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2019年01月19日
1月19日は何に陽(ひ)が当たったか?
Styxは収録曲にアルバムとしてのトータル性を盛り込んだ、いわゆるコンセプト・アルバムの制作を得意としていましたが、前作”Cornerstone”ではハードでプログレッシブなサウンドに区切りを付けて、"歌"と"声"を重視した勇気ある挑戦を敢行、ソフトでポップなロック・サウンドを展開するとこれが見事に新たな聴衆層をつかみ取って人気を確立しました。トータル性よりも1曲1曲それぞれの楽曲を重視し、全曲がシングル志向になり得る作品となったのが"Cornerstone"でしたが、今回の"Paradise Theatre"では、シングル志向からアルバム志向へと移り、アルバム・アーチストとしてのStyxの真骨頂となりました。
アルバムタイトルの"Paradise Theatre"は実在したシカゴのムービー・パレス(現在で言う劇場、映画館。ムービー・パレスはアメリカ合衆国の呼び名で、イギリスではピクチャー・パレスといいます)です。1920年代から40年代にアメリカ各地でムービー・パレスが建てられ、1920年代後半から30年代にかけて建築数がにわかに増加してムービー・パレスの盛時を迎え、著名なヴォードヴィルや長編映画などが公開されました。シカゴの「Paradise Theatre」は建築家John Eberson(1875-1954)によって建築され、1928年9月14日に開業、当時では世界で最も美しいムービー・パレスといわれ、取り壊されることのない永遠の建築物とも言われました。しかし興行としてはそれほど大きな成功を収めたわけではなかったとされ、1956年に閉業が決まり、半年の計画で解体されるはずが結果的に2年を費やし、1958年に解体が完了しました。
Styxはアルバム"Paradise Theatre"の制作にあたり、戦後に空前の繁栄期をもたらしながら1970年末期になり不景気かつ収束しないインフレの影響で冷え込む、アメリカの社会の変動をムービー・パレス「Paradise Theatre」の30年間の栄枯盛衰をメタファー(隠喩)として例えて表現しました。これがアルバム"Paradise Theatre"のコンセプトです。
Styxはこの重厚なアルバム・コンセプトに乗せて独自の音楽を聴かせることで、聴く者は頭の中で緻密な空想世界を完成していきます。この緻密な空想世界の完成は、曲の良さ、収録曲の並び、ジャケット、そしてこのアルバムのテーマすべてが完璧だからこそできることだと思います。Styxはまさにこれをやってのけたと言っていいでしょう。全米制覇もうなずけます。
アルバム・ジャケットはオモテは盛時の「Paradise Theatre」を、ウラは閉業して零落れた「Paradise Theatre」を描いておりますが、ジャケットに描かれたムービー・パレスは同じシカゴにあった"Granada Theatre"をモデルに描かれたとされています(写真はこちら。Wikipediaより)。
1980年、Rob Kingsland、そしてGary Loizzoら前作同様のエンジニア陣の協力を得て、今作もStyxのセルフ・プロデュースで制作されましたが、主導はDennis DeYoung(デニス・デヤング。vo,key)でした。またサポート陣も前作に引き続いて参加し、前作収録の"Why Me(ホワイ・ミー)"などで見事なプレイを披露してくれたサックス奏者Steve Eisen(スティーヴ・アイゼン)の参加や、ホーンセクションを採り入れるために、アレンジャーのEd Tossingが管楽器およびそのアレンジを担当しています。レコーディングも前作と同じ、GaryのスタジオであるPumpkin Studiosで行われました。
制作が完了し、A面5曲、B面6曲の計11曲が収録された、Styxの記念すべき10枚目"Paradise Theatre"は、陽の当たった1981年1月19日にリリースされました。過去の作品は年後半のリリースが多かったのですが、年の前半、新年1月のリリースとなりました(年後半リリースの場合、Year-Endアルバムチャートでは集計が2年に分散される憂き目もありましたが、今作品では少なからずとも1年で集計でき、長いアクションを起こせばチャート上位に食い込む可能性も出ます)。
こちらが収録された11曲です。
A面(アナログ盤)
- "A.D. 1928(邦題:1928年〜パラダイス・シアター・オープン〜)"・・・Dennis DeYoung作
- "Rockin' the Paradise(邦題:ロッキン・ザ・パラダイス)"・・・Dennis,Tommy Shaw(gtr,vo,key),James [JY] Young(gtr,vo)作
- "Too Much Time on My Hands(邦題:時は流れて)"・・・Tommy作
- "Nothing Ever Goes as Planned(邦題:砂上のパラダイス)"・・・Dennis作
- "The Best of Times(邦題:ザ・ベスト・オブ・タイムズ)"・・・Dennis作
B面
- "Lonely People(邦題:ロンリー・ピープル)"・・・Dennis作
- "She Cares(邦題:愛こそすべて)"・・・Tommy作
- "Snowblind(邦題:白い悪魔)"・・・JY,Dennis作
- "Half-Penny, Two-Penny(邦題:ハーフ・ペニー、トゥー・ペニー)"・・・JY,Ray Brandle作
- "A.D. 1958(邦題:1958年〜パラダイス・シアター・クローズド〜)"・・・Dennis作
- "State Street Sadie(邦題:ステイト・ストリート・セイディ)"・・・Dennis作
実質的にHOT100ではこのアルバムから"The Best of Times"と"Too Much Time on My Hands"がHOT100シングルチャートでTop10入りし、Styxとしては初めて、1枚のアルバムから2曲のTop10ヒット・ナンバーが誕生しました。これら2曲はシングルとしても大ヒットを放ったわけですが、アルバムを通して聴いてみると、実に味わい深いものがあります。収録曲をのぞいてみましょう。
