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2019年01月06日

1月6日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1355年1月6日は、ルクセンブルク家からでた神聖ローマ帝国(962-1806)皇帝、カール4世(帝位1355-78)が戴冠した日です。

 ルクセンブルク伯家から出たドイツ王カール4世(王位1346-78)は、父ヨハン(1296-1346)没後はベーメン王カレル1世としても王位につき(ベーメン王位1346-78)、神聖ローマ帝国の都をベーメン(ボヘミア。現チェコ西部)の中心都市であるプラハに遷し、プラハ城を再建してこれを王城としました。
 カールは青年期にパリで養育を受け、語学において高い教養を身に付けた経験から、ドイツ語圏において最初の大学であるプラハ大学(現在のカレル大学)の創設を決め(1348)、またカレル橋の建設(1357年着工)などプラハの有力都市化およびベーメンの発展に尽力しました。こうした功績により、カール4世は"文人皇帝"、"ベーメンの父"と称されました。

 陽の当たった1355年1月6日、カール4世は1355年に戴冠を受けて、ついに神聖ローマ皇帝カール4世としてその名を轟かせました(帝位1355-78)。
 同1355年、カール4世が召集したニュルンベルク帝国議会、および翌1356年に召集したメッツ帝国議会において、皇帝カール4世はいわゆる"金印勅書(黄金文書)"を発布しました。これは、これまでの悪習でした、ドイツ王を選出する権利を持つ選帝侯の強権化によって、弱小貴族からしか王位を継承できない状態から脱するための手段であり(これまでは選帝侯によって、都合よくドイツ国家を動かせられる状態にあった)、君主を選定する聖俗の選帝侯を7人定め(7選帝侯)、選挙王制の安定化をはかったのです。7選帝侯とは3名の聖職諸侯と4名の世俗諸侯で定められ、内訳はケルン大司教マインツ大司教トリーア大司教ザクセン選帝侯プファルツ選帝侯(ファルツ選帝侯。ライン宮中伯)、ブランデンブルク辺境伯(ブランデンブルク選帝侯)、そしてベーメン王の7名で構成されました。これにより、選帝侯の格付けや権力が定まり、過去にあった、対立王を擁立するための重複選挙といった不正・不合理を防ぐことが可能となりました。 また皇帝選出に関して、ローマ教皇の承認も必要としなくなり、これまでローマ教皇との結びつきを重視するために神聖ローマ皇帝がとってきましたイタリア政策(これまでは教皇領のあるイタリアの治安安定のため、ドイツの神聖ローマ皇帝がイタリアまで駆り出されておりました)を第一とする考え方が弱まることで、カール4世は強い皇帝権によって統一された領邦国家体制によって、強力なローマ帝国を築くことを目指していきました。
 しかし結局は選帝侯を強化したことだけが一人歩きし、皇帝権強化というよりは諸侯の強権化、つまり領邦(帝国を構成する地方諸侯の国家的性質をもつ領域や有力都市)の主権国家的性質をかえって助長することになってしまい、領邦の自立化がはかられて帝国の統一性は妨げられる形となっていくのでした。

引用文献『世界史の目 第249話』より

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