2019年02月01日
2月1日は何に陽(ひ)が当たったか?
1328年2月1日は、フランス王国カペー朝(987-1328)君主、シャルル4世(王位1322-28)の没年月日です(1294-1328)。
父は強力な中央集権化を貪欲にもとめ、ローマ教皇と対立し、身分制議会である三部会を開催した端麗王フィリップ4世(王位1285-1314)で、シャルル4世はフィリップ4世の三男として1294年6月18日に誕生しました。
フィリップ4世没後、王位はその長男ルイ10世(喧嘩王。位1314-16)を経て、その子ジャン1世(遺腹王。位1316)が即位しましたが、生後一週間もたたず夭逝してしまいました。ジャン1世でもってカペー王家の直系男児は途絶えましたが、結局フィリップ4世の次男フィリップ5世(長躯王。位1316-22)が即位しました。しかしフィリップ5世も男児を残すことなく1322年に死去して、弟のシャルル4世が王位を継承しました。
シャルル4世の妹イザベラ(1295?-1358)はイングランド王国プランタジネット朝(1154-1399)君主エドワード2世(王位1307-27)の王妃でした。当時の英国関係は冷え切っており、シャルル4世は和睦に懸命に動きましたが、シャルル4世の甥にあたるイングランド王エドワード3世(王位1327-77)がイギリス王位についた翌年の2月1日にシャルル4世は亡くなり、ヴァロワ泊シャルル(伯位1284-1325)の子がフィリップ6世(1293-1350)としてフランス王位についたためカペー朝は完全断絶しし、ヴァロワ朝(1328-1589)が開かれました。
シャルル4世の甥であるイングランド王エドワード3世は、母イザベラがカペー家出身であることから、エドワード3世自身もカペー家の血が通っていることを力説、フランス王カペー朝君主として継承しようとしてヴァロワ朝を否定したことから英仏関係は破綻、百年戦争(1337-1453)へと発展していくのです。
父は強力な中央集権化を貪欲にもとめ、ローマ教皇と対立し、身分制議会である三部会を開催した端麗王フィリップ4世(王位1285-1314)で、シャルル4世はフィリップ4世の三男として1294年6月18日に誕生しました。
フィリップ4世没後、王位はその長男ルイ10世(喧嘩王。位1314-16)を経て、その子ジャン1世(遺腹王。位1316)が即位しましたが、生後一週間もたたず夭逝してしまいました。ジャン1世でもってカペー王家の直系男児は途絶えましたが、結局フィリップ4世の次男フィリップ5世(長躯王。位1316-22)が即位しました。しかしフィリップ5世も男児を残すことなく1322年に死去して、弟のシャルル4世が王位を継承しました。
シャルル4世の妹イザベラ(1295?-1358)はイングランド王国プランタジネット朝(1154-1399)君主エドワード2世(王位1307-27)の王妃でした。当時の英国関係は冷え切っており、シャルル4世は和睦に懸命に動きましたが、シャルル4世の甥にあたるイングランド王エドワード3世(王位1327-77)がイギリス王位についた翌年の2月1日にシャルル4世は亡くなり、ヴァロワ泊シャルル(伯位1284-1325)の子がフィリップ6世(1293-1350)としてフランス王位についたためカペー朝は完全断絶しし、ヴァロワ朝(1328-1589)が開かれました。
シャルル4世の甥であるイングランド王エドワード3世は、母イザベラがカペー家出身であることから、エドワード3世自身もカペー家の血が通っていることを力説、フランス王カペー朝君主として継承しようとしてヴァロワ朝を否定したことから英仏関係は破綻、百年戦争(1337-1453)へと発展していくのです。
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posted by ottovonmax at 00:00| 歴史