まずアルバムのトップを飾るプロローグ"A.D. 1928"のメロディーはこのアルバムの重要ポイントで、歌い出しの"Tonight's the night we'll make history(訳:今夜こそ僕達は歴史を作るんだ)"でスタート(シアター・オープン)します。スロー・テンポで始まるバラードで、Tommyのヴォコーダーを交えた美しいコーラスで全体を包み込み、Dennisがピアノの弾きながら優しく歌い、この流れが途切れることなく、いっきにStyxのロックで幕開けとなり"Rockin' the Paradise"が始まります。Tommyのギター・ソロ、バラードから一転しては力強くピアノをひながら歌うDennisのVocal、TommyとJYの美しいコーラスと、聴き応え充分のロック・ナンバーです。後に出たライブ盤でもオープニングを飾るなどして盛り上げ、特にTommyのギター・ソロが終わる頃のJohn Panozzo(drums)が連打するシーンで、ステージを縦横無尽に動き回るDennisやJYらが小刻みに足をそろえて、Johnの連打に合わせて後ろに下がるパフォーマンスは茶目っ気あって微笑ましいです。なお"Rockin' the Paradise"はメインストリームロックチャート(当時はRock Albums and Top Tracks)が開設された1981年3月21日付、つまり最初のチャートで8位にランクされました。このランクが最高位でしたが、13週チャートインしています。
続いてアルバムからのセカンドシングルになった"Too Much Time on My Hands"の登場です。TommyがStyxでヴォーカルをとった曲での初めてのTop10ヒットで、1981年5月23日付より2週9位を記録しました。Rock Albums and Top Tracksではアクションがよく、5月2日付で2位を記録し、17週チャートインしています。ややディスコがかったポップなロック・ナンバーで、ライブではエンディングが高速になってギターを振り回しながら踊るTommyが印象的です。
4曲目収録の"Nothing Ever Goes as Planned"はDennisがヴォーカルをとるレゲエがかったポップな作品で、サード・シングルとしても選ばれました。HOT100では1981年8月1日付より2週連続で54位と地味な結果に終わりましたが、Aメロやサビのタイトルを歌うパートでのコーラスは、円熟の域に達した感があり、Styxの持ち味がしっかり出されています。
そしてA面(アナログ盤)の最後を飾るバラード、"The Best of Times"の登場です。アルバムからのファースト・シングルで、前作収録の"Babe"に続く、Styxの不朽の名作として現在においても名高いナンバーですが、作詞作曲およびリード・ヴォーカルを担ったDennisが現在のStyxのメンバーではありませんので、現在のツアーでは滅多に聴かれなくなってきています。しかし、Dennis在籍時のStyxのライブ盤には定番曲でした。
"A.D. 1928"と同じメロディーで始まるこのナンバーは、タイトルが示すとおり世の中の最も幸せで、盛り上がった時期に来たことを示します。Tommyの切なくも力強いギター・ソロといい、サビの心に染みるコーラスといい、"Babe"のような甘酸っぱさというよりは、ソリッドでドラマティックな印象を受けるバラードです。HOT100シングルチャートでは1981年3月21日付より4週連続3位を記録しました。"Babe"に続く1位にはなりませんでしたが、この頃は勢いのあったREO Speedwagon(REOスピードワゴン)の"Keep On Loving You"やJohn Lennon(ジョン・レノン)の"Woman"、Blondie(ブロンディ)の"Rapture"といった強豪がチャート上位にがっちりと食い込むアクションを見せていたためそれより上へのランクアップは難しく、3位に釘付けとなってしまいました。しかしカナダのRPMチャートでは1981年3月7日付で1位を獲得しており、"Babe"に続く2曲目の1位を記録しています。
最高潮の時世が終わり、B面(アナログ盤)に突入します。いきなりタイトルに"Lonely"を冠した"Lonely People"で再始動です。雨音の激しい街角にある、木管楽器の音が聞こえ、昼間から酒を食らう人たちの集う酒場といった印象を想像できる効果音でスタートするこの曲はDennisの変幻自在な歌声と、タイトルを叫ぶTommyら高音のバック・コーラスが心に響き渡ります。Steve Eisenのサックスをはじめとするホーンセクションを巧みに取り込んだ異色の作品です。しかし間奏部分では、Dennisのシンセ・ソロとTommyのギター・ソロがものの見事にマッチし、そのあとのワイルドなJYのギター・ソロが流れると、やはりStyxの音楽です。
そして、個人的にも非常に気に入っているTommyの"She Cares"の登場です。"Cornerstoneの"Never Say Never"の項でもこの曲を取り上げましたが、アルバム収録曲の中でもやや地味にもとれるこのナンバーの本当の存在意義とは、周囲の目立つ楽曲に花を持たせながらも、この曲自体も引けを取らない非常に優れた楽曲であるということです。ポップなカントリー・ロック風で、Steve Eisenのテナー・サックスが心地良く、後半の激動を表す楽曲群の中での"一服の清涼剤"的な作品です。このアルバムでしか聞けない、ある意味強力なナンバーとも言えます。
B面3曲目でようやくJYの歌声が登場します。"Snowblind"です。ただしAメロ部分のゆったりめのテンポでのパート専用で、サビなど大半はTommyがヴォーカルをとります。クレジットはJYとDennisになっていますが、作詞は実際のところTommyが手掛けたとされています。収録曲の中で最もプログレがかった作品で、ダイナミックなJYのギター・ソロがさらにドラマティックに盛り上げてくれます。
「Snow-blind」とはスキー場などで発症する軽い目の火傷、つまり"雪眼"あるいは"雪盲"といわれる言葉ですが、AメロのJYが歌う歌詞の中の"I try so hard to make it so"の部分を逆回転すると、"Oh Satan move through our voices(ああ悪魔が私たちの声を通して動く)"と聞こえるらしく、しかも実際の歌詞に"devil"が登場するため(邦題が"白い悪魔"の由来)、暗い雰囲気を持つナンバーだけに余計にネガティブな印象を持たれてしまいました。ただそれだけではなく話題はエスカレートし、タイトルの"snow"を違法薬物ととらえて、"Snow-blind"を薬物中毒として解釈されてしまい、またSatanの登場で「アンチクライスト」を助長させ、しかもStyxというネーミングの正確な意味が"三途の川"であることから、薬物撲滅を掲げるアンチ・ロック・ミュージックの活動団体やキリスト教根本主義団体などがこの曲に抗議する事態となり、州議会でも取り沙汰されるという騒動に巻き込まれてしまったのです。噂はすべて全く根も葉もない事実無根のでっちあげで、Styxは猛然と抗議しました。結果的にこの経験が、アンチ・ロック・ミュージックの団体に支配された近未来のアメリカで、ロックの解放を求めようとするお話、つまり1983年にリリースする次作の"Kilroy Was Here(邦題:ミスター・ロボット)"に繋がっていくのだそうです。実際にもこのアルバムからのファースト・シングル"Mr. Roboto(邦題:ミスター・ロボット)"のB面に収録されたのは、他でもなく"Snowblind"でした。メンバーの憤りと悔しさがこうした行動にも見て取れます。
