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2019年02月08日

2月8日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1405年2月8日は、ビザンツ帝国(東ローマ帝国。395-1453)最後の皇帝、コンスタンティノス11世の出生年月日です(1405-53。帝位1449-53)。

 1449年、ビザンツ帝国パラエロゴス朝(パレオロゴス朝。1261-1453)の皇帝としてコンスタンティノス11世は即位しました。彼の治世では、オスマン帝国との対戦に終始します。オスマン帝国(1281-1922)のメフメト2世(位位1444-46,1451-81)の攻撃が始まりました。奇策である"艦船の山越え"でもってビザンツ帝国領内に入り、首都コンスタンティノープル(現在のイスタンブル)を包囲しました。

 コンスタンティノープルを包囲したメフメト2世は、ビザンツ皇帝コンスタンティノス11世に対して即時降伏および首都明け渡しを要求しました。またこれを条件に、皇帝の退位後の保障や、ギリシア南部のモレアス専制公国領の領有権を約束しました。
 当時のビザンツ帝国は10万のオスマン軍に対し、わずか7千のローマ軍と少数のジェノヴァの援軍という不利な状況でしたが、コンスタンティノス11世はそれでもローマ皇帝として帝国を残すことを選択し、オスマン軍からの防衛を貫くことを決意、メフメト2世の要求をすべて拒否しました(1453.5.23)。これにより、オスマン軍の総攻撃が始まりました。

 オスマン軍の出陣からほぼ2ヶ月経った1453年5月28日、すでに防戦一方の展開となっている東ローマ軍も、徐々に力が尽きていきました。同日夜、東ローマ皇帝コンスタンティノス11世は宮殿内にて、帝国の最期を予感するも最後まで戦い残った家臣や兵士たちに、これまでの健闘に対して賛辞を送りました。そして全員は最後まで戦うことを誓い合い、別れの言葉をお互いに告げました。皇帝コンスタンティノス11世は祖国の誇るハギア・ソフィア大聖堂にて、多くの人々とともに最後の祈りを神に捧げた後、自身の愚かさで首都陥落の危機を迎えたことを家臣に一人ずつ謝罪したのです。
 防戦一方だったビザンツ軍もとうとう力尽きてしまいました。翌1453年5月29日未明、遂にオスマン軍は中心であるイェニチェリの執念によって城壁を突破することに成功しました。城壁になびくオスマン帝国旗を見たコンスタンティノス11世は、身につけていた東ローマ帝国の紋章"双頭の鷲"を剥ぎ取り、絢爛たる帝衣を脱ぎ捨て、剣を抜いて、自軍とともに首都を制圧したオスマン帝国の軍隊に突入していきました。異教徒の敵軍に飛び込んだコンスタンティノス11世は「私の首を刎ねるキリスト教徒はいないのか!」と叫び、果敢にオスマン軍と戦いましたが、帝はこの戦いで没したとされており、その後の消息はさだかではありません。これにより、首都コンスタンティノープルは陥落、初代ローマ皇帝アウグストゥス(位B.C.27-A.D.14)にはじまるローマ皇帝の継承はここで断絶を迎えビザンツ帝国こと東ローマ帝国は滅亡したのです(1453.5.29)。

引用文献『世界史の目 第202話』より

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posted by ottovonmax at 00:00| 歴史

2019年02月07日

2月7日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1992年2月7日は、マーストリヒト条約調印の日です。

 1990年10月3日のドイツ再統一から1年2ヶ月、1991年12月9日、オランダのマーストリヒトにおいて、ヨーロッパ(諸)共同体(EC)の加盟国による欧州連合条約(マーストリヒト条約)締結に向けての協議が行われ、同条約は陽の当たった翌1992年2月7日に調印、翌々1993年11月1日に発効、欧州連合(European United。EU)が誕生しました。東西ドイツ再統一後、ヨーロッパ全体もまた、統合へ向かって前進していくのでした。

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2019年02月06日

2月6日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1922年2月6日は、ワシントン会議の閉会日です。

