2019年03月09日
3月9日は何に陽(ひ)が当たったか?
紀元前141年3月9日は、前漢(B.C.202-A.D.8)の劉徹(りゅうてつ。B.C.156-B.C.87)が武帝(ぶてい。位B.C.141-B.C.87)として即位した日です。武帝の治世は、漢王朝(B.C.202-A.D.220)の全盛期を現出しました。
先代の景帝(けいてい。位B.C.157-B.C.141)は財政の安定と産業の充実に尽力し、郡国制(郡県制に封建制が合わさった制度)を緩めて徐々に郡県制に戻していきました。結果、景帝の子である次の武帝の時代において、中央集権国家としての漢王朝の大いなる全盛期となり、54年という長期にわたる治世において、武帝は内政・外政ともに強力な姿勢を貫き、その後の統一王朝にも多大なる影響を与えたのです。
内政では、成功面が数多く見受けられました。B.C.154年に起こった呉楚七国の乱(財政難で封建所領の領地削減が原因で起こった内乱)を反省して、領土相続における新制度が確立しました。これは、これまで嫡子だけが相続していた諸侯領を、今後は子弟にも分割相続させ、諸侯の領土削減化に努めたのです(推恩の令。すいおん)。景帝時代から行われた郡県制への回帰がここで完成しました。
さらにB.C.140年、武帝は年号を初めて制定し、"建元(けんげん)"元年としました。首都長安を含む関中盆地を中心に灌漑事業を大規模に行い、また黄河の治水事業も行っていずれも成功を収めました。地方政策に対しては、中央政府の地方への影響力を維持させるため、官吏の任用を地方長官から推薦させる郷挙里選(きょうきょりせん)を採用しました。
これに伴う文教政策も積極的に行い、景帝時代から博士として活躍していた儒学者の董仲舒(とうちゅうじょ。B.C.176?-B.C.104?)の献策で儒学による思想統一をすすめ、儒教の重要古典である五経(ごきょう。「経書」とも。『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』の5つ)を指導する五経博士を設置、五経を中心とする儒教を正統教義として広め、儒教国教化・儒学官学化を実現させました。儒家思想にもとづいたという点で、法家思想による中央集権体制だった前の秦王朝(?-B.C.206)とは大きく異なりました。
呉楚七国の乱後、父景帝時代から積極的に行われてきた内政は大成功を収め、国家財政も黒字に転じました。充実した国富により、武帝はそれを軍事に充て、初代皇帝の高祖時代(こうそ。劉邦。りゅうほう。漢の建国者。位B.C.202-B.C.195)とはまったく逆の、積極的な外政へと進むことになるのです。
対外発展の対象として、矛先は長年の宿敵である匈奴(きょうど)に向けられました。高祖劉邦の時代では匈奴の2代目君主である冒頓単于(ぼくとつぜんう。位B.C.209?-B.C.174)があまりにも強力でしたので対外和親策を余儀なくされましたが、武帝はそれを改め、B.C.129年以降、優秀な部下である将軍・衛青(えいせい。?-B.C.106。武帝の皇后・衛子夫(えいしふ)の弟)と甥の霍去病(かくきょへい。B.C.140?-B.C.117)に匈奴征討を命じました。若き将軍霍去病(当時20歳代前半だったとされる)は7万に及ぶ匈奴兵を斬殺したと言われ、結果、漢王朝は匈奴を北方へ退かせました。
南方では南越(なんえつ。B.C.203-B.C.111)などを征服してベトナム中部まで領土を拡大、南海郡をはじめとする9郡を設置しました(南海9郡)。朝鮮方面では3代約80余年にわたって朝鮮を支配してきた衛氏朝鮮(えいしちょうせん。B.C.190?-B.C.108。首都は王険城。現・平壌)をB.C.108年に滅ぼして、楽浪郡(らくろう)・真番郡(しんばん)・臨屯郡(りんとん)・玄菟郡(げんと)の朝鮮4郡を設置、漢王朝の直轄領となりました。
中国では西方一帯を西域(せいいき。さいいき)と呼びます。匈奴の駆逐に成功した武帝は、大規模な西域経営に野心をおこしました。まず部下の張騫(ちょうけん。?-B.C.114)を、以前匈奴に敗れて中央アジアのアム川上流まで追われていました大月氏国(だいげつし。B.C.140?-A.D.1C)に派遣しました(B.C.139頃)。この目的は、匈奴の報復に備え、匈奴に対する同じ敵意でもって、匈奴を挟撃しようと約束を取り付ける以外何ものでもありませんでしたが、結局大月氏は匈奴に対する戦意はなかったため計画は流れてしまい、1年余同国に滞在後帰国しました(B.C.129頃)。しかし張騫の大月氏派遣は、西域に点在する諸国の地理事情、文化・社会情報が漢王朝にもたらされ、今後の中国王朝における西域経営出発にむけての大きな突破口となり、張騫は主目的は果たされなかったものの、西域進出を可能にさせた大功労者となりました(その後張騫は当時バルハシ湖南東部にいたトルコ系烏孫(うそん)へも使者として派遣されました)。