なお、"Snowblind"はRock Albums and Top Tracksチャートにも顔を出し、1981年4月4日付で22位まで上昇しています(13週チャートイン)。
さて、"Paradise Theatre"もいよいよ終幕にさしかかります。JYの兄(弟)のRick(Richard) Youngのバンド仲間かつ作詞家のRay Brandleが協力した作品で、JYが歌う"Half-Penny, Two-Penny"の登場です。"Half-Penny, Two-Penny"と、メドレー展開でこれに続く"A.D. 1958"の流れに入りますが、2曲間の切れ目、つまり"A.D. 1958"の頭がどこからかは、発売時期によって異なりがあり、サビの"Where I know that I will be free"をDennisらのコーラスで歌った後、JYが"We all want to be free!"と叫んだ後にゆったりテンポになるところで"A.D. 1958"が始まるケースと、"A.D.1928"や"The Best of Times"で奏でられたピアノのイントロのメロディからスタートするケースと2パターンがあるらしいです。この2曲の切れ目はあまり深く考えなくても良いのですが、このタイプの全く異なった2曲をつなげていくドラマティックな運びはStyxならではの一言につきます。"Half-Penny, Two-Penny"は最初はアップテンポのヘビーなロックで進んでいき、解体工事を思わせる機械音といった立体感でいよいよ劇場がクローズされていく様を表し、そしてJYの"We all want to be free!"のあと、シンセ、サックス、ピアノと徐々に音が緩やかになっていき、ついにバラードの"A.D.1958"で跡形もなく消えてしまった30年の古き良き時代を想いながらDennisが心を込めて歌い収めます。
最後は30秒ほどのインストゥルメンタル、"State Street Sadie"で幕を閉じます。Dennisのソロで、1984年リリースのライブ盤"Caught in the Act(邦題:スティクス・ライヴ)"では"The Best of Times"のイントロ・ヴァージョンとして聴くことができます。
"Paradise Theatre"はBillboard200アルバムチャートで見事1位になった作品ですが、シングル"The Best of Times"ではREO Speedwagonの"Keep On Loving You"に妨げられて1位になれませんでしたが、アルバム自体は、REO Speedwagonの9枚目スタジオ・アルバム"Hi Infidelity(邦題:禁じられた夜)"を蹴落としての1位でした。"Paradise Theatre"は1981年1月31日に200位中18位でエントリーし、翌週付で10位、その後6位→5位→4位→4位と上昇し、続いて2位を3週続けます。3週2位の間は"Hi Infidelity"が1位を維持しており、非常に強敵でしたが、10週目となった4月4日付で1位になり、2週続けると4月18日付で2週間2位にとどまっていた"Hi Infidelity"がまたもや勢いづいて1位の座を明け渡してしまい、2位に後退します。それから3週間は1位がREO Speedwagon、2位がStyxと根強い岩のようにがっちりキープしていましたが、5月9日付で再度"Paradise Theatre"が返り咲きの1位を記録、その翌週は再び"Hi Infidelity"が1位に返り咲き、"Paradise Theatre"は2位に後退しました。個人的に贔屓しているStyxとREO Speedwagonが上位を争っていた時代は本当に興奮します。結局3週の1位を記録した"Paradise Theatre"は、実に61週のチャートインで、1981年のYear-Endのアルバムチャートでは、"Paradise Theatre"は"Hi Infidelity"の1位には及びませんでしたが、堂々の6位を獲得、Year-End ArtistチャートでもTop Pop Album ArtistsでStyxは9位、総合のTop Pop Artistsで7位、Top Pop Singles Artists - Duos/Groupで5位を獲得しております。アルバム・セールスにおいても、アメリカではトリプル・プラチナ・ディスク、カナダではシングル・プラチナ・ディスクに認定され、Styxにとって最も輝かしい功績を収め、まさに1981年はStyxにとっての"The Best of Times"でありました。
1982年1月13日、Styxはツアーで来日し、1年かけて続いた「パラダイス・シアター・ツアー」は日本・武道館でファイナルを迎えました。Bootleg盤などでCDやビデオが出回ったこともありましたが("The Live Illusion")、公式には当時日本のテレビでライブ映像が公開されたことがありました。Dennisの”ミナサマ、コンバンワー。ヨーコソ、’パラダイス・シアター’ヘ”や、Tommyの”キブンハイカガデスカ?ワタシモゲンキデス!”と放って観衆聴衆を沸かし、坂本九の"上を向いて歩こう(英題:Sukiyaki)"をTommyのマンドリン、Dennisのアコーディオンで奏で、JYは"007のテーマ"をイントロにつなげて"Great White Hope('Pieces of eight'収録)"を熱唱、最後のシメはDennis DeYoungの立派なヒゲをバッサリそり落とすというパフォーマンスで話題になりました。Dennis DeYoung,Tommy Shaw,James [JY] Young,John Panozzo,そしてChuck Panozzo(bass)の5人で為し得た、Styxの全盛期を謳歌するのでした。
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2019年01月18日
1月18日は何に陽(ひ)が当たったか?
