2019年02月06日
2月6日は何に陽(ひ)が当たったか?
1922年2月6日は、ワシントン会議の閉会日です。
第一次世界大戦後、ヴェルサイユ体制始動および国際連盟発足により、新たな国際体制がしかれることになりました。当時の日本は海軍力が豊富であり(大日本帝国海軍)、イギリス、アメリカと肩を並べられるほどでした。1920年に八・八艦隊案(帝国国防方針で発表された大艦隊軍備計画。戦艦8隻と巡洋艦8隻の建造を目標に1927年までに建造・完成させる案)を成立させて以降、日本は海軍増強にますます力を注いでいき、太平洋海域を日本海軍で呑み込むほどでした。
アメリカはこうした日本の台頭を不安視していましたが、さらに懸念していることが、日本はイギリスと日英同盟を結んでいることでした。イギリスはフランスと共に国際連盟及び欧州におけるヴェルサイユ体制を主導する立場にあるため、イギリスには波風を立てず、かつ日本には軍拡を阻止する必要があったのです。
こうした背景もあり、1921年11月12日、アメリカ大統領ウォーレン・ガマリエル・ハーディング(任1921-23)の提唱で、首都ワシントンでアメリカ主導における初の国際会議が開かれ(ワシントン会議。1921.11.12-1922.2.6)、歴史上初の軍縮会議が開かれました。
この会議で7つの条約と2つの協定(約定)が締結されましたが、代表されるのが、四ヵ国条約(1921。アメリカ・イギリス・日本・フランス)・ワシントン海軍軍縮条約(1922。五ヵ国条約。アメリカ・イギリス・日本・フランス・イタリア)・九ヵ国条約(1922。アメリカ・イギリス・日本・フランス・イタリア・ベルギー・ポルトガル・オランダ・中華民国)の三大条約です。なおこの国際会議に参加する日本からは、海軍大臣加藤友三郎(かとうともさぶろう。1861-1923。のち首相任1922-23)、駐米大使幣原喜重郎(しではらきじゅうろう。外相任1924-27,29-31。のち首相任1945-46)、そして貴族院議長徳川家達(とくがわいえさと。1863-1940。議長任1903-33)らが全権をつとめました。
まず四ヵ国条約では、太平洋地域における属地・領地に関する権益の相互尊重、外交問題から発生する紛争を避けるため共同会議を開くことなどを四ヵ国内で約束し、平和的解決を目指しました(1921.12調印)。アメリカはとりわけイギリスに条約締結を提唱、イギリスは"日英間"ではなく"四ヵ国間"で取り決めを行うことに同意し、アメリカ主導で条約は締結されることになりました。これにより日英同盟は解消されました。この条約締結により、特殊権益の承認相手であるイギリスが日本から離れ、太平洋問題は四ヵ国間(特に日米間)での取り決めで行わなければならなくなりました。日本はアメリカだけでなく、イギリスとも関係が冷却化していったのです。アメリカの諸対策に対する目標は、まず第一段階を突破したことになります。
続くワシントン海軍軍縮条約では、建艦競争に燃えていた日本に対し、日英同盟解消で孤立したうえでのさらなる痛い追い打ちとなりました。1922年に調印されたこの五ヵ国間の条約は、戦艦や航空母艦といった主力艦の各国の保有率を、イギリスとアメリカがそれぞれ5の割合に対し、日本は3、フランスとイタリアが1.67と定めました(当初の保有比率は5:5:3:1.75:1.75でしたが、米英日の保有量の若干増の決定にともない、5:5:3:1.67:1.67となりました)。条約調印により五ヵ国間の建造中戦艦は中止され、10年間建造ができなくなりました。この段階で戦艦は世界7隻のみとどまり(日本の"長門"・"陸奥"、アメリカの"コロラド"、イギリスの"ネルソン"など)、「ビッグセブン」と呼ばれました。保有制限が為されたこの軍縮条約で日本は八・八艦隊計画を挫折せざるを得なくなり、計画は中止となりました。
建艦競争に歯止めをかけられた日本は、外交的にも軍事的にも英米に劣勢を強いられました。ただ一つの拠り所は、日本の中国における特殊権益保持の主張でした。第一次世界大戦中に山東半島を二十一ヶ条要求(1915)で中国に承認させた日本は、中国政策が唯一の強みでした。アメリカとも石井・ランシング協定(1917締結。中国における日米協定)を結んでいる以上、アメリカは門戸開放・機会均等・領土保全が守られ、対する日本も中国における特殊権益が守られるはずでありました。
そして、アメリカ諸政策の最終局面として、九ヵ国条約が調印されます(1922.2.6)。ワシントン会議も大詰めに迎え、アメリカは国際主導的権威を大きく見せたのです。アメリカ本来の主張する門戸開放・機会均等・領土保全の原則を参加国に呼びかけ、中国は主権を持った独立国家であり、中国における全ての権益不可侵を主張したのです。これにより、日米間で結んでいた石井・ランシング協定は失効となり、日本は、第一次世界大戦でドイツから奪った山東省の権益を返還することになりました(山東懸案解決条約。山東還付条約。1922.2.4)。日本だけでなく、イギリスも中国分割期に租借した東洋艦隊の基地として威海衛(いかいえい。山東半島北東岸の海港)を中国に返還しました。
四ヵ国条約による日英同盟破棄、ワシントン海軍軍縮条約による海軍軍縮、九ヵ国条約で真の門戸開放が達成され、アメリカ主導による極東・太平洋地域の国際協調政策は果たされたことで、ワシントン会議は大成功を収めました。英仏によるヴェルサイユ体制と、アメリカによるこのワシントン体制の両体制によって、新たな国際社会体制が完成したのです。
引用文献『世界史の目 第161話』より
