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2019年03月20日

3月20日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1737年3月20日は、タイ王国の現在の王朝であるチャクリ朝(1782年創始。ラタナコーシン朝バンコク朝とも)の初代国王、ラーマ1世(1735-1809。王位1782-1809)の生誕年月日です。

 ラーマ1世ことルワンヨック・クラバットはアユタヤ王朝(1351-1767)末期に仕官、1767年アユタヤ王朝が崩壊しタークシン(1734-82)によるトンブリー王朝(1767-82)がおこると、ルワンヨック・クラバットはタークシン王に仕え、数々の軍功をあげて"チャオ・プラヤ・チャクリ"等の称号を得ました。

 タークシンは、その治世を暴政に走ったため、人心を失ってチャオ・プラヤ・チャクリに処刑されました。トンブリー王朝は一代で滅び、チャオ・プラヤ・チャクリが王に推されて即位、名を「プラバートソムデットプラ・プッタヨートファーチュラーローク(世界最上の天上の御仏の意。Wikipediaより)」とし、バンコクに遷都してチャクリ王朝を開きました。

 チャクリ朝国王に即位したラーマ1世は仏教を保護してエメラルド寺院(ワット・プラケーオ。画像はこちらwikipediaより)をはじめ、多くの寺院を建立しました。
 1809年9月7日、72歳で没しました。

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posted by ottovonmax at 00:00| 歴史

2019年03月19日

3月19日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1988年3月19日は、Tommy Shaw(トミー・ショウ)のシングル、"Ever Since The World Began"がBillboard HOT100シングルチャート77位を記録した日です。

 Styxを離脱していたTommyが1987年に放ったサード・アルバム、"Ambition"からのシングルで、カバー・ソングです。原曲はアメリカのロック・グループ、Survivor(サヴァイヴァー)のFrankie SullivanおよびJim Peterikによるもので、アルバム"Eye of the Tiger(邦題:アイ・オブ・ザ・タイガー)"のB面(アナログ盤)3曲目にも収録されました。

 Tommy版の"Ever Since The World Began"は、AORムードの漂うメロディアスなバラードで、サックスは、アメリカのミュージシャン、Billy Joel(ビリー・ジョエル)のバンドで知られるRichie Cannataが担当しています。Tommyのアルバム"Ambition"収録の"The Outsider"とのカップリングでリリースされました。

 "Ambition"からは、1曲目収録のロック・ナンバー、"No Such Thing"が先行シングルとしてリリースされました。メインストリームロックチャート(当時は"Album Rock Tracks")ではTop40入りを果たせず(1987年11月14日で41位)、総合チャートであるHOT100シングルチャートにも登場しませんでしたが、続く"Ever Since The World Began"で攻勢をかけたところ、1988年2月12日付HOT100で93位にエントリーしました。Tommyのソロ・シングルとしては4曲目のHOT100エントリー曲で、本作を含むソロ3作品、すべてのアルバムからHOT100へチャートインしたシングルが産まれました。
 93位に初登場した"Ever Since The World Began"は、翌週86位、その後83位→81位と上昇、3月12日付で75位を最高位とし、1988年の本日3月19日で77位に後退しました。その後は79位→84位→89位と下がり、合計9週間のチャートインとなりました。

 現時点では、Tommyのソロ・シングルにおいて、HOT100にエントリーした最後のシングルであります。

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posted by ottovonmax at 00:00| 洋楽

2019年03月18日

3月18日は何に陽(ひ)が当たったか?

 235年3月18日は、ローマ帝国(B.C.27-A.D.395)の第24代皇帝アレクサンデル・セウェルス帝(帝位208-35)が暗殺され、セウェルス朝(193-235)が終わった日です。

 セウェルス朝は、セプティミウス・セウェルス帝(帝位193-211)より始まりました。セプティミウス・セウェルス帝没後、彼の息子で領内の全自由民にローマ市民権を与えるという、いわゆるアントニヌス法(212)を発布したカラカラ帝(帝位209-17)と、その弟ゲタ帝(帝位209-11)が共同統治として続きました。
 しかし政局は安定せず、ゲタ帝は211年、兄カラカラ帝により暗殺、カラカラ帝も217年に護衛兵に暗殺されました。カラカラには継承者がなく、一時的にセウェルス朝は断絶し、騎士階級(エクイテス)出身のマクリヌス(帝位217-18)およびその息子に帝位を簒奪されますが、218年よりセプティミウス・セウェルスの義姉の孫エラガバルス帝(ヘリオガバルス。帝位218-222)が即位してセウェルス朝を復帰させます。
 しかしエラガバルス帝の治世でも悪政が続き、彼自身も性に溺れるなどして人心を失い、反乱軍により処刑されました(222年)。

 エラガバルス帝の従弟にあたるのがセウェルス朝最後の皇帝であるアレクサンデル・セウェルス帝(帝位208-35)で、エラガバルス帝没後に即位しました。アレクサンデル・セウェルス帝はこれまでの悪化した帝政を正常化させようとしましたが、235年3月18日、帝位簒奪を狙うバルカン半島南東部(トラキア)出身の軍人マクシミヌス・トラクス(173?-238)に暗殺され、セウェルス朝は終焉を迎えました。

 帝位を奪ったマクシミヌス・トラクスはローマ皇帝に即位し(帝位235-38)、284年までの約50年間、各地の軍団が統治権を掌握する、世に言う軍人皇帝時代が到来し、ローマ帝国は"3世紀の危機"を迎えることになるのでした。

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タグ:ローマ
posted by ottovonmax at 00:00| 歴史

2019年03月17日

3月17日は何に陽(ひ)が当たったか?

