2019年01月31日
1月31日は何に陽(ひ)が当たったか?
1月31日は、ポルトガル王国アヴィス王朝(1385-1580)の最後の君主、エンリケ1世(1512-80。王位1578-80)の生没年月日です。生誕月日と没月日が1月31日の王様です。
1512年1月31日にリスボンで産まれたエンリケ1世は王位に就く前、数々の聖職を歴任し、1545年に枢機卿として活動していました。先代の王セバスティアン1世(位1557-78)がモロッコのイスラーム政権サアド朝(1509-1659)との戦争(アルカセル・キビールの戦い)で没し、ポルトガル軍が大敗を喫したうえ、国運を懸け、大枚を費やして大事な一戦に敗退したことでアヴィス家最大の危機が訪れました。しかもセバスティアンも独身でしたので王位継承も難航し、先々代のジョアン3世(王位1521-57)の弟であるエンリケが継承者となりました。
王位に就いたエンリケは、王家存続のため枢機卿を辞して結婚相手を探そうとしたが、ローマ教皇に反対されました。このため先代同様、後継者を残すことなく、1580年1月31日に没し、アヴィス朝は断絶しました。
当時はローマ教皇庁はハプスブルク家スペイン(1516-1700)に通じていたため、財政難に苦しむポルトガル王国はスペインの国王フェリペ2世(スペイン王位1556-98)に首都リスボンを落とされ、形の上は併合ですが同君連合を取り、フェリペ2世は1580年、ポルトガル王フィリペ1世(王位1580-98)として即位したのです。
1512年1月31日にリスボンで産まれたエンリケ1世は王位に就く前、数々の聖職を歴任し、1545年に枢機卿として活動していました。先代の王セバスティアン1世(位1557-78)がモロッコのイスラーム政権サアド朝(1509-1659)との戦争(アルカセル・キビールの戦い)で没し、ポルトガル軍が大敗を喫したうえ、国運を懸け、大枚を費やして大事な一戦に敗退したことでアヴィス家最大の危機が訪れました。しかもセバスティアンも独身でしたので王位継承も難航し、先々代のジョアン3世(王位1521-57)の弟であるエンリケが継承者となりました。
王位に就いたエンリケは、王家存続のため枢機卿を辞して結婚相手を探そうとしたが、ローマ教皇に反対されました。このため先代同様、後継者を残すことなく、1580年1月31日に没し、アヴィス朝は断絶しました。
当時はローマ教皇庁はハプスブルク家スペイン(1516-1700)に通じていたため、財政難に苦しむポルトガル王国はスペインの国王フェリペ2世(スペイン王位1556-98)に首都リスボンを落とされ、形の上は併合ですが同君連合を取り、フェリペ2世は1580年、ポルトガル王フィリペ1世(王位1580-98)として即位したのです。
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posted by ottovonmax at 00:00| 歴史