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2019年03月10日

3月10日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1661年3月10日は、フランス・ブルボン朝(1589-1792,1814-30)の国王ルイ14世(位1643-1715)が親政を始めた日です。

 ルイ14世は摂政ジュール・マザラン(1602-61)没後に親政を始めました。王権神授説に基づいて、"朕は国家なり"を宣言、「太陽王」として絶対王政を推進しました。官僚制度の整備と常備軍の編成、コルベール重商主義(1619-83。財政総監をつとめ、1664年に東インド会社を再建)の促進といった絶対主義改革を次々と断行しました。

 フランス文化の絶頂期も、ルイ14世時代に現出されています。その代表がヴェルサイユ宮殿です。親政を始めたルイ14世は、パリから22km南西にあるヴェルサイユへ赴き、かつて父ルイ13世(位1610-43)の狩猟用ロッジとして使われた離宮を大々的に造営することを決めました。もともとは、コルベール就任以前に財務大臣を務めていたニコラ・フーケ(1615-1680)が、王室建築家ル・ヴォー(1612-1670)、造園家ル・ノートル(1613-1700)、王室画家ル・ブラン(1619-1690)らを使って豪華絢爛な自身の城館、ヴォー・ル・ヴィコント城を造営しましたが、ルイ14世のフーケに対する不興と憤慨によって、フーケは失脚させられたという史実があり、結局ルイ14世は、ル・ヴォー、ル・ノートル、ル・ブランの3人を使って、最高の王宮造営を計画したといわれています。1661年、ル・ヴォーによって増築を開始し、ル・ヴォー没後はマンサール(1646-1708)が担当しました。その後庭園造営に取りかかり、ル・ノートルを造園にあたらせました。そして、1678年には、マンサールによる"鏡の間"が増築が開始され、着工時から装飾分野にあたっていたル・ブランが天井画を手がけました。その後、礼拝堂やオペラ劇場などが増築されました。

 1682年、バロック式のヴェルサイユ宮殿が遂に完成しました。ルイ14世は、フロンドの乱(1648-53。貴族が起こした内乱)という苦い経験から、パリに対して強い嫌悪感がありました。ルイ14世は、宮殿落成後、ここを王宮とし、政府機関(首都)も1789年のヴェルサイユ行進十月事件が勃発するまでは、パリではなくヴェルサイユに置かれました。

 ヴェルサイユ宮殿は、華美なフランス文化、フランス絶対主義、フランス上流社会のシンボルとなりました。これにより、バロック建築が全世界に普及し、ロシアではエカチェリーナ2世(位1762-96)の冬宮、日本では赤坂離宮などが次々と模倣されました。
 文化を篤く奨励するルイ14世はまた、サロンを設けて文学や美術、学問など、上流文化人や貴婦人の社交場として流行しました。これにより、文化洗練が行われ、多くの芸術家、文筆家が誕生しました。また、政治・経済や文化・社会を論じるための場であり、ロンドンのコーヒーハウスと並ぶフランス軽飲食店、カフェも流行しました。

 ルイ14世は、フランスにおける文化の頂点を形成した太陽王として、これに続く政治権力の頂点、つまりヨーロッパの覇権を目指して、1667年から1713年の間に、いわゆる4大侵略戦争(南ネーデルラント継承戦争オランダ侵略戦争ファルツ継承戦争スペイン継承戦争)を行いましたが、これらはすべて失敗しました。またルイはカトリック絶対の立場より、アンリ4世(ブルボン朝初代国王。位1589-1610)が発しました、宗教懐柔策であったナントの勅令を取り消しました(1685。フォンテーヌブローの勅令)。これは大量のユグノー亡命をもたらして経済不振に陥り、産業も低迷しました。宮廷浪費、膨大な軍事費、人口激減という状態の中で、ブルボン朝は重税しか策が及ばず、"大御世(おおみよ)"と呼ばれる偉大な時代を築いたルイ14世の治世を、国民は振りかえようとはしませんでした。ルイ14世の治世にもたらされた財政の逼迫は、彼の曾孫ルイ15世(位1715-74)、その孫ルイ16世(位1774-92)の治世になっても打開されず、ルイ14世が没した直後(1715)に起こった国民の歓呼の雄叫びは、のちの大革命への導火線となっていくのです。

引用文献『世界史の目 第97話』より

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タグ:フランス
posted by ottovonmax at 00:00| 歴史

2019年03月09日

3月9日は何に陽(ひ)が当たったか?

 紀元前141年3月9日は、前漢(B.C.202-A.D.8)の劉徹(りゅうてつ。B.C.156-B.C.87)が武帝(ぶてい。位B.C.141-B.C.87)として即位した日です。武帝の治世は、漢王朝(B.C.202-A.D.220)の全盛期を現出しました。

 先代の景帝(けいてい。位B.C.157-B.C.141)は財政の安定と産業の充実に尽力し、郡国制(郡県制に封建制が合わさった制度)を緩めて徐々に郡県制に戻していきました。結果、景帝の子である次の武帝の時代において、中央集権国家としての漢王朝の大いなる全盛期となり、54年という長期にわたる治世において、武帝は内政・外政ともに強力な姿勢を貫き、その後の統一王朝にも多大なる影響を与えたのです。

 内政では、成功面が数多く見受けられました。B.C.154年に起こった呉楚七国の乱(財政難で封建所領の領地削減が原因で起こった内乱)を反省して、領土相続における新制度が確立しました。これは、これまで嫡子だけが相続していた諸侯領を、今後は子弟にも分割相続させ、諸侯の領土削減化に努めたのです(推恩の令。すいおん)。景帝時代から行われた郡県制への回帰がここで完成しました。
 さらにB.C.140年、武帝は年号を初めて制定し、"建元(けんげん)"元年としました。首都長安を含む関中盆地を中心に灌漑事業を大規模に行い、また黄河の治水事業も行っていずれも成功を収めました。地方政策に対しては、中央政府の地方への影響力を維持させるため、官吏の任用を地方長官から推薦させる郷挙里選(きょうきょりせん)を採用しました。

 これに伴う文教政策も積極的に行い、景帝時代から博士として活躍していた儒学者の董仲舒(とうちゅうじょ。B.C.176?-B.C.104?)の献策で儒学による思想統一をすすめ、儒教の重要古典である五経(ごきょう。「経書」とも。『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』の5つ)を指導する五経博士を設置、五経を中心とする儒教を正統教義として広め、儒教国教化儒学官学化を実現させました。儒家思想にもとづいたという点で、法家思想による中央集権体制だった前の秦王朝(?-B.C.206)とは大きく異なりました。

