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2019年02月18日

2月18日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1989年2月18日は、イギリスのロック/ニュー・ウェイブグループ、The Fixx(フィクス)のシングル、"Driven Out(邦題:ドリヴン・アウト)"がBillboardのメインストリーム・ロックチャート(当時はAlbum Rock Tracks)で1位を記録した日です。実は1947年のこの日は贔屓にしているStyx(スティクス)のDennis DeYoung(デニス・デヤング)の生誕年月日だったり、2003年のこの日はStyxの14枚目のスタジオ・アルバム、"Cyclorama(邦題:サイクロラマ)"のリリース日だったりするのですが、あえて今回は2018年7月5日以来のFixxを取り上げたいと思います。

 1987年のライブ盤"React(邦題:リアクト)以来、スタジオ・アルバムとしては"1986年の4作目"Walkabout(邦題:ウォークアバウト)"以来の5作目、"Calm Animals(邦題:カーム・アニマルズ)"からのファースト・シングルとして選ばれたのが"Driven Out"です。デビュー作から"Walkabout"まで、Rupert Hineのプロデュースでヒット作を積み上げてきましたが("React"はHugh Padghamがプロデュース)、これまで所属してきたMCA Recordsを離れ、RCA Recordsに移籍しての再出発アルバムとなり、イギリスのミュージシャン、Graham Parker(グラハム・パーカー)の1985年のアルバム"Steady Nerves(邦題:ステディ・ナーヴス)"や、同じくイギリスの新人ロック・グループでアメリカで大ヒットを飛ばしたThe Outfield(アウトフィールド)のデビュー作"Play Deep(邦題:プレイ・ディープ)"をプロデュースしたWilliam Wittman(ウィリアム・ウィットマン)がプロデュースに当たることになりました。FixxのRCAへの移籍は親会社BMGのA&R(Artists and repertoire。アーチスト発掘係)も兼ねていたWilliam Wittmanのすすめによるものでした。

 William Wittmanはプロデュース業のかたわら、ミュージシャンとしてもToo Much Joyというオルタナ系バンドのベーシスト兼ヴォーカリストとして活躍しており(90年代以降)、80年代でもアメリカのロック・ミュージシャン、Patty Smyth(パティ・スマイス)をはじめ、前述のGraham ParkerやThe Outfieldでもヴォーカルで参加し、ポップかつ純粋なロック・スピリッツをリスナーに表現したアーチストとして知られました。William Wittmanのプロデュースで、Fixxはこれまでのエレクトロニックなポップ・サウンドから、ギター要素の濃いロック・サウンドに変貌を遂げました。事実、個性派ヴォーカリストのCy Curnin(サイ・カーニン。vo)もリズム・ギターを担当し、メインギタリストのJamie West-Oram(ジェイミー・ウェスト=オーラム。gtr)とダブル・ギター体制としてレコーディングが行われました。

 ギター・ロックがメインのアルバムとなった"Calm Animals"でしたが、1曲目に収録された"I'm Life(邦題:アイム・ライフ)"では間奏部分などはキーボード・ソロではあるものの、これまでの"柔らかさ"や"軽やかさ"というよりは、ヘビーでズシンとくるような、極端な言い方だとプログレッシブ・ロック的なアプローチで来ており、3曲目の"Subterranean(邦題:サブタレイニアン)"やラスト収録の"Cause to Be Alarmed(邦題:コーズ・トゥ・ビー・アラームド)"などは完全に90年代で見られるオルタナティブ・ロック的なアプローチであり、Fixxにとっては新しい試みでありました。ドラマーのAdam Woods(アダム・ウッズ。drum)も"I'm Life"、"Subterranean"、そして"Driven Out"の次にシングルとなった"Precious Stone(邦題:プレシャス・ストーン)"の3曲を作詞するなど、Fixxの活動の中でも最初の大きな改革でした。Cy Curninは自作の詞ではなく他人の詞を歌うことで、新しいテクニックの開拓になったと語っております(日本盤リリース時のライナーノーツより)。

 こうして完成した"Calm Animals"からのシングル、"Driven Out"もダイナミックさと切なさを兼ね備えたロック・ソングで、Cyの叫びとJamieのギター・リフがいつまでも耳に残る非常に格好いいナンバーです。特にCy Curninが最後に叫ぶ"With the strength to rival you"のパートは個人的にも非常に気に入っており、リリース当時は何度も何度も聴き込んだものです。

 プロモーションビデオではおそらく歌詞のストーリーに合わせた作りだとは思いますが、暗闇に光が当たるシチュエーションが最後まで続き、長髪になったCy Curninが歩きながら歌い続け、後半からメンバーの演奏シーンも登場するというものであり(映像はこちら)、Cyが歩きながら歌うというビデオは大ヒットした1983年の"One Thing Leads To Another(邦題:ワン・シング)"を思い浮かべますが(映像はこちら。以上、Youtubeより)、"One Thing Leads To Another"では下水道のような、大きな筒の中で歩いていました。

 さて、Billboard HOT100シングル・チャートでの"Driven Out"は1989年2月25日付で81位初登場、その後69位→62位→62位と続き、3月25日付で55位を最高位にその後は後退(58位→61位→68位→79位→97位)し、10週のチャートインに終わりました。HOT100では"Calm Animals"からのチャートインはこの1曲で終わりました。
 しかしThe FixxとしてはBillboardのフォーマットではメインストリーム・ロック部門に強さを発揮しており、これまでも1984年の"Are We Ourselves?(邦題:アー・ウィ・アー・ウィ)"や1986年の"Secret Separation(邦題:シークレット・セパレーション)"はともに2週連続の1位を記録しています。そしてロック色がより濃くなった"Driven Out"で、Fixxは過去最高のヒットを飛ばすことになるのでした。
 1989年1月21日付Album Rock Tracksチャートにまず19位でエントリーした"Driven Out"は、次週で8位、その後5位→2位と順調に上がり、陽の当たった1987年2月18日に1位を獲得、そして過去最長の4週連続1位を記録したのです。その後は後退しましたが(3位→6位→15位→25位→31位→40位)、計14週チャートインしました。
 またオルタナ系からの支持も得ました。1988年から立ち上がったBillboard Modern Rock Tracks(現在のAlternative Songs)では1月28日付で29位にエントリーし、翌週15位に上がり、2月11日付から2週11位を記録、結果これが最高位でしたが、その後は13位→13位→12位とあまり後退せず、3月18日付で再び11位を記録、結果3週11位を記録しその後は12位→16位→26位と後退しアクションを終えました(総計11週)。

 アルバム"Calm Animals"は、Billboard200アルバムチャートでは1989年4月1日付から2週続けての72位が最高位で、現時点ではこれが最後の100以内にエントリーしたアルバムとなりました。