 第一次世界大戦後、ヴェルサイユ体制始動および国際連盟発足により、新たな国際体制がしかれることになりました。当時の日本は海軍力が豊富であり(大日本帝国海軍)、イギリス、アメリカと肩を並べられるほどでした。1920年に八・八艦隊案(帝国国防方針で発表された大艦隊軍備計画。戦艦8隻と巡洋艦8隻の建造を目標に1927年までに建造・完成させる案)を成立させて以降、日本は海軍増強にますます力を注いでいき、太平洋海域を日本海軍で呑み込むほどでした。
 アメリカはこうした日本の台頭を不安視していましたが、さらに懸念していることが、日本はイギリスと日英同盟を結んでいることでした。イギリスはフランスと共に国際連盟及び欧州におけるヴェルサイユ体制を主導する立場にあるため、イギリスには波風を立てず、かつ日本には軍拡を阻止する必要があったのです。

 こうした背景もあり、1921年11月12日、アメリカ大統領ウォーレン・ガマリエル・ハーディング(任1921-23)の提唱で、首都ワシントンでアメリカ主導における初の国際会議が開かれ(ワシントン会議。1921.11.12-1922.2.6)、歴史上初の軍縮会議が開かれました。

 この会議で7つの条約と2つの協定(約定)が締結されましたが、代表されるのが、四ヵ国条約(1921。アメリカ・イギリス・日本・フランス)・ワシントン海軍軍縮条約(1922。五ヵ国条約。アメリカ・イギリス・日本・フランス・イタリア)・九ヵ国条約(1922。アメリカ・イギリス・日本・フランス・イタリア・ベルギー・ポルトガル・オランダ・中華民国)の三大条約です。なおこの国際会議に参加する日本からは、海軍大臣加藤友三郎(かとうともさぶろう。1861-1923。のち首相任1922-23)、駐米大使幣原喜重郎(しではらきじゅうろう。外相任1924-27,29-31。のち首相任1945-46)、そして貴族院議長徳川家達(とくがわいえさと。1863-1940。議長任1903-33)らが全権をつとめました。

 まず四ヵ国条約では、太平洋地域における属地・領地に関する権益の相互尊重、外交問題から発生する紛争を避けるため共同会議を開くことなどを四ヵ国内で約束し、平和的解決を目指しました(1921.12調印)。アメリカはとりわけイギリスに条約締結を提唱、イギリスは"日英間"ではなく"四ヵ国間"で取り決めを行うことに同意し、アメリカ主導で条約は締結されることになりました。これにより日英同盟は解消されました。この条約締結により、特殊権益の承認相手であるイギリスが日本から離れ、太平洋問題は四ヵ国間(特に日米間)での取り決めで行わなければならなくなりました。日本はアメリカだけでなく、イギリスとも関係が冷却化していったのです。アメリカの諸対策に対する目標は、まず第一段階を突破したことになります。

 続くワシントン海軍軍縮条約では、建艦競争に燃えていた日本に対し、日英同盟解消で孤立したうえでのさらなる痛い追い打ちとなりました。1922年に調印されたこの五ヵ国間の条約は、戦艦や航空母艦といった主力艦の各国の保有率を、イギリスとアメリカがそれぞれ5の割合に対し、日本は3、フランスとイタリアが1.67と定めました(当初の保有比率は5:5:3:1.75:1.75でしたが、米英日の保有量の若干増の決定にともない、5:5:3:1.67:1.67となりました)。条約調印により五ヵ国間の建造中戦艦は中止され、10年間建造ができなくなりました。この段階で戦艦は世界7隻のみとどまり(日本の"長門"・"陸奥"、アメリカの"コロラド"、イギリスの"ネルソン"など)、「ビッグセブン」と呼ばれました。保有制限が為されたこの軍縮条約で日本は八・八艦隊計画を挫折せざるを得なくなり、計画は中止となりました。

 建艦競争に歯止めをかけられた日本は、外交的にも軍事的にも英米に劣勢を強いられました。ただ一つの拠り所は、日本の中国における特殊権益保持の主張でした。第一次世界大戦中に山東半島を二十一ヶ条要求(1915)で中国に承認させた日本は、中国政策が唯一の強みでした。アメリカとも石井・ランシング協定(1917締結。中国における日米協定)を結んでいる以上、アメリカは門戸開放・機会均等・領土保全が守られ、対する日本も中国における特殊権益が守られるはずでありました。

