2019年02月04日
2月4日は何に陽(ひ)が当たったか?
960年2月4日は、趙匡胤(ちょうきょういん。927-976)が北宋(ほくそう。960-1127)の初代皇帝となった日です(帝位960-976)。
五代十国時代(907-960)、後周(951-960。首都開封)の世宗(せいそう。位954-959)は五代第一の名君と言われた皇帝でした。破仏(はぶつ。廃仏。仏教弾圧)を行い(世に言う"三武一宗の法難"の"宗"は世宗のこと)、財政を確立、部下の趙匡胤とともに軍隊の再整備を行って十国を次々と破っていき、長江以北を併合(955)、959年には北方の契丹族が建国した遼(りょう。916-1125)から燕雲十六州(遼に割譲した中国本国の要所である長城線以南の北京<燕州>と大同<雲州>を結ぶ、周辺16州)のうち3州を奪還して(のち再び奪われる)、征服王朝の駆逐を図るなどして中国統一王朝復活を夢見ましたが、世宗は志半ばにして病没し、7歳の恭帝(きょうてい。位959-960)が擁立されたことで、好機と判断した遼王朝の軍隊が南進してきました。
世宗の臣下は、国家存亡の危機に見まわれる絶体絶命の状態でしたので、軍功高い趙匡胤が恭帝及び臣下に推され、都を開封にとどめたまま、恩師の政策を継承することで意見が一致しました。このため、960年、恭帝は自ら廃位の身となり(後周滅亡)、陽の当たった960年2月4日、趙匡胤は新しい王朝・宋(そう。960-1279。首都開封)の初代皇帝(太祖。位960-976)として帝位に就いたのです。
趙匡胤が初代宋皇帝になるには、以下の逸話が残っています。もともと趙匡胤は帝位への野心があり、近親者や同士もそのことを知っていました。恭帝が擁立され、遼軍が迫ってきますと、これと対峙するため、出陣の準備をしておりました。出陣式の祝い酒に酔った趙匡胤は、開封北辺の宿駅で寝床についていたところ、趙匡胤の弟や志士たちが突然、刀を抜いて趙匡胤の寝室に押し入り、趙匡胤の身を起こして、天子の象徴である黄色の上着(黄袍。こうほう。皇帝の袍)を着せ、帝位に就いたといわれています(陳橋の変。ちんきょうのへん)。この非常事態から切り抜けるには、趙匡胤を皇帝に立てるしかないと考えた、近親者や同士たちの陰謀ではありましたが、直後、趙匡胤は即位を拒絶して「諸君が自身の富貴のために、私を皇帝(天子)として擁立させたのだろう。私の命令をきかないなら、私は決して天子にはならないと思え」と叫んだのです。陰謀を仕掛けた弟や志士たちは思わぬ事態に戸惑いましたが、趙匡胤は、重ねて「周(→後周のこと)の皇太后と幼帝(→恭帝のこと)、大官たちを決して脅かさず、宮廷や市場の物品を略奪したものは厳罰を下す」という約束を取り付け、これら条件を承認させた上で帝位に上がったといわれています。これで周囲は安堵したが、過去の五代の王朝交替時、新皇帝は王室や市場の略奪を黙認するという慣例があったらしく、趙匡胤はこうした慣例を廃し、五代の君主とは比に及ばない威厳を知らしめたのです。
引用文献『世界史の目 第91話』より
五代十国時代(907-960)、後周(951-960。首都開封)の世宗(せいそう。位954-959)は五代第一の名君と言われた皇帝でした。破仏(はぶつ。廃仏。仏教弾圧)を行い(世に言う"三武一宗の法難"の"宗"は世宗のこと)、財政を確立、部下の趙匡胤とともに軍隊の再整備を行って十国を次々と破っていき、長江以北を併合(955)、959年には北方の契丹族が建国した遼(りょう。916-1125)から燕雲十六州(遼に割譲した中国本国の要所である長城線以南の北京<燕州>と大同<雲州>を結ぶ、周辺16州)のうち3州を奪還して(のち再び奪われる)、征服王朝の駆逐を図るなどして中国統一王朝復活を夢見ましたが、世宗は志半ばにして病没し、7歳の恭帝(きょうてい。位959-960)が擁立されたことで、好機と判断した遼王朝の軍隊が南進してきました。
世宗の臣下は、国家存亡の危機に見まわれる絶体絶命の状態でしたので、軍功高い趙匡胤が恭帝及び臣下に推され、都を開封にとどめたまま、恩師の政策を継承することで意見が一致しました。このため、960年、恭帝は自ら廃位の身となり(後周滅亡)、陽の当たった960年2月4日、趙匡胤は新しい王朝・宋(そう。960-1279。首都開封)の初代皇帝(太祖。位960-976)として帝位に就いたのです。
趙匡胤が初代宋皇帝になるには、以下の逸話が残っています。もともと趙匡胤は帝位への野心があり、近親者や同士もそのことを知っていました。恭帝が擁立され、遼軍が迫ってきますと、これと対峙するため、出陣の準備をしておりました。出陣式の祝い酒に酔った趙匡胤は、開封北辺の宿駅で寝床についていたところ、趙匡胤の弟や志士たちが突然、刀を抜いて趙匡胤の寝室に押し入り、趙匡胤の身を起こして、天子の象徴である黄色の上着(黄袍。こうほう。皇帝の袍)を着せ、帝位に就いたといわれています(陳橋の変。ちんきょうのへん)。この非常事態から切り抜けるには、趙匡胤を皇帝に立てるしかないと考えた、近親者や同士たちの陰謀ではありましたが、直後、趙匡胤は即位を拒絶して「諸君が自身の富貴のために、私を皇帝(天子)として擁立させたのだろう。私の命令をきかないなら、私は決して天子にはならないと思え」と叫んだのです。陰謀を仕掛けた弟や志士たちは思わぬ事態に戸惑いましたが、趙匡胤は、重ねて「周(→後周のこと)の皇太后と幼帝(→恭帝のこと)、大官たちを決して脅かさず、宮廷や市場の物品を略奪したものは厳罰を下す」という約束を取り付け、これら条件を承認させた上で帝位に上がったといわれています。これで周囲は安堵したが、過去の五代の王朝交替時、新皇帝は王室や市場の略奪を黙認するという慣例があったらしく、趙匡胤はこうした慣例を廃し、五代の君主とは比に及ばない威厳を知らしめたのです。
引用文献『世界史の目 第91話』より
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posted by ottovonmax at 00:00| 歴史