 呉楚七国の乱後、父景帝時代から積極的に行われてきた内政は大成功を収め、国家財政も黒字に転じました。充実した国富により、武帝はそれを軍事に充て、初代皇帝の高祖時代(こうそ。劉邦。りゅうほう。漢の建国者。位B.C.202-B.C.195)とはまったく逆の、積極的な外政へと進むことになるのです。 
 対外発展の対象として、矛先は長年の宿敵である匈奴(きょうど)に向けられました。高祖劉邦の時代では匈奴の2代目君主である冒頓単于(ぼくとつぜんう。位B.C.209?-B.C.174)があまりにも強力でしたので対外和親策を余儀なくされましたが、武帝はそれを改め、B.C.129年以降、優秀な部下である将軍・衛青(えいせい。?-B.C.106。武帝の皇后・衛子夫(えいしふ)の弟)と甥の霍去病(かくきょへい。B.C.140?-B.C.117)に匈奴征討を命じました。若き将軍霍去病(当時20歳代前半だったとされる)は7万に及ぶ匈奴兵を斬殺したと言われ、結果、漢王朝は匈奴を北方へ退かせました。
 南方では南越(なんえつ。B.C.203-B.C.111)などを征服してベトナム中部まで領土を拡大、南海郡をはじめとする9郡を設置しました(南海9郡)。朝鮮方面では3代約80余年にわたって朝鮮を支配してきた衛氏朝鮮(えいしちょうせん。B.C.190?-B.C.108。首都は王険城。現・平壌)をB.C.108年に滅ぼして、楽浪郡(らくろう)・真番郡(しんばん)・臨屯郡(りんとん)・玄菟郡(げんと)の朝鮮4郡を設置、漢王朝の直轄領となりました。

 中国では西方一帯を西域(せいいき。さいいき)と呼びます。匈奴の駆逐に成功した武帝は、大規模な西域経営に野心をおこしました。まず部下の張騫(ちょうけん。?-B.C.114)を、以前匈奴に敗れて中央アジアのアム川上流まで追われていました大月氏国(だいげつし。B.C.140?-A.D.1C)に派遣しました(B.C.139頃)。この目的は、匈奴の報復に備え、匈奴に対する同じ敵意でもって、匈奴を挟撃しようと約束を取り付ける以外何ものでもありませんでしたが、結局大月氏は匈奴に対する戦意はなかったため計画は流れてしまい、1年余同国に滞在後帰国しました(B.C.129頃)。しかし張騫の大月氏派遣は、西域に点在する諸国の地理事情、文化・社会情報が漢王朝にもたらされ、今後の中国王朝における西域経営出発にむけての大きな突破口となり、張騫は主目的は果たされなかったものの、西域進出を可能にさせた大功労者となりました(その後張騫は当時バルハシ湖南東部にいたトルコ系烏孫(うそん)へも使者として派遣されました)。
 続いてオルドス地方(現・内モンゴル自治区。黄河の湾曲によって囲まれている)では朔方郡(さくほう)が置かれ、現在の甘粛省(かんしゅく)にあたる河西地方(かせい。"黄河西方"の意)では敦煌郡(とんこう)・酒泉郡(しゅせん)・張腋郡(ちょうえき)・武威郡(ぶい。「武帝の威、河西に到達」から)の河西4郡が設置され(B.C.121年頃)、そこに軍隊を駐屯しました。河西4郡は周囲のオアシス都市にも恵まれて古代シルクロードの一部として重要な交易路となり、河西回廊(甘粛回廊)と呼ばれる国際通路となりました。

 かつての張騫の報告では、中央アジアのシル川上流域に、フェルガナと呼ばれる東西300km、南北150kmに及ぶ大盆地があり、東西世界における陸路の要衝となっていました。中国では大宛(だいえん)と呼ばれましたが、その地では、汗血馬(かんけつば)と呼ばれる、1日千里を走り、その様は血の汗を流すほどの迫力であったとされる馬を産したことで知られていました。そこで武帝は汗血馬を"天馬(てんば)"と呼んで注目し、大宛遠征を決行(B.C.104)、武将・李広利(りこうり。?-B.C.90)を派遣しました。李広利は服属を拒否した大宛の水源を断って40日間包囲し、遂に首都を陥落させ、3000頭の天馬をつれて帰国したと言われています(B.C.102)。

 こうして大規模に行われた武帝の対外発展事業はその後も続けられましたが、充分に蓄えられていた財力も徐々に底をつき始めていき、内政改革の必要性も迫られました。結果、4つの大財政改革を施すことになりました。

 財政改革のまず1つとして、武帝は貨幣改革に着手し、B.C.118年、五銖銭(ごしゅせん)をこれまでの半両銭(はんりょうせん)に代わって鋳造、結果、その後の中国史上、最も長期にわたって流通した貨幣となりました。
 続いて、民の必需品である塩・鉄・酒を専売化しました。民間で自由に経営してきた鉄器鋳造、海水を使った製塩、そして酒の醸造をすべて禁止し、これらはすべて政府の専売となったのです。製鉄と製塩は当時最大の工業であり、罪人と官有奴隷を使って強制労働させましたので、政府には高い利潤を収めることができましたが、品質は悪く国民を困らせたため、武帝の死後に専売反対の論争が起こり、次の昭帝(しょうてい。位B.C.86-B.C.74)のとき、酒の専売のみ廃止されました。
 3つ目の財政改革は、商工業者対象の重税です。売買する商品、利子、船、車といった資産に税(財産税)がかけられました。資産所有者は官吏に納税申告するが、不正が発覚すると戦地で力役に服して全資産を取り上げられました。またかつてから行われていた15〜56歳の男女に欠けられた人頭税・算賦(さんふ)も税率を上げて強化しました。
 そして仕上げの4つ目は、均輸法(B.C.115発布)・平準法(B.C.110発布)の制定・実施です。均輸法は、均輸官を各地に設置して、特産物を税として貢納させ、これを不足地に転売して物資の調達と流通をはかり、平準法は、長安に平準官をおき、均輸によって集めた物資を高物価のときに売り放し、低物価の時に買いおさめる法律です。これら両法律によって国家は一般商人の利潤をとり上げる形となりました。

 このように武帝がおこした財政政策は、一種の社会政策ともみられますが、国家が商工業者の領分を結果的に侵すことになり、かえって社会不安は高まっていきました。宮中でも武帝が信任していました大官の江充(こうじゅう。?-B.C.91)による謀略により、衛皇后と皇太子だった劉拠(りゅうきょ。B.C.128-B.C.91。戻太子。れいたいし)が無実の罪で粛清される事件が起き(巫蠱の獄。ふこ。B.C.91)、衛皇后と劉拠の死後に江充の仕業を知った武帝は、逆に江充の一族を一掃しました。この精神的打撃は武帝には大きくのしかかり、B.C.87年、武帝は没し、武帝の優秀な側近だった霍光(かくこう。?-B.C.68。霍去病の異母弟)に摂政の座を与え、次の幼い昭帝を補佐させたのでした。

引用文献『世界史の目 第146話第147話』より

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タグ:中国
posted by ottovonmax at 00:00| 歴史

