2019年01月16日
1月16日は何に陽(ひ)が当たったか?
紀元前(以下、B.C.)27年1月16日は、ローマ皇帝の誕生の日とされています。
B.C.1世紀の共和政ローマ(B.C.509-B.C.27)の時代、第2回三頭政治(B.C.43)で頭角を現しました、ユリウス氏族出身のガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス(B.C.63-A.D.14) は、アクティウムの海戦(B.C.31)でエジプト併合(B.C.30)を実現させ、ローマ凱旋とともに"第一の市民(つまり「元首」)"を意味する"プリンケプス"の称号を得ました(B.C.29。プリンケプスは"プリンス"の語源)。プリンケプスはセナトゥス(元老院)の議員においても最も権力のある者であり、のちに"皇帝"の意味にとらえられるようになりました。
B.C.27年、オクタウィアヌスはすべての特権・大権を元老院に返上する演説を行いました。正真正銘のローマ共和政の復興を宣言するものでした。これはB.C.29年の凱旋式において、これまで内乱の1世紀(B.C.133-B.C.27)を勝ち抜いてきた勇者は、自身に集まる全権力を保持したがために元老院や反体制派の反感を買い、不遇の死を遂げていったことに対し、二度と同じ過ちを繰り返さないための宣言でありました。この演説に歓喜した元老院は、オクタウィアヌスこそローマの全権を与えるにふさわしい人物であると決め、まず軍の称号"インペラトル"をオクタウィアヌスに与え、オクタウィアヌスはローマ軍のすべてを自身の管理下におくこととなったのです。さらに、演説から3日後、元老院はオクタウィアヌスに"尊厳者"を意味する"アウグストゥス"の称号を与えることを決断し、10年間、この全権を保持してほしいとオクタウィアヌスに懇請しました。オクタウィアヌスは何度か辞退を申し入れましたが、陽の当たった1月16日、元老院の説得によりこれを承諾し、自身の名に称号を入れ、インペラトル・カエサル・アウグストゥス(位B.C.27-A.D.14)と改名しました。
開かれた状態は戦時中であることを意味するヤヌス神殿の扉は、B.C.29年、オクタウィアヌスによって閉じられました。かつてのヤヌス神殿の扉は共和政ローマ時代におこったポエニ戦争(B.C.264-B.C.146)の終戦後6年間のみ、閉じられたままでしたが、オクタウィアヌスはローマが完全な平和をもたらしたとして、その扉を閉じたのです。共和政は安定し、オクタウィアヌスは"尊厳者"の称号によってその後様々な称号、特権が次々と贈られていきました。コンスル(執政官)およびコンスル任期満了(1年)後に就くプロコンスルでの強力な命令権(インペリウム)や、属州管理全権、護民官全権、最高神祇官の権限、"国父"の称号などです。はじめは10年間の全権保持と言われていましたが契約更新を要請され、結局はA.D.14年に没するまでその権限を掌握したこととなりました。その間は国家的平和が持続し、世に言うパックス・ロマーナ(ローマの平和)を現出しました。このB.C.27年の全権返上演説にはじまるオクタウィアヌスの慎重な行動は、結果、その元老院から全権を贈与される形で頂点に立ったのです。ローマ皇帝というこれまでなかった職位ではありますが、数ある強力な大権すべてを掌握した者、これがオクタウィアヌスであり、彼が頂上に登り詰めたことによって、「ローマ皇帝、インペラトル・カエサル・アウグストゥス」の名を得ることに成功したのです。文字通り、帝政ローマ(B.C.27-A.D.395)の開始を意味しますが、彼は"ローマ皇帝"の呼称であると元老院の反発を招くとして、あくまでも共和政のもとで職務に就くことを希望し、B.C.29年に与えられた称号である"プリンケプス"の呼称を好みました。こうして"プリンケプスの統治"を意味する"プリンキパトゥス・ローマ(元首政ローマ)"が到来したのです。一般に帝政ローマでは軍人皇帝時代(235-284)が終わり、ディオクレティアヌス(位284-305)が即位して専制君主政(ドミナートゥス)に移行するまでの時代が元首政と呼ばれます(ただし異説あり)。
引用文献『世界史の目 第251話』より
