2019年03月06日
3月6日は何に陽(ひ)が当たったか?
1821年3月6日はギリシア独立戦争が始まった日です。
ビザンツ帝国(395-1453)に属していたギリシア正教徒は、ビザンツ帝国が1453年にオスマン帝国(1299-1922)に滅ぼされてから約400年近くの間、オスマン帝国の支配下におかれ、圧政と宗教差別に苦しめられていました。18世紀末、ナポレオン(1769-1821)のエジプト遠征(1798-99)で、エジプト先住民にナショナリズム精神(国民意識・民族意識)を高揚させ、オスマンからの解放・独立の気運を高めました。これに呼応するかのごとく、ギリシア正教徒もナショナリズムが高まり、ギリシア商人で貴族層出身アレクサンドロス・イプシランディス(1792-1828)が、オスマン帝国から独立するための秘密結社フィリキ・エテリア(ヘタイリア)をおこしました(1814)。
イプシランディスは、もともとロシア軍にも従軍し、その時の皇帝アレクサンドル1世(位1801-25)の副官を務めたこともあり、フィリキ・エテリアはロシアの黒海沿岸都市オデッサで作られました。イプシランディスはまた、ロシア皇帝の専制と反動化に反発した革命団体デカブリスト(十二月党)とも交流して、自由主義精神をも持ち始めました。
フィリキ・エテリアの会員数が1000人を越えた1820年、イプシランディスは同社の総司令官に就任し、武力蜂起の計画が練られました。そして陽の当たった翌1821年3月6日、フィリキ・エテリアは蜂起し、オスマン帝国の宗主権下にあるモルドヴァ公国及びワラキア公国(両公国とも現在のルーマニアあたり)へ進軍、プルート川を渡りました。これが、ギリシア独立戦争(1821-29)です。
しかしイプシランディスの軍は期待していたロシア軍による援助もなく、オスマン軍によって半年も経たずに壊滅、イプシランディスもオーストリアに亡命しましたがそこで捕まり獄死してしまいました。しかしギリシア軍の蜂起は、新しい司令官のもとで、その後も継続され、1822年に独立を宣言しました。これにより、オスマン帝国は、エジプト太守ムハンマド・アリー(1769-1849)の率いるエジプト軍を動かして鎮圧を図りました。オスマン軍は、あのホメロス(B.C.8世紀頃の人。叙事詩人)の生地と伝えられ、ギリシア人の多いキオス島(シオ島。アナトリア西岸)に上陸して、徹底的な虐殺をおこないました(キオス島虐殺事件)。この光景は、ロマン派画家ドラクロワ(フランス。1798-1863)の描画によって世論に紹介され(『シオの虐殺』)、独立の支持が高まりました(でも発売当時は"絵画の虐殺"と酷評されたといわれています)。西欧諸国においても文化の故郷ギリシアを守る意味で独立を援助し、各国から民間人の構成による義勇軍が集められました。『チャイルド・ハロルドの巡礼』を残したイギリスの詩人バイロン(1788-1824)も義勇兵としてギリシアに旅立ちましたが(1823)、到着した数ヶ月後の翌1824年、マラリアにかかり、戦わずして病没しています。
キオス島虐殺事件に対して、ロシアも立ち上がり、イギリス・フランスと独立支援を続け、イギリス外相カニング(1770-1827)の仲介によって、1826年、独立支援同盟を結成、翌1827年10月、3国の連合艦隊が、ナヴァリノ沖(ペロポネソス半島南西岸)で、オスマン艦隊を撃破し、ギリシアの独立を確実なものとしました(ナヴァリノの海戦)。オスマン帝国はオーストリアのメッテルニヒ(1773-1859)に支援を求めましたが、この頃の彼の外交政策は、かつてウィーン会議(1814-15)で議長を務めた時代とはまるで違っていました。アメリカのモンロー教書(モンロー宣言。1823。西欧諸国とアメリカ大陸諸国との相互不干渉を主張)によって、ウィーン体制の干渉が排除され、ラテン・アメリカ諸国の独立が促進しましたので、メッテルニヒは外交の立場では居場所を失い、輝きを失っていたため、軍の支援を得られませんでした。
結局1829年、ロシアとオスマン帝国との間でアドリアノープル条約が締結されました。終戦となり、ロシアはオスマン帝国にドナウ川沿岸と黒海北岸の割譲を強制、またオスマン領のダーダネルス・ボスフォラス両海峡の自由航行権を獲得しました。そして遂にギリシアの独立をオスマン帝国に承認させました。翌1830年、ロンドンにてロンドン会議が開催、イギリス・フランス・ロシアそれぞれの外交官による協議の結果、ギリシアの独立が国際的に承認され(ロンドン議定書)、1832年、国境が画定されて、ギリシア王国が誕生、独立を果たすことができたのです。
引用文献『世界史の目 ギリシア独立戦争』