  180年3月17日は、第16代ローマ皇帝、マルクス・アウレリウス・アントニヌス(帝位161-180)の没年月日です。

 パックス・ロマーナ(ローマの平和。B.C.27-A.D.180)と謳われたローマ帝国(B.C.27-A.D.395)の黄金時代。その中のハドリアヌス帝(帝位117-138)が統治していた時代、イベリア半島に所領を持つ富裕な貴族、ウェルス家がでました。ウェルス家はローマ属州(プロウィンキア。イタリア半島以外でローマが征服した地)でしたヒスパニアのバエティカ(現アンダルシア州)にあるコルドバを領有して、一族は国政に参加していました。121年、そのウェルス家からローマで生まれた1人の男児がいました。それが、マルクス・アンニウス・カティリウス・セウェルス(121-180)という人物で、後に"哲人皇帝"と評された第16代ローマ皇帝、マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝です。ネルヴァ帝(ネルウァ。帝位96-98)、トラヤヌス帝(帝位98-117)、ハドリアヌス帝アントニヌス・ピウス帝(138-161)と続く、世に言う五賢帝の最後の皇帝です。

 アウレリウスが3歳の時、法務官(プラエトル)だった父マルクス・アンニウス・ウェルス3世(?-124)は没しましたが、母ドミティア・ルキッラ(カルヴィッラ。?-2C半ば)や祖父マルクス・アンニウス・ウェルス2世(生没年不詳)たちは懸命に貴族としての教養を育ませ、家庭教師や従者を投入してアウレリウスを育てました。家庭教師からは哲学や修辞学を学び、家族からは貴族の出として恥じない品格を教えられました。これをハドリアヌス帝が注目し、127年、彼をエクイテス(古代ローマの騎士階級。元老院を構成する貴族階級、パトリキの次階級)に叙任せられました。アウレリウスがまだ6歳の頃でした。
 ハドリアヌス帝は同性愛者でしたので、後継できる嫡男がおらず、寵愛する重臣ルキウス・アエリウス・カエサル(101-138)を自身の帝位継承者としていました。アウレリウスはルキウス・アエリウスの配下となり、同様にハドリアヌス帝から寵愛を受けるようになります。その後アウレリウスは重職に任命されて人脈を拡げましたが、その中でもストア派(禁欲主義を第一とし、理性に従うことで真の幸福を求められるという思想)の哲学者との出会いは彼の人生を方向付けました。
 138年1月にルキウス・アエリウスが病気のため没し、彼を後継者とする構想はくずれました。ルキウス・アエリウスの子はルキウス・ウェルス(130-169)といい、彼もハドリアヌス帝より寵愛を受けていました。父アエリウスの生前、子ルキウス・ウェルスの妻にハドリアヌス帝の重臣であるティトゥス・アントニヌス(のちのアントニヌス・ピウス帝)の娘アンニア・ガレリア・ファウスティナ(ファウスティナ・ザ・ヤンガー。小ファウスティナ。125-175)を迎え入れることを考えていました。しかしルキウス・アエリウスの病没によって結婚は流れ、ハドリアヌス帝はティトゥス・アントニヌスを養子および帝位継承者とすることを決めました。ただしその条件として、ティトゥス・アントニヌスはハドリアヌスが寵愛するアウレリウスとルキウス・ウェルスを2人とも養子にすることを求められました。それは、ハドリアヌスが2人をのちの帝位後継者とするためでした。

 小ファウスティナの母、つまりティトゥス・アントニヌスの妻はファウスティナ1世(ファウスティナ・ジ・エルダー。大ファウスティナ。100?-140)といい、ウェルス家の娘であり、アウレリウスの父で彼が3歳のときに病没したマルクス・アンニウス・ウェルス3世の妹(姉?)でした。つまり大ファウスティナはアウレリウスの叔母、娘の小ファウスティナはアウレリウスの従妹ということになります。ティトゥス・アントニヌスはルキウス・ウェルスとアウレリウスを養子にとり、正式にハドリアヌス帝の養子および帝位継承者となりました。そして、ティトゥス・アントニヌスの娘である小ファウスティナはアウレリウスと婚約することとなりました。いとこ同士の結婚でした(結婚は145年)。

 同138年の7月、ハドリアヌス帝が62歳の生涯を閉じました。元老院との対立が多かったハドリアヌス帝でしたが、後を継いだティトゥス・アントニヌスは元老院との協調路線を歩み、穏健な政策を打ち立てて、慈悲深さをアピールしました。このため、元老院から"ピウス(・慈悲深い、敬虔な人)"と呼ばれ、アントニヌス・ピウス帝としてその名が残ることとなりました。140年、アウレリウスはアントニヌス・ピウスとともに執政官(コンスル)に就任し、次期帝位継承者となりました。アウレリウスは小ファウスティナと結婚した145年に、ピウス帝とともに2度目の執政官に再任しました。一方ルキウス・ウェルスも153年に財務官(クアエストル)を務め、翌154年には執政官に就任しました。

 150年代半ばになると、晩期にさしかかったアントニヌス・ピウス帝の健康状態が徐々に悪化、161年には帝の補佐を務めていたアウレリウスとルキウス・ウェルスはともに再度の執政官に再任しますが、同年アントニヌス・ピウス帝が病没、ハドリアヌス前帝の遺志をふまえ、アウレリウスとルキウス・ウェルスは共同統治者として即位しました。アウレリウスは皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス(帝位161-180)、ルキウス・ウェルスは皇帝ルキウス・アウレリウス・ウェルス(帝位161-169)として帝位につきました。

 マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝は小ファウスティナとの間には170年までに6男7女を授かりましたが、彼の即位時には、ルキウス・アウレリウス・ウェルス帝と結婚した次女のアンニア・アウレリア・ルキッラ(148?/150?-182)をはじめとする4女を除いて、すでに5子(4男1女)が夭折していました。しかし即位してまもなく誕生した双子の男児は、一方は夭折しましたが、もう一人(ルキウス・アウレリウス・コンモドゥス・アントニヌス。161-192)は父マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝に招かれた専門医師団の尽力で、病弱ながらも順調に育ち、マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝の立派な帝位継承者として修養を積ませていきました。この医師団に所属した侍医には、ギリシア出身で、ローマ帝国の名医として後世にその名が残るガレノス(129?-200?)がいました。

 2人が共同統治者として即位するとまもなく、帝国の辺境における異民族の反乱に悩まされましたが、マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝の治世の大半を、パルティア遠征(161-166)やゲルマン系異民族との戦闘に費やしました(ゲルマニア遠征。この戦闘は異民族の名をとってマルコマンニ戦争の呼称がある。162-180間)。また165年から十数年間ほど天然痘(あるいはペストか?)の流行で国力が疲弊(アントニヌスの疫病。165-180)、さらには169年にルキウス・アウレリウス・ウェルス帝が没したことで(食中毒説、毒殺説など諸説あり)、五賢帝時代と呼ばれた平和な時代に危機感が漂いはじめました。

