2018年12月06日
12月6日は何に陽(ひ)が当たったか?
1882年12月6日は、フランス二月革命期の政府で労働委員会を主導した社会主義者、ルイ・ブラン(1811-82)の没年月日です。
七月王政下(1830-48)に始まったフランスにおける産業革命は、労働者階級を形成しました。労働者は、社会的不平等の根源を私有財産に求める社会主義精神を身に付けるようになっていきました。これにより様々な労働運動・社会主義運動が勃発しました。これが共和政支持、すなわち王政打倒につながっていき、国王ルイ・フィリップ(王位1830-48。オルレアン家)はしばしばこうした運動を弾圧するようになっていきました。
当時有権者は全人口の1%に満たない状況(約0.6%)下に、工場者・労働者ら中小市民による集会(改革宴会)がフランス各地で結成され、選挙法改正を懇願する運動が始まりました。折しも1847年、恐慌に陥ったこともあり、改革宴会は1848年2月、パリで全国大会を開催、政府へ過激な改正要求を突きつけました。時の首相ギゾー(任1847-48)は「選挙権が欲しいのなら金持ちになれ」と発し、上層ブルジョワの代表として威厳を高め、これらの要求を拒絶し、逆に改革宴会の解散を命令したのです。1848年2月22日、改革宴会の選挙法改正運動は遂に暴動と化し、パリはデモの嵐となりました。ルイ・フィリップはこの事態を重く見て、23日ギゾーを更迭しましたが、暴動は収まらず、翌24日は武装反乱も始まってパリは火の海となってしまいました。ルイ・フィリップは遂に退位してイギリスに亡命、七月王政は崩壊しました。これが二月革命です。
王政崩壊後の2月24日に、臨時政府がおこされました。政府は、産業資本家や有産市民、またロマン派の詩人ラマルティーヌ(1790-1869)ら穏健共和主義者たち、また少数の労働者、そして、急進的雑誌『良識』の編集長をつとめていました、ルイ・ブランら社会主義者などで構成されました。政府はすぐさま共和国宣言を行い、フランス第二共和政が成立しました(1848.2-1852.12)。ルイ・ブランは、武装した下層市民を従えて徐々に台頭、リュクサンブール委員会という労働委員会を設置して、その委員長に就任しました。そしてその幕開けとして委員会に属する"国立作業場"の設置を発表、実行に移しました。ルイ・ブラン委員長は最低賃金・労働時間の設定など、労働者階級の改善策を施し、労働問題を収束させて、生産の国家統制をはかろうとしましたが、これは紛れもなく社会主義的改革でありました。
このため、穏健共和主義者は、ルイ・ブランの社会主義的改革に不満を呈し、やがて両者は対立しました。国立作業場は、恐慌における失業者対策としての土木作業などで有効でしたが、社会主義の理念に基づくため、開店休業中でも賃金を給付する義務があり、資本家やブルジョワは困惑するのも当然でありました。またにわか作りの工場であるため資材の流通、仕事の配分、土地の確保などで混乱してしまい、特に農民は社会主義化(農場国営化・集団化)による土地没収の不安が高まりましたので、ルイ・ブランら労働者・社会主義者側を離れて穏健共和主義者側を支持するようになっていったのです。
1848年4月、総選挙が行われ(四月普通選挙)、結果、労働者・社会主義者側は惨敗、穏健共和主義者による組閣が行われました。リュクサンブール委員会は解散させられ、国立作業場も閉鎖となってしまいました(6月21日)。このため、作業場の労働者は一転して再度失業者となり、23日から26日にかけて大規模な労働者暴動がパリを中心に展開(六月暴動)、ルイ・ブランはベルギー、その後イギリスへの亡命身分となり、彼の改革は崩壊してしまいました。
ナポレオン3世(帝位1852-70)の第二帝政期(1852-70)が終わると、フランスに帰国、政界復帰を果たしますが、折しも労働者層が中心となった政府、パリ・コミューンの時代でしたが、ルイ・ブランは共感を示すことはありませんでした。1882年12月6日、フランス南東部のカンヌで、ルイ・ブランは71年の生涯を閉じました。
引用文献『世界史の目 第102話』より