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posted by ottovonmax at 00:00| 洋楽

2019年02月17日

2月17日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1600年2月17日は、イタリア出身のドミニコ会修道士で哲学者、ジョルダーノ・ブルーノ(1548-1600)の没年月日です。

 イタリアでは偉大な哲学者が宗教裁判所(異端審問所)に告発されていました(1592)。この哲学者がジョルダーノ・ブルーノです。ブルーノはヴェネツィアで、汎神論(はんしんろん)を唱えていました。汎神論は物体も精神も神のもっている性質のあらわれであり、神と万物は同一であるという考え方でしたので、神は超越的存在であるとして信奉するキリスト教会から異端視されていたのです。また地動説(地球の自転と公転を認める説。カトリック教会では定説とされていた地球中心に宇宙が動いている天動説を正しいとし、地動説を否定していました)を唱えたポーランドの天文学者コペルニクス(1473-1543)や、コペルニクス以前に地球の自転を承認したとされるドイツ学者ニコラウス・クザーヌス(1401-64)を信奉していたブルーノは、『無限な宇宙と諸世界について』などを著し、無限の宇宙の中には、絶えず生成と死滅を繰り返す無限の世界(太陽系のこと)があると主張し、地球だけが宇宙の中で唯一生命がある星であるという当時のキリスト教会の世界観とは全く対照的でした。ブルーノの世界観は汎神論と地動説を源流としていることで、反カトリックの危険人物として警戒されていました。

 ブルーノは異端者として逮捕後ローマに護送され、7年間、尋問と拷問を受けていました。そして判決が下り、ブルーノの焚刑(火刑)が決まりました。焚刑を目前にして、ブルーノは「判決を受ける私よりも、判決を言い渡したあなたたち(審問官)の方が真理の前に怖れおののいているではないか」と発し、苦痛の声ひとつあげず火中に消えていったとされています。

引用文献『世界史の目 第106話』より

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タグ:イタリア
posted by ottovonmax at 00:00| 歴史

2019年02月16日

2月16日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1918年2月16日は、第一次世界大戦(1914-18)末期に、独立宣言によってリトアニア王国(1918.2.16-11.2)が建国された日です。

 当時はロシア帝国(1721-1917)領でしたが、ロシア革命(1917)の勃発により、革命派であるボリシェヴィキ勢力がドイツ帝国(1871.1-1918.11)との停戦講話をはかり(のち3月3日に締結するブレスト=リトフスク条約)、ロシアは連合国軍からの離脱と、リトアニアを含むバルト三国の領有権放棄を提案しました。その後ロシアの手が緩むと、ドイツ帝国から手がさしのべられていきました。そこで、リトアニア評議会(タリーバ)は陽の当たった1918年2月16日にドイツ帝国の助力で独立宣言を行い(この文書の原本は2017年にドイツ外務省公文書保管庫で発見)、同時にリトアニア王国樹立を宣言しました。

 国王として、評議会は選出条件として、熱心なカトリック信者であること、ドイツ帝国の協力を得られること(ただしリトアニア王はドイツ帝国の母体であるプロイセン王家のホーエンツォレルン家の不介入を望んだため、プロイセン王家出身の国王は却下)、軍人出身であることなどが挙げられ、ドイツのウラッハ公爵家(ドイツのヴュルテンベルク家の傍系)のヴィルヘルム・カール(公位1864-1928)を推薦しました。

 3月3日にブレスト=リトフスク条約が締結され、ロシアはリトアニアを放棄しました。ドイツ帝国はリトアニア王国を承認後(3月23日)、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世(ドイツ帝位1888-1918)をリトアニア王として支配下にいれようとしました。しかし評議会は7月13日、ヴィルヘルム・カール公を選定し、ヴィルヘルム・カールはリトアニア王ミンダウガス2世(王位1918)として即位しました。ドイツ貴族出身のミンダウガス2世はこれを機にリトアニア語を学びリトアニアに向かうつもりでいました。

 しかし、状況は一変します。第一次世界大戦でリトアニア王政の後ろ盾となるはずのドイツ帝国が敗戦となり、評議会は11月2日、国王選出を破棄して共和制に改めることを決め、ミンダウガス2世は同日に退位、リトアニア王国からリトアニア共和国(リトアニア第一共和国。1918-40)となりました。ミンダウガス2世はリトアニアを訪れる機会もなく、国王在位および王国そのものは4ヶ月という短命に終わりました。

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2019年02月15日

2月15日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1368年2月15日は、ルクセンブルク家出身で神聖ローマ帝国(962-1806)皇帝ジギスムント(1368-1437)の出生年月日です。14世紀半ばの名君カール4世(帝位1355-78)とポーランドのポンメルン貴族の公女エリーザベト(1347-93)との間に生まれました。

 1410年、1387年からハンガリー王ジグモンド(ハンガリー王位1387-1437)としてハンガリー王国(1000?-1918,1920-46。ハンガリー・ルクセンブルク朝は1387-1437)の統治を任されていたジギスムントがドイツ王に即位しました(ドイツ王位1410-37)。ジギスムント王の即位によって、ルクセンブルク家のドイツ支配が10年ぶりに再び始まった。

 ジギスムントはハンガリー王ジグモンドとして、ハンガリーに迫るオスマン帝国(1281-1922)対策として、ドイツ諸侯だけでなく英仏ほか欧州諸国、そしてローマ教皇からの支援を受けて、ジグモンドなりの十字軍を組織し、1396年、オスマン帝国皇帝のバヤズィト1世(帝位1389-1402)の軍に立ち向かいました。これが世に言うニコポリスの戦いでしたが大敗を喫し、権威は失墜しました。ところが汚名挽回の機会をうかがっていたところにドイツ王推薦の話が舞い込んできたのです。選帝侯から選出されドイツ王に即位したジギスムントでしたが、当時はニコポリスで大敗を喫したジギスムント王を快く思わない諸侯もおり、モラヴィア辺境伯(伯位1375-1411)を担っていたカール4世の甥ヨープスト(1351-1411)を推薦する選帝侯もいました。結果ヨープストも共同統治者として王位につきましたが(王位1410-11)、即位してまもなくヨープスト王が急死、結局ジギスムント王の単独統治に落ち着きました。