第一次世界大戦後、ヴェルサイユ体制始動および国際連盟発足により、新たな国際体制がしかれることになりました。当時の日本は海軍力が豊富であり(大日本帝国海軍)、イギリス、アメリカと肩を並べられるほどでした。1920年に八・八艦隊案(帝国国防方針で発表された大艦隊軍備計画。戦艦8隻と巡洋艦8隻の建造を目標に1927年までに建造・完成させる案)を成立させて以降、日本は海軍増強にますます力を注いでいき、太平洋海域を日本海軍で呑み込むほどでした。
アメリカはこうした日本の台頭を不安視していましたが、さらに懸念していることが、日本はイギリスと日英同盟を結んでいることでした。イギリスはフランスと共に国際連盟及び欧州におけるヴェルサイユ体制を主導する立場にあるため、イギリスには波風を立てず、かつ日本には軍拡を阻止する必要があったのです。
こうした背景もあり、1921年11月12日、アメリカ大統領ウォーレン・ガマリエル・ハーディング(任1921-23)の提唱で、首都ワシントンでアメリカ主導における初の国際会議が開かれ(ワシントン会議。1921.11.12-1922.2.6)、歴史上初の軍縮会議が開かれました。
この会議で7つの条約と2つの協定(約定)が締結されましたが、代表されるのが、四ヵ国条約(1921。アメリカ・イギリス・日本・フランス)・ワシントン海軍軍縮条約(1922。五ヵ国条約。アメリカ・イギリス・日本・フランス・イタリア)・九ヵ国条約(1922。アメリカ・イギリス・日本・フランス・イタリア・ベルギー・ポルトガル・オランダ・中華民国)の三大条約です。なおこの国際会議に参加する日本からは、海軍大臣加藤友三郎(かとうともさぶろう。1861-1923。のち首相任1922-23)、駐米大使幣原喜重郎(しではらきじゅうろう。外相任1924-27,29-31。のち首相任1945-46)、そして貴族院議長徳川家達(とくがわいえさと。1863-1940。議長任1903-33)らが全権をつとめました。
まず四ヵ国条約では、太平洋地域における属地・領地に関する権益の相互尊重、外交問題から発生する紛争を避けるため共同会議を開くことなどを四ヵ国内で約束し、平和的解決を目指しました(1921.12調印)。アメリカはとりわけイギリスに条約締結を提唱、イギリスは"日英間"ではなく"四ヵ国間"で取り決めを行うことに同意し、アメリカ主導で条約は締結されることになりました。これにより日英同盟は解消されました。この条約締結により、特殊権益の承認相手であるイギリスが日本から離れ、太平洋問題は四ヵ国間(特に日米間)での取り決めで行わなければならなくなりました。日本はアメリカだけでなく、イギリスとも関係が冷却化していったのです。アメリカの諸対策に対する目標は、まず第一段階を突破したことになります。
続くワシントン海軍軍縮条約では、建艦競争に燃えていた日本に対し、日英同盟解消で孤立したうえでのさらなる痛い追い打ちとなりました。1922年に調印されたこの五ヵ国間の条約は、戦艦や航空母艦といった主力艦の各国の保有率を、イギリスとアメリカがそれぞれ5の割合に対し、日本は3、フランスとイタリアが1.67と定めました(当初の保有比率は5:5:3:1.75:1.75でしたが、米英日の保有量の若干増の決定にともない、5:5:3:1.67:1.67となりました)。条約調印により五ヵ国間の建造中戦艦は中止され、10年間建造ができなくなりました。この段階で戦艦は世界7隻のみとどまり(日本の"長門"・"陸奥"、アメリカの"コロラド"、イギリスの"ネルソン"など)、「ビッグセブン」と呼ばれました。保有制限が為されたこの軍縮条約で日本は八・八艦隊計画を挫折せざるを得なくなり、計画は中止となりました。
建艦競争に歯止めをかけられた日本は、外交的にも軍事的にも英米に劣勢を強いられました。ただ一つの拠り所は、日本の中国における特殊権益保持の主張でした。第一次世界大戦中に山東半島を二十一ヶ条要求(1915)で中国に承認させた日本は、中国政策が唯一の強みでした。アメリカとも石井・ランシング協定(1917締結。中国における日米協定)を結んでいる以上、アメリカは門戸開放・機会均等・領土保全が守られ、対する日本も中国における特殊権益が守られるはずでありました。
そして、アメリカ諸政策の最終局面として、九ヵ国条約が調印されます(1922.2.6)。ワシントン会議も大詰めに迎え、アメリカは国際主導的権威を大きく見せたのです。アメリカ本来の主張する門戸開放・機会均等・領土保全の原則を参加国に呼びかけ、中国は主権を持った独立国家であり、中国における全ての権益不可侵を主張したのです。これにより、日米間で結んでいた石井・ランシング協定は失効となり、日本は、第一次世界大戦でドイツから奪った山東省の権益を返還することになりました(山東懸案解決条約。山東還付条約。1922.2.4)。日本だけでなく、イギリスも中国分割期に租借した東洋艦隊の基地として威海衛(いかいえい。山東半島北東岸の海港)を中国に返還しました。
四ヵ国条約による日英同盟破棄、ワシントン海軍軍縮条約による海軍軍縮、九ヵ国条約で真の門戸開放が達成され、アメリカ主導による極東・太平洋地域の国際協調政策は果たされたことで、ワシントン会議は大成功を収めました。英仏によるヴェルサイユ体制と、アメリカによるこのワシントン体制の両体制によって、新たな国際社会体制が完成したのです。
引用文献『世界史の目 第161話』より
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posted by ottovonmax at 00:00| 歴史