2019年03月08日

3月8日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1975年3月8日は、アメリカのロック・グループ、Styx(スティクス)の2枚目のアルバム、"Styx II(邦題:「スティクスU」,他「黄泉の国より」,「レディ/スティクス・セカンド」など)"が、Billboard200アルバムチャートで、同年同月同日付より2週連続で最高位20位を記録した日であると同時に、このアルバムからカットされたシングル、"Lady(邦題:憧れのレディ)"もBillboard HOT100シングルチャートで同年同月同日付より2週連続6位を記録し、1973年7月リリースから、2年越しのヒットとなった日です。この大事な1975年の末にStyxはインディ・レーベルからメジャー・レーベルへの移籍を決意していくわけで、Styxの歴史を語る上でも非常に重要な作品と言えます。このブログではStyxのスタジオ・アルバムを一作ずつ紹介しておりますが、遅ればせながら"Styx II"を改めて探っていきたいと思います。アルバム"Styx II"およびシングル"Lady"のチャート・アクションはこちらの下部にございますのでご参照下さい。このブログでの80年代までのStyxのスタジオ・アルバムのご紹介は、この"Styx II"がファイナルとなります。

 前述の通り、"Styx II"がヒットしたのは1974年末から1975年の春先ですが、アルバム自体のオリジナル・リリースは1973年7月であります。優秀なソングライターの楽曲提供ででほぼ占められた前作"Styx(邦題:「スティクスT」または「スタイクス」)"はBubbling Underチャート内では健闘したものの、200位入りは果たせませんでした。所属先のWooden Nickelレーベルでは、次に制作する"Styx II"では、収録する楽曲をメンバーのソングライティングに期待しました。
 1972年末に前作からのシングル・カット、"Quick Is The Beat of My Heart"がリリースされました。このシングルは、のち"Styx II"に収録される"I'm Gonna Make You Feel It"をカップリングとしてリリースされました。そしてシングルリリース時には、Styxは当時のスタジオであるParagon Recording Studiosにて"Styx II"の制作に当たっていました。グループメンバーはDennis DeYoung(デニス・デヤング。key,vo)、John Panozzo(ジョン・パノッツォ。drums)、Chuck Panozzo(チャック・パノッツォ。Bass)、John [JC] Curulewski(ジョン・クルルウスキー。gtr,key,vo)、James [JY] Young(ジェームズ・ヤング。gtr,key,vo)の5人です。
 プロデュースはJohn Ryan、エグゼクティブ・プロデューサーはStyxの産みの親であるBill Traut、エンジニア陣はParagon Recording Studiosの設立者であるMarty Feldman(マーティ・フェルドマン)と、Foodという60年代サイケデリック・バンドのドラマーをつとめたBarry Mraz(バリー・ムラッツ)と、前作同様のスタッフでレコーディングが行われました。ソングライティングはDennis作とJC作の楽曲が収録され、JY作の楽曲は収録されませんでした。これはStyxでのオリジナル中心のスタジオ・アルバム(2005年リリースのカバーアルバム" Big Bang Theory"を除く)ではこの"Styx II"が唯一、JYがソングライティングに関わっていない作品です。
 
 ジャケットはWooden Nickel時代で使用された"Styx"のロゴ・サインを表紙いっぱいに拡大し、ロゴの枠線だけを残して中を切り抜き、そこにメンバーの演奏風景写真を載せております。"S"の部分にDennis、"t"の部分にChuck、"y"の左側にはすでに髭を蓄えたJY、右側にはJohn、そして"x"にはJCが写っています。スリーブ・デザインのジャケットの写真はMurray Laden、アートワークはBob Milesという人物が担当で、Bobは裏ジャケットに、グループの本来の意味である"三途の川"をイメージした幻想的なデザインが施されております。1975年の再リリースでは表ジャケットの切り抜き部分に"三途の川"を入れたヴァージョンもあり、2005年リリースのWooden Nickel時代のベスト盤"The Complete Wooden Nickel Recordings"での内ジャケットではこのレーベルからリリースされた4枚のアルバムの表ジャケットを載せておりますが、"Styx II"の場合は"三途の川"ヴァージョンが使われておりました。
 ちなみに、1979年から1980年にかけてRCAレーベルから再発されました時は、アルバムタイトルも"Lady"となり、ジャケットも天高くそびえるお城から平地へとらせん状に山道が下り、山肌に"Styx"や"Lady"と描かれ、目の前の車道にオープンカーが走るといったモダンなイラストに差し替えられています。

 さて、曲目紹介です。
A面(アナログ盤)
  1. "You Need Love(邦題:ユー・ニード・ラブ)"・・・Dennis作
  2. "Lady(邦題:憧れのレディ)"・・・Dennis作
  3. "A Day(邦題:ア・デイ)"・・・JC作
  4. "You Better Ask(邦題:ユー・ベター・アスク)"・・・JC作


B面
  1. "Little Fugue in G(邦題:リトル・フーガ)"・・・Johann Sebastian Bach作
  2. "Father O.S.A.(邦題:ファーザー・OSA)"・・・Dennis作
  3. "Earl of Roseland(邦題:ローズランドの伯爵)"・・・Dennis作
  4. "I'm Gonna Make You Feel It(邦題:アイム・ゴナ・メイク・ユー・フィール・イット)"・・・Dennis作