 ヨーロッパは当時教会大分裂(大シスマ。1378-1417)という、ローマ・カトリック教会の最高権威であるはずの教皇が、ローマ教皇と南仏のアヴィニョン教皇、そしてピサ教会会議(1409)で擁立された新しい教皇が鼎立する異常事態であり、ローマ・カトリック教会で西ヨーロッパ世界を統一するという形が崩れかかっていた状況でした。
 ハンガリーでのジギスムント(ジグモンド)王はローマ教皇との協調をはかり、聖職叙任権の承認を得るなど君主権を強化していました。領邦(神聖ローマ帝国を構成する地方諸侯の国家的性質をもつ領域や有力都市)の自立化が進むドイツでは、神聖ローマ皇帝としての権力強化を必要とするため、さらなるローマ教皇との親密化が必要でした。ジギスムント王はニコポリスの敗戦の時、捕虜になる寸前にホーエンツォレルン家出身のニュルンベルク城伯ヨハン3世(伯位1397-1420)に助け出された縁もあって、ヨハン3世と共同統治していた彼の弟で同城伯フリードリヒ6世(伯位1371-1440)にブランデンブルク選帝侯の地位(ジギスムントの侯位1378-88,1411-15。1388-1411間はヨープストが没するまで担当)を譲り(フリードリヒ6世はブランデンブルク選帝侯フリードリヒ1世となる。侯位1415-1440)、ジギスムントは神聖ローマ皇帝としての信用回復と帝権強化に集中しました。神聖ローマ皇帝と謳っていますが、この時点でジギスムント王は教皇からの戴冠を受けておらず、単にドイツ王と称する立場でもありました。神聖ローマ皇帝はローマ・カトリック世界における最高の世俗支配者であり、ローマ皇帝の称号たる尊厳者(いわゆるアウグストゥス)でもありますが、ローマ・カトリック世界における聖俗すべての最高権威であるローマ教皇に認められてこそ神聖ローマ皇帝でありましたので、ローマ教皇の権力を回復させる必要があり、大シスマ解消にむけて、ジギスムントの提唱で宗教会議開催にいたりました。これが有名な1414年開催のコンスタンツ公会議です(1414-18)。この公会議でもって、鼎立状態であった3教皇の廃位が決まり、あらたにマルティヌス5世(位1417-31)が即位しました(1417。大シスマ解消)。ルクセンブルク家におけ大々的な宗教政策であったのです。

 ジギスムントは神聖ローマ皇帝として強力な皇帝権を取り戻すために、ローマ教皇の威厳回復を求めました。また、教会側は大シスマの解消、そしてローマ・カトリックを批判したかつてのオックスフォード大学教授ジョン・ウィクリフ(1320?-84)や、チェック人(チェコ人。ベーメンを構成)出身のプラハ大学(カール4世設立)学長兼神学者ヤン・フス(1369-1415)によって掻き回された教会批判の収束と信頼回復をコンスタンツ公会議で求めました。

 ジギスムント王の異母兄であるヴァーツラフ4世(ヴェンツェル。ドイツ王位1376-1400。無能のため廃位さ。その後ベーメン王ヴァーツラフ4世として即位。ベーメン王位1378-1419)はベーメン王としてフス派を支持していましたが、兄王の取り仕切る神聖ローマ帝国とベーメンのチェコ人との狭間に当惑していました。結果として公会議はウィクリフの学説は異端として著書発禁および回収・焚書が決まり、1415年、ウィクリフの遺体は掘り出されて著書とともに灰にされ、テムズ川に投げ込まれました。そしてフスは生身で生きている存在でありましたので、焚刑(火刑)の処分が宣告されました。ジギスムント王はこれまでのフスの活動を誤りとし、フス自身の思想を撤回することを求めました。ベーメンにおいてはベーメン王ヴァーツラフ4世の後継者がジギスムント王と決まっており、ジギスムント王はドイツ人第一主義でもってベーメンを統治する強権をコンスタンツ公会議で見せつけ、フスに審問しました。しかしフスはこれまでの思想活動は誤りでないことを審判で毅然と主張しました。ジギスムント王はこの世に存在するフス派への見せしめとして、1415年7月、フスは異端者の象徴である悪魔の帽子をかぶせられ、火中に消えていきました。遺灰はライン川に投げ込まれました。

 フスの火刑はベーメン国民に悲嘆をもたらしました。ベーメン王ヴァーツラフ4世は、弟のドイツ王ジギスムントがフスを処刑したことに多大なる衝撃を受けました。その上、多くのベーメン国民の心はヴァーツラフ4世のもとを離れていきました。プラハは圧倒的にフス派の反ローマ・カトリックに占められていたが、1419年、ヴァーツラフ4世はドイツとベーメンの架け橋になるべく、弟のドイツ王ジギスムントを介してローマ教会の許しを請い、宗教的対立緩和に尽力しました。結果ローマ・カトリック教会が譲歩したことで、プラハにおけるローマ・カトリック教会が復活、ベーメンでのドイツ人の活動も許されることになりました。しかしベーメンのフス派の国民は承認するはずもなく、フス派急進派のヤン・ジシュカ(1374-1424)らが立ち上がり、プラハ市庁舎を襲撃してドイツ人のプラハ市長を市庁舎の窓から投擲(とうてき)する騒動にまで発展します(第一次プラハ役人投げ捨て事件。1419。第二次は1618年にベーメン反乱の一環として投擲がおこり、三十年戦争の勃発へとつながります)。ヴァーツラフ4世は神聖ローマ帝国(ローマ・カトリック教会)とベーメン国民(フス派)の間に立たされたこの局面を打開することができず、ショックのあまり、同1419年に没しました。同年、混迷するベーメンにはジギスムントが即位し、ベーメン王ジクムント(王位1419-37)としてベーメン王となりました。これでハンガリー政策はますます疎かになり、ハンガリー国民はニコポリスの敗戦に加え、ベーメンをも破壊した君主としてさらに非難が高まり、しかもフス派の勢力がハンガリーにも波及して、ハンガリー語訳された聖書が出回ってフス派に同調する人々も現れました。しかもベーメンではフスの火刑に対する衝撃は止むことなく、ジクムント王の即位に不満なベーメン国民(特にフス派国民)は反乱が激化し、プラハの教会やドイツ人宅、カトリック信者宅を襲撃していきました。

 ドイツ王ジギスムントがベーメン王ジクムントとして即位した直後、ドイツ人とチェコ人という民族対立、カトリックとフス派という宗教対立が合わさり、ジクムント王に対して反抗する姿勢を見せました。ジクムントはニコポリス戦の時と同様、十字軍と称してドイツ諸侯軍とローマ教皇軍と連合してベーメンへ派兵し、全面戦争へ突入しました。十数年にわたって展開することになるフス戦争の勃発です(1419-36)。フス派のヤン・ジシュカは1420年にジクムント王に盾突きチェコ南部にフス派のチェコ系住民とともに立てこもり、軍事要塞都市を建設しました。これが現在の南ボヘミア州にあるターボル市です。ジクムント王が提唱した十字軍は何度もヤン・ジシュカのフス派軍と戦うも、敗戦を繰り返す始末でありました。しかしジクムントは同じ轍を踏むことを避けるため何度も軍をベーメンに送り込みました(ジクムント王のこうした弾圧はやがてチェコ人のナショナリズムを高揚させ、ドイツ人からの民族的独立を意識させるようになります)。一方フス派はドイツ各領邦やポーランドにも侵入して荒らし回る行動に出て行きますが、フス派の内部は穏健派や急進派など対立が深まっており、また1424年には急進派のまとめ役ヤン・ジシュカが病死するなど安定を欠き、やがて弱体の方向に向かっていきました。