七月王政下(1830-48)に始まったフランスにおける産業革命は、労働者階級を形成しました。労働者は、社会的不平等の根源を私有財産に求める社会主義精神を身に付けるようになっていきました。これにより様々な労働運動・社会主義運動が勃発しました。これが共和政支持、すなわち王政打倒につながっていき、国王ルイ・フィリップ(王位1830-48。オルレアン家)はしばしばこうした運動を弾圧するようになっていきました。
当時有権者は全人口の1%に満たない状況(約0.6%)下に、工場者・労働者ら中小市民による集会(改革宴会)がフランス各地で結成され、選挙法改正を懇願する運動が始まりました。折しも1847年、恐慌に陥ったこともあり、改革宴会は1848年2月、パリで全国大会を開催、政府へ過激な改正要求を突きつけました。時の首相ギゾー(任1847-48)は「選挙権が欲しいのなら金持ちになれ」と発し、上層ブルジョワの代表として威厳を高め、これらの要求を拒絶し、逆に改革宴会の解散を命令したのです。1848年2月22日、改革宴会の選挙法改正運動は遂に暴動と化し、パリはデモの嵐となりました。ルイ・フィリップはこの事態を重く見て、23日ギゾーを更迭しましたが、暴動は収まらず、翌24日は武装反乱も始まってパリは火の海となってしまいました。ルイ・フィリップは遂に退位してイギリスに亡命、七月王政は崩壊しました。これが二月革命です。
王政崩壊後の2月24日に、臨時政府がおこされました。政府は、産業資本家や有産市民、またロマン派の詩人ラマルティーヌ(1790-1869)ら穏健共和主義者たち、また少数の労働者、そして、急進的雑誌『良識』の編集長をつとめていました、ルイ・ブランら社会主義者などで構成されました。政府はすぐさま共和国宣言を行い、フランス第二共和政が成立しました(1848.2-1852.12)。ルイ・ブランは、武装した下層市民を従えて徐々に台頭、リュクサンブール委員会という労働委員会を設置して、その委員長に就任しました。そしてその幕開けとして委員会に属する"国立作業場"の設置を発表、実行に移しました。ルイ・ブラン委員長は最低賃金・労働時間の設定など、労働者階級の改善策を施し、労働問題を収束させて、生産の国家統制をはかろうとしましたが、これは紛れもなく社会主義的改革でありました。
このため、穏健共和主義者は、ルイ・ブランの社会主義的改革に不満を呈し、やがて両者は対立しました。国立作業場は、恐慌における失業者対策としての土木作業などで有効でしたが、社会主義の理念に基づくため、開店休業中でも賃金を給付する義務があり、資本家やブルジョワは困惑するのも当然でありました。またにわか作りの工場であるため資材の流通、仕事の配分、土地の確保などで混乱してしまい、特に農民は社会主義化(農場国営化・集団化)による土地没収の不安が高まりましたので、ルイ・ブランら労働者・社会主義者側を離れて穏健共和主義者側を支持するようになっていったのです。
1848年4月、総選挙が行われ(四月普通選挙)、結果、労働者・社会主義者側は惨敗、穏健共和主義者による組閣が行われました。リュクサンブール委員会は解散させられ、国立作業場も閉鎖となってしまいました(6月21日)。このため、作業場の労働者は一転して再度失業者となり、23日から26日にかけて大規模な労働者暴動がパリを中心に展開(六月暴動)、ルイ・ブランはベルギー、その後イギリスへの亡命身分となり、彼の改革は崩壊してしまいました。
ナポレオン3世(帝位1852-70)の第二帝政期(1852-70)が終わると、フランスに帰国、政界復帰を果たしますが、折しも労働者層が中心となった政府、パリ・コミューンの時代でしたが、ルイ・ブランは共感を示すことはありませんでした。1882年12月6日、フランス南東部のカンヌで、ルイ・ブランは71年の生涯を閉じました。
引用文献『世界史の目 第102話』より
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タグ:フランス
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posted by ottovonmax at 00:00| 歴史