 ルキウス・アウレリウス・ウェルス帝没後、マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝の単独統治がはじまりました。マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝はこれまで歴代の皇帝のように養子で継承をつないでいくやり方ではなく、自身の血のつながった子を帝位継承者とすることを理想とし、子コンモドゥスに対し、父であるマルクス・アウレリウス・アントニヌス帝自らが教育を施していました。172年には子コンモドゥスをマルコマンニ戦争に従軍させ、後世の名君となるにふさわしい経験と英知をたたき込ませました。しかし175年に、同じく軍に随行して、兵士たちを励まし続けてきた小ファウスティナ妃が没するという悲劇がおこり、しかもパルティア遠征で活躍したシリア属州の軍事総督ガイウス・アウディウス・カッシウス(130?-175)が次期帝位を望み、コンモドゥスを後継者とするマルクス・アウレリウス・アントニヌス帝に対して反旗を翻すという暴挙に出るなど、混乱に巻き込まれました。

 176年、マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝は子コンモドゥスとともにローマへ帰還、凱旋式がとりおこなわれた。戦勝を記念してローマのコロンナ広場に"マルクス・アウレリウスの記念柱"を建造しました(着竣工年月は不詳。画像はこちらWikipediaより)。そして177年、マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝は子コンモドゥスを即位させて、父との共同統治者としてローマ皇帝となりました(帝位177-192。同時に執政官も就任)。ティトゥス帝(帝位79-81)以来、父から実子への、直系の帝位継承が実現したのでありました。五賢帝時代ではもちろん初めてでした。直後、ローマ帝国軍は再度のゲルマニア遠征を決行しましたが、178年、マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝は遠征中に倒れ、病床に伏しました。マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝は子コンモドゥスに、もと執政官の娘ブルッティア・クリスピナ(164-182/187)と結婚させて、やがて単独統治をとることになる子に対して、帝国民の代表として威厳あるローマ皇帝の位を維持させようとしました。

 180年3月17日、マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝は遠征先のウィンドボナ(現ウィーン)で没し(マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝死去。58歳)、ついにパックス・ロマーナと謳われた五賢帝時代は終わりを迎えました。その後は子コンモドゥス帝が単独統治者となりました。マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝は生前、帝位に就いた治世の後半から、戦場にて自分自身宛ての文章を書き綴っていました。これが全12巻に渡る『自省録(じせいろく)』で、ローマ人でありながらラテン語ではなく哲学の原点であるギリシア語で書かれており、断片的な内容ではあるものの、ストア学派の立場から、自分自身に対する欲深さを戒め、ゲルマンの危機にさらされているローマ帝国の平和を守るために自分自身を激励し、逆境に耐えることが記され、神々や両親をはじめとする周囲の人たちに感謝の意を述べていました。こうしたことから、マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝は"哲人皇帝"の異名を残すことになったのです。

 マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝の後を継いで即位した子コンモドゥス帝は、180年にゲルマン系異民族との戦闘に一応の決着をつけ、対外戦争のない時代を現出しましたが、その後は姉でルキウス・アウレリウス・ウェルス帝の妻だったアンニア・アウレリア・ルキッラの内紛(帝位簒奪による暗殺未遂事件)とこれに続く関係者の粛清、コンモドゥス帝の妻ブルッティア・クリスピナの流刑、奸臣マルクス・アウレリウス・クレアンデル(?-190)の専横など不運が続き、人間的理性を失って有力な重臣を追放し、自身も職務を放棄して剣術に没頭する日々を送った結果、元老院議員を敵に回してしまい、192年末に暗殺されてしまいました。これにて、ネルヴァ帝に始まるローマ帝国ネルヴァ・アントニヌス王朝(96-192)はついに断絶し、193年から4年間、帝位をめぐって貴族、騎士、軍人らがそろって即位するという激しい内戦(ローマ内戦。五皇帝時代。193-197。コンモドゥス帝暗殺を内戦に含むと192-197)に突入、政情不安の時代が到来することになるのです。

引用文献『世界史の目 第247話』より

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タグ:ローマ
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2019年03月16日

3月16日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1878年3月16日は、イランの王朝、パフレヴィー朝ペルシア(1925-79)の初代国王、レザー・ハーンことレザー・シャー・パフレヴィー(1878-1944。王位1925-41)の生誕年月日です。レザー・ハーンはイラン北部のマーザンダラーン州出身です。

 イラン王朝のカージャール朝ペルシア(1796-1925。首都テヘラン)は、第一次世界大戦(1914-18)では中立の立場をとり、ある程度自主権を回復させましたが、これまでペルシア北西部を支配していたロシアが、自国の革命(ロシア革命のこと)によってペルシア撤退を決めた後、今度はイギリスの介入が始まり、ペルシア全土を勢力下におくために保障占領し、イギリス・イラン協定を結んでペルシア保護国化を行いました(1919)。
 しかし翌1920年には北西部のアゼルバイジャン地方において、ソ連側が臨時政府を樹立したことによって、ペルシア国民による列強干渉への抵抗運動の勃発を予感させました。よってイギリスは、ペルシア・コサック師団の将校をつとめていましたレザー・ハーンを使って、クーデタをおこす計画をたてました。レザー・ハーンは1921年2月、2500人の兵を率いてテヘランを占領、国政に反する勢力を武力で弾圧し、また臨時政府を打倒してロシア勢力を制圧しました。イギリスによる作戦は成功しました。ソヴィエトの共産勢力を阻むためにペルシアを親英政権にする必要があったのです。

 ところが、レザー・ハーンは愛国派であり、親英政権も快く思わず、イギリス・イラン協定の破棄を宣言するなど、不平等条約の撤廃に努めました。その後議会を操り独裁的権力を握ったレザー・ハーンは、軍司令官となり、1923年にはペルシア首相に任命されました(任1923-25)。
 1925年、国民議会ではカージャール朝の7代目国王アフマド・シャー(位1909-25)による、カージャール朝の存在意義について審議され、レザー・ハーンはカージャール朝の廃止を決議、これによりカージャール朝は滅亡、アフマド・シャーは退位させられました。12月、レザー・ハーンはペルシア王朝代々の王号である"シャー"を称し、新国王レザー・シャー・パフレヴィーとしてパフレヴィー朝ペルシアを開基しました。

 レザー・シャー・パフレヴィーが王位に就いて以降、国内では様々な諸改革がおこされました。トルコ革命(1922-23)におけるケマル・アタテュルク(1881-1938)の実施した諸改革を手本に、財政改革(アメリカ人財政顧問招聘。1922-27)・司法改革(1926)・国民銀行の創設(1927)・義務兵役制度の導入(1929)・鉄道敷設(イラン縦貫鉄道。1938)・国名改称(1935。"ペルシア"から"イラン"へ)などの他、女性解放・教育制度改正・国際連盟加盟・産業振興を行い、ペルシアにおける"上からの近代化・西洋化"と"中央集権体制強化"に尽力しました。しかし、最も重要なイラン産の石油利権はイギリスの手中にあったままでした。