続いてオルドス地方(現・内モンゴル自治区。黄河の湾曲によって囲まれている)では朔方郡(さくほう)が置かれ、現在の甘粛省(かんしゅく)にあたる河西地方(かせい。"黄河西方"の意)では敦煌郡(とんこう)・酒泉郡(しゅせん)・張腋郡(ちょうえき)・武威郡(ぶい。「武帝の威、河西に到達」から)の河西4郡が設置され(B.C.121年頃)、そこに軍隊を駐屯しました。河西4郡は周囲のオアシス都市にも恵まれて古代シルクロードの一部として重要な交易路となり、河西回廊(甘粛回廊)と呼ばれる国際通路となりました。
かつての張騫の報告では、中央アジアのシル川上流域に、フェルガナと呼ばれる東西300km、南北150kmに及ぶ大盆地があり、東西世界における陸路の要衝となっていました。中国では大宛(だいえん)と呼ばれましたが、その地では、汗血馬(かんけつば)と呼ばれる、1日千里を走り、その様は血の汗を流すほどの迫力であったとされる馬を産したことで知られていました。そこで武帝は汗血馬を"天馬(てんば)"と呼んで注目し、大宛遠征を決行(B.C.104)、武将・李広利(りこうり。?-B.C.90)を派遣しました。李広利は服属を拒否した大宛の水源を断って40日間包囲し、遂に首都を陥落させ、3000頭の天馬をつれて帰国したと言われています(B.C.102)。
こうして大規模に行われた武帝の対外発展事業はその後も続けられましたが、充分に蓄えられていた財力も徐々に底をつき始めていき、内政改革の必要性も迫られました。結果、4つの大財政改革を施すことになりました。
財政改革のまず1つとして、武帝は貨幣改革に着手し、B.C.118年、五銖銭(ごしゅせん)をこれまでの半両銭(はんりょうせん)に代わって鋳造、結果、その後の中国史上、最も長期にわたって流通した貨幣となりました。
続いて、民の必需品である塩・鉄・酒を専売化しました。民間で自由に経営してきた鉄器鋳造、海水を使った製塩、そして酒の醸造をすべて禁止し、これらはすべて政府の専売となったのです。製鉄と製塩は当時最大の工業であり、罪人と官有奴隷を使って強制労働させましたので、政府には高い利潤を収めることができましたが、品質は悪く国民を困らせたため、武帝の死後に専売反対の論争が起こり、次の昭帝(しょうてい。位B.C.86-B.C.74)のとき、酒の専売のみ廃止されました。
3つ目の財政改革は、商工業者対象の重税です。売買する商品、利子、船、車といった資産に税(財産税)がかけられました。資産所有者は官吏に納税申告するが、不正が発覚すると戦地で力役に服して全資産を取り上げられました。またかつてから行われていた15〜56歳の男女に欠けられた人頭税・算賦(さんふ)も税率を上げて強化しました。
そして仕上げの4つ目は、均輸法(B.C.115発布)・平準法(B.C.110発布)の制定・実施です。均輸法は、均輸官を各地に設置して、特産物を税として貢納させ、これを不足地に転売して物資の調達と流通をはかり、平準法は、長安に平準官をおき、均輸によって集めた物資を高物価のときに売り放し、低物価の時に買いおさめる法律です。これら両法律によって国家は一般商人の利潤をとり上げる形となりました。
このように武帝がおこした財政政策は、一種の社会政策ともみられますが、国家が商工業者の領分を結果的に侵すことになり、かえって社会不安は高まっていきました。宮中でも武帝が信任していました大官の江充(こうじゅう。?-B.C.91)による謀略により、衛皇后と皇太子だった劉拠(りゅうきょ。B.C.128-B.C.91。戻太子。れいたいし)が無実の罪で粛清される事件が起き(巫蠱の獄。ふこ。B.C.91)、衛皇后と劉拠の死後に江充の仕業を知った武帝は、逆に江充の一族を一掃しました。この精神的打撃は武帝には大きくのしかかり、B.C.87年、武帝は没し、武帝の優秀な側近だった霍光(かくこう。?-B.C.68。霍去病の異母弟)に摂政の座を与え、次の幼い昭帝を補佐させたのでした。