 そして、アメリカ諸政策の最終局面として、九ヵ国条約が調印されます(1922.2.6)。ワシントン会議も大詰めに迎え、アメリカは国際主導的権威を大きく見せたのです。アメリカ本来の主張する門戸開放・機会均等・領土保全の原則を参加国に呼びかけ、中国は主権を持った独立国家であり、中国における全ての権益不可侵を主張したのです。これにより、日米間で結んでいた石井・ランシング協定は失効となり、日本は、第一次世界大戦でドイツから奪った山東省の権益を返還することになりました(山東懸案解決条約。山東還付条約。1922.2.4)。日本だけでなく、イギリスも中国分割期に租借した東洋艦隊の基地として威海衛(いかいえい。山東半島北東岸の海港)を中国に返還しました。

 四ヵ国条約による日英同盟破棄、ワシントン海軍軍縮条約による海軍軍縮、九ヵ国条約で真の門戸開放が達成され、アメリカ主導による極東・太平洋地域の国際協調政策は果たされたことで、ワシントン会議は大成功を収めました。英仏によるヴェルサイユ体制と、アメリカによるこのワシントン体制の両体制によって、新たな国際社会体制が完成したのです。

引用文献『世界史の目 第161話』より

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2019年02月05日

2月5日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1936年2月5日は、日本職業野球連盟が設立された日です。

 陽の当たったこの日は、東京巨人軍(現在の読売ジャイアンツ)、大阪タイガース(現在の阪神タイガース)、名古屋軍(現在の中日ドラゴンズ)、東京セネタース(後身の派生チームに現在の北海道日本ハムファイターズがある)、阪急軍(現在のオリックス・バファローズ)、大東京軍(後身の派生チームに現在の横浜DeNAベイスターズがある)、そして名古屋金鯱軍の7球団によって野球組織、日本職業野球連盟が設立され、日本で初めてのプロ野球が開催されました。これにて、日本初の全国規模の社会人スポーツリーグが誕生しました。

 2月5日はプロ野球誕生を祝して、"プロ野球の日"として記念されました。

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2019年02月04日

2月4日は何に陽(ひ)が当たったか?

 960年2月4日は、趙匡胤(ちょうきょういん。927-976)が北宋(ほくそう。960-1127)の初代皇帝となった日です(帝位960-976)。

 五代十国時代(907-960)、後周(951-960。首都開封)の世宗(せいそう。位954-959)は五代第一の名君と言われた皇帝でした。破仏(はぶつ。廃仏。仏教弾圧)を行い(世に言う"三武一宗の法難"の"宗"は世宗のこと)、財政を確立、部下の趙匡胤とともに軍隊の再整備を行って十国を次々と破っていき、長江以北を併合(955)、959年には北方の契丹族が建国した(りょう。916-1125)から燕雲十六州(遼に割譲した中国本国の要所である長城線以南の北京<燕州>と大同<雲州>を結ぶ、周辺16州)のうち3州を奪還して(のち再び奪われる)、征服王朝の駆逐を図るなどして中国統一王朝復活を夢見ましたが、世宗は志半ばにして病没し、7歳の恭帝(きょうてい。位959-960)が擁立されたことで、好機と判断した遼王朝の軍隊が南進してきました。
 世宗の臣下は、国家存亡の危機に見まわれる絶体絶命の状態でしたので、軍功高い趙匡胤が恭帝及び臣下に推され、都を開封にとどめたまま、恩師の政策を継承することで意見が一致しました。このため、960年、恭帝は自ら廃位の身となり(後周滅亡)、陽の当たった960年2月4日、趙匡胤は新しい王朝・(そう。960-1279。首都開封)の初代皇帝(太祖。位960-976)として帝位に就いたのです。