 イランは第二次世界大戦(1939-45)も中立を宣言していましたが、レザー・シャー・パフレヴィーのこうした全体主義的な独裁政権を、イギリスやソ連は警戒していました。イギリス・ソ連は、折しもナチス・ドイツがファシズムによる独裁帝国を築いていたことに重ね合わせ、レザー・シャー・パフレヴィー政権を脅威に感じていました。これにより1941年、遂に英ソ両軍によるイラン進駐が行われ、親ナチスとみられたレザー・シャー・パフレヴィーは退位させられました。そして、長子のムハンマド・レザー・シャー・パフレヴィー2世(1919-80)が即位し、2代目国王となりました(位1941-79)。レザー・シャー・パフレヴィーはその後マダガスカル東方の島国モーリシャスに流され、1944年、ヨハネスブルク(南アフリカ)で客死しました。

引用文献『世界史の目 第68話』より

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2019年03月15日

3月15日は何に陽(ひ)が当たったか?

 B.C.44年3月15日は、共和政ローマ時代(B.C.509-B.C.27)の政治家、ガイウス・ユリウス・カエサル(B.C.100-B.C.44)の没年月日です。

  カエサルはローマの古い名門ユリウス氏の出身で、最初に結婚した妻が平民派(平民会議長をつとめる護民官重視。ポプラレス)出身政治家の娘であったため、彼も平民派とみなされていました。やがて閥族派(保守派。貴族による立法機関である元老院重視。オプティマテス)のスラ(B.C.138-B.C.78)による平民派の弾圧は、彼の死(B.C.78)でもって終焉となり、カエサルもローマに帰省してB.C.77年から政治に携わりました。当時弁論家として名の知れたキケロ(B.C.106-B.C.43)と並ぶほどの雄弁家で文才もあり、B.C.69年に財務官就任、B.C.63年には終身大神官となり、翌62年にプラエトルにまで上り詰めました。プラエトルは属州の総督になることができる、コンスル(執政官)の一段下の官職で、カエサルはただちにヒスパニア(現スペイン地方)の総督に任命されて功績をあげ(B.C.60)、ローマ市民からの支持率を上げました。しかし、一平民派の人間として、元老院は彼の台頭に危機感を抱き、カエサル自身も元老院と対立しました。

 一方のポンペイウス(B.C.106-B.C.48)とクラッスス(B.C.114頃-B.C.53)は、スラの死後、剣奴(剣闘士として見世物にされた奴隷)出身のスパルタクス(?-B.C.71)がおこした大奴隷反乱(B.C.73-B.C.71)を鎮定して軍功をあげ、B.C.70年、2人は同時にコンスルに選出されました。2人は、スラの恐怖政治時代を見直し、護民官の職権を回復させるなど、派閥党争の緩和に努め、平民派の主張を理解しはじめ、カエサルとも接近しました。その後もポンペイウスは地中海の海賊を討伐し(B.C.67)、スラ時代から続いた小アジア(アナトリア。現トルコ地方)にあるポントス王国とのミトリダテス戦争(B.C.88-B.C.63)を平定、ここを属州としました。しかしこの頃から元老院は彼らの出過ぎた活躍に妬み、また彼らの平民派への接近が元老院を怒らせ、次第にポンペイウスは元老院と対立を深めていきました。

 B.C.60年、遂にカエサルはポンペイウス・クラッススと密約を結び、3人で元老院を抑えて国政を分かち合うことを決意し、第1回三頭政治(B.C.60-B.C.53)によって実力による支配体制を強行、カエサルは翌B.C.59年にコンスルに選出されました。ポンペイウスはヒスパニア、クラッススは強国パルティア(B.C.248頃-A.D.226)と支配をめぐり争っているシリア地方、そしてカエサルはいまだ未開のガリア地方(現フランス地方)の軍令権を得て、統治しました。

 B.C.58年、カエサルはケルト系民族のいるガリア地方やブリタニア(現イングランド地方)地方へ赴き、同民族を平定、そして初めてライン川も渡ってゲルマン人も抑えました(ガリア遠征。B.C.58-B.C.51)。この時カエサルに従軍した部将の中に、のちにカエサルの副官として活躍するアントニウス(B.C.82-B.C.30。閥族派出身)もいました。アルプス以北をローマ領としたカエサルは、遠征地に高額の租税を課し、巨富を得ました。ガリア遠征が終わったカエサルは、B.C.51年、簡潔な文体で遠征の経過を記述した『ガリア戦記』を発表しています。こうしてカエサルは三頭政治以上の活躍を見せ始めたので、ポンペイウスは彼を嫉視するようになっていきました。カエサルの娘ユリア(B.C.83?-B.C.54)はポンペイウスの妻でしたが、B.C.54年にユリアが死亡し、姻戚関係が途切れたことで、カエサルとポンペイウスとの破綻は決定的となりました。一方でクラッススはコンスルに再選出され(B.C.55)、遠征地パルティアとの戦争のため、息子とユーフラテス川を渡ってシリア地方にむかうも、パルティア軍の反撃にあい、B.C.53年、同川沿いの町カルラエで息子と共に戦死し、ここに第1回三頭政治は事実上終結しました。

 クラッスス戦死による三頭政治の崩壊は、残されたカエサル、ポンペイウスの統治権も喪失したのに等しく、元老院は威信回帰のため、カエサル軍の解散とローマへの召還を決議しました。カエサルを妬むポンペイウスも遂に妥協・結託して元老院と手を結び、カエサルと戦闘を交えることを決意しました(B.C.49)。

 生まれ故郷ローマが敵となったカエサル軍は、この時ガリアから南下し、イタリア北国境を流れるルビコン川にいました。B.C.49年1月、カエサルは「(さい)は投げられた」と発して、軍を率いてローマを進撃しました。カエサル自ら内乱に身を投じた形となり、ローマを占領しました。翌B.C.48年、ポンペイウスは、ギリシア北部テッサリア地方のファルサラスで、カエサル軍と戦闘を開始(ファルサラスの戦い)、カエサルはポンペイウス軍を撃破、彼をエジプトへ追い込みました。折しも、エジプトはプトレマイオス朝(B.C.304-B.C.30)の治世で、内紛が起こっていました。ポンペイウスは同地で、プトレマイオス王の刺客に暗殺されました。
 同じくエジプトに入ったカエサルは、内紛でプトレマイオス朝の王位を奪われていたクレオパトラ7世(B.C.69-B.C.30)と親しくなり、内紛に介入して戦いました。さらに彼女を窮地から助け、王位を回復させました(B.C.48)。この時、カエサルはクレオパトラと愛人関係になり、子カエサリオン(B.C.47.6-B.C.30.8)を授かりました。このとき、ポンペイウス側に従軍してカエサルと争っていたブルートゥス(B.C.85-B.C.42)・カッシウス(B.C.83?-B.C.42)らは、後にカエサルに許されて、カエサル側につき、諸官職を歴任しています。