ホーエンツォレルン家のプロイセン王国(1701-1918)では、1866年の普墺戦争(ふおうせんそう。プロイセン-オーストリア戦争)で打ち負かしたオーストリアをドイツ連邦(ウィーン会議で決定された、35のドイツ領邦と4の帝国自由都市で構成された連合体。オーストリアが盟主、プロイセンは副盟主でした)からはずし、新たに発足した北ドイツ連邦(盟主はプロイセン)をドイツ国家として統一する目標を掲げていましたが、隣国フランス・ナポレオン3世(位1852-70)が黙視する筈がありませんでした。プロイセン宰相オットー・フォン・ビスマルクビスマルク(1815-98。宰相任1862-72,73-90)はドイツ統一の大前提として、フランスとの決戦に勝つことを考え、軍備を整え始めました。
1870年、ドイツの温泉地エムスで、プロイセン国王ヴィルヘルム1世(王位1861-88)とフランス大使との間に会談がありました。その内容は、プロイセンの王家であるホーエンツォレルン家からスペイン王位継承者を出すというものでしたが、当然フランスは反対の立場を取り、フランス大使をエムスに派遣したのです。この内容の電報をビスマルクが受けたわけですが、普墺戦争と同じく、ドイツの軍力でフランスに必ず勝てると確信したビスマルクは、電報の内容を、"フランス大使がプロイセン王を脅迫し、スペイン王位継承者を出さないという保証を迫った。これに対して王は大使をその場から追い返した。"と電報の内容を歪曲して発表したのです(エムス電報事件)。プロイセン国民は当然この電報に怒り、フランス国民にとってもこの侮辱に怒りが頂点に達しました。結局ビスマルクの挑発に乗ってしまったナポレオン3世が、プロイセンに宣戦、普仏戦争(ふふつせんそう。プロイセン-フランス戦争。1870-71)が勃発しました。結局プロイセン軍がナポレオン3世をセダン(スダン。フランス東部国境の要塞)で捕らえ、ナポレオン3世は降伏、パリは占領されてフランス第二帝政(1852-70)は崩壊しました。戦況はプロイセンが断然有利であり、終戦を迎えぬうちに、フランスのヴェルサイユ宮殿の鏡の間において、陽の当たった1871年1月18日、ドイツ帝国の成立を宣言しました。終戦後、ドイツはフランスから多額の賠償金と、アルザス・ロレーヌを獲得しました(1871.5)。
ドイツ国家の中に組み込まれたプロイセン王国は、ドイツ帝国の盟主となり、プロイセン国王とプロイセン首相が、それぞれドイツ皇帝と帝国宰相となりました。これにより、ドイツ皇帝・ヴィルヘルム1世が誕生(帝位1871-1888)、ドイツ皇帝はドイツ語でカイザーといい、"カエサル"に由来します。そしてビスマルクは帝国宰相(任1871-90)に任命され、侯爵(初代ビスマルク侯爵)となりました(爵位1871-98)。帝国憲法は4月に発布され、連邦制と二院制が規定されました。しかし設けられた帝国議会はあくまで形式的で、責任内閣制は認められず、政府に対しては無力状態でした。諸邦政府の代表会議である連邦参議院も議長は帝国宰相が務めることになりました。よってビスマルク時代の到来を告げたのも同様でありました。
ただ、帝国内でのプロイセン王国は、指導的立場を取る連邦国として、帝国の中心となるはずでしたが、ドイツ帝国としての統一意識がおこったことで、プロイセンという王国は一州的存在となっていきました。その後は第一次世界大戦(ドイツは敗戦国)を終わらせる契機となった民主主義的ドイツ革命(1918.11-19.1)によってドイツ帝国は共和政(1919-33。ヴァイマル共和国)となり、帝政は廃されました。同時にプロイセン王国も実体がなくなり、名目上の存在となります(実質の解体・消滅は第二次世界大戦の敗戦後。連合国による分割統治)。政情不安定の中、世界恐慌(1929)の波及を受けるも対処できず、反動的右翼の台頭を招き、その後、ナチスによる共和政崩壊が導かれていくのでした。
引用文献『世界史の目 第80話』より
ヴィルヘルム2世 - ドイツ帝国と命運を共にした「国民皇帝」 (中公新書) 新品価格 |
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2019年01月17日
1月17日は何に陽(ひ)が当たったか?
ドミナートゥス(専制君主政)の体制でした晩期のローマ帝国(紀元前27-紀元後395)では、375年から始まるゲルマン民族諸派の大移動などにより、弱体化が顕著となりました。
ゲルマン民族は軍隊を中心に勢力がますます強くなっていきました。戦争の結果ゲルマン一派の西ゴート族はローマ帝国領内に定住しました。ゲルマン民族は、325年のニケーアの宗教会議によって異端とされ、帝国から追放されたアリウス派キリスト教を受け入れていましたので、国内ではキリスト教における争いも起こっていました(ちなみに帝国が認めた正統派はアタナシウス派)。またイラン系遊牧民であるサルマタイの侵入をはじめ、ヌミディア(北アフリカ)ではキリスト教の異端運動や、ガリアでは貧農による反乱がおこるなど、瓦解寸前でありました。コンスタンティヌス1世(大帝。位306-337)の時代におこした東方遷都(330年。西のローマから東のコンスタンティノープルへ遷都)以来、西のローマにも固執するものも当然いたわけで、ローマ帝国の東西分離傾向は高まっていきました。
このような状況の中で、379年、テオドシウス1世が即位しました(最初は東の正帝として。これはテトラルキアといい、東西それぞれ正帝、副帝の四皇帝で四分統治する方法)。テオドシウス帝は、侵入するゴート族を破ったのち和解、"同盟者"として帝国内での定住を認めました。380年にはアタナシウス派のキリスト教を国教化する勅令を出し、392年には異教信仰を大逆として処罰することを決めました。西帝をめぐる内紛も鎮め、有能なスティリコ将軍(365-408。ヴァンダル族出身)の尽力もあり、394年には四分統治をやめてローマ帝国最後の統一を果たしますが、翌395年1月17日に死去しました。テオドシウス帝は遺言で、17歳の長男アルカディウス(377-408)と10歳の次男ホノリウス(384-423)に帝国を再び分割統治することを命じましたが、東側はコンスタンティノープルを首都とし、西側はミラノを首都とする東西のローマ帝国としての統治を継承したのです。よって、ドミナートゥス体制は終焉、ローマ帝国は東西分裂、西は西ローマ帝国(395-476)、東は東ローマ帝国(ビザンツ帝国。395-1453。開始年を遷都年である330年ともとらえる場合がある)として別々の道を歩み始めていきました。
『世界史の目 第111話』より
ローマ帝国衰亡史〈4〉西ゴート族侵入とテオドシウス (ちくま学芸文庫) 新品価格 |
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2019年01月16日
1月16日は何に陽(ひ)が当たったか?