 フス戦争のさなかにジクムントは1431年に反カトリックの温床となってしまったプラハ大学に対して活動規制を行いました。父カール4世(ベーメン王ではカレル1世。ベーメン王位1346-78)が力を込めて建設した大学を、子のジギスムントが処分することになりました(大学はその後活動再開)。そして、神聖ローマ皇帝ジギスムントとして1433年5月にローマ教皇より念願の戴冠を受けることになり、名実ともにジギスムントは神聖ローマ皇帝となりました(このとき神聖ローマ帝国の紋章を"双頭の鷲"に変更しています。ジギスムントの肖像画にもその紋章が描かれています。その画像はこちらWikipediaより)。結果、形勢が逆転してジクムントの十字軍が勝利を収め、フス戦争は収束していきました。フス戦争に勝利したジギスムントはベーメン王としてベーメン貴族より認められ、ルクセンブルク家における神聖ローマ帝国、ベーメン、ハンガリーの君主として君臨することになりましたが、戦争で荒廃した国土を復旧させる政策など、戦後処理で問題は山積していました。

 それ以上に大きな問題が後継者問題でした。神聖ロ−マ皇帝として、ついに頂点にのぼりつめたジギスムント帝でしたが、後継者となる男子を授かっておりませんでした。ヴェンツェル、ヨープストもともに相続する男子がおらず、ジギスムント帝の娘エリーザベト(1409-42)はハプスブルク家オーストリア公アルブレヒト5世(公位1404-39)に嫁いでいました(1422)。結局ジギスムント帝は相続すべき男子を残さぬまま、1437年末に没しました(1437.12)。これによりルクセンブルク家は断絶、同家の帝国支配は終わりを告げ、ベーメン・ルクセンブルク朝もハンガリー・ルクセンブルク朝も自動的に終焉を迎えました。結果、ハプスブルク家のアルブレヒト5世がドイツ王アルブレヒト2世(王位1438-39。戴冠なし)として即位し、同時にハンガリー王アルベルトとして(王位1437-39)、そしてベーメン王アルブレヒトとして(王位1438-39)ルクセンブルク家の所領を継承、ハプスブルク家の栄華が到来することとなるのです。

引用文献『世界史の目 第249話』より

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2019年02月14日

2月14日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1859年2月14日は、観覧車の発明者、ジョージ・ワシントン・ゲイル・フェリス・ジュニアの出生年月日です(1859-96)。アメリカ、イリノイ州ノックス郡ゲイルズバーグに生まれ、土木工学で橋や鉄道の建設を学び、自社G.W.G.Ferrisをペンシルベニア州ピッツバーグで設立しました。

 観覧車は1656年の旅行記からの記録に、ブルガリア(当時はオスマン帝国領)において、人力で回す観覧車があったとされています(旅行記にあった挿絵はこちら。仕組みはこちらWikipediaより)。現在モーターで動く観覧車を初めて世に送り出したのがジョージ・ワシントン・ゲイル・フェリス・ジュニアで、観覧車を英語で言う"Ferris wheel"は、彼の名にちなんでおります。

 1893年、シカゴで万国博覧会(アメリカ大陸発見から400年を記念してコロンブス万国博覧会とも言われます)が開催され、19ヶ国、2750万人が来場しました。そこで初めてジョージ・フェリスのフェリス・ホイールが登場しています。直径75.5m、高さ80.4m、40脚の椅子で作られた客車は最大60人収容でき、その客車を36体搭載したので、2160人乗りの大観覧車の登場でした。元来は1889年のパリ万博におけるエッフェル塔に対抗して建設されたものでした。その画像はこちらです(@ABC)。

 1896年11月、ジョージ・フェリスは腸チフスのため、ピッツバーグで没しました。

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タグ:アメリカ
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2019年02月13日

2月13日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1988年2月13日は、アメリカのロック・グループ、Styx(スティクス)のギタリスト兼ヴォーカリストであるJohn [JC] Curulewski(ジョン・クルルウスキー。gtr,key,vo)の没年月日です。

 JCは1950年10月3日、イリノイ州シカゴで生まれました。1969年にStyxの前身に当たるTW4(結成についてはこちらを参照)に加入、1971年にWooden Nickelと契約を果たし、1972年にStyxとしてデビューアルバム"Styx(邦題:「スティクスT」または「スタイクス」)"をリリースします。JCの役どころはGuitar、Vocals、Synthesizerでした。しかしヴォーカリストとしてのJCはほとんどバック・コーラス担当で、デビュー作に収録された13分余の組曲"Movement for the Common Man"の第2楽章"Street Collage"でセリフ仕立てでの単独ヴォーカルがあったに過ぎず、リード・ヴォーカルはJames [JY] Young(ジェームズ・ヤング。gtr,key,vo)とDennis DeYoung(デニス・デヤング。vo,key)が中心でした。カットされたシングル"Best Thing"もBillboard HOT100シングルチャートにチャート・インしました。

 1973年7月リリースの第2作"Styx II(邦題:「スティクスU」,「黄泉の国より」,「レディ/スティクス・セカンド」)"では、JCは前作よりも大幅に活躍し、アルバム中最も長尺の"A Day"のソングライティングおよびリード・ヴォーカルを担当、また"You Better Ask"もJCの作品兼ヴォーカルを担当し、シングル"You Need Love"のカップリングとしてもリリースされました。"A Day"ではジャジーで幻想的なプログレッシブ・ロック・サウンドに乗せて、やや高音の柔らかみのある歌声で、一方の"You Better Ask"ではゴリゴリのダミ声で歌うなど、ヴォーカリストとしても非常に個性的な存在となり、JCはStyxの中で徐々に頭角を現していきます。