 その後カエサルは東方の小アジアにも軍を送り、同地で栄えていたポントス王国軍に対して進撃しました。同国の町ゼラでポントス王ファルナケスをすぐさま敗り(ゼラの合戦。B.C.47.8)、カエサルはローマへ"来た、見た、勝った"と書き送り、戦勝の迅速さを主張しました。その後北アフリカの元老院派を制圧してローマに凱旋帰国、B.C.46年、彼は任期10年のディクタトル(独裁官)に選ばれ、権力はカエサルただ一人に集まりました。カエサルの天下統一が現実的なものとなり、さらにB.C.44年、元老院はカエサルにある称号を献じました。これは"命令権(インペリウム)"が与えられたローマ最高の軍指揮官という意味から転じて、戦勝後、凱旋式前の将軍に「戦勝凱旋将軍」の称号として献じた"インペラトル"というものです。これは"皇帝"を意味する"エンペラー"の語源にもなりました。インペラトルの称号を得たカエサルは軍の、神職の最高司令官となり、文字通り、ローマの頂点に立ちました。元老院議員を選任するのも、政務官職を任命するのも、護民官の神聖権もすべてカエサルの思いのままになりました。これにより民会による貴族共和政は消え去っていき、徐々に帝政の傾向へ進むのでした。

 インペラトルの称号を得て以来、カエサルは救貧策として無産市民に土地を分配し、穀物を安価で供給しました。奴隷解放もすすめ、属州での徴税請負を廃止、また属州民にはローマ市民権を与えました。またエジプトの太陽暦を使用してユリウス暦を作成、1582年のグレゴリ暦制定まで使用されました。数々の改革を迅速に行ったカエサルは、政治経済的にも文化的にも優れた人物として、市民からは絶大な支持率を誇り、彼を神格化しました。

 B.C.44年、カエサルはアントニウスをコンスルに選出(1月)、カエサル自身はディクタトルの任期を終身としました(2月)。そして、かつてクラッススが為し得なかったパルティア遠征を企画しましたが、このとき、ある噂が流れました。遠征するからには、自身の地位をさらに明確なものにするため、「王」の称号、つまり"ローマ帝国"の必要性をカエサルが主張しているというもので、かつての貴族共和政の復活を目指している共和派の残党達は、"カエサルが王位につけば、共和政は完全に消滅し、元老院も完全に倒れるだろう"と考え、カエサルに対する反感を強め始めたのです。その中で、ポンペイウス死後、カエサルと長きにわたって行政を共にしてきたブルートゥスは、自身が共和政創建者を子孫に持つことに誇りを持ち、同士カッシウスらと暗殺を共謀、B.C.44年3月15日、パルティア遠征直前の元老院議会開催中、席上でカエサルは共和派の暗殺一味によって暗殺されました。信任の厚く、息子のように可愛がっていたブルートゥスが暗殺一味の中にいるのを発見したカエサルは、驚きと悲しみが同時に湧きながら"わが子よ、お前もか!!"と発し、暗殺者が剣をカエサルに向けた時、カエサルは抵抗をあきらめ、そのまま刺されたといわれております。

 カエサルの死は、民衆と兵士に深い悲しみを与えました。火葬されたカエサルの遺体は夜空の星となって、神ユリウスとされました。カエサル暗殺時にローマに滞在していたクレオパトラ7世と子カイサリオンは、エジプトへ帰国し、親子で共同統治を行うことを宣言しました。またカエサルを信頼し続けたアントニウスは、彼を神と崇め、カエサルに倣った雄弁ぶりで追悼演説を行ったのでした。

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2019年03月14日

3月14日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1927年3月14日は、第一次若槻禮次郎内閣(わかつきれいじろう。1926.1.30-1927.4.20)で大蔵大臣を務めた片岡直温(かたおかなおはる。1859-1934)氏が、衆議院予算委員会において重大な発言をした日です。

 第一次世界大戦(1914-18)によってもたらされた大戦景気(大正バブル)は、大戦の終結とともに終わりを告げ、それまで過剰な生産を続けた反動から1920年頃より戦後恐慌に転じ、輸入超過によりこれまで好調を維持していた綿糸や生糸などの糸産業も半値以下に暴落して、企業や銀行は不良債権を抱えることになりました。

 さらに追い打ちをかけるかのごとく、1923年9月1日に関東大震災が発生し、政府は震災手形割引損失補償令を公布しました。これにより決済不能の手形を日本銀行が補填する形になりましたが、結果的に震災手形も上手く機能しないまま不良債権化がすすみ、金融不安が続いていた状態でした。
 こうした中で、1927年3月14日の衆院予算委において、片岡蔵相は、当時の東京渡辺銀行を名指しして、「東京渡辺銀行がとうとう破綻をいたしました」と失言してしまったのです。実際は破綻していなかったにもかかわらず、この失言で金融不安は顕在化し、多くの中小銀行で取り付け騒ぎが発生しました。
 また当時、神戸市にあった商社、鈴木商店は、台湾銀行(日本統治時代の台湾で発足した商業銀行)によるばく大な貸出で、大戦景気時代に絶頂期をうみました。しかしその後の戦後恐慌と震災恐慌で打撃を被り、震災手形による損失補填を行いながら何とか乗り越えましたが、結果的にこの失言の影響で台湾銀行が鈴木商店への融資を打ち切ったことで、資金調達ができなくなった鈴木商店は4月に事業停止に追い込まれ、台湾銀行も休業を余儀なくされました。この影響により、東京渡辺銀行をはじめ、多くの銀行が休業に追い込まれました。
 失言によってもたらされた金融不安は大きな経済打撃となり、昭和金融恐慌と呼ばれる大不況に陥ることになったのです。政府は支払猶予令(モラトリアム)施行で金融機関の再建に取りかかりました。

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2019年03月13日

3月13日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1781年3月13日は、天王星が発見された日です。

 もともとは天文学者ジョン・フラムスティード(1646-1719)が1690年に恒星として観測した星を"おうし座34番星"としてフラムスティード番号を振ったのが始まりです。この頃から天王星の存在は知られていましたが、恒星とされており、惑星としてではありませんでした。