B.C.1世紀の共和政ローマ(B.C.509-B.C.27)の時代、第2回三頭政治(B.C.43)で頭角を現しました、ユリウス氏族出身のガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス(B.C.63-A.D.14) は、アクティウムの海戦(B.C.31)でエジプト併合(B.C.30)を実現させ、ローマ凱旋とともに"第一の市民(つまり「元首」)"を意味する"プリンケプス"の称号を得ました(B.C.29。プリンケプスは"プリンス"の語源)。プリンケプスはセナトゥス(元老院)の議員においても最も権力のある者であり、のちに"皇帝"の意味にとらえられるようになりました。
B.C.27年、オクタウィアヌスはすべての特権・大権を元老院に返上する演説を行いました。正真正銘のローマ共和政の復興を宣言するものでした。これはB.C.29年の凱旋式において、これまで内乱の1世紀(B.C.133-B.C.27)を勝ち抜いてきた勇者は、自身に集まる全権力を保持したがために元老院や反体制派の反感を買い、不遇の死を遂げていったことに対し、二度と同じ過ちを繰り返さないための宣言でありました。この演説に歓喜した元老院は、オクタウィアヌスこそローマの全権を与えるにふさわしい人物であると決め、まず軍の称号"インペラトル"をオクタウィアヌスに与え、オクタウィアヌスはローマ軍のすべてを自身の管理下におくこととなったのです。さらに、演説から3日後、元老院はオクタウィアヌスに"尊厳者"を意味する"アウグストゥス"の称号を与えることを決断し、10年間、この全権を保持してほしいとオクタウィアヌスに懇請しました。オクタウィアヌスは何度か辞退を申し入れましたが、陽の当たった1月16日、元老院の説得によりこれを承諾し、自身の名に称号を入れ、インペラトル・カエサル・アウグストゥス(位B.C.27-A.D.14)と改名しました。
開かれた状態は戦時中であることを意味するヤヌス神殿の扉は、B.C.29年、オクタウィアヌスによって閉じられました。かつてのヤヌス神殿の扉は共和政ローマ時代におこったポエニ戦争(B.C.264-B.C.146)の終戦後6年間のみ、閉じられたままでしたが、オクタウィアヌスはローマが完全な平和をもたらしたとして、その扉を閉じたのです。共和政は安定し、オクタウィアヌスは"尊厳者"の称号によってその後様々な称号、特権が次々と贈られていきました。コンスル(執政官)およびコンスル任期満了(1年)後に就くプロコンスルでの強力な命令権(インペリウム)や、属州管理全権、護民官全権、最高神祇官の権限、"国父"の称号などです。はじめは10年間の全権保持と言われていましたが契約更新を要請され、結局はA.D.14年に没するまでその権限を掌握したこととなりました。その間は国家的平和が持続し、世に言うパックス・ロマーナ(ローマの平和)を現出しました。このB.C.27年の全権返上演説にはじまるオクタウィアヌスの慎重な行動は、結果、その元老院から全権を贈与される形で頂点に立ったのです。ローマ皇帝というこれまでなかった職位ではありますが、数ある強力な大権すべてを掌握した者、これがオクタウィアヌスであり、彼が頂上に登り詰めたことによって、「ローマ皇帝、インペラトル・カエサル・アウグストゥス」の名を得ることに成功したのです。文字通り、帝政ローマ(B.C.27-A.D.395)の開始を意味しますが、彼は"ローマ皇帝"の呼称であると元老院の反発を招くとして、あくまでも共和政のもとで職務に就くことを希望し、B.C.29年に与えられた称号である"プリンケプス"の呼称を好みました。こうして"プリンケプスの統治"を意味する"プリンキパトゥス・ローマ(元首政ローマ)"が到来したのです。一般に帝政ローマでは軍人皇帝時代(235-284)が終わり、ディオクレティアヌス(位284-305)が即位して専制君主政(ドミナートゥス)に移行するまでの時代が元首政と呼ばれます(ただし異説あり)。
引用文献『世界史の目 第251話』より
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2019年01月15日
1月15日は何に陽(ひ)が当たったか?
福原遷都の失敗で京に戻った平清盛(たいらのきよもり。1118-81)を頭とする平氏政権(1167-85)は、五男でのち"三位中将"と呼ばれた平重衡(たいらのしげひら。1157-85)に、反政権派である奈良・南都の仏教寺院の弾圧を命じました。これが南都焼討ちと言われる事件です。興福寺、東大寺などの堂塔伽藍を焼き払い、たくさんの僧侶を焼き殺しました。東大寺では大仏(盧舎那仏像)も焼失しました。
この焼討ちは、平氏政権の威力をまざまざと見せつけた結果となりましたが、同時に政権の悪行として平氏への非難は集中しました。さらに同年3月に平清盛が病没します。清盛の死は世間では南都焼討ちの懲罰だと揶揄されました。折しも東国の源氏の攻めが囁かれる中での出来事でした。
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2019年01月14日
1月14日は何に陽(ひ)が当たったか?
"Baby Come Back"はバンドのメンバーであるPeter BeckettとJ.C. Crowley(key,gtr,vo)の共作で、1977年9月にリリースされたデビュー・アルバム"Player(邦題:ベイビー・カム・バック)"のA面2曲目に収録されました。ウェストコースト・サウンドに乗せた、ソフトでポップなロック・ナンバーがズラリと収録される中で、リード・シングルとしてカットされた"Baby Come Back"はゆったりとしたテンポで、サビのコーラスとともにタイトルを叫ぶパートが印象的な楽曲です。Ronn Moss(bass,vo)、Peter、そしてJ.C.が横一列で並び、バックでドラマーのJohn Friesen(drums)や準メンバーでキーボーディストのWayne Cook(key)がプレイするプロモーション・ビデオもよく知られています。シングル・ヴァージョンではイントロとエンディングを短くし、エンディングでのギター・ソロの代わりにサビのコーラスを使用してフェイド・アウトする形が取られました。
さて、チャートのアクションは実に充実した内容で、Hot100内32週というロング・アクションをたどりました。1977年10月1日に90位で初チャートインしたこの曲は、その後80位→68位→55位と順調にアップしていきますが、5週目っより50位→47位→42位とやや動きが鈍り、11月19日付、8週目にしてようやく38位とTop40入りを果たします。40位内に入ると人気がいっきに爆発し、翌26日付で21ランクもアップする17位にランク・イン、この曲一番の上昇幅を記録します。その後13位→11位、12月17日付で8位とTop10入り、そして2週6位を記録して(2週目の6位はBillboard休刊のため先週付と同位)、1978年1月7日付で2位、そして陽の当たった1月14日付、エントリーから実に16週かけて、1位を獲得しました。1位は3週続け、その後は下降しましたが、32週のうち、Top40内16週、Top10内10週と、文句の付けようのないアクションで、1978年のYear-Endチャートでは7位を獲得しています。
デビューの大成功はその後が難しく、いわゆるワン・ヒット・ワンダーのような見方もされますが、同アルバムからは"This Time I'm in It for Love(邦題:今こそ愛のとき)"も17週チャートインして最高位10位、1978年リリースの2枚目のアルバム"Danger Zone(邦題:恋のプリズナー・プレイヤーU)"からも"Prisoner Of Your Love(邦題:恋のプリズナー)"が11週チャートインの最高位27位を記録、計3曲のTop40入りヒットを放つなど決して一発屋ではなく、現在においても精力的に活動中です。
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2019年01月13日
1月13日は何に陽(ひ)が当たったか?