 同年10月に、2月9日にご紹介した"The Serpent Is Rising(邦題:「サーペント・イズ・ライジング」。または「サーペント・イズ・ライジング/スティクスV」)"をリリースし、JCがStyxの中で最も活躍した時期となりました。収録曲中、4作品("As Bad as This〜Plexiglas Toilet","22 Years","The Serpent Is Rising","Krakatoa")がJCの作品(一部共作)で、その中の"22 Years"は、本人はリード・ヴォーカルをとらなかったものの、ファースト・シングルとしてカットされました。Styxの産みの親であり、Wooden Nickelの創業者であるBill Traut(ビル・トラウト。1929-2014)もサックスで参加するなどの意気込みを見せましたが、残念ながらチャート・インには至りませんでした。本作ではJCの歌声やコーラスが変幻自在に楽しめ、ヴォーカルのヴァリエーションは前作よりも幅広くなっています。
 1974年11月発表の4作目、"Man of Miracles(邦題:「ミラクルズ」または「ミラクルズ/スティクスW」)"ではリード・ヴォーカルの担当はありませんでしたが、相変わらずの高音コーラスを聴かせてくれます。またJYと"Rock & Roll Feeling"、"Havin' a Ball"の2曲を共作し、これまでのダークなプログレッシブ・ロックとは異なる、女の子が喜びそうなエネルギッシュで軽快なロック・ナンバーも手掛けました。

 1975年初頭には、"Styx II"収録の"Lady(邦題:憧れのレディ)"が全米6位の大ヒットを記録、JCはリズム・ギターとバック・コーラスの担当でしたが、サビのコーラスは美しくかつ力強く響き、大衆の支持を得ることに成功、JCにとって初めてのTop10ヒットを勝ち取ったのです。

 1975年12月、大手レーベルのA&M Records(現在のUniversal Music Group。UMG。もとMCA Records)へ移籍を発表したStyxは、移籍第一弾となる"Equinox(邦題:分岐点)"を発表します。このアルバムでは、Dennisと共作した"Mother Dear(邦題:マザー・ディア)"でリード・ヴォーカル(サビではDennisも揃ってリードを取る)を取りました。コーラスで出しているキーで歌っており、Wooden Nickel時代に見せたのとはまた異なる、女性的な歌声です。
 また"Born for Adventure(邦題:アドヴェンチャー野郎)"ではDennis、JYと3人でペンを取り、極めつけは "Suite Madame Blue(邦題:スィート・マダム・ブルー)"の前奏曲となる、文字通りの"Prelude 12(邦題:プレリュード12)"を、JCの作曲でJCによる美しいギター・インストゥルメンタルで涙を誘います。この"Prelude 12"は完全にJCのソロ作品です。バック・コーラスにおいても"Light Up(邦題:ライト・アップ)"や"Lorelei(邦題:ローレライ)"、そして"Suite Madame Blue"などでは聴き惚れてしまうほどの美しさでリスナーを魅了しました。

 レコード宣伝活動が一段落し、"the Equinox"の全米ツアーを実施直前、JCはメンバーに自身のグループ脱退をうったえてきました。大手レーベル移籍によりプロモーション活動が過密になり、家族との時間を優先したいというのが理由でした。また"Lady"のヒットで、これまでのヘビーでプログレッシブなサウンドから、第2、第3の"Lady"を必要とするリスナーに対しての、グループのポップなロック化に憂いを感じたのも脱退の原因として挙げていました。さらにはソロとしての創作活動も視野に入れていたようです。Styxはその後、JCを基準にコーラスやヴォーカルで高音が出せるギタリストを探し求め、Tommy Shaw(トミー・ショウ。gtr,vo)と入れ替わる形で脱退を決めたのです。

 Styxを脱退したJCは、シカゴ郊外のギター教室で講師をつとめる一方、"the Mad Music"と呼ばれるミュージック・ショップや"The Studio"と呼ばれるレコーディング・スタジオを運営するなどして人生を充実させました。アーチストとしては、Spread Eagleというロック・グループのギタリストとして活動していくかたわら、Arctic Foxなるグループを結成して、シカゴのクラブなどでプレイしました(Spread Eagle関連の動画はこちらYouTubeより)。音楽以外の活動では、息子の所属する野球チームのコーチも担当したり、息子の小学校(グラマースクール)での給食監督員を担当し、時には持ち込んだギターで子どもたちの前でプレイするなど、「良きお父さん」として親しまれました。

 JCはシカゴの西郊にも渡り、多くの若いギタリストへののギター指導や経験の浅いロック・バンドを積極的に活動を促すなどして地域の音楽活動に貢献しましたが、1988年2月13日、脳動脈瘤により37歳の若さで、妻と子を残しこの世を去りました。

 StyxとしてのJCはグループ初期のわずか5年ほどの活動でしたが、メンバーの中では地味に映る存在でありながらも、類い稀なアーチスト才能とプログレッシブな音楽をグループに注入し、その後70年代半ばに訪れる、黄金時代のStyxの源流を作ったアーチストだったと言えます。

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2019年02月12日

2月12日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1218年2月12日は、鎌倉時代の第4代将軍、九条頼経(よりつね)こと藤原頼経(1218-56。将軍任1226-44)の生誕年月日です。

 1219年に第3代鎌倉幕府将軍の源実朝(さねとも。将軍任1203-19)が甥の公暁(くぎょう。こうぎょう。1200-19)に暗殺され、源氏が三代で絶えると、幕府は初代将軍源頼朝(よりとも。将軍任1192-99)の妹(姉?)にあたる坊門(ぼうもん)の姫(12C-1190)の血筋から、新たな将軍として迎え入れることになります。

 坊門の姫は公家である一条能保(よしやす。1147-97)に嫁ぎ、二人の間に娘が2人できます。二人の娘のうち、一人は九条家2代目当主良経(よしつね。当主任1169-1206)に嫁いで九条道家(みちいえ。1193-1252)を産み、もう一人は西園寺家当主4代目公経(きんつね。当主任1171-1244)に嫁いで西園寺掄子(りんし。1192-1251)を産みます。坊門の姫の孫に当たる道家と掄子が結婚し、子どもたちによって九条家、一条家、二条家の摂家を誕生させました。こうした中で1218年2月12日に道家と掄子から頼経(幼名:三寅。みとら)が産まれます。

 よって頼経は父道家の母が頼朝の姪にあたることから、2歳の時に鎌倉に迎えられ、1225年に元服、1226年に第4代征夷大将軍に任ぜられました(任1226-44)。摂家将軍(摂家は藤原氏の嫡流から、藤原将軍とも呼ばれます)の誕生です。実朝没後から頼経が将軍として迎えられるまでの7年は、北条政子(まさこ。頼朝正室。1157-1225)が将軍代行となり、弟で2代目執権だった北条義時(よしとき。1163-1224。執権任1205-24)らが幕政を整えていました。
 頼経が将軍として在職する間、執権は義時の子、北条泰時(やすとき。1183-1242。任1224-42)、そして泰時の孫北条経時(つねとき。1224-46。任1242-46)と続き、勢力を維持していきました。頼経は将軍としての地位を得たとしても実質的な権力はなく、実際の鎌倉幕府は北条執権が実権を掌握するに等しく、将軍と執権との間に徐々に亀裂ができはじめ、執権経時により、1244年に頼経は将軍職を6歳の息子藤原頼嗣(よりつぐ。任1239-56。1244-52)に譲らされました。