B.C.1世紀の共和政ローマ(B.C.509-B.C.27)の時代、第2回三頭政治(B.C.43)で頭角を現しました、ユリウス氏族出身のガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス(B.C.63-A.D.14) は、アクティウムの海戦(B.C.31)でエジプト併合(B.C.30)を実現させ、ローマ凱旋とともに"第一の市民(つまり「元首」)"を意味する"プリンケプス"の称号を得ました(B.C.29。プリンケプスは"プリンス"の語源)。プリンケプスはセナトゥス(元老院)の議員においても最も権力のある者であり、のちに"皇帝"の意味にとらえられるようになりました。
B.C.27年、オクタウィアヌスはすべての特権・大権を元老院に返上する演説を行いました。正真正銘のローマ共和政の復興を宣言するものでした。これはB.C.29年の凱旋式において、これまで内乱の1世紀(B.C.133-B.C.27)を勝ち抜いてきた勇者は、自身に集まる全権力を保持したがために元老院や反体制派の反感を買い、不遇の死を遂げていったことに対し、二度と同じ過ちを繰り返さないための宣言でありました。この演説に歓喜した元老院は、オクタウィアヌスこそローマの全権を与えるにふさわしい人物であると決め、まず軍の称号"インペラトル"をオクタウィアヌスに与え、オクタウィアヌスはローマ軍のすべてを自身の管理下におくこととなったのです。さらに、演説から3日後、元老院はオクタウィアヌスに"尊厳者"を意味する"アウグストゥス"の称号を与えることを決断し、10年間、この全権を保持してほしいとオクタウィアヌスに懇請しました。オクタウィアヌスは何度か辞退を申し入れましたが、陽の当たった1月16日、元老院の説得によりこれを承諾し、自身の名に称号を入れ、インペラトル・カエサル・アウグストゥス(位B.C.27-A.D.14)と改名しました。
開かれた状態は戦時中であることを意味するヤヌス神殿の扉は、B.C.29年、オクタウィアヌスによって閉じられました。かつてのヤヌス神殿の扉は共和政ローマ時代におこったポエニ戦争(B.C.264-B.C.146)の終戦後6年間のみ、閉じられたままでしたが、オクタウィアヌスはローマが完全な平和をもたらしたとして、その扉を閉じたのです。共和政は安定し、オクタウィアヌスは"尊厳者"の称号によってその後様々な称号、特権が次々と贈られていきました。コンスル(執政官)およびコンスル任期満了(1年)後に就くプロコンスルでの強力な命令権(インペリウム)や、属州管理全権、護民官全権、最高神祇官の権限、"国父"の称号などです。はじめは10年間の全権保持と言われていましたが契約更新を要請され、結局はA.D.14年に没するまでその権限を掌握したこととなりました。その間は国家的平和が持続し、世に言うパックス・ロマーナ(ローマの平和)を現出しました。このB.C.27年の全権返上演説にはじまるオクタウィアヌスの慎重な行動は、結果、その元老院から全権を贈与される形で頂点に立ったのです。ローマ皇帝というこれまでなかった職位ではありますが、数ある強力な大権すべてを掌握した者、これがオクタウィアヌスであり、彼が頂上に登り詰めたことによって、「ローマ皇帝、インペラトル・カエサル・アウグストゥス」の名を得ることに成功したのです。文字通り、帝政ローマ(B.C.27-A.D.395)の開始を意味しますが、彼は"ローマ皇帝"の呼称であると元老院の反発を招くとして、あくまでも共和政のもとで職務に就くことを希望し、B.C.29年に与えられた称号である"プリンケプス"の呼称を好みました。こうして"プリンケプスの統治"を意味する"プリンキパトゥス・ローマ(元首政ローマ)"が到来したのです。一般に帝政ローマでは軍人皇帝時代(235-284)が終わり、ディオクレティアヌス(位284-305)が即位して専制君主政(ドミナートゥス)に移行するまでの時代が元首政と呼ばれます(ただし異説あり)。
引用文献『世界史の目 第251話』より
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posted by ottovonmax at 00:00| 歴史