 趙匡胤が初代宋皇帝になるには、以下の逸話が残っています。もともと趙匡胤は帝位への野心があり、近親者や同士もそのことを知っていました。恭帝が擁立され、遼軍が迫ってきますと、これと対峙するため、出陣の準備をしておりました。出陣式の祝い酒に酔った趙匡胤は、開封北辺の宿駅で寝床についていたところ、趙匡胤の弟や志士たちが突然、刀を抜いて趙匡胤の寝室に押し入り、趙匡胤の身を起こして、天子の象徴である黄色の上着(黄袍。こうほう。皇帝の袍)を着せ、帝位に就いたといわれています(陳橋の変。ちんきょうのへん)。この非常事態から切り抜けるには、趙匡胤を皇帝に立てるしかないと考えた、近親者や同士たちの陰謀ではありましたが、直後、趙匡胤は即位を拒絶して「諸君が自身の富貴のために、私を皇帝(天子)として擁立させたのだろう。私の命令をきかないなら、私は決して天子にはならないと思え」と叫んだのです。陰謀を仕掛けた弟や志士たちは思わぬ事態に戸惑いましたが、趙匡胤は、重ねて「周(→後周のこと)の皇太后と幼帝(→恭帝のこと)、大官たちを決して脅かさず、宮廷や市場の物品を略奪したものは厳罰を下す」という約束を取り付け、これら条件を承認させた上で帝位に上がったといわれています。これで周囲は安堵したが、過去の五代の王朝交替時、新皇帝は王室や市場の略奪を黙認するという慣例があったらしく、趙匡胤はこうした慣例を廃し、五代の君主とは比に及ばない威厳を知らしめたのです。

引用文献『世界史の目 第91話』より

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2019年02月03日

2月3日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1979年2月3日は、イギリスのアート・ロック・グループ、10ccのシングル、"For You And I(邦題:フォー・ユー・アンド・アイ)"がBillboard HOT100シングル・チャートにエントリーした日です。

 10ccの6枚目スタジオ・アルバム、"Bloody Tourists(邦題:ブラッディ・ツーリスト。1978年9月リリース)"からの"Dreadlock Holiday(邦題:トロピカル・ラブ。1978年11月18日付で44位)"に続くセカンド・シングルで、中心メンバーのEric Stewart(エリック・ステュワート)とGraham Gouldman(グレアム・グールドマン)の作品です。リード・ヴォーカルはEricが担当しました。

 1979年はEricにとっては辛い時期で、交通事故で大けがを負い、活動中断を余儀なくされた一年となりました。その中で、"For You And I"は1979年における全米での唯一のヒット曲でした。"Bloody Tourists"のA面(アナログ盤)の2曲目に収録されたこの曲は、ムーグ・シンセサイザーをバックにスロー・テンポのほのぼのとした展開で流れるポップ・ナンバーで、現在におけるアメリカでの最後のHOT100にエントリーした楽曲です。

 陽の当たった1979年2月3日に87位にエントリーしたこの曲は翌週2月10日付で85位にアップしましたが、これを最高位に97位へ後退、3週のチャートインでした。

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2019年02月02日

2月2日は何に陽(ひ)が当たったか?

