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2019年02月16日

2月16日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1918年2月16日は、第一次世界大戦(1914-18)末期に、独立宣言によってリトアニア王国(1918.2.16-11.2)が建国された日です。

 当時はロシア帝国(1721-1917)領でしたが、ロシア革命(1917)の勃発により、革命派であるボリシェヴィキ勢力がドイツ帝国(1871.1-1918.11)との停戦講話をはかり(のち3月3日に締結するブレスト=リトフスク条約)、ロシアは連合国軍からの離脱と、リトアニアを含むバルト三国の領有権放棄を提案しました。その後ロシアの手が緩むと、ドイツ帝国から手がさしのべられていきました。そこで、リトアニア評議会(タリーバ)は陽の当たった1918年2月16日にドイツ帝国の助力で独立宣言を行い(この文書の原本は2017年にドイツ外務省公文書保管庫で発見)、同時にリトアニア王国樹立を宣言しました。

 国王として、評議会は選出条件として、熱心なカトリック信者であること、ドイツ帝国の協力を得られること(ただしリトアニア王はドイツ帝国の母体であるプロイセン王家のホーエンツォレルン家の不介入を望んだため、プロイセン王家出身の国王は却下)、軍人出身であることなどが挙げられ、ドイツのウラッハ公爵家(ドイツのヴュルテンベルク家の傍系)のヴィルヘルム・カール(公位1864-1928)を推薦しました。

 3月3日にブレスト=リトフスク条約が締結され、ロシアはリトアニアを放棄しました。ドイツ帝国はリトアニア王国を承認後(3月23日)、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世(ドイツ帝位1888-1918)をリトアニア王として支配下にいれようとしました。しかし評議会は7月13日、ヴィルヘルム・カール公を選定し、ヴィルヘルム・カールはリトアニア王ミンダウガス2世(王位1918)として即位しました。ドイツ貴族出身のミンダウガス2世はこれを機にリトアニア語を学びリトアニアに向かうつもりでいました。

 しかし、状況は一変します。第一次世界大戦でリトアニア王政の後ろ盾となるはずのドイツ帝国が敗戦となり、評議会は11月2日、国王選出を破棄して共和制に改めることを決め、ミンダウガス2世は同日に退位、リトアニア王国からリトアニア共和国(リトアニア第一共和国。1918-40)となりました。ミンダウガス2世はリトアニアを訪れる機会もなく、国王在位および王国そのものは4ヶ月という短命に終わりました。

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