 Wooden Nickel時代のStyxの代名詞となるクラシックのカバーは、本作ではバッハを起用しており、この曲のためにDennisはシカゴのセント・ジェームス大聖堂のパイプ・オルガンを使ってレコーディングしました。これを縁に、1978年のアルバム、"Pieces of Eight(邦題:古代への追想)"収録の"I'm Okay(邦題:アイム・OK)"でも同聖堂のパイプ・オルガンを使用しています。
 A-1の"You Need Love"は軽快なハード・ロック・ナンバーで、JYのワイルドな歌声でアルバムの幕を開けます。サウンドはヘビーですが、サビはStyxの持ち味である美しいコーラスなので、馴染みやすい楽曲です。初回リリースでは次作"The Serpent Is Rising(邦題:「サーペント・イズ・ライジング」。または「サーペント・イズ・ライジング/スティクスV」)"に収録される"Winner Take All"とカップリングでシングルカットされましたがノンアクションで、1974〜5年の再発ヒット時(その内容はこちら。下部にございます)でのリカットでは本作A-4とのカップリングで、1975年5月17日から2週連続88位を記録しています。
 A-2はStyxの名を世に広めた不朽の名作であり、リード・ヴォーカルを担うDennisが妻Suzanneに捧げたラブ・ソング、"Lady"の登場です。前半Aメロのピアノをバックにバラード進行、1番サビ以降はややロックになり、2番サビがどこかしらMaurice Ravel(モーリス・ラヴェル)の"Boléro(ボレロ)"にも通じるドラマティックさが加わり、さらにバックのギター・ソロで盛り上げ、華やかに終わります。1995年8月22日にA&Mレーベルからベスト盤"Greatest Hits(邦題:スティクス・グレイテスト・ヒッツ)"をリリースする際に、このナンバーを収録するために、レーベル所有権の関係から、あらたに録音しなおしてリリースされました。タイトルは"Lady'95(邦題:レディ'95)"で、1997年5月リリースの再々結成ライブ盤、"Return to Paradise(邦題:リターン・トゥ・パラダイス)"でも歌われました。
 ちなみに"Lady"のシングルカットでは、初回リリース時ではA-4とのカップリングで、全米6位を記録した74年11月のリリースでは、前作収録の"Movement for the Common Man"の第1楽章”Children of the Land”とのカップリングでリリースされました。
 A-3の"A Day"はStyxの全オリジナル・アルバム収録の、組曲形式を除く単品ナンバーでは、現時点で最長の、8分19秒の長尺曲です。JCがメイン・リード・ヴォーカルを披露する初めてのナンバーであり、JCがソングライティングしたお披露目のナンバーです。幻想的なメロディで、間奏はややジャズ寄りのインストゥルメンタルを展開します。2番でのJCが歌う"Pondering the motion of time"の部分で、最後の"time"と発したJCの声が高音に上がりながら反響(残響)していき、その声が知らぬ間にギターの音色に変わっているように聞こえるテクニックは見事の一言です。
 A-4の"You Better Ask"は前述の通り、2度のシングルでカップリングされた実績を持つナンバーで、これもJCの作品ですが、A-3とは打って変わってシングル向きのポップなロック・ナンバーです。JCはA-3ではやさしい声色でどちらかと言えば高いキーで歌っておりましたが、この作品は同じヴォーカリストかと思うぐらいに唸るような歌声を聞かせてくれます。この曲は、前作収録の"Quick Is The Beat of My Heart"、次作収録の"Jonas Psalter"同様、エンディングに別の曲を挿入させる手法を採り入れることによって、本編とは違った流れで終わり、変わった余韻を残すところが特徴です。この"You Better Ask"では、あのFrank Sinatra(フランク・シナトラ。1915-98)の1966年の大ヒット曲で知られる"Strangers in the Night(夜のストレンジャー)"と、大笑いする効果音をエンディングに導入しています。

 B-1"Little Fugue in G"はバッハの有名な"フーガ ト短調 BWV 578"、いわゆる"小フーガ"をDennisのパイプ・オルガンでじっくり聴かせてくれます。これをプロローグに本作の目玉でもあります7分の大作、B-2の"Father O.S.A."へ途切れなく移ります。Dennisがリード・ヴォーカルをとります。
 「O.S.A.」とはカトリック修道会である「Order of St.Augustine(訳:聖アウグスチノ修道会)」の略語ですが、Dennis、Chuck、Johnはカトリック信仰者で、StyxがまだThe Tradewinds時代にベーシストのChuck Panozzo(当時はリズムギター担当)は神学校に通うため短期間だけ離脱していたり、さらに高校生時代はChuck、John Panozzo、そしてのちにソングライティングにも関わるDennisの親友であり、義兄にあたるCharles Lofrano(1949-2010)の3人はシカゴのMendel Catholic High School(1951-88)の通学歴もあり(いわゆる遺伝の法則を発見したオーストリアのMendelはO.S.A.出身です)、この高校で"O.S.A."の教義を学んだこともこの作品に影響していると思われます。
 Styx風のプログレッシブ・ロックが充実した作品であるこの"Father O.S.A."は個人的にも本作で最もよく聴いた作品で、ギターの音色中心のイントロの後、前半は静かな流れで進みますが、間奏のキーボード・ソロが終わった後半から盛り上がり、特にエンディングに懸けてのインストゥルメンタル・パートは圧巻です。特にJYとJCのダブル・リード・ギターの重ね技と、Johnによるドラムの超高速連打は聴きもので、前作からの成長が一瞬で分かる傑作となっております。特にドイツではバッハ絡みが関係したのか、1973年にシングルとしてのリリース歴があり、A面は4分13秒の"Little Fugue In "G" & Father O.S.A. (Part 1)"、B面は4分25秒の"Little Fugue In "G" & Father O.S.A. (Part 2)"のタイトルとなっております。
 B-3の"Earl of Roseland"は軽快なハード・ロック・ナンバーで、Dennisがリード・ヴォーカルを担当しています。シカゴ市内では南方にあたるRoselandはメンバーのDennis、John、Chuckの出生地です。ちなみに1999年リリースの"Brave New World(邦題:ブレイヴ・ニュー・ワールド)"でもDennis作の"Goodbye Roseland"というナンバーでも故郷のRoselandを歌っています。
 ラストを締めくくるB-4の"I'm Gonna Make You Feel It"はJYが歌うロック・ナンバーで、2分半弱にもかかわらずヘビーで生き生きした曲構成には度肝を抜かされます。"You Need Love"同様、コーラスが美しいので、それほどヘビーには聞こえません。前述にもあるように、アルバム・リリースに先駆けて"Quick Is The Beat of My Heart"とのカップリングでリリースされましたが、チャートインとはなりませんでした。"Brave New World"に収録され、シングルにもなった"Everything Is Cool"のイントロ最前には過去のStyxの楽曲らしきものがチラホラと聞こえる仕掛けがありますが、その中にこの"I'm Gonna Make You Feel It"のサビの部分が挿入されています。このナンバーは1999年リリースの"Best of Styx 1973-1974"ではなぜか収録からはずれましたが、これを除くWooden Nickel時代のベスト盤では決まって収録されています。
 2016年でのデジタルリマスター盤のリイシューでは、ボーナス・トラックとして、"Unfinished Song(邦題:アンフィニッシュト・ソング。Dennis, Charles Lofrano作)"も収録されています。Dennisが歌う短尺曲ながらもドラマティックなバラードで、随所にメロトロンも効果的に使われています。このナンバーは当時"The Serpent Is Rising"からのシングル、"Young Man"とのカップリングで収録され、アナログ盤では1979~80年にRCAからの再リリースによる"Man of Miracles(邦題:ミラクルズ。当時原題は'Miracles'と改題)"に収録されたきりで、この"Man of Miracles"のCD化に伴い収録から外されてしまったため、結果"Unfinished Song"は2005年リリースのベスト盤"The Complete Wooden Nickel Recordings"に収録されるまでは、"幻のCD未収録ナンバー"として重宝されたものです。