引用文献『世界史の目 第146話・第147話』より
先代の景帝(けいてい。位B.C.157-B.C.141)は財政の安定と産業の充実に尽力し、郡国制(郡県制に封建制が合わさった制度)を緩めて徐々に郡県制に戻していきました。結果、景帝の子である次の武帝の時代において、中央集権国家としての漢王朝の大いなる全盛期となり、54年という長期にわたる治世において、武帝は内政・外政ともに強力な姿勢を貫き、その後の統一王朝にも多大なる影響を与えたのです。
内政では、成功面が数多く見受けられました。B.C.154年に起こった呉楚七国の乱(財政難で封建所領の領地削減が原因で起こった内乱)を反省して、領土相続における新制度が確立しました。これは、これまで嫡子だけが相続していた諸侯領を、今後は子弟にも分割相続させ、諸侯の領土削減化に努めたのです(推恩の令。すいおん)。景帝時代から行われた郡県制への回帰がここで完成しました。
さらにB.C.140年、武帝は年号を初めて制定し、"建元(けんげん)"元年としました。首都長安を含む関中盆地を中心に灌漑事業を大規模に行い、また黄河の治水事業も行っていずれも成功を収めました。地方政策に対しては、中央政府の地方への影響力を維持させるため、官吏の任用を地方長官から推薦させる郷挙里選(きょうきょりせん)を採用しました。
これに伴う文教政策も積極的に行い、景帝時代から博士として活躍していた儒学者の董仲舒(とうちゅうじょ。B.C.176?-B.C.104?)の献策で儒学による思想統一をすすめ、儒教の重要古典である五経(ごきょう。「経書」とも。『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』の5つ)を指導する五経博士を設置、五経を中心とする儒教を正統教義として広め、儒教国教化・儒学官学化を実現させました。儒家思想にもとづいたという点で、法家思想による中央集権体制だった前の秦王朝(?-B.C.206)とは大きく異なりました。
呉楚七国の乱後、父景帝時代から積極的に行われてきた内政は大成功を収め、国家財政も黒字に転じました。充実した国富により、武帝はそれを軍事に充て、初代皇帝の高祖時代(こうそ。劉邦。りゅうほう。漢の建国者。位B.C.202-B.C.195)とはまったく逆の、積極的な外政へと進むことになるのです。
対外発展の対象として、矛先は長年の宿敵である匈奴(きょうど)に向けられました。高祖劉邦の時代では匈奴の2代目君主である冒頓単于(ぼくとつぜんう。位B.C.209?-B.C.174)があまりにも強力でしたので対外和親策を余儀なくされましたが、武帝はそれを改め、B.C.129年以降、優秀な部下である将軍・衛青(えいせい。?-B.C.106。武帝の皇后・衛子夫(えいしふ)の弟)と甥の霍去病(かくきょへい。B.C.140?-B.C.117)に匈奴征討を命じました。若き将軍霍去病(当時20歳代前半だったとされる)は7万に及ぶ匈奴兵を斬殺したと言われ、結果、漢王朝は匈奴を北方へ退かせました。
南方では南越(なんえつ。B.C.203-B.C.111)などを征服してベトナム中部まで領土を拡大、南海郡をはじめとする9郡を設置しました(南海9郡)。朝鮮方面では3代約80余年にわたって朝鮮を支配してきた衛氏朝鮮(えいしちょうせん。B.C.190?-B.C.108。首都は王険城。現・平壌)をB.C.108年に滅ぼして、楽浪郡(らくろう)・真番郡(しんばん)・臨屯郡(りんとん)・玄菟郡(げんと)の朝鮮4郡を設置、漢王朝の直轄領となりました。
中国では西方一帯を西域(せいいき。さいいき)と呼びます。匈奴の駆逐に成功した武帝は、大規模な西域経営に野心をおこしました。まず部下の張騫(ちょうけん。?-B.C.114)を、以前匈奴に敗れて中央アジアのアム川上流まで追われていました大月氏国(だいげつし。B.C.140?-A.D.1C)に派遣しました(B.C.139頃)。この目的は、匈奴の報復に備え、匈奴に対する同じ敵意でもって、匈奴を挟撃しようと約束を取り付ける以外何ものでもありませんでしたが、結局大月氏は匈奴に対する戦意はなかったため計画は流れてしまい、1年余同国に滞在後帰国しました(B.C.129頃)。しかし張騫の大月氏派遣は、西域に点在する諸国の地理事情、文化・社会情報が漢王朝にもたらされ、今後の中国王朝における西域経営出発にむけての大きな突破口となり、張騫は主目的は果たされなかったものの、西域進出を可能にさせた大功労者となりました(その後張騫は当時バルハシ湖南東部にいたトルコ系烏孫(うそん)へも使者として派遣されました)。