ユスティニアヌス帝の活動は非常に精力的で、"不眠不休の皇帝"と渾名されるほどでした。開墾・植民を歓迎し、人口増加につなげ、また養蚕業を導入して絹の専売を行いました。貿易も地中海と黒海を中心に積極的に行い、コンスタンティノープルは瞬く間に商業中心地として発展しました。
また帝に仕えた将軍ベリサリウス(505?-565)、忠臣ナルセス(487?-573?)も多くの功績を残し、534年に北アフリカのヴァンダル王国(439-534)、555年(553年?)にイタリア半島の東ゴート王国(493-555)といったゲルマン国家を征服しました。イベリア半島では、同じくゲルマン一派西ゴート族の西ゴート王国(415-711)から同半島東南部を奪取しました。また東方ではササン朝ペルシア(226-551)との和睦(532)で地中海の制海権を確保したことで、東ローマ帝国は地中海を取り囲んだ帝国として、ローマ分裂前に近い版図にまで拡大したのです。
このようにユスティニアヌス帝は即位後は積極的に外征を行いましたが、こうした度重なる遠征は国民に対して重税として跳ね返っていました。即位5年目の532年、ユスティニアヌス朝(518-602)による最初の危機が訪れました。開催されている戦闘用馬車であるチャリオットの競技が思わぬ展開へと向かいました。日頃の重税に不満をつのらせた市民が、競技への過熱から暴徒化、競技場に隣接した宮殿を襲撃したのです。この時、襲撃に参加した市民が、"ニカ"の掛け声を連呼しながらの反乱でありました("ニカ"とはギリシア語で"勝て!"の意味)。この口々に叫ばれた掛け声から、"ニカの乱"と呼ばれ、首都コンスタンティノープルは大混乱に陥り、ハギア・ソフィア大聖堂(アヤソフィア大聖堂。360年創建)も焼失、帝室は機能停止寸前の状態にまで追い込まれました。ユスティニアヌス帝は退位と首都脱出を企て、逃亡用の舟に逃げ込もうとしましたが、これを引き留めたのが、帝の20歳年下の皇后、テオドラ(500?-548)でした。
テオドラは帝に対し"帝衣は最高の死装束"の言葉を投げかけ、逃げて生き延びるより、紫の帝衣を着たまま死んでこそ皇帝であるとして帝を励ましたのです。これで勇気を取り戻したユスティニアヌス帝はただちにベリサリウス将軍に命じ、反乱鎮圧に成功できたといわれます。
引用文献『世界史の目 第198話』より
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2019年01月12日
1月12日は何に陽(ひ)が当たったか?
副島のほか、西郷隆盛(さいごうたかもり。1828-77)や江藤新平(えとうしんぺい。1834-74)、後藤象二郎(ごとうしょうじろう。1838-97)らとともに朝鮮開国を推進する征韓論を主張した板垣でしたが、大久保利通(おおくぼとしみち。1830-78)や木戸孝允(きどたかよし。1833-77)、伊藤博文(いとうひろふみ。1841-1909)ら、欧米を渡り自国の国力を上げることを重視した岩倉使節団参加者の反対にあい、1873年のいわゆる"明治六年の政変"で板垣、西郷、副島、江藤、後藤らはいっせいに下野しました。
板垣退助は副島、江藤、後藤らの他、岩倉使節団参加者でしたが板垣らに同調した由利公正(ゆりきみまさ。1829-1909)なども参加し、陽の当たった1874年1月12日、基本的人権と議会設立を目指す「愛国公党」を結成しました。日本最初の政党、かつ日本最初の"愛国"と名乗った初の組織で、徒党と区別するために"公党"と名付けたと言われます。
愛国公党のメンバーは、同年1月17日に「民撰議院設立の建白書」を政府に提出し、自由民権運動の突破口を開きましたが、政府から反対され、愛国公党も解体となりました。
板垣は地元の高知県にもどり、新たな政治団体、「立志社」を組織することとなります。
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2019年01月11日
1月11日は何に陽(ひ)が当たったか?
中国・清王朝(1616-1912)はアヘン戦争(1840-42)の敗北によって、対外支出が膨大となり、清政府の財政は極度に悪化しました。このため、民衆は余儀なく重税を課される形となり、しかも賠償金支払いによる銀価高騰によって、生活は窮乏化していきました。地方の治安悪化・清朝政府に対する不安、経済悪化、天災などに伴い、民衆による秘密結社(会党。かいとう)の設立が相次ぎました。
中国南部では、戦乱からくる生活苦によって華北から移住してきた漢族の一集団(客家。ハッカ)が、先住民からの圧迫を受けて、貧困に窮していました。こうした中、広東省花県で、客家の中農出身の洪秀全は、1844年、キリスト教的宗教結社"上帝会(じょうていかい。拝上帝会)"を組織しました。
洪秀全は7歳の時、村塾に入って儒教の聖典「経書」を学び、18歳の時にその塾の講師となりました。その後科挙(かきょ。官吏の任用試験のこと)に4度挑みましたが、4度とも失敗しています。儒教的教養が備わった人物を選出するための科挙試験に失敗したことは、洪秀全にとってその後の人生の転換を強いられたものとなりました。
1839年、25歳の洪は、3度目の科挙失敗に気落ちして、病床に伏し、そこで奇妙な夢を見ました。その夢によると、黒衣を着た老人に出会い、彼から邪悪な魔物を斬るための剣を授かり、これを用いて悪魔と戦ったといわれています。夢から覚めた洪は、所持しているプロテスタントの伝道書『観世良言(かんぜりょうげん)』を読んでみました。すると、夢に現れた老人は、ヤハウェ神(ヤーヴェ)だったのです。これによって洪は、自身がヤハウェの子であるイエス・キリスト(B.C.4C頃-A.D.30頃)の弟("天弟"。兄キリストを"天兄"と呼ぶ)であり、邪を斬るという天命を下ったと確信したのです。洪は、これまで学んできた儒教から、中国古来の儒教における天の神、すなわち"上帝"をヤハウェ神に置き換え、キリスト教の布教を強調していきました。
南京条約(1842)での広州(こうしゅう。広東省の省都)開港、並びに広州の虎門寨(こもんさい)における不平等条約の追加(虎門寨追加条約。1843)などにより、洪は、人々が政治的に、また経済的に平等であり、邪知・邪教の壊滅こそ平和がもたらされると説いて、1844年地元で、同郷で盟友である馮雲山(ふううんざん。1815?-52?)らと共に同志を集めて、反清・反満州・反封建を掲げた結社を組織しました。これが上帝会です。彼らは上帝信仰にもとづいたキリスト教の布教を展開していきましたが、客家出身だけに反発もあったためか、地盤は固まりませんでした。このため、洪の母の出身地である広西省に移って同地に拠点を置き、客家出身者を中心に多くの信徒を集めていきました。