 陽の当たった1975年3月8日に最高位を記録した"Lady"のTop10入りヒット、さらにはアルバムもTop20入りのヒット(詳細はこちらの下部)後、1975年末にA&Mへ移籍が決まり、1975年12月1日には"Equinox(邦題:分岐点)"をリリースすることになるのですが、実を言うと2年越しの"Styx II"および"Lady"のヒットによる人気上昇の勢いを付けたことでA&Mへの移籍が決まったわけではなく、Wooden Nickelからリリースされた1974年の4作目"Man of Miracles(邦題:ミラクルズ)"のリリース時点で移籍を考えていたと言われております。その理由として、StyxのメンバーはこれまでのWooden Nickelレーベルからのプロモートやサポートの弱さに難色を示していたためと言われております。具体的には、1作目"Styx"収録のデビュー曲"Best Thing(邦題:ベスト・シング)"がそれまで唯一チャート・インしたシングルということで、"Man of Miracles"の初回リリースで再び収録したこと、"Man of Miracles"からの新曲をシングル・カットせず、"Lady"をシングルに選択したこと、よもやの"Lady"のヒットを受け、便乗して"You Need Love(前述。1975年4月)"、さらには"Best Thing(1975年6月の再リリース。B面は'Havin' A Ball')"、また"Lady(1975年11月。B面は'Children of the Land')"のシングル再々発を強行したといった経緯にみられるように、過去のヒットした作品から再発を繰り返した、いわば過去の栄光にすがりついた商業優先主義にもとれる、当時のWooden Nickelの販売戦略によって、Styxとレーベル間に不協和音が生じてしまったとされており、しかも"Lady"の6位記録後は"You Need Love"の88位のみにとどまったことからWooden Nickelの販売戦略はお世辞にも成功したとは言えず、結果的にメンバーは移籍に踏み切ったとされています。A&M移籍についてStyxはWooden Nickelとは裁判沙汰にまで発展し、移籍しようとしたStyxの契約違反として違約金が発生したと言うことですが、結果的に移籍して以降はStyxの全盛期が訪れ、成功を楽しむことができたわけです。Wooden Nickelは1977年、ちょうど黄金期の幕開けを告げる"The Grand Illusion(邦題:大いなる幻影)"のA&Mからのリリース期に、Wooden Nickel時代の全4作をチョイスしたベスト盤"Best of Styx(邦題:レディ・スティクス・ベスト)"をリリースしたのを最後に事業を停止、権利は親会社のRCAに移されました。

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2019年03月07日

3月7日は何に陽(ひ)が当たったか?

161年3月7日は、ローマ皇帝アントニヌス・ピウス(帝位138-161)の没年月日です。

 138年の7月、先代のハドリアヌス帝(帝位117-138)が62歳の生涯を閉じました。元老院との対立が多かったハドリアヌス帝でしたが、後を継いだティトゥス・アントニヌス(86-161)は元老院との協調路線を歩み、穏健な政策を打ち立てて、慈悲深さをアピールしました。このため、元老院から"ピウス(→慈悲深い、敬虔な人)"と呼ばれ、アントニヌス・ピウス帝としてその名が残ることとなりました。140年、イベリア半島に所領を持つ富裕な貴族ウェルス家の出でありますアウレリウス(121-180)はアントニヌス・ピウスとともに執政官(コンスル)に就任し、次期帝位継承者となりました。アウレリウスはアントニヌス・ピウスの娘ファウスティナ(125-175)と結婚した145年に、ピウス帝とともに2度目の執政官に再任しました。一方ルキウス・ウェルスも153年に財務官(クアエストル)を務め、翌154年には執政官に就任しました。

 150年代半ばになると、晩期にさしかかったアントニヌス・ピウス帝の健康状態が徐々に悪化、161年には帝の補佐を務めていたアウレリウスとルキウス・ウェルスはともに再度の執政官に再任しますが、161年3月7日、アントニヌス・ピウス帝が病没、ハドリアヌス前帝の遺志をふまえ、アウレリウスとルキウス・ウェルスは共同統治者として即位しました。アウレリウスは皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス(帝位161-180)、ルキウス・ウェルスは皇帝ルキウス・アウレリウス・ウェルス(帝位161-169)として帝位についたのでした。

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2019年03月06日

3月6日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1821年3月6日はギリシア独立戦争が始まった日です。

 ビザンツ帝国(395-1453)に属していたギリシア正教徒は、ビザンツ帝国が1453年にオスマン帝国(1299-1922)に滅ぼされてから約400年近くの間、オスマン帝国の支配下におかれ、圧政と宗教差別に苦しめられていました。18世紀末、ナポレオン(1769-1821)のエジプト遠征(1798-99)で、エジプト先住民にナショナリズム精神(国民意識・民族意識)を高揚させ、オスマンからの解放・独立の気運を高めました。これに呼応するかのごとく、ギリシア正教徒もナショナリズムが高まり、ギリシア商人で貴族層出身アレクサンドロス・イプシランディス(1792-1828)が、オスマン帝国から独立するための秘密結社フィリキ・エテリア(ヘタイリア)をおこしました(1814)。

 イプシランディスは、もともとロシア軍にも従軍し、その時の皇帝アレクサンドル1世(位1801-25)の副官を務めたこともあり、フィリキ・エテリアはロシアの黒海沿岸都市オデッサで作られました。イプシランディスはまた、ロシア皇帝の専制と反動化に反発した革命団体デカブリスト(十二月党)とも交流して、自由主義精神をも持ち始めました。

 フィリキ・エテリアの会員数が1000人を越えた1820年、イプシランディスは同社の総司令官に就任し、武力蜂起の計画が練られました。そして陽の当たった翌1821年3月6日、フィリキ・エテリアは蜂起し、オスマン帝国の宗主権下にあるモルドヴァ公国及びワラキア公国(両公国とも現在のルーマニアあたり)へ進軍、プルート川を渡りました。これが、ギリシア独立戦争(1821-29)です。

 しかしイプシランディスの軍は期待していたロシア軍による援助もなく、オスマン軍によって半年も経たずに壊滅、イプシランディスもオーストリアに亡命しましたがそこで捕まり獄死してしまいました。しかしギリシア軍の蜂起は、新しい司令官のもとで、その後も継続され、1822年に独立を宣言しました。これにより、オスマン帝国は、エジプト太守ムハンマド・アリー(1769-1849)の率いるエジプト軍を動かして鎮圧を図りました。オスマン軍は、あのホメロス(B.C.8世紀頃の人。叙事詩人)の生地と伝えられ、ギリシア人の多いキオス島(シオ島。アナトリア西岸)に上陸して、徹底的な虐殺をおこないました(キオス島虐殺事件)。この光景は、ロマン派画家ドラクロワ(フランス。1798-1863)の描画によって世論に紹介され(『シオの虐殺』)、独立の支持が高まりました(でも発売当時は"絵画の虐殺"と酷評されたといわれています)。西欧諸国においても文化の故郷ギリシアを守る意味で独立を援助し、各国から民間人の構成による義勇軍が集められました。『チャイルド・ハロルドの巡礼』を残したイギリスの詩人バイロン(1788-1824)も義勇兵としてギリシアに旅立ちましたが(1823)、到着した数ヶ月後の翌1824年、マラリアにかかり、戦わずして病没しています。