 1246年、経時が没し、弟の北条時頼(ときより。1227-63。任1246-56)が第5代執権となりました。関係は修復することはなく、時頼は頼経を鎌倉から追放、父道家も連座して関東申次(かんとうもうしつぎ。幕府と朝廷の連絡役)を罷免させられる結末を迎えました("宮騒動"といいます)。1252年には頼嗣も将軍職を外されて京都へ追放、そのショックもあり、同年に祖父九条道家は没しました。1256年は頼経が赤痢で没し、後を追うように子の頼嗣も翌月に病没しました。

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タグ:日本史
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2019年02月11日

2月11日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1847年2月11日は、エジソン(1847-1931)の出生年月日です。

 トーマス・アルヴァ・エディソンはアメリカのオハイオ州で生まれました。ミシガン州の小学校に入学してからは劣等生扱いを受け、わずか3ヶ月で中退、母親の教育指導で化学と技術を習得していきました。12歳の時、鉄道での新聞販売で働きますが、その間も化学実験や技術の修練は怠らず、中古印刷機による車中新聞を大量に発行して売上を伸ばすといった、およそ少年期らしからぬ大器の片鱗をみせました。その後電信技術を学び、14歳になるとアメリカやカナダ各地で鉄道電信技師として、8年働きました。翌年、線路に落ちた子どもを救助したことで、子どもの父である鉄道電信技師に電信術を教わり、自動的に信号を送信する機械を発明、エジソンにおける最初の発明を為したと言われます。

 1876年、ニュージャージー州のメンロパークにてエジソン研究所を設立、本格的に発明品の研究にとりかかりました(1876-87)。翌1877年、円筒式の蓄音器を発明、またベル(1847-1922)の発明した電話機を改良しました(音声送信機)。1879年には、電球の実用化を目指し、電気を発光させるフィラメントとして炭化した竹(京都八幡市の男山で産出)を用いて、結果"エジソン電球"といわれる白熱電球の開発に成功しました。そしてニューヨークで世界最初の中央配電所を設立、ガス灯から電灯への転換をもたらしました。研究所を同州ウエストオレンジに移設後も研究には余念がなく、1880年代から1910年代にかけて、発電機・活動写真・映写機・アルカリ蓄電池などを発明、開発しました。1884年に白熱電球の研究中、熱されたフィラメントが熱電子を放射する現象("エジソン効果")を見出し、後にフレミング(イギリス。1849-1945)の二極真空管発明(1904)に発展していきます。またエジソンは電灯事業をおこして(1878。エジソン電灯会社。現ゼネラル・エレクトリック("GE")の原点)、そこでヘンリー・フォード(アメリカ。1863-1947)を主任技師として招くことになりました(1891)。フォードはここで働く傍ら自動車を製造に成功して(1892)、エジソンから激励を受け、後に"自動車王"と言われる大実業家へと変貌を遂げていくのです。
 帝国主義政策の究極である第一次世界大戦(1914-18)が勃発すると、戦時中エジソンは潜水艦関係の開発を求められました。戦後は再びウエストオレンジにて研究開発にふけり、彼を師と崇めるフォードも彼を援助しました。

 1931年10月18日、妻に看取られて、84歳で没しました。臨終を迎えた時、「向こう(・来世)はとても美しい」が彼の遺言でありました(「仕事はすでに終わった」の説もあります)。エジソンの訃報は全米を駆けめぐり、全米で彼の死を弔う1分間の消灯が行われたのでした。

引用文献『世界史の目 第101話』より

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2019年02月10日

2月10日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1763年2月10日は、イギリス、フランス、スペイン間でパリ条約が締結された日です。

 1757年6月、インドではカルカッタ北方で英仏間によるプラッシーの戦い(1757)が勃発しました。この戦争ではイギリス東インド会社に従事していたベンガル知事クライヴ(1725-74)の活躍で早速とイギリスの戦勝が決まりました。またイギリスは新大陸でのフレンチ・インディアン戦争でも1759年、フランスの北米植民地経営の中心であるケベック(現カナダ。セント=ローレンス川中流)を占領し、フランスを圧倒しました。こうして、欧州外の占領地はイギリスが優勢に動きました。
 1756年からヨーロッパでは七年戦争がイギリス、プロイセンの軍とフランス、ロシア、オーストリア、スペインの軍との間で起こっていましたが、1763年に停戦となりました。

 1763年2月10日、停戦交渉として、イギリス、スペイン、フランス間でパリ条約が結ばれました。新大陸、インド大陸ではイギリスが勝利を収め、植民地戦争はイギリスが優位に立ちました。結果、フランス領だったカナダ、ミシシッピ以東のルイジアナをはじめ、アフリカでのフランス領だったセネガルはすべてイギリス領となりました(セネガルは1783年フランス領に戻る。ミシシッピ以東のルイジアナも1783年のパリ条約で、アメリカへ割譲)。またフランス領ミシシッピ以西のルイジアナはスペイン領となり、スペイン領フロリダはイギリス領となりました。インドでは、フランス領は若干の商業都市を除いて、すべての植民地を放棄しました。優位に立ったイギリスは、その後植民地経営を本格化していきますが、植民地には高圧的な政策を強行し、インドのムガル帝国(1526-1858)ではシパーヒーの反乱(1857)、新大陸ではアメリカ独立革命(1775-83)を招くことになります。

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2019年02月09日

2月9日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1974年2月9日は、アメリカのロック・グループ、Styx(スティクス)の3枚目のスタジオ・アルバム、"The Serpent Is Rising(邦題:「サーペント・イズ・ライジング」。または「サーペント・イズ・ライジング/スティクスV」)"がBillboard200アルバムチャートで192位に初登場した日です。ただ翌週付では200位と後退し、2週間のチャートインでアクションは終わりますが、Styxにとって、念願の200位内の初チャートイン・アルバムとなりました。
 このアルバムは1980年にも"Serpent"と改題してリリースされています。

 BillboardのHOT100シングルチャートおよびBillboard200アルバムチャートには、Bubbling Underチャートと呼ばれる、チャート圏外のエントリー予備軍の順位を記録したアクティブ・ゾーンがありますが、1973年10月にリリースされたStyxの"The Serpent Is Rising"は、年が明けた1974年1月26日に初めてBubbling Underチャートにおいて209位に初登場し、次週2月2日付も209位にランクされ、そこから陽の当たった2月9日付での初登場192位と、初200位内に躍り出たのです。結果的にはこれが最高位となってしまうのですが、チャートにおいてのStyxの出発点として、本日はこの"The Serpent Is Rising"を紹介したいと思います。