ビザンツ帝国(395-1453)に属していたギリシア正教徒は、ビザンツ帝国が1453年にオスマン帝国(1299-1922)に滅ぼされてから約400年近くの間、オスマン帝国の支配下におかれ、圧政と宗教差別に苦しめられていました。18世紀末、ナポレオン(1769-1821)のエジプト遠征(1798-99)で、エジプト先住民にナショナリズム精神(国民意識・民族意識)を高揚させ、オスマンからの解放・独立の気運を高めました。これに呼応するかのごとく、ギリシア正教徒もナショナリズムが高まり、ギリシア商人で貴族層出身アレクサンドロス・イプシランディス(1792-1828)が、オスマン帝国から独立するための秘密結社フィリキ・エテリア(ヘタイリア)をおこしました(1814)。
イプシランディスは、もともとロシア軍にも従軍し、その時の皇帝アレクサンドル1世(位1801-25)の副官を務めたこともあり、フィリキ・エテリアはロシアの黒海沿岸都市オデッサで作られました。イプシランディスはまた、ロシア皇帝の専制と反動化に反発した革命団体デカブリスト(十二月党)とも交流して、自由主義精神をも持ち始めました。
フィリキ・エテリアの会員数が1000人を越えた1820年、イプシランディスは同社の総司令官に就任し、武力蜂起の計画が練られました。そして陽の当たった翌1821年3月6日、フィリキ・エテリアは蜂起し、オスマン帝国の宗主権下にあるモルドヴァ公国及びワラキア公国(両公国とも現在のルーマニアあたり)へ進軍、プルート川を渡りました。これが、ギリシア独立戦争(1821-29)です。
しかしイプシランディスの軍は期待していたロシア軍による援助もなく、オスマン軍によって半年も経たずに壊滅、イプシランディスもオーストリアに亡命しましたがそこで捕まり獄死してしまいました。しかしギリシア軍の蜂起は、新しい司令官のもとで、その後も継続され、1822年に独立を宣言しました。これにより、オスマン帝国は、エジプト太守ムハンマド・アリー(1769-1849)の率いるエジプト軍を動かして鎮圧を図りました。オスマン軍は、あのホメロス(B.C.8世紀頃の人。叙事詩人)の生地と伝えられ、ギリシア人の多いキオス島(シオ島。アナトリア西岸)に上陸して、徹底的な虐殺をおこないました(キオス島虐殺事件)。この光景は、ロマン派画家ドラクロワ(フランス。1798-1863)の描画によって世論に紹介され(『シオの虐殺』)、独立の支持が高まりました(でも発売当時は"絵画の虐殺"と酷評されたといわれています)。西欧諸国においても文化の故郷ギリシアを守る意味で独立を援助し、各国から民間人の構成による義勇軍が集められました。『チャイルド・ハロルドの巡礼』を残したイギリスの詩人バイロン(1788-1824)も義勇兵としてギリシアに旅立ちましたが(1823)、到着した数ヶ月後の翌1824年、マラリアにかかり、戦わずして病没しています。
キオス島虐殺事件に対して、ロシアも立ち上がり、イギリス・フランスと独立支援を続け、イギリス外相カニング(1770-1827)の仲介によって、1826年、独立支援同盟を結成、翌1827年10月、3国の連合艦隊が、ナヴァリノ沖(ペロポネソス半島南西岸)で、オスマン艦隊を撃破し、ギリシアの独立を確実なものとしました(ナヴァリノの海戦)。オスマン帝国はオーストリアのメッテルニヒ(1773-1859)に支援を求めましたが、この頃の彼の外交政策は、かつてウィーン会議(1814-15)で議長を務めた時代とはまるで違っていました。アメリカのモンロー教書(モンロー宣言。1823。西欧諸国とアメリカ大陸諸国との相互不干渉を主張)によって、ウィーン体制の干渉が排除され、ラテン・アメリカ諸国の独立が促進しましたので、メッテルニヒは外交の立場では居場所を失い、輝きを失っていたため、軍の支援を得られませんでした。
結局1829年、ロシアとオスマン帝国との間でアドリアノープル条約が締結されました。終戦となり、ロシアはオスマン帝国にドナウ川沿岸と黒海北岸の割譲を強制、またオスマン領のダーダネルス・ボスフォラス両海峡の自由航行権を獲得しました。そして遂にギリシアの独立をオスマン帝国に承認させました。翌1830年、ロンドンにてロンドン会議が開催、イギリス・フランス・ロシアそれぞれの外交官による協議の結果、ギリシアの独立が国際的に承認され(ロンドン議定書)、1832年、国境が画定されて、ギリシア王国が誕生、独立を果たすことができたのです。
引用文献『世界史の目 ギリシア独立戦争』
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posted by ottovonmax at 00:00| 歴史