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2019年01月17日

1月17日は何に陽(ひ)が当たったか?

 395年1月17日は、ローマ皇帝テオドシウス1世(大帝。位379-395)の没年月日です。

 ドミナートゥス(専制君主政)の体制でした晩期のローマ帝国(紀元前27-紀元後395)では、375年から始まるゲルマン民族諸派の大移動などにより、弱体化が顕著となりました。
 ゲルマン民族は軍隊を中心に勢力がますます強くなっていきました。戦争の結果ゲルマン一派の西ゴート族はローマ帝国領内に定住しました。ゲルマン民族は、325年のニケーアの宗教会議によって異端とされ、帝国から追放されたアリウス派キリスト教を受け入れていましたので、国内ではキリスト教における争いも起こっていました(ちなみに帝国が認めた正統派はアタナシウス派)。またイラン系遊牧民であるサルマタイの侵入をはじめ、ヌミディア(北アフリカ)ではキリスト教の異端運動や、ガリアでは貧農による反乱がおこるなど、瓦解寸前でありました。コンスタンティヌス1世(大帝。位306-337)の時代におこした東方遷都(330年。西のローマから東のコンスタンティノープルへ遷都)以来、西のローマにも固執するものも当然いたわけで、ローマ帝国の東西分離傾向は高まっていきました。

 このような状況の中で、379年テオドシウス1世が即位しました(最初は東の正帝として。これはテトラルキアといい、東西それぞれ正帝、副帝の四皇帝で四分統治する方法)。テオドシウス帝は、侵入するゴート族を破ったのち和解、"同盟者"として帝国内での定住を認めました。380年にはアタナシウス派のキリスト教を国教化する勅令を出し、392年には異教信仰を大逆として処罰することを決めました。西帝をめぐる内紛も鎮め、有能なスティリコ将軍(365-408。ヴァンダル族出身)の尽力もあり、394年には四分統治をやめてローマ帝国最後の統一を果たしますが、翌395年1月17日に死去しました。テオドシウス帝は遺言で、17歳の長男アルカディウス(377-408)と10歳の次男ホノリウス(384-423)に帝国を再び分割統治することを命じましたが、東側はコンスタンティノープルを首都とし、西側はミラノを首都とする東西のローマ帝国としての統治を継承したのです。よって、ドミナートゥス体制は終焉、ローマ帝国は東西分裂、西は西ローマ帝国(395-476)、東は東ローマ帝国(ビザンツ帝国。395-1453。開始年を遷都年である330年ともとらえる場合がある)として別々の道を歩み始めていきました。

世界史の目 第111話』より

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タグ:ローマ
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