 70年代後半以降の、いわゆる黄金時代のStyxしか知らないリスナーにとっては、本作を聴いて、全く別のバンドの音楽のように感じると思いますが、往年のプログレッシブ・ロックやハード・ロックのリスナーにとっては、非常に関心の高いアルバムとも言えます。Styxが「プログレッシブ・ロック・グループ」と呼ばれる理由の1つに、本作も大きく関わっています。それは、Styxとしては他のアルバムには見られない、プログレ特有の機材、メロトロンを多用しているという点です。1970年代では、King Crimson、Genesis、Moody Blues、Yesといったイギリスのプログレッシブ・ロック・グループのメロトロン使用がよく知られています。メロトロンの多用で単純だったロックナンバーが非常に奥深いサウンドになり、ある曲は幻想的かつ神秘的になり、ある曲はダークでヘビーになるなど、バラエティに富んだ作品集に仕上がっていきます。

 Styxはこれまで1972年のデビュー作"Styx(邦題:「スティクスT」または「スタイクス」)"、そして1973年7月リリースの第2作"Styx II(邦題:「スティクスU」,「黄泉の国より」,「レディ/スティクス・セカンド」)"といったプログレッシブなロック・アルバムをリリースしておりました。1973年当時ではデビュー作"Styx"がBillboard200のBubbling Underチャートでの207位が最高位であり、"Styx II"は1975年に収録シングル"Lady(邦題:憧れのレディ)"の再発ヒットでアルバムチャート最高位20位の大ヒットを記録するものの、初回リリース当時ではまだリスナーに認知されていない段階であり、チャートにも登場しませんでした。それまでの唯一の輝きはデビュー作からリリースされたシングル、"The Best Thing(邦題:ベスト・シング)"がHOT100シングルチャートで1972年10月14日から記録した2週連続82位のみで、アルバムチャートの200位内チャート・インはまだ未達でありました。

 "Styx II"の初回リリースの滑り出しはうまくいかなかった為か、"Styx II"のリリースからわずか3ヶ月後の10月に本作"The Serpent Is Rising"をリリースすることになるのですが、当時メンバーだったDennis DeYoung(デニス・デヤング。vo,key,accordion)は、本作のレコーディング、プロデュースともに上手くいかなかったと述懐していたようです。事実、レコーディングスタジオとして使用したシカゴのParagon Recording Studiosは1974年の次作"Man of Miracles(邦題:「ミラクルズ」または「ミラクルズ/スティクスW」)"では使用されませんでした。

 当時のメンバーはDennisの他、John Panozzo(ジョン・パノッツォ。drums)、Chuck Panozzo(チャック・パノッツォ。Bass)、John [JC] Curulewski(ジョン・クルルウスキー。gtr,key,vo)、James [JY] Young(ジェームズ・ヤング。gtr,key,vo)の5人。Styx初のセルフ・プロデュースで、Foodという60年代サイケデリック・バンドのドラマーをつとめたBarry Mraz(バリー・ムラッツ)が協同プロデュースおよびエンジニアリングをつとめました。Styxの産みの親であるBill Traut(ビル・トラウト。1929-2014。Styxが当時在籍していたレーベル、Wooden Nickelの創業者の一人)はエグゼクティブ・プロデューサーとしてクレジットされました。

 収録されたオリジナル・ナンバーのソングライティングは大半がDennis、JY、JCの3人が名を連ねました。他にはJYのブレーンでは弟(兄?)であるRick Young(Richard Young表記もあり)やRickの仕事仲間で地元シカゴでバンド活動をしていたRay Brandle、またDennisのブレーンではDennisの親友であり、妻Suzanneの姉Pamelaの夫Charles Lofrano(1949-2010)、そしてJCのブレーンでは生物音響学者の肩書きを持つシンセサイザー奏者のBernie Krauseや、Bernieと"Beaver & Krause"を組んでおりました相棒である同じくシンセサイザー奏者、Paul Beaverもクレジットされました。

 ジャケット・デザインはデザイナーのDennis Pohlによるもので、アルバムタイトルにふさわしく、砂漠地帯をバックにリアルに描かれたヘビをメインに持ってきています。個人的には左上に大きな帆船が描かれているのも印象的です。ちなみに1980年の再発盤"Serpent"ではジャケットがTim Clarkのデザインに差し替えられ、 より簡易的なイラストになり、ヘビも可愛くなっています。

 では、"Serpent Is Rising"の収録曲を見て参りたいと思います。以下の10曲(厳密には11曲。後述)になります。
アナログ盤・A面
  1. "Witch Wolf(邦題:ウィッチ・ウルフ)"・・・JY,Ray Brandle作
  2. "The Grove of Eglantine(邦題:ザ・グローヴ・オブ・エグランタイン)"・・・Dennis作
  3. "Young Man(邦題:ヤング・マン)"・・・JY,Rick Young作
  4. "As Bad as This(邦題:アズ・バッド・アズ・ジス)"・・・JC作


アナログ盤・B面
  1. "Winner Take All(邦題:ウィナー・テイク・オール)"・・・Dennis,Charles Lofrano作
  2. "22 Years(邦題:22イヤーズ)"・・・JC作
  3. "Jonas Psalter(邦題:ヨーナス・ソルター)"・・・Dennis作
  4. "The Serpent Is Rising(邦題:サーペント・イズ・ライジング)"・・・JC,C.Lofrano作
  5. "Krakatoa(邦題:クラカトア[クラカタウ])"・・・JC,Paul Beaver,Bernie Krause作
  6. "Hallelujah Chorus(邦題:ハレルヤ・コーラス)"・・・from George Frideric Handel's "Messiah"


 本作はJCの作品が4曲収録され、リード・ヴォーカルとしても3曲と、Styxすべてのアルバムの中で最もJCの目立ったアルバムとなりました。また前作"Styx II"ではバッハの( Johann Sebastian Bach)"Little Fugue in G"をDennisがパイプ・オルガンで奏でたりしていましたが、本作品でもヘンデルを取り上げたりと、プログレならではのクラシック・ロックも聴かせてくれます。
 収録曲の全てではありませんが、このアルバムには数曲ばかりトータル性があるようで、Styx初のコンセプト・アルバムとされています。ただしトータル性は何も言われなければその度合いは非常に低いもので、一聴ではなかなか気付きません。"sexual innuendo(性を連想させる言い回し)"が A-2の"The Grove of Eglantine"、B-4の"The Serpent Is Rising"、そしてB-5の"Krakatoa"などにそのテーマが謳われているようです。アルバムタイトルの"Serpent"も表向きは"ヘビ"ですが、神話の世界ではイヴを唆して禁断の実を食べさせるように仕向けたのが"Serpent(ヘビ)"であり、ずるい陰険な人という意味があることから、Dennis Pohlの描いたジャケットのコブラはそのシンボルとして映っていると言えます。実は本作のコンセプトの原案は、タイトルトラックであるB-4やB-1の作者としてクレジットされたCharles Lofranoが担当したと言われています。