同志の中にとりわけ上帝会に対する信望が厚かった4人の広西省客家出身者がいました。4人とは農家出身の石達開(せきたっかい。1831-63)、農家出身の蕭朝貴(しょうちょうき。1820?-52)、同じく農家出身の韋昌輝(いしょうき。1823-56)、そして炭焼工の楊秀清(ようしゅうせい。1820-56?)の4人です。とくに石達開は、後の挙兵時には自身の家産をすべて上帝会に献上して、一族で参加したといわれております。
1850年7月、洪秀全は政情不安を一掃すべく、号令を発して上帝会の信徒を広西省の金田村(きんでんそん。現・広西省桂平県の小村)に集合させ、翌1851年1月の洪秀全の誕生日(1月1日)、上帝会からなる国の建国を宣言、陽の当たった1月11日(諸説あり)、国号を太平天国(たいへいてんごく。1851-64)と称し、洪は自ら天王(てんおう)と称しました。途中で馮雲山が布教の際に清朝官憲に検挙されるなどの不運がありましたが、太平天国の官制を整えるべく、天王の下に五王幹部体制をしきました。五王はそれぞれ楊秀清(東王)・蕭朝貴(西王)、馮雲山(南王)・韋昌輝(北王)・石達開(翼王)らが任命されました。
天王洪秀全は新しい中国を築くために、儒教精神による古来の伝統を破滅させることを強調、2万人に達した太平軍を挙兵させ、広西から北進し、湖南・湖北を占領しつつ、役所や地主から略奪した物資・金品を同地の貧民に分配し、彼らや会党員を上帝会に吸収させ、遂に南京に迫りました。
巨大化した太平軍は"滅満興漢(めつまんこうかん)"のスローガンを掲げました。これは、満州民族からなる清王朝を滅ぼし、漢民族政府の樹立を意味しました。このため、清朝が中国全民に強制していた辮髪(べんばつ。弁髪。頭髪を一部を残して剃り上げ、その一部から長く編んで垂らす髪形)の風習を断ち切り、清朝政府への対立が完全に表面化しました。清朝は太平軍を"長髪族(ちょうはつぞく)"や"髪匪(はつび)"、"粤匪(えつび)"と呼んで警戒し、アヘン戦争時に欽差大臣であった林則徐(りんそくじょ。1785-1850)を再任させますが(1850)、林は高齢がゆえ、広西に赴く途中病没してしまいます。また、太平軍が自身たちの規律を厳格化したことで、規律の乱れた清軍とは対照的に、民衆から厚い支持を受けたため、太平天国はさらに強力化していきました。途中で南王馮雲山と西王蕭朝貴(洪秀全の娘婿となっていた)を戦乱で死なせたものの、1853年、太平軍は勢力を衰えることなく南京に進軍し、遂に同地を占領して天京(てんけい)と称し、太平天国の首都となりました。
太平天国は、上帝会時代に掲げた貧富のない平等な社会を掲げるため、同1853年、天朝田畝(てんちょうでんぽ)の制度を発布しました。天朝田畝とは、軍・民両事を兼ねる郷官(ごうかん)の統率のもと、16歳以上の男女に土地を均分し、1農家から1人徴兵する制度で、農家からの収穫は各戸の所有分以外は国庫に納め、非常時に使用するか、障害や孤児などによる兵役免除者の補助に使用するというものでした。この平等さを強調した理想の制度は、経書の1つである『周礼(しゅらい)』の内容をヒントにしたと見られています。しかし男女平等というのは、当時としては革新的でありました。その後もアヘン吸引を禁じたり、纏足(てんそく。良家にみられた風習。女子が幼児期に足指を足裏に緊縛して足の発育を止めさせ、小さく細い足を形成することで美人の象徴にした)を禁じるなど、悪習とされた伝統の撤廃を展開していきました。
1854-55年にかけて全盛期がおとずれた太平天国でしたが(当時の人口は約300万人まで増加)、1855年に、太平軍の精鋭、北征軍(1853年結成。北伐軍)が数万の軍勢で天津や北京といった"満州のお膝元"である北の大都市に迫りつつも、清朝軍の水攻めによる反撃によって壊滅してからは、下降線を辿り始めていきました。特に天京政府における首脳部では内紛がたえず、特に楊秀清の横暴が目立ち始めました。以前、馮雲山が官憲に検挙され、洪秀全が馮の救済に出ている間、楊秀清が幹部不在の穴を埋めるべく、自身を"ヤハウェ神が乗り移った"と称し("天父下凡")、上帝会会員を統率したことで、洪秀全から絶賛され、天王に次ぐ東王の地位を与えられていましたが、時折洪秀全以上に権力を強めてくるようになっていきました。周囲が、天弟である洪秀全よりも天父である楊秀清の方に支持が集まるようになり、これがその後両者との間に対立を深めたとされます。1856年、楊秀清は北王韋昌輝により暗殺されましたが、この事件は洪秀全の差し金であったともされていますが確証はありません。その後北王韋昌輝も実権掌握を主張して洪秀全と対立、内乱はエスカレートし、若き石達開も巻き込んでいくのです(天京内乱)。
石達開においては、もともと石一族全員が会員であり、また戦術に優れたこともあって、太平軍には貴重な戦力でありました。翼王に任命されてからは軍の主力を率いて清朝軍と戦いました。
この頃の清朝正規軍(八旗・緑営。はっき・りょくえい)はかなり弱体化していましたので、各地の地方官や郷里の官僚経験者(郷紳。きょうしん)らが漢人地主を中核に義勇軍(郷勇。きょうゆう。団練。だんれん)を集めていました。その中で、湖南省の地主階級出身の曾国藩(そうこくはん。1811-72)が同地で郷勇・湘軍(しょうぐん。湘勇。しょうゆう)を結成していました。もともと湘勇は湖南省の治安維持と太平天国からの防衛を主な任務としていましたが、1853年に江西省南昌(なんしょう)の救援におもむくも当時22歳の石達開率いる太平軍に敗北しました。朱子学者でもある曾国藩は徹底した保守主義を貫いたため、太平天国を許すことができず、陸軍増強のみならず水師(海軍)も組織し、総勢1万7千人の兵力でもって翌1854年から太平軍討伐に出動していきました。
湘勇の反撃に警戒していた翼王石達開だったが、天京内乱の最中であり、北王韋昌輝が実権掌握のため暴走化していました。これが石達開の一族にも災いし、韋は謀って石の一族を虐殺するなど粛清をはかりましたが、結局韋昌輝は洪秀全によって誅殺されました(1856)。石達開はその後洪秀全に従うが、25歳の石達開の活躍ぶりに嫉妬した洪秀全は、やがて対立を深めていきました。石達開も太平天国の存続があり得ないとして翼王の地位を退いて天京を脱しました。石達開は自立をはかって浙江(せっこう)・江西・湖南といった長江中流域で転戦を繰り返して、自身の勢力拡大に努めましたが、兵粮が尽き、自身の部隊も壊滅していくのを見て、続行不可能と判断し、四川省に赴いて同地の総督に投降、省都である成都(せいと)に送られて、1863年、処刑されました。