 18世紀、音楽や数学を携わっていたウィリアム・ハーシェル(1738-1822)という人物は、学問の展開で天文学にも興じ、自宅から自作の望遠鏡で夜空を見上げ、新しい天体の調査に没頭していました。すると、ハーシェルは彗星らしき新天体を1781年3月13日に発見しました。しかしハーシェルはその後の軌道の観測結果から、彗星ではなく土星よりも遠方にある、太陽系の惑星であるとつきとめたのです。中国ではこの星を"天王星"と訳したことから、アジアでは"天王星"の名が広まりました。

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2019年03月12日

3月12日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1930年3月12日は、イギリス統治下のインドにおいて、マハトマ・ガンディー(1869-1948)とその支持者たちによる"塩の行進(Dandi Satyagraha)"が始まった日です。

 ガンディーとその支持者たちは、製塩禁止法により生活必需品の塩を専売にして重税をかけているイギリスに対して、非暴力・不服従運動を再開しました(第2次非暴力・不服従運動。1930-34)。80人の支持者を連れたガンディーはインド西部のアフマダーバードにある自身のアシュラム(学校)を出発し、ボンベイ近くのダンディの海岸まで約360kmを、陽の当たった1930年3月12日から4月6日までの4週間近く徒歩で行進したのです。これが「塩の行進」による抗議です。海岸到着後、数千人に拡大した行進の一団は、海岸の塩を作る作業を行いました。この塩が専売制を無視してインド各地で販売されていったのです。

 イギリス政府は、インドのこうした抵抗運動の抑止と、今後のインドについて論議を行うため、ロンドンに英印円卓会議を召集しました(1回目1930.11-31.1。2回目1931.9-12。3回目1932.11-12)。インドからも指導者や政治勢力を招き入れました。国民会議派(反英精神からくる民族独立を主張)では2回目のみガンディーらが運動を中断して参加しましたが、1,3回目はボイコットしました。インドの自治や、憲法作成などの議題に挙げるなどしましたが、結局イギリスの譲歩もなく、インド側にとっては手応えがないままに終わりました。イギリスにとっては、落胆に変わった国民会議派の運動が縮小したことで、次の手順にふみきることができました。これが、1935年に制定した改正インド統治法(新インド統治法)です。

 改正インド統治法は、インドの各州に責任自治制を導入し、イギリス領内におけるインドの連邦制を確立した内容でした。しかし外交や軍事はイギリスが管理するため、完全独立・完全自治を要求するインドの願いはかなえずじまいとなりました。イギリスからの独立は、第二次世界大戦終戦後、1947年8月まで待たねばならなかったのです。

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2019年03月11日

3月11日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1864年3月11日は、前日に即位したバイエルン国王のルートヴィヒ2世(位1864-86)が、午前10時にてバイエルン憲法に宣誓を行った日です。

 ドイツ南部のバイエルン地方では、バイエルン公国(907-1623)時代の1180年、ヴィッテルスバハ家のオットー1世(公位1180-83)が初代バイエルン公に即位して以降、バイエルン選定侯領(1648-1805)、バイエルン王国(1806-1918。首都ミュンヘン)を経て、ドイツ革命(1918-19)により王政が廃止されるまでの間、ヴィッテルスバハ家の支配が続きました。1806年、神聖ローマ帝国(962-1806)の完全滅亡にともない、バイエルンはナポレオン1世(位1804-14.15)の結成した国家連合であるライン同盟に加盟させられ、王国に昇格しました。これがバイエルン王国で、前身のバイエルン選定侯領の選帝侯であったマクシミリアン4世(選帝侯位1799-1805)は初代バイエルン王マクシミリアン1世となったのです(マックス・ヨーゼフ。王位1806-25)。
 やがてライン同盟は1815年のウィーン議定書によってオーストリア(1804-67)を盟主とするドイツ連邦(1815-66)となります。ウィーン体制下のバイエルン王国ではマクシミリアン1世没後、長子のルートヴィヒ1世(位1825-48)が即位したましがドイツ三月革命(1848.3)の時に取り沙汰された愛人問題によって退位を余儀なくされ、長子マクシミリアン2世(位1848-64)が即位しました。

 マクシミリアン2世はプロイセンの王族であるホーエンツォレルン家出身のマリー王妃(1825-89)と結婚し、長男ルートヴィヒ(1845-86)、次男オットー(1848-1916)の2男をもうけました。父マクシミリアン2世は執務が多忙であり、性格も冷淡で禁欲的な人物でした。養育は担当者によって行われ、父母が直接関わることは少なかったですが、やがて厳格な教育が組み込まれていきました。しかし次期王位継承者である兄ルートヴィヒは、帝王学の習得を不完全のままにしていました。
  ルートヴィヒ、オットーの兄弟は、幼年時代を父マクシミリアン2世が4年がかりで改築したホーエンシュヴァンガウ城(画像はこちら。以下、wikipediaより)で過ごしました。木々と湖といった自然に囲まれた城で、壁面にはアーサー王伝説に登場する白鳥の騎士"ローエングリン"をはじめとする中世騎士伝説の壁画が描かれており、兄ルートヴィヒはやがて、中世に生きた白鳥の騎士"ローエングリン"に強い愛着をもつようになり、やがて自分をローエングリンに重ね合わせる空想をおこすようになりました。そしてロマン主義音楽家で、歌劇王の異称で知られるリヒャルト・ワグナー(ヴァーグナー。1813-83)のオペラ『ローエングリン(1848作)』への執心も激しくなり、1858年にミュンヘンで上演された"ローエングリン"を観劇し、完全に魅了されたのです。こうして、"ローエングリン"に心酔したルートヴィヒは、現実と空想の境界線がぼやけていくようになっていきました。

 ローエングリンとは、ブラバント公爵の娘エルザを救い保護した白鳥の騎士が、決して名前を問わないことを約束に結婚するも、約束を破ってしまったエルザと別れる話で有名です。ルートヴィヒが観劇したワグナーの『ローエングリン』はエルザとの結婚から別れまでをオペラ化したものでした。ルートヴィヒは『タンホイザー(1845作)』『トリスタンとイゾルデ(1857-59作)』などのワグナーの作品、またワグナー自身にも興味を持ち始めました。