続いてオルドス地方(現・内モンゴル自治区。黄河の湾曲によって囲まれている)では朔方郡(さくほう)が置かれ、現在の甘粛省(かんしゅく)にあたる河西地方(かせい。"黄河西方"の意)では敦煌郡(とんこう)・酒泉郡(しゅせん)・張腋郡(ちょうえき)・武威郡(ぶい。「武帝の威、河西に到達」から)の河西4郡が設置され(B.C.121年頃)、そこに軍隊を駐屯しました。河西4郡は周囲のオアシス都市にも恵まれて古代シルクロードの一部として重要な交易路となり、河西回廊(甘粛回廊)と呼ばれる国際通路となりました。
かつての張騫の報告では、中央アジアのシル川上流域に、フェルガナと呼ばれる東西300km、南北150kmに及ぶ大盆地があり、東西世界における陸路の要衝となっていました。中国では大宛(だいえん)と呼ばれましたが、その地では、汗血馬(かんけつば)と呼ばれる、1日千里を走り、その様は血の汗を流すほどの迫力であったとされる馬を産したことで知られていました。そこで武帝は汗血馬を"天馬(てんば)"と呼んで注目し、大宛遠征を決行(B.C.104)、武将・李広利(りこうり。?-B.C.90)を派遣しました。李広利は服属を拒否した大宛の水源を断って40日間包囲し、遂に首都を陥落させ、3000頭の天馬をつれて帰国したと言われています(B.C.102)。
こうして大規模に行われた武帝の対外発展事業はその後も続けられましたが、充分に蓄えられていた財力も徐々に底をつき始めていき、内政改革の必要性も迫られました。結果、4つの大財政改革を施すことになりました。
財政改革のまず1つとして、武帝は貨幣改革に着手し、B.C.118年、五銖銭(ごしゅせん)をこれまでの半両銭(はんりょうせん)に代わって鋳造、結果、その後の中国史上、最も長期にわたって流通した貨幣となりました。
続いて、民の必需品である塩・鉄・酒を専売化しました。民間で自由に経営してきた鉄器鋳造、海水を使った製塩、そして酒の醸造をすべて禁止し、これらはすべて政府の専売となったのです。製鉄と製塩は当時最大の工業であり、罪人と官有奴隷を使って強制労働させましたので、政府には高い利潤を収めることができましたが、品質は悪く国民を困らせたため、武帝の死後に専売反対の論争が起こり、次の昭帝(しょうてい。位B.C.86-B.C.74)のとき、酒の専売のみ廃止されました。
3つ目の財政改革は、商工業者対象の重税です。売買する商品、利子、船、車といった資産に税(財産税)がかけられました。資産所有者は官吏に納税申告するが、不正が発覚すると戦地で力役に服して全資産を取り上げられました。またかつてから行われていた15〜56歳の男女に欠けられた人頭税・算賦(さんふ)も税率を上げて強化しました。
そして仕上げの4つ目は、均輸法(B.C.115発布)・平準法(B.C.110発布)の制定・実施です。均輸法は、均輸官を各地に設置して、特産物を税として貢納させ、これを不足地に転売して物資の調達と流通をはかり、平準法は、長安に平準官をおき、均輸によって集めた物資を高物価のときに売り放し、低物価の時に買いおさめる法律です。これら両法律によって国家は一般商人の利潤をとり上げる形となりました。
このように武帝がおこした財政政策は、一種の社会政策ともみられますが、国家が商工業者の領分を結果的に侵すことになり、かえって社会不安は高まっていきました。宮中でも武帝が信任していました大官の江充(こうじゅう。?-B.C.91)による謀略により、衛皇后と皇太子だった劉拠(りゅうきょ。B.C.128-B.C.91。戻太子。れいたいし)が無実の罪で粛清される事件が起き(巫蠱の獄。ふこ。B.C.91)、衛皇后と劉拠の死後に江充の仕業を知った武帝は、逆に江充の一族を一掃しました。この精神的打撃は武帝には大きくのしかかり、B.C.87年、武帝は没し、武帝の優秀な側近だった霍光(かくこう。?-B.C.68。霍去病の異母弟)に摂政の座を与え、次の幼い昭帝を補佐させたのでした。
引用文献『世界史の目 第146話・第147話』より
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posted by ottovonmax at 00:00| 歴史