 A-1の"Witch Wolf"はJYがリード・ヴォーカルをとるロック・ナンバーで、ギター・リフや最後の雄叫びがメタル風で、どこかUriah Heep(イギリスのプログレッシブ・ハード・ロック・グループ)らしさも感じさせるダークでヘビーな作品です。
 A-2はチェンバロ風のシンセやメロトロンの響きが素晴らしい、ドラマティックな"The Grove of Eglantine"の登場です。個人的には本作中最も気に入っている楽曲で、Styx流プログレッシブ・ロックを見事に展開しています。リード・ヴォーカルはDennisです。
 A-3の"Young Man"はJYが1988年のソロ作"Out on a Day Pass"でもセルフリメイクしたナンバーで、Black SabbathやDeep Purple(どちらもイギリスの代表的なハード・ロック/ヘビー・メタル・グループ)を彷彿とさせるダークなロック・ナンバーです。JYが歌うので余計にヘビーさが増し、Styxの他のアルバムでは決して収録されないようなメタル風ナンバーに仕上がっていますが、シンセサイザーを技巧的に奏でており、早弾きやChuckが奏でるベース・ソロとの合わせ技があったりと、聴き所満載です。実はこのナンバーはセカンド・シングルとして1974年春にカットされ、のち"Man of Miracles"の再発時に収録された当時未発表ナンバーの"Unfinished Song"とカップリングしてリリースされましたが、チャートインには至りませんでした。
 A-4の"As Bad as This"はJCがリード・ヴォーカルをとるスローテンポのブルージーなロック・ナンバーです。静かな展開で進んでいく中でメロトロンの響きを聴くことができるのが印象的です。6分の長尺ナンバーですが、後半の2分半は隠しトラック"Plexiglas Toilet(邦題:プレキシグラス・トイレット)"があり、厳密には11曲の収録たる謂われです。"Plexiglas Toilet"はHarry Belafonte(ハリー・ベラフォンテ)の名曲"Banana Boat Song(邦題:バナナ・ボート)"を彷彿とさせる可愛いナンバーです。"As Bad as This"で渋く歌っていたJCが、ここではコミカルに歌っています。

 JYがリード・ヴォーカルをとるB-1の"Winner Take All"は、A-1とともにその後のWooden Nickel在籍時のベスト盤に必ず収録されたナンバーです。"Styx II"からのシングル"You Need Love(邦題:ユー・ニード・ラヴ)"のカップリングとしても収録されました(ちなみに"You Need Love"は1974年の再発ヒットでは"Styx II"収録の"You Better Ask"とカップリング)。本作品では暗めの収録曲が多い中での、非常に明るくポップなロック・ソングです。高音パートも絶品です。
 B-2の"22 Years"は、のちに"Man of Miracles"にも収録される"Lies(邦題:ライズ)"とカップリングして、ファースト・シングルとしてリリースされた作品です。JCの作品ですが、DennisとJYがヴォーカルを掛け合いで歌い、またシングルで勝負を懸けたい想いもあったのか、Bill Trautがこの曲でサックスを披露しています。しかし残念ながらこの曲もチャートインしませんでした。"Winner Take All"同様にシングル向きの楽曲であり、ポップな作品です。
 B-3の"Jonas Psalter"はある船長の物語を歌ったロック・ソングです。タイトルにあるジョナス・ソルター船長が、夢の実現のために略奪や殺戮を繰り返し、財宝を手に取り、その後ベッドで頭を撃たれるという最期を遂げるというストーリーを、JYが歌い上げています。本編では非常に軽快に進むロック・ナンバーですが、エンディングにはメロトロンを橋渡しに、Greensleeves(イギリス民謡)らしき旋律を使用することで船長の壮絶な死を劇的に表現しています。Dennisのアコーディオンが印象的です。なお、A-4同様、この時代のStyxはエンディングに別の曲を挿入させる手法をよく採り入れており、"Styx"収録の"Quick Is the Beat of My Heart"、"Styx II"の"You Better Ask"などが挙げられ、本編とは違った流れで終わることで、それまでの流れとは異なった余韻が残ります。
 B-4のタイトル曲"The Serpent Is Rising"はJCが歌う、これもまたダークでヘビーなロック・ナンバーで、サビのコーラスでは70年代のヘビー・メタルを彷彿とさせ、後半にはKing Crimsonの"21 Century Schizoid Man"のような、JCのヴォーカルを歪ませる音響効果を使い、よりヘビーに表現しています。"sexual innuendo"をテーマにしているため、露骨な表現ではないにせよ、歌詞が非常に難解です。ただし、個人的な見解で実際の歌詞内容には全くつながりはないと思いますが、前に述べたサーペントが神の創造したイヴを誘惑して禁断の知恵の実を食べさせ、夫アダムと共にエデンの楽園から追放の原罪を受けると言ったシチュエーションを想像しそうな、不思議な感覚がよぎります。
 B-5の"Krakatoa"は1分半の小品で、エコーがかかったJCの声が異彩を放っています。JCの歌声はコーラスになると美しい高音に、リード・ヴォーカルになるとややダミ声っぽくなる、変幻自在の声の持ち主です。タイトルはインドネシアの有名な火山島のことを指すと思われますが、この曲も歌詞が難解で、アルバム・コンセプト("sexual innuendo")として隠喩的に使われていると思います。ただしストレートに考えると、天地創造を歌ったものとしてとらえると、次に続くB-6のヘンデルの名曲"Hallelujah Chorus"における"For the Lord God Omnipotent Reineth(訳:全能の神が王位に就いた)"もすっきりと入ってきます。Styxのメンバーによる大合唱ですが、コーラスに定評のあるStyxの真骨頂ともいうべき作品です。

 Styxの初チャートインしたアルバムとして、またJCが主導した唯一のアルバムとして、またStyxが残した中で最もブリティッシュ・プログレッシブ・ロックの作風が練られたアルバムとして、"The Serpent Is Rising"はStyxが残した数あるアルバムの中でも異なる輝きを見せたアルバムとなりました。チャート上では失敗しましたが、その後も幾度か再発されたり、ベスト盤にも組み込まれたりなどして認知されていき、現在においても、このアルバムリリース後の1975年にメンバーに加わるTommy Shaw(トミー・ショウ。gtr,vo)が、Chuck Pannozoや現メンバーのLawrence Gowan(ローレンス・ゴウワン。vo,key)といっしょに"Plexiglas Toilet"を楽しく合唱する動画が公開されるなど(その動画はこちらYouTubeより)、その輝きは色褪せてはおりません。

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