有能な幹部をすべて失った洪秀全は、すでに弱体化した中央官制を、洪の一族から任用しました。しかし、彼らは過去の五王一族と比べて無能者が多いため、天朝田畝制度も発布のまま施行されず、政府の支持力は著しく低下していきました。一方で強力になった郷勇の猛反撃が起こされ、湘勇以外にも安徽省(あんき)出身の李鴻章(りこうしょう。1823-1901)が結成した淮軍(わいぐん。淮勇。わいゆう)、湖南省出身の左宗棠(さそうとう。1812-85)が結成した楚軍(そぐん)が次々と太平軍を追撃していきました。
この頃の清朝はアロー号事件(1856.10)に端を発するアロー戦争(1856-60。第二次アヘン戦争)でイギリス・フランス相手に戦って敗れ、英仏とアメリカ、ロシアも加わって、天津条約(1858)を戦時中に、次いでその追加分を北京条約(1860)として締結させられました。これによって九龍半島南部がイギリスにより割譲されたほか、再度の多額賠償金(800万両)の支払を余儀なくされました。さらに1724年以来に禁止していたキリスト教布教の自由化を強引に承認され、開港場増加、外国公使の北京駐在、外国人の内地旅行の自由化、アヘン貿易公認、長江航行の自由化、などが取り決められたことで、列強の介入が進みました。当初英米は太平天国をキリスト教国として同情を示していたが、在中の英米人に至っては、太平天国の宗教的異端からくる清朝の排外活動に危険をつのらせるようになっていきました。このため、太平天国というガン細胞を取り除いて容易に列強が介入できるよう、清朝への援護という形で遂に列強が太平天国を鎮定に取りかかりました。元船員のアメリカ軍人フレデリック・タウンゼンド・ウォード(1831-62)は上海で約200人の外国人傭兵の部隊を編成、一度は解散しましたが、外人将校の下に中国人傭兵を集めて太平軍を敗っていき、清朝皇帝から"常勝軍(Ever Victorious Army)"の名を授かりました。ウォード戦死後はイギリス軍人チャールズ・ジョージ・ゴードン(1833-85)が引き継いで太平軍と戦い、各地で勝利をもたらしました。
洪秀全が理想を掲げたこの天国は、次々と離反者が出、洪自身も重病にかかって政務が執れず、代わって上帝会時代からの若き軍人忠王李秀成(ちゅうおうりしゅうせい。1823-64)が奮闘するも、領域は首都天京とわずかな地域にすぎなくなっていました。そして曾国藩率いる湘勇が天京に進軍、遂に完全包囲しました。このため、兵粮が尽きて、臨終を迎えた洪秀全は宗教的信念から薬を飲むことをを拒否し、1864年6月1日、服毒自殺したのです(病死の噂もあり)。翌7月、遂に天京は陥落し、太平天国は滅亡、中国初の大革命政権は崩壊しました。李秀成と洪秀全の子洪天貴(幼天王)も捕らえられ、殺されました。太平天国と並行して、河南・安徽・山東・江蘇などの省境で、遊侠や貧民らの集まりから発展して反清を主張した軍隊・稔軍(ねんぐん)が組織されていましたが、太平天国の残党は稔軍と合流して最後の抵抗を続けました。しかし及ばず、各地で撃破されていき、13年にもおよぶ長い戦乱がようやく終わりました。
引用文献『世界史の目 第53話』より
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2019年01月10日
1月10日は何に陽(ひ)が当たったか?
内乱の一世紀の渦中にあった古代ローマでは、紀元前60年、カエサルはグナエウス・ポンペイウス(紀元前106-紀元前48)、マルクス・リキニウス・クラッスス(紀元前115?-紀元前53)と密約を結び、3人で当時の統治機関だった元老院を抑えて国政を分かち合うことを決意、第1回三頭政治(紀元前60-紀元前53)によって実力による支配体制を強行、カエサルは翌紀元前59年にコンスル(ローマの執政官)に選出されました。ポンペイウスはヒスパニア、クラッススは強国パルティア(紀元前247?-紀元後224)と支配を巡り争っているシリア地方、そしてカエサルはいまだ未開のガリア地方(現フランス地方)の軍令権を得て、統治しました。
紀元前58年、カエサルはケルト系民族のいるガリア地方やブリタニア(現イングランド地方)地方へ赴き、同民族を平定、そして初めてライン川も渡ってゲルマン人も抑えました(ガリア遠征。紀元前58-紀元前51)。この時カエサルに従軍した部将の中に、のちにカエサルの副官として活躍するアントニウス(紀元前82-紀元前30。閥族派出身)もいました。アルプス以北をローマ領としたカエサルは、遠征地に高額の租税を課し、巨富を得ました。ガリア遠征が終わったカエサルは、紀元前51年、簡潔な文体で遠征の経過を記述した『ガリア戦記』を発表しています。こうしてカエサルは三頭政治以上の活躍を見せ始めたので、とりわけポンペイウスは彼を嫉視するようになりました。カエサルの娘ユリア(紀元前83?-紀元前54)はポンペイウスの妻となっていましたが、紀元前54年にユリアが死亡し、姻戚関係が途切れたことで、カエサルとポンペイウスとの破綻は決定的となりました。一方でクラッススはコンスルに再選出され(紀元前55)、遠征地パルティアとの戦争のため、息子とユーフラテス川を渡ってシリア地方にむかうも、パルティア軍の反撃にあい、紀元前53年、同川沿いの町カルラエで息子と共に戦死し、ここに第1回三頭政治は事実上終結しました。
クラッスス戦死による三頭政治の崩壊は、残されたカエサル、ポンペイウスの統治権も喪失したのも同様でした。元老院は威信回帰のため、カエサル軍の解散とローマへの召還を決議しました。カエサルを妬むポンペイウスも遂に妥協・結託して元老院と手を結び、カエサルと戦闘を交えることを決意しました(紀元前49)。
生まれ故郷ローマが敵となったカエサル軍は、この時ガリアから南下し、イタリア北国境を流れるルビコン川にいました。陽の当たった紀元前49年1月10日、カエサルは「賽(さい)は投げられた」と発して、軍を率いてローマに進撃しました。カエサル自ら内乱に身を投じた形となり、ローマを占領するのでした。
引用文献『世界史の目 第30話』
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