 キオス島虐殺事件に対して、ロシアも立ち上がり、イギリス・フランスと独立支援を続け、イギリス外相カニング(1770-1827)の仲介によって、1826年、独立支援同盟を結成、翌1827年10月、3国の連合艦隊が、ナヴァリノ沖(ペロポネソス半島南西岸)で、オスマン艦隊を撃破し、ギリシアの独立を確実なものとしました(ナヴァリノの海戦)。オスマン帝国はオーストリアのメッテルニヒ(1773-1859)に支援を求めましたが、この頃の彼の外交政策は、かつてウィーン会議(1814-15)で議長を務めた時代とはまるで違っていました。アメリカのモンロー教書(モンロー宣言。1823。西欧諸国とアメリカ大陸諸国との相互不干渉を主張)によって、ウィーン体制の干渉が排除され、ラテン・アメリカ諸国の独立が促進しましたので、メッテルニヒは外交の立場では居場所を失い、輝きを失っていたため、軍の支援を得られませんでした。

 結局1829年、ロシアとオスマン帝国との間でアドリアノープル条約が締結されました。終戦となり、ロシアはオスマン帝国にドナウ川沿岸と黒海北岸の割譲を強制、またオスマン領のダーダネルス・ボスフォラス両海峡の自由航行権を獲得しました。そして遂にギリシアの独立をオスマン帝国に承認させました。翌1830年、ロンドンにてロンドン会議が開催、イギリス・フランス・ロシアそれぞれの外交官による協議の結果、ギリシアの独立が国際的に承認され(ロンドン議定書)、1832年、国境が画定されて、ギリシア王国が誕生、独立を果たすことができたのです。

引用文献『世界史の目 ギリシア独立戦争

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2019年03月05日

3月5日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1953年3月5日は、ソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連。1922-1991)の最高指導者だったヨシフ・スターリン(1878-1953。書記長任1922-53)の没年月日です。

 
 第二次世界大戦(1939-45)後、ソ連は社会主義国・中国と親交を結び、スターリンは東西冷戦(冷たい戦争)における東側陣営の主役となって、資本主義国を脅かしました。国内では、ドイツ、日本との戦いを勝利に導いたスターリンを讃えました。
 しかしスターリンは、1953年3月1日、書記局員のゲオルギー・マレンコフ(1902-88)、国防相のニコライ・ブルガーニン(1895-1975)、そして独ソ戦で陸軍中将、ウクライナ首相などを務めていたニキータ・フルシチョフ(1894-1971)らと会食後、脳卒中で突然倒れ、4日間起きあがらず3月5日、死去しました(スターリン死去)。死因は脳内出血と発表され(暗殺説もある)、レーニン廟で埋葬されました。ソ連の独裁的存在の消滅は、内外に大きな衝撃を与えました。

 その後、マレンコフが首相を務め(任1953-55)、フルシチョフが党第一書記に選出されました(任1953-64)。マレンコフはその後フルシチョフと対立し解任・失脚、ブルガーニンが首相となりました(任1955-58)。フルシチョフは個人独裁を否定し、集団指導制と呼ばれる指導体制に切り換え、指導者の合議を通過して重要議案を決するものとしました。

 1956年2月、スターリン死後最初のソ連共産党第20回大会が開催されました。フルシチョフ体制では、東西冷戦の"雪どけ"を決定づける「平和共存路線」を発表、その後東側陣営の情報局的存在だったコミンフォルム(1947.10-1956.4)の解散が実現しました。さらに、同大会の最終日(2.25)、フルシチョフが秘密報告としてスターリンの個人崇拝と、スターリンが行った大粛清を正々堂々と非難します(いわゆる"スターリン批判")。この秘密報告は6月、全世界に公表されました。

 フルシチョフは、第22回大会でも同様にスターリン批判を行いました。同大会でのスターリン批判では、大粛清の契機となったセルゲイ・キーロフ(1886-1934)の暗殺事件(1934年11月、レニングラードの党中央委員会第一書記だったスターリン派の要人キーロフが、党本部で暗殺された事件。当時反スターリン派によるテロ行為とみなされ、これを機に1936年から39年にかけて、これまで革命や国家樹立に貢献してきた共産党員、政府、軍部の大物要人たちを大量に逮捕、裁判にかけることになり、この結果、逮捕者は"反革命の罪科"で即時銃殺刑が決められ、未曾有の大粛清がはじまります)についても触れられ、再調査の段階であると発表しました。そして現在では、事件の真相は勃発当時とは大きく異なっており、人気の上がっていたキーロフに対してスターリンが嫉妬した、反対派を粛清するための口実として、スターリン自身が暗殺者を利用、キーロフを殺害させたとの見方を強めているとされています。

 スターリン批判は一部を除いて瞬く間に東欧諸国にも浸透し、1961年、スターリンの遺体はレーニン廟から撤去されました。

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2019年03月04日

3月4日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1615年3月4日は、ドイツの画家ハンス・フォン・アーヘン(1552-1615)の没年月日です。

 貴族の肖像画を多く描いてその名が知られたアーヘンは、1592年、神聖ローマ帝国(962-1806)の皇帝、ルドルフ2世(帝位1576-1612。ハプスブルク家出身)の宮廷画家となりました。文化の保護者であるルドルフ2世は、ウィーンからプラハに一時遷都させて、同地で文化の興隆を現出させた治世で知られます。アーヘンの画風は盛期ルネサンス(1450-1527)からバロック(16C末-18C半)への移行期に流行した、マニエリスム絵画を特徴としています(マニエリスムの説明はこちらWeblioより)があります。

 よく知られた作品に1598年の「Allegorie der Gerechtigkeit(『寓話』または『正義の勝利』)。画像はこちらWikipediaより」

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2019年03月03日

3月3日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1707年3月3日は、北インドのムガル帝国(1526-1858)の第6代君主、アウラングゼーブ(1618-1707。位1658-1707)の没年月日です。

 1658年、先代の父シャー・ジャハーン(位1628-1658)の第3子アウラングゼーブが、病気に倒れた父帝をアグラ城に幽閉して帝位を継ぎました。シャー・ジャハーンは、幽閉以後、城内の一室の小窓から遠望される愛妃ムムターズ・マハル(1595?-1631)の廟、タージ・マハルを日々眺めながら、1666年に寂しく死んだといわれております。

 アウラングゼーブはまず財政面の改革に乗り出しましたが、彼は厳格なイスラム教スンナ派信者であり、シーア派とヒンドゥー教徒には寺院破壊などの弾圧を強行しました。このため、これまでムガル帝国に異論ありつつも協力してきたラージプート族(デカン高原地方を拠点とするヒンドゥー勢力で、古代クシャトリヤ階級がルーツになっている上層カースト)は反攻に転じて、1679年から80年にかけて反乱を起こしました。これにより、アウラングゼーブ帝は、遂にシーア派とヒンドゥー教徒に対し、ジズヤを復活させてしまいました(ジズヤ復活。1679)。1681年には王子がラージプート族と手を結んで反攻を起こしたのを契機に、アウラングゼーブは大規模なデカン遠征を行い、治世の大半はこれに費やしました。これにより1689年頃には、帝国領土は最大となりました。