 1864年、厳格に子どもたちを教育した父マクシミリアン2世が死去しました。そして3月10日、18歳のルートヴィヒがルートヴィヒ2世として、バイエルン国王に即位し、陽の当たった1864年3月11日にはバイエルン憲法に宣誓を誓いました。ルートヴィヒ2世が最初に行ったのは、ワグナーのバイエルンへの招聘でした。ワグナーはドイツ三月革命の最中、ドレスデンでの革命運動がもとで亡命生活を送っていました。さらには放蕩に耽った代償として多額の借金を背負い、窮地に陥っていました。さらにワグナーはハンガリーの音楽家であるフランツ・リスト(1811-86)の娘コジマ(1837-1930)との不倫問題もありました。ワグナーより24歳年下のコジマは、既に指揮者ハンス・フォン・ビューロー(1830-94)の妻で、2児の母でしたが、1862年にワグナーと知り合い愛人関係となっていた状態でした。スキャンダルにまみれ、周囲からも悪い噂しか耳に入らない状態で、ルートヴィヒ2世の家臣たちはワグナー招致を拒みましたが、ルートヴィヒはその反対を押し切って、ワグナーをミュンヘンの宮廷に招待しました。ルートヴィヒはワグナーの債務を負担したばかりか、豪邸を贈与し、公演会場や音楽学校の設立も関わりました。これは、エルザを保護したローエングリンと、ワグナーを保護したルートヴィヒ2世が見事に重なった瞬間でありました。
 しかし、エルザはローエングリンと別れたのです。ルートヴィヒとワグナーの別離は時間の問題でした。家臣はワグナー追放を叫んでいました。さらにワグナーは人妻であるコジマを愛しており、コジマはワグナーの子を妊娠していました(1865出産)。ルートヴィヒ2世もワグナーの不倫問題は快く思わず、結果的にミュンヘンから追放されることとなりました(1865)。ワグナーはスイスに戻ってその後コジマと同棲を始め、1869年コジマはビューローと離婚(1869)、ワグナーと再婚しました(1870)。

 ドイツ連邦内では、プロイセン王ヴィルヘルム1世(普王位1861-88)及びオットー・フォン・ビスマルク(1815-98)の率いるプロイセン王国(1701-1918)と、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(墺帝位1848-1916)の率いるオーストリアとの間を中心とする普墺戦争(プロイセン・オーストリア戦争。1866)が起こりました。戦争はプロイセンの勝利となり、ドイツ連邦はオーストリアとドイツ南部諸邦を除いた北ドイツ連邦(1867-1871)となった。オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に嫁いだ皇后エリーザベト(1837-1898。墺皇后位1854-98)はヴィッテルスバハ家出身で、エリーザベトの父はバイエルン公であったことと、当時のバイエルン王国及び王家ではプロイセン寄りではなくオーストリア寄りだったことも一因して、バイエルン王国の北ドイツ連邦加盟は見送られました。そして、普墺戦争に勝ったプロイセンから敗戦国オーストリアを支持したバイエルン王国政府に対して、戦争による賠償請求がおこされました。

 普墺戦争終結後、ルートヴィヒ2世は婚約を交わしました。オーストリア皇后エリーザベトの妹、ゾフィー・シャルロッテ・アウグステ(1847-97)が婚約相手でした。ルートヴィヒ2世はもともと男色を好んだ人物でしたが彼には生涯、心を許した女性がいました。それは彼の8歳年上のエリーザベトでした。窮屈な宮廷を嫌い、現実を見つめず理想を追い求めるのエリーザベトの姿はまさに、ルートヴィヒ2世の幼少期から理想の女性像でした。しかしエリーザベトはすでにオーストリア皇后の身分でした。エリーザベトはルートヴィヒ2世の行く末を心配しており、妹ゾフィーを婚約相手に薦めたのでした。
 1867年1月にルートヴィヒ2世はゾフィーとの婚約を果たし、ルートヴィヒ2世の誕生日にあたる同年8月25日に挙式が組まれました。しかし現実を受け入れられないルートヴィヒ2世は愛していない女性と結婚する現実と向き合うことができず、ついに彼は同年10月12日に挙式の延期を発表し、その日が近づくとさらに11月末への延期を示唆したため、ゾフィー側の家族はルートヴィヒ2世に早急の意志決定を迫り、次に延期したら婚約を破棄すると通告しました。結局ルートヴィヒ2世はそれに対する書簡をゾフィーに送りました。内容は婚約破棄の返事でした。しかもこの書簡が婚約を破棄する内容でありながらゾフィーに対する呼びかけが"親愛なるエルザ"というふざけたもので、バイエルン公である父は勿論のこと、推薦したエリーザベトはこの行為に対して激怒し、これを機にルートヴィヒ2世に対して疎遠になっていきました。

 1869年、ルートヴィヒ2世はホーエンシュヴァンガウ城の近隣に新たな王城の建設を開始しました。ルートヴィヒ2世は名だたる王城専門の建築家を呼び寄せると思いきや、招致したのは舞台美術家のクリスチャン・ヤンク(1833-88)という30代半ばの人物で、彼が手掛けた城は、ルートヴィヒ2世の空想に任せた、まさにロマンの追求そのものでありました。最初に着工された王城はノイシュヴァンシュタイン城(画像はこちら)であり、中世騎士伝説やワグナーのオペラから着想を得て建設され、これらのロマンチズム溢れる壁画や装飾が至るところに作られました。一方、礼拝堂は造られず、玉座(ぎょくざ。君主の座具)が置かれる広間は後回しに造るという、王の欲求通りに建設が進行していきました。

 この間、プロイセンはフランスと交戦し勝利しましたが(普仏戦争。プロイセン・フランス戦争。1870-71)、プロイセン王国のビスマルクはプロイセン中心の連邦体制よりも、対仏で芽生えたドイツ・ナショナリズムを利用したドイツ統一を考えました(ただ国王ヴィルヘルム1世は当時プロイセン中心主義者でしたのでドイツ統一には消極的でしたが、ビスマルクの説得で不承不承ながら譲歩したとされます)。北ドイツ連邦に参加しなかったバイエルン王国を含むドイツ南部の諸邦に支持を取り付け、プロイセンをドイツに組み込むことを決断し、ドイツ統一を実現させました。1871年1月18日、敗戦国フランスの王宮・ヴェルサイユ宮殿にて、初代カイザー(ドイツ皇帝の帝号)としてヴィルヘルム1世が即位し(帝位1871-88)、北ドイツ連邦は解体されてドイツ帝国(1871-1918)となりました。

