセ・マルティ(1853-95)によってスペインの悪政に対する独立運動を展開しました(1868-78,95)。時のアメリカ大統領マッキンリー(任1897-1901。共和党)はこの独立運動を大いに利用して、1898年2月、アメリカ巡洋艦メイン号がキューバのバハナ港内で深夜、爆沈したのを口実にスペインと戦い(米西戦争)、アメリカの勝利でキューバの独立が認められました。ただし、その時定められたプラット条項(1901)ではアメリカの政治的干渉をうけるなど事実上の保護国となっており、完全な独立とはなりませんでした。1902年に共和国として再独立をするも、アメリカの支配はさらに続きました。
やがて民主党フランクリン・ローズベルト(任1933-1945)大統領の善隣外交政策の方針により、プラット条項が破棄され(1934)、アメリカはキューバの完全独立を承認しましたが、その後キューバを引っ張っていったのは、アメリカの資本と強く結ばれた親米的なバティスタ大統領(任1940-44,52-58)の独裁政権でした。キューバは当時から砂糖生産の経済力をアメリカに強制され、バティスタ政権はアメリカの砂糖買付保障政策によって政治が腐敗していきました。政権は1944年の選挙で敗れましたが、クーデタを起こして再び親米政権を立ち上げ、恐怖政治を展開していきました。
バティスタ政権に抗議をおこしたのがフィデル・カストロ(1926-2016)でした。1953年7月カストロはモンカダ兵営を襲撃するが失敗、逮捕され、有罪判決に対して、彼は「History Will Absolve Me(将来、歴史は私に無罪とするであろう)」と述べました。特赦を受けたカストロは1955年、メキシコに亡命し、アルゼンチンの革命家チェ・ゲバラ(1928-67)と出会いました。2人は共鳴して人と資金を集め、バティスタ打倒を掲げてキューバに再上陸し(1956.11)、ゲリラ戦を展開しました。カストロは農民・学生・一部の軍隊の支持を得、陽の当たった1959年1月1日、バティスタをドミニカに亡命させ、翌2日首都バハナに入城、2月にカストロは首相(任1959-76)となり、民主主義的な革命政府が誕生しました(キューバ革命)。
カストロ革命政府は、農地改革(1959。小作人に土地分配)などの民主主義的改革を行うが、アメリカとの対立が急速に深まった翌1960年には米系企業を含む大企業を国有化するなど、徐々に社会主義化していきました。アメリカはキューバに対する砂糖の輸入量を削減して経済圧迫を加え、ついに1961年1月には国交を断絶し、禁輸品を増やして経済制裁を強化していきました。
その後、冷戦下による米ソ間の緊張にも波が及び、1962年の"キューバ危機"を引き起こす事態になっていきます。アメリカとキューバの国交回復は2015年まで待たねばなりませんでした。
引用文献『世界史の目 第19話』より抜粋
キューバ本島は、クリストファー・コロンブス(1446/51-1506)の第1回航海によって発見(1492)されたカリブ海最大の島で、それ以来スペインの統治下に置かれていましたが、革命党を立ち上げたホセ・マルティ(1853-95)によってスペインの悪政に対する独立運動を展開しました(1868-78,95)。時のアメリカ大統領マッキンリー(任1897-1901。共和党)はこの独立運動を大いに利用して、1898年2月、アメリカ巡洋艦メイン号がキューバのバハナ港内で深夜、爆沈したのを口実にスペインと戦い(米西戦争)、アメリカの勝利でキューバの独立が認められました。ただし、その時定められたプラット条項(1901)ではアメリカの政治的干渉をうけるなど事実上の保護国となっており、完全な独立とはなりませんでした。1902年に共和国として再独立をするも、アメリカの支配はさらに続きました。
やがて民主党フランクリン・ローズベルト(任1933-1945)大統領の善隣外交政策の方針により、プラット条項が破棄され(1934)、アメリカはキューバの完全独立を承認しましたが、その後キューバを引っ張っていったのは、アメリカの資本と強く結ばれた親米的なバティスタ大統領(任1940-44,52-58)の独裁政権でした。キューバは当時から砂糖生産の経済力をアメリカに強制され、バティスタ政権はアメリカの砂糖買付保障政策によって政治が腐敗していきました。政権は1944年の選挙で敗れましたが、クーデタを起こして再び親米政権を立ち上げ、恐怖政治を展開していきました。
バティスタ政権に抗議をおこしたのがフィデル・カストロ(1926-2016)でした。1953年7月カストロはモンカダ兵営を襲撃するが失敗、逮捕され、有罪判決に対して、彼は「History Will Absolve Me(将来、歴史は私に無罪とするであろう)」と述べました。特赦を受けたカストロは1955年、メキシコに亡命し、アルゼンチンの革命家チェ・ゲバラ(1928-67)と出会いました。2人は共鳴して人と資金を集め、バティスタ打倒を掲げてキューバに再上陸し(1956.11)、ゲリラ戦を展開しました。カストロは農民・学生・一部の軍隊の支持を得、陽の当たった1959年1月1日、バティスタをドミニカに亡命させ、翌2日首都バハナに入城、2月にカストロは首相(任1959-76)となり、民主主義的な革命政府が誕生しました(キューバ革命)。
カストロ革命政府は、農地改革(1959。小作人に土地分配)などの民主主義的改革を行うが、アメリカとの対立が急速に深まった翌1960年には米系企業を含む大企業を国有化するなど、徐々に社会主義化していきました。アメリカはキューバに対する砂糖の輸入量を削減して経済圧迫を加え、ついに1961年1月には国交を断絶し、禁輸品を増やして経済制裁を強化していきました。
その後、冷戦下による米ソ間の緊張にも波が及び、1962年の"キューバ危機"を引き起こす事態になっていきます。アメリカとキューバの国交回復は2015年まで待たねばなりませんでした。
引用文献『世界史の目 第19話』より抜粋
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posted by ottovonmax at 00:00| 歴史