 デカン地方にはラージプート族以外にも戦闘的なヒンドゥー教徒・マラーター族がおり、指導者シヴァージー(1627-80)はアウラングゼーブ軍と徹底抗戦を繰り返し、1674年にはシヴァージーを君主(位1674-80)とするマラーター王国(1674-1849)も建設、ムガル軍隊と対峙しました。18世紀初め以降、王国は名目化しましたが、王国の宰相(ペーシュワー)がマラータ諸侯を集めて実権を掌握し、マラーター同盟(1708-1818)を結成、同じようにムガル軍と争いました。一方パンジャーブ地方には、16C初頭にナーナク(1469-1538)が開いたシク教の信者が、ムガル帝国の圧政に対して、教団の武装化を進めて軍事的結合力を強化し、やがて反乱を起こしました。

 アウラングゼーブの改革は、領土最大化を実現させたものの、遠征による王室の長期不在、これによる宮廷浪費や北・中部インドの治安悪化、戦費散財による財政危機などにより、帝国の衰退が始まりました。官僚には俸給にかえて土地徴税権を与え、徴税請負を再開しました。治世の末年には皇帝の権威も失い、晩年は首都デリーの安定をはかるため、帝はデリーを離れ、1707年3月3日、アフマドナガルで没しました。

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2019年03月02日

3月2日は何に陽(ひ)が当たったか?

1855年3月2日は、ロマノフ家のアレクサンドル2世(1818-81)がロシア皇帝に即位した日です(位1855-81)。

 クリミア戦争(1853-56)の敗色が決定的となり、近代化した西欧列強に遅れをとっていることを実感したアレクサンドル2世は、"上からの近代化"をモットーに、ロシア資本主義的「大改革」を行うことを決めました。それは鉄道建設、陪審裁判の導入、地方自治ゼムストヴォの設立、一般義務兵役制度、工場建設などの実施などでしたが、その中で最も近代化に弾みをつけようとしたのが1861年の農奴解放の発令でした。しかし現状では、自由権を無償解放で得た農奴も、有償解放となった土地の借金に苦しみ、しかもたとえ土地を購入しても、その土地は農村共同体(ミール)に属するため、真の所有地とも言えなかったのです。こうした状況から、解放発令後も生活改善は進まず、しかもポーランドでの反露独立を叫ぶ農民反乱(1863。反露ポーランド反乱)の勃発で、アレクサンドル2世は"改革"から"反動"支配に転じたため、ロシアの西欧に対する近代化の遅れは、王朝の専制体制に問題があるとして、革命主義を訴える人々があらわれます。彼らはおもに体制から疎外された進歩的貴族や、新興市民の子弟などに占められ、西欧的知識・教養を身に付けて、専政支配に対して一貫して戦う知識人階級、すなわちインテリゲンツィア(インテリ)でした。

 専政王政から来るロシアの後進性の批判はなにもアレクサンドル2世の時代からではなく、前々皇帝のアレクサンドル1世(位1801-25)の時代から続いていたことでありました。当時のロシアは"ヨーロッパの憲兵"とも言われ、ツァーリズム(専制)の立場から、ウィーン体制保全による"神聖同盟(1815)"を提唱して、対外の自由主義者を抑圧していたのです。またナポレオン戦争に参加して自国の後進性を意識した青年貴族将校らは、アレクサンドル2世の父にあたる前皇帝ニコライ1世(位1825-55。アレクサンドル1世の弟)が即位した頃、ロシア反動体制に批判してデカブリスト(十二月党)を結成して反乱(1825)をおこしています。こうした経緯から、インテリゲンツィアの発生をうみ、変革の先頭を担うようになっていくのでした。

 インテリゲンツィアは、アレクサンドル2世の大改革によって引き起こされたロシア資本主義を痛烈に批判しました。彼らは作家アレクサンドル・ゲルツェン(1812-70)の思想から、ロシアを再生する出発点は農村共同体のミールであり、西欧とは異なる独自の道を歩みうる"農民社会主義"の実現に努めることに集中していきました。1873〜4年頃になって、この思想は青年・学生を広くとらえ、彼らをナロードニキと呼び、農民の啓蒙からくる蜂起に期待して、"ヴ・ナロード(人民の中へ)"を叫んで農村に入りました。しかし官憲の弾圧をまねき、もともと農民もナロードニキ運動には無関心ということもあって、結果的には失敗に終わりました。
 革命の挫折によって、希望を失ったナロードニキたちの一部には、アナーキズム(無政府主義)やニヒリズム(虚無主義)に走り、全ての国家権威や絶対的真理を否定してく者も現れました。作家イワン・トゥルゲーネフ(1818-83)が1862年に発表した『父と子』では、農奴解放令発令後のロシアが舞台となっており、やがて来るニヒリストの新時代をとらえていて、また1877年発表の『処女地』では、70年代のナロードニキを描写しています。さらに政治的手段として暗殺・暴行(テロル。テロ)を行うテロリズム(暴力主義)も70年代から横行しはじめ、立憲制を求めて、アレクサンドル2世を暗殺する計画を立てていきます。1881年、ナロードニキの中の"人民の意志"派のテロリストは、ロマノフ朝の首都ペテルブルク(後のレニングラード。現サンクト・ペテルブルク)にて、憲法草案に同意の声明を行おうとしたアレクサンドル2世に爆弾を浴びせました。このテロにより、皇帝アレクサンドル2世は亡くなりました。

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タグ:ロシア
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2019年03月01日

3月1日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1445年3月1日は、イタリア・フィレンツェの画家サンドロ・ボッティチェリ(1445-1510)の生誕年月日とされる日です(生誕年月日は諸説あり)。

 メディチ家の当主、コジモ・デ・メディチ(1416-69。期1464-69)の支配期のフィレンツェ(当時はフィレンツェ共和国というイタリアのコムーネ。1115-1532。13世紀より共和政。1532年より公国化)には文化人の保護育成(いわゆるパトロン)も積極的に行われ、イタリア・ルネサンスも興隆期を迎えていきます(1450年から1527年が最盛期。盛期ルネサンス)。その中で、コジモがパトロンとして支援したフィレンツェ派の画家、フィリッポ・リッピ(1406-69。聖母子像やプラート大聖堂壁画で名高い)に弟子入りした若き画家がいました。アレッサンドロ・マリアーノ・フィリペピ(1444/45-1510)という人物で、彼の長兄が"ボティチェロ"という渾名で知られていたため、本人もその後サンドロ・"ボッティチェリ"と呼ばれるようになりました。この語は"小さな樽"という意味で、長兄が小樽の体型をしていたのが由来と言われています。