 ドイツ帝国に組み込まれたバイエルン王国は、さらにドイツ統一を支持し、帝国の領邦とされました(神聖ローマ帝国時代の領邦は1648年のウェストファリア条約で国家主権が認められ、領邦国家体制が敷かれましたが、今回の統一における領邦における国家主権は失われ、帝国を構成する諸邦となりました。バイエルン王国もドイツ帝国の構成国の1つとなりましたが、同じく帝国に組み込まれた他の諸邦に比べて緩やかな自治が認められ、"王国"を名乗ることもできたのです)。またバイエルン王国は普墺戦争における賠償を支払う一方で、普仏戦争時にプロイセンと同盟を組み、ドイツ統一を支持したことによるプロイセンからの謝礼金が転がり込んできました。

 ルートヴィヒ2世は首都ミュンヘンには戻らず築城に専念し、その建設費用も王自身の私費と王室費から捻出しました。王室費に組み込まれたドイツ支持によるプロイセンからの謝礼金も散財していきました。1874年から2つめの王城・リンダーホーフ城(【画像はこちら)が着工され、1878年に完成しました。ルートヴィヒ2世在位期間中、最初に完成された城です。リンダーホーフ城は当時の近代建築様式とは違い、ヴェルサイユ宮殿の大トリアノン宮(画像はこちら)をモチーフに完成された城で、一昔前のルネサンス様式(優美・調和・均整)、バロック様式(豪壮・華麗)、そしてロココ様式(繊細・軽妙)といった中世近世の建築様式を大胆に融合させた城でありました。ブルボン朝(1589-1792,1814-30)の華やかな時代にも憧れていたルートヴィヒ2世は、ルイ14世(太陽王。位1643-1715)などの像も製作し、城館に設置しました。城内の庭園には、ルートヴィヒ2世が執着したワグナーの『タンホイザー』にも登場する鍾乳洞"ヴェーヌスの洞窟"が人工的に作られてあり、幻想とロマンを主張した造りになっています。ノイシュヴァンシュタイン城にもタンホイザー関連の鍾乳洞が人工的に造られましたが、これは"城内"に建造されました。

 ヴェルサイユ宮殿もルートヴィヒ2世を魅惑する王宮の1つであり、1878年にはリンダーホーフ城に続いて、バイエルンのキーム湖に浮かぶ島上にてヘレンキームゼー城(画像はこちら)が着工されましたが、この城もヴェルサイユ宮殿がモデルでありました。1883年には4番目の王城であるファルケンシュタイン城(画像はこちら)をノイシュヴァンシュタイン城よりも高所に着工し始めました。またアジアやヨーロッパの有名な宮殿を模した王城の建設計画もルートヴィヒ2世によって挙げられました。

 しかし、ルートヴィヒ2世の理想を追求した王城建築は、築城費問題において国家財政を脅かすところまできており、プロイセンに普墺戦争による賠償分を残した状態でありながら、建設費がなくなると公債を乱発するという悪循環をおこしました。ただ、この頃のルートヴィヒ2世は王城建築しか興味を示しませんでした。さらにはドイツ統一前に弟のオットーが精神に異常をきたすようになり、療養の一環としてミュンヘンのニンフェンブルク宮殿、その後近郊のフュルステンリート宮殿に引き籠もるようになりました。弟と離れたルートヴィヒ2世は、王室における執務なども忘れて、ますます現実から逃避するようになり、常に自身の理想を追求すべく築城に邁進しました。ルートヴィヒ2世は常に一人で動くようになり、食事も一人でとり、真夜中に外出し、朝昼に寝ると言った生活が続きました。リンダーホーフ城では城館に置かれたフランス・ブルボン朝のルイ14世の像などに対し、あたかも生きた人間であるかのように対話をするなどの奇行もみられたといわれております。1883年にはこれまで心の大きな支えとなっていたワグナーが心臓発作のためヴェネツィアで客死したことも影響しました。
 翌1884年には建設中におけるノイシュヴァンシュタイン城に居住するようになり、城内に引き籠もるようになっていきました。寝室と同階にある人工の鍾乳洞を癒しの空間として一日入り浸りました。

 ルートヴィヒ2世の国王らしからぬ行動は、さすがに王室だけでなくバイエルン政府も危機感をおぼえ、1886年6月12日朝、遂に国王は精神科医ベルンハルト・フォン・グッデン医師(1824-86)によって精神疾患と診断されました。直後、ルートヴィヒ2世は家臣団によって捕らえられ、バイエルン南部のシュタルンベルク湖畔のベルク城(現バイエルン州シュタルンベルク郡)に移送、幽閉処分となりました。王位は廃され、叔父のルイトポルト・ヴィルヘルム(1821-1912)が摂政を務めることが決まりました(任1886-1912)。ルートヴィヒ2世には主治医としてグッデン医師が常に随伴しました。ルートヴィヒの退位により、ノイシュヴァンシュタイン城、ヘレンキームゼー城、ファルケンシュタイン城の建設は中断されました。

 そして翌6月13日夕方、ルートヴィヒはグッデン医師とともに散歩に出かけました。しかし、ベルク城には戻って来ませんでした。そして、同日夜遅く、シュタルンベルク湖畔で2人は水死体となって発見されたのです(ルートヴィヒ2世没。1886.6)。現場は溺死するほどの水深ではなく、グッデンには顔に傷が残されてはいたものの死因は謎とされ、現在においてもなお未解明です。発見された湖畔には木製の十字架が建てられ、湖を訪れた多くの人々が40年の生涯を閉じたバイエルン国王を偲びました。国王の死を聞いたオーストリア皇后エリーザベトは大変ショックを受けたといわれております。そして、次の言葉が寄せられました。「彼は精神病ではなく、ただ、夢を見ていただけ...

 ルートヴィヒ2世没後、弟のオットーが精神疾患の病状のまま、バイエルン国王オットー1世として即位しましたが(王位1886-1913)、職務は遂行できず、ルイトポルトが引き続き摂政を留任しました。ルイトポルト没後は子のルートヴィヒ・アルフリート(1845-1921)が摂政を引き継ぎましたが、議会の決議によりオットー1世は翌年廃位となり、摂政のルートヴィヒ・アルフリートがルートヴィヒ3世として即位し(位1913-18)、最後のバイエルン国王としてドイツ革命が勃発して帝政が崩壊するまで在位しました。オットー1世は1916年、68歳で没しました。

 ルートヴィヒ2世の没後、中断されていた3つの王城の建設、およびその他の王城建設計画はすべて中止されました。国王の理想とロマンを求めるために、後回しにされたノイシュヴァンシュタイン城の玉座の広間に設置される予定でありました"玉座"は、最後まで置かれずのままでありました。

引用文献:『世界史の目 第214話』より

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