 962年2月1日は、神聖ローマ帝国(962-1806)の皇帝が誕生した日です。陽の当たった当時は復興した"ローマ帝国"の国号が使われました。

 843年のヴェルダン条約、870年のメルセン条約により、フランク王国(481-843)は西フランク王国(フランス地方。843ー987)・東フランク王国(ドイツ地方。843ー911)・イタリア王国(843ー875)と分割されました。そのうちの1つ、東フランク王国は、ルートヴィヒ4世(幼童王。ルートヴィヒ2世の曾孫。位899ー911)の死をもって断絶し(911)、東フランク王国のカロリング王家は途絶えました。すると国内で、ザクセン(北)・バイエルン(東)・シュヴァーベン(南)・フランケン(中部)など、部族を基盤とする諸侯(大諸侯。部族大公)たちが勢力を増大させていきました。その中で、諸侯の選挙王制により、東フランクの中核であったフランケン公領(マイン川流域)の大公コンラート1世(?-918)が東フランク王(ドイツ王)に選ばれ、東フランク王国におけるフランケン朝を創始し王位に就きましたが(位911-918。ザリエル朝の異称とは別)、部族大公勢力は留まることを知らず、ザクセン公ハインリヒ(876-936)やバイエルン公と争う羽目になる。また、全盛期時代から悩まされたハンガリー地方のマジャール人の侵寇にも苦しみました。このフランケン朝は、"東フランク王国"としての政体は踏襲していたもののその機能を果たせず、国家統一どころか、実際は東フランク王国は名目的で、王国の旧諸侯が新国家建設を目指して争っていたにすぎませんでした。
 コンラート1世は臨終の際、次王に、敵ながら適任と認めたザクセン公ハインリヒを推薦し、ザクセンの王朝を創始して国家統一を頼むと遺言し、他の諸侯もこれに賛同しました。919年、ハインリヒはザクセン朝(919-1024)を創始し、ハインリヒ1世(捕鳥王。都市建設王。位919-936)として即位しました。ハインリヒ1世は、デーン人などのノルマン民族や、スラヴ人、マジャール人の侵入を防ぐべく、辺境領(マルク)を設置、辺境の地方長官職をつかさどる辺境伯(マルク・グラーフ)をおいて城塞を築き、辺境をかためました。西フランク王国と交渉してロートリンゲン(中部フランク。ロレーヌ)をドイツ地方に編入、またドイツ内部のキリスト教会を保護下において、積極的に教皇との接触をはかり、国家の統一をすすめました。
 751年にフランク王国カロリング朝(751-987)が誕生した時、創始者ピピン3世(位751-768)が即位にあたって、教皇により塗油の儀式を受けました。その後カール大帝(フランク王位768-814。西ローマ皇位800-814)をはじめ、フランク国王は即位時、塗油の儀式を受けることが慣習化され、塗油によって代々フランク王の遺志を継ぐ者であることを知らしめ、これにより国王の権威が確立されました。しかしハインリヒ1世は、マインツ大司教の塗油の礼を拒否し、フランク王国の継承者としての国王ではなく、新しい国家の王として登場したのです。その国家が"ドイツ"で、ドイツ王ハインリヒ1世の即位をもって、一般にドイツ国家の成立となります。またフランク王国は分割相続でしたが、ハインリヒ1世はこの面でも一線を画し、王権強化を誇って単独相続を決め、ザクセン王家によるザクセン朝存続維持に努めました。しかし、部族大公勢力はいっこうにおさまりませんでした。
 936年、ハインリヒ1世が没し、子のオットー(912-973)がザクセン朝ドイツ王オットー1世として、アーヘンで即位しました(位936-973)。ザクセン王家から2代ドイツ王に選ばれたため、部族大公勢力は不満でした。このため、オットー1世はまず第一に、その部族大公勢力を抑える政策を行い、フランケンやバイエルンなどの大公領にオットー1世の血族を配して、ドイツ統一を図りました。しかし一族が部族大公らと結んで謀反を起こすと、次の統一策として、ドイツの司教に王領地を寄進し、伯職と同等の権利を与えて、教会や修道院領を王領として扱う帝国教会政策を行いました。これにより、教会制度は国家の組織に組み込まれ、オットー1世は聖職叙任権を獲得し、王権拡大に努めました。
 外交策では、イタリア政策が挙げられます。ドイツの帝国教会政策で、教皇権との結び付きが緊密化したことにより、イタリアへの極度の接触が可能になったのです。当時イタリアは、マジャール人をはじめ、シチリア島などに潜伏するイスラム勢力の侵入が著しい状況でした。また、カロリング家断絶後、王権も弱く、イタリア諸侯の王位争いも激化していました。
 王位継承問題で揺れていたイタリアで、オットー1世は951年、イヴレア辺境伯など他のイタリア諸侯からの王位継承の大候補が数多くある中、もう1人候補であるブルグント家からイタリア王女アーデルハイト(931?-999)と結婚して(951)、イタリア王を自称しました。オットー1世はイタリアには居座らず、イヴレア辺境伯にイタリア統治を委ねました。これによりイタリア諸侯らを抑える目的で第1次イタリア遠征を行いました(951-952)。