 皮なめし工職人の子として世に出たボッティチェリは、1460年頃にリッピのもとで師事したとされますが、その後はヴェロッキオ工房にも入りました。修業時代を積み、1470年、商業裁判所における寓意画として『剛殺』を発表、ボッティチェリの処女作品となりました。その後はメディチ家のパトロンとして多くの作品を発表し、フィレンツェにおける初期ルネサンスの代表的画家として成長を遂げました。主な作品(以下の外部リンクはWikipediaより)に『東方三博士の礼拝(1475頃)』『書斎の聖アウグスティヌス(1480/81)』『(プリマヴェーラ。1478?/82?)』『サン・マルコ祭壇画(聖母戴冠と4聖人。1483?)』『ヴィーナスの誕生(1485頃)』など、宗教画、人物画、神話画を残したが、異教的・官能的な女性美の創造が主題となっており、優雅かつ繊細な画風は、ボッティチェリの円熟期(1480年代)における集大成でした。

 その間、若い画家がボッティチェリに弟子入りしていました。フィリッピーノ・リッピ(1457-1504)と言い、フィリッポ・リッピの子です。母はフィリッポ・リッピが修道院から連れ出した修道女で、これが原因でローマ教皇の怒りを買い、修道院の出入りを禁じられたことで知られます(のちに還俗と結婚を教皇より許される。還俗(げんぞく)とは俗人に還ること)。色事の多いフィリッポ・リッピの有名な逸話です。子フィリッピーノは『エラト〜音楽の寓意〜(1500頃)』など、父とボッティチェリに通じる甘美な作品を主に描き、彼は"アミーゴ・デ・サンドロ(サンドロ(・ボッティチェリ)の友人)"と称されました。

 フィレンツェ共和国の政治的支配権はこれまでメディチ家によって握られていたが、15世紀末期になって、徐々にその勢力が揺らぎ始めます。ロレンツォ・デ・メディチ(1449-92。期1469-92)が43歳の若さで没し、子のピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ(1472-1503)が20歳の若さで家督を継承しました(1492期1492-94)。
 やがてイタリア戦争が勃発し(1494-1559)、フランス軍がナポリ侵攻を行いますが、このとき国を仕切るはずのピエロがこの侵攻に怖じ気づき、フランス軍を易々とナポリに入城させて、フィレンツェも占領されてしまいました。これによりメディチ家は人心を失うことになります。しかしこれを予言していた人物がいたのです。ドミニコ修道士のジローラモ・サヴォナローラ(1452-1498)という人物です。サン・マルコ修道院長の肩書きを持っていたサヴォナローラは、かねてよりフィレンツェの行政や経済、そしてルネサンスを代表とする文化的風潮について批判していました。大富豪によって仕切られたフィレンツェでは、市民は信仰心を忘れて享楽に耽ってしまった結果、待ち受けているものは不安と混乱であり、イタリアは外敵に攻めを強いられるだろうというのが彼の主張でした。この主張は当然メディチ家への批判として集中し、彼はメディチ家専政体制によって政治腐敗を招いたと酷評したのです。またサヴォナローラは政治・経済・文化のみならず、教会までもメディチ家の支配となり、真のキリスト教の教義もどこかへ行ってしまったと嘆き、キリスト教における真の教義、そして神の至上性を信仰心の薄れた市民たちに説教していきました。

 しかもこうしたサヴォナローラの予言が的中したことにより、彼にたちまち人望が集まり、メディチ家に代わる新しいフィレンツェのリーダーとして支持が集まったのです。またロレンツォ・デ・メディチの死に際して、ロレンツォは臨終前にサヴォナローラと対面し、罪を告白したという逸話も広まり、ますます信奉者が集まりました。
 1494年、ついにピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ政権は崩壊、メディチ銀行は破綻、ピエロも国外追放となりました(メディチ家、フィレンツェ追放。1494-1512)。これに代わり、サヴォナローラによるフィレンツェ支配となりました(支配期1494-98)。

 サヴォナローラの政治は神権政治でした。神によって守られる国を理想に掲げ、これまで享楽に耽った市民生活を禁じて厳格と質素を重んじました。その一環として人文主義を基本精神として確立されたルネサンスを批判、特にメディチ家が保護した芸術品を押収し、市庁舎広場で"火刑"と称し、焼却処分にしたのです(1497,98"虚栄の焼却")。この結果、市民は生活が貧弱となり、殺伐としてしまいました。
 さらに攻撃の的はもう1つ、当時のキリスト教です。真の教義を教えないローマ・カトリック教会にも異論を唱えたサヴォナローラは、ローマ教皇アレクサンデル6世(位1492-1503)との対立を生むことになり、その結果、サヴォナローラは破門となってしまいました(1497)。
 こうした彼の一連の活動は、ドミニコ修道会と同じく清貧を重んじた托鉢修道会の1つ、フランチェスコ修道会もサヴォナローラのやり方に苦言を呈しました。

 この政変によって、メディチ家のパトロンとして保護されてきた芸術家も少なからず影響を及ぼしました。最も大きく影響を受けたと言われるのがボッティチェリでした。至上の神は人智の及ばないところにあるものとするサヴォナローラの教えはすぐさまボッティチェリの画風の変化に現れました。例えば『ラ・カルンニア(誹謗。1495?)』『神秘の降誕(1501)』などがそうであり、内容は神秘主義的で、彼本来の"優しさ"に代わり、"激しさ"が現れた緊張感溢れる作品が製作されたのです。

 そして、サヴォナローラの圧政が遂に崩壊する時が来ました。フランチェスコ修道会が"火の裁判(火の試練)"と呼ばれる、火中をくぐって主張の真偽を問う裁判を要求したのです。フランチェスコ修道会の主張は、サヴォナローラが神を知る預言者であるならば、火中をくぐっても焼けないはずだというものでした。この要求をサヴォナローラは拒否しましたので、多くの信奉者の離反へとつながりました。サン・マルコ修道院では市民の暴動が起こりました。1498年4月、ついにサヴォナローラは逮捕され、拷問を受けたあげく、裁判ではローマ教皇も参加し、判決では、市庁舎前広場においての絞首刑後、火刑に処されることが決まりました。5月に刑は処され、遺骨はアルノ川に投じられました(サヴォナローラ殉教。1498.5)。

 ボッティチェリの『神秘の降誕』は、サヴォナローラ処刑後に製作されました。この作品の上部に記された銘文は以下の内容によるものです。

  • 「私サンドロは1500年(1501年)の末にこの作品を製作した。イタリア混乱時代、一つの時代とその半分の時代の後、それはつまり聖ヨハネ第11章に記される悪魔が、3年半の間解き放たれるという黙示録の第二の災いの時に描いた。やがて悪魔は、第12章で述べられているように鎖に繋がれ、(この絵のように)地に堕とされるのを見るだろう。」


 サヴォナローラが没し、『神秘の降誕』完成後、ボッティチェリは製作活動を止め、それ以後の足取りは不明になりました。ただ分かっていることは、1510年、フィレンツェで孤独に没したことだけでした(ボッティチェリ死去。1510)。"小さな樽"で知られ、生涯独身を通し、初期ルネサンスから盛期ルネサンスに渡ってフィレンツェに生き、歴史に残る数多くの名作を生み出した大芸術家でありました。

引用文献『世界史の目 第169話』より

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