 オットー1世には嫡子リウドルフ(930-957)がいましたが、父王との反目があり、父とアーデルハイトとの間に1子をもうけると、王位継承に危機感を募らせ、親族や諸大公らと反乱をおこしました(953)。翌954年からはマジャール人のドイツ侵寇も激化し、王室は苦悩すると思われましたが、オットー1世はリウドルフの反乱を巧みに利用し、リウドルフの味方に付いている諸侯に対し、マジャール人の襲来をリウドルフがおこしたものだと呼びかけたのです。これによりリウドルフの味方であった諸侯たちは、リウドルフの加担をやめてマジャール人の撃退に向かいました。リウドルフは捕まり、幽閉された。大公軍の結束によって955年、遂にマジャール人は完全撤退し(レヒフェルトの戦い)、これ以降のマジャール人の西方侵入はなくなりました。オットー1世は、スラヴ人、ノルマン系デーン人をも撃退、彼はヨーロッパ全域の"キリスト教国"を異教民族から守った英雄として評価され、彼の地位は不動化されました。特に、この年ローマ教皇に就いたヨハネス12世(位955-964)をはじめ、教会組織からは手篤く称えられました。
 ヨハネス12世は教皇即位時は18歳と年少で、権威は低かったため、教皇領の拡張を図ろうとしていました。しかしイタリア諸侯イヴレア辺境伯はこれを抑えようとして、ヨハネス12世に対して激しい攻撃を行いました。ヨハネス12世は961年、オットー1世に救援を依頼します。オットー1世はアーデルハイトとの子オットー(955-983)をドイツ王オットー2世(位961-983)として共同統治させ、そして第2次イタリア遠征を行い(961-964)、その後イヴレア伯を抑えつけました。
 イヴレア伯の制圧後、オットー1世はローマに赴き、ヨハネス12世に身柄の安全を保障することにより、帝冠を授かることを約束し、ヨハネス12世もこれに応じました。こうして、陽の当たった962年2月2日、オットー1世は教皇ヨハネス12世より、ローマ皇帝の帝冠を授かり(オットーの戴冠)、"ローマ・東フランク皇帝"となりました(オットー大帝。位962-973)。かつてカール大帝が800年に行ったときと同様(カールの戴冠)、ローマ帝国の復活であり、またカロリング朝フランク王国の復活をも意味する戴冠でした。オットー大帝は"尊厳なる皇帝"として、ローマ教会が及ぶヨーロッパ世界に君臨する地位を得たのです。これにより、事実上イタリアとドイツは、オットー大帝によって統治されました。これが、後になって"神聖ローマ帝国"と呼ばれる、ドイツ帝国誕生の瞬間です。原理上ではカールの戴冠(800)が神聖ローマ帝国の誕生としていますが、事実上ではオットーの戴冠でもって誕生としています。
 ヨハネス12世は、オットー大帝に戴冠したものの、オットーの脅威に絶えかね、オットーの政敵と手を結ぶようになりました。このためヨハネス12世は、オットー大帝により皇位を廃されました(963)。その後レオ8世(位963-965)、ベネディクトゥス5世(位964-966)とローマ教皇は短期交替が相次ぎ、教皇権が失墜していきました。ヨハネス12世の行為によって、教会はローマ・東フランク皇帝(神聖ローマ皇帝)の思うままに操られることになり、ヨハネス廃位後に即位したレオ8世から、教皇即位にあたってローマ皇帝に忠誠を誓う宣言を行う規定が盛り込まれ、教会の「鉄世紀」と呼ばれる暗黒時代を招くことなりました。教皇と皇帝との対立はここから始まっていくのでした。

 その後オットー大帝は、966年から第3次イタリア遠征を行い(966-972)、以降イタリア政策を推進し、同地に滞在しました。イタリア経営は、ドイツ国内統治以上に努力が強いられ、結果としてドイツ統一が遅れていく状況を為しました。晩年に差し掛かったオットー大帝は、973年、すでに神聖ローマ皇帝の帝位継承者として決定していたオットー2世に譲位し(位973-983)、973年没しました。オットー2世の後、オットー3世(ドイツ王位983-1002。神聖ローマ皇帝位983-1002)・ハインリヒ2世(王位1002-24,帝位1002-24)と続き、オットー朝の異名を兼ね備えたザクセン朝は、1024年、ハインリヒ2世でもってザクセン王家断絶となり、フランケン公コンラート1世の血を引くフランケン公シュパイエル伯ハインリヒ(オットー1世の曾孫の子)の子コンラート(990?-1039)が選ばれ、コンラート2世として即位し(王位1024-39,帝位1027-39)、第2のフランケン朝であるザリエル朝(1024-1125)を創始、ザクセン朝を継承して帝国教会政策とイタリア政策は続けられていくのでした。

引用文献『世界史の目 第76話』より


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2019年02月01日

2月1日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1328年2月1日は、フランス王国カペー朝(987-1328)君主、シャルル4世(王位1322-28)の没年月日です(1294-1328)。

 父は強力な中央集権化を貪欲にもとめ、ローマ教皇と対立し、身分制議会である三部会を開催した端麗王フィリップ4世(王位1285-1314)で、シャルル4世はフィリップ4世の三男として1294年6月18日に誕生しました。
 フィリップ4世没後、王位はその長男ルイ10世(喧嘩王。位1314-16)を経て、その子ジャン1世(遺腹王。位1316)が即位しましたが、生後一週間もたたず夭逝してしまいました。ジャン1世でもってカペー王家の直系男児は途絶えましたが、結局フィリップ4世の次男フィリップ5世(長躯王。位1316-22)が即位しました。しかしフィリップ5世も男児を残すことなく1322年に死去して、弟のシャルル4世が王位を継承しました。

 シャルル4世の妹イザベラ(1295?-1358)はイングランド王国プランタジネット朝(1154-1399)君主エドワード2世(王位1307-27)の王妃でした。当時の英国関係は冷え切っており、シャルル4世は和睦に懸命に動きましたが、シャルル4世の甥にあたるイングランド王エドワード3世(王位1327-77)がイギリス王位についた翌年の2月1日にシャルル4世は亡くなり、ヴァロワ泊シャルル(伯位1284-1325)の子がフィリップ6世(1293-1350)としてフランス王位についたためカペー朝は完全断絶しし、ヴァロワ朝(1328-1589)が開かれました。

 シャルル4世の甥であるイングランド王エドワード3世は、母イザベラがカペー家出身であることから、エドワード3世自身もカペー家の血が通っていることを力説、フランス王カペー朝君主として継承しようとしてヴァロワ朝を否定したことから英仏関係は破綻、百年戦争(1337-1453)へと発展していくのです。

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2019年01月31日

1月31日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1月31日は、ポルトガル王国アヴィス王朝(1385-1580)の最後の君主、エンリケ1世(1512-80。王位1578-80)の生没年月日です。生誕月日と没月日が1月31日の王様です。

 1512年1月31日にリスボンで産まれたエンリケ1世は王位に就く前、数々の聖職を歴任し、1545年に枢機卿として活動していました。先代の王セバスティアン1世(位1557-78)がモロッコのイスラーム政権サアド朝(1509-1659)との戦争(アルカセル・キビールの戦い)で没し、ポルトガル軍が大敗を喫したうえ、国運を懸け、大枚を費やして大事な一戦に敗退したことでアヴィス家最大の危機が訪れました。しかもセバスティアンも独身でしたので王位継承も難航し、先々代のジョアン3世(王位1521-57)の弟であるエンリケが継承者となりました。
 王位に就いたエンリケは、王家存続のため枢機卿を辞して結婚相手を探そうとしたが、ローマ教皇に反対されました。このため先代同様、後継者を残すことなく、1580年1月31日に没し、アヴィス朝は断絶しました。

 当時はローマ教皇庁はハプスブルク家スペイン(1516-1700)に通じていたため、財政難に苦しむポルトガル王国はスペインの国王フェリペ2世(スペイン王位1556-98)に首都リスボンを落とされ、形の上は併合ですが同君連合を取り、フェリペ2世は1580年、ポルトガル王フィリペ1世(王位1580-98)として即位したのです。

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2019年01月30日

1月30日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1889年1月30日は、ハプスブルク家のオーストリア皇帝、フランツ・ヨーゼフ1世(帝位1848-1916)の子であるルドルフ皇太子(1858-89)の没した年月日です。マイヤーリンク事件と名付けられた彼の死は多くの謎をもたらしました。

 ルドルフは1881年、ベルギー王女ステファニー(1864-1965)と政略結婚し、一女を授かりましたが、夫婦生活は悪く冷え切っていました。保守的な父とは異なり、自由主義的なルドルフ皇子は女優や娼婦と交遊をおこないましたが、決して政治的に無能ではなく、単に父にはない漸進的な部分があり、父とは相容れられないだけでありました。1888年、ルドルフは外交官だったアルビン・フォン・ヴェッツェラ男爵(1825-87)の令嬢、マリー・フォン・ヴェッツェラ(1871-1889)と禁断の愛を育んだことで父帝の怒りを買いました。翌1889年1月30日、ルドルフは狩猟館マイヤーリンクにおいて、マリーとピストルで心中、絶命しました。これが多くのナゾを生んだマイヤーリンク事件で、現在も真相は不明です。

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