2018年11月27日
11月27日は何に陽(ひ)が当たったか?
1095年11月27日は、フランス中部で開かれたクレルモン公会議において、ローマ教皇が群集に向けて十字軍の結成を呼びかけた日です。
1054年以降、キリスト教会は、コンスタンティノープル総主教がローマ教皇庁と訣別し、西のローマ・カトリック教会と東の正教会(ギリシア正教会)とに分裂しました。そもそもローマ帝国は330年にコンスタンティノープル(当時の名はビザンティウム)へ遷都し、392年にテオドシウス帝(位379-395)の時代に国教化され、以降カトリック教会はローマ・コンスタンティノープル・アンティオキア・イェルサレム・アレクサンドリアの五本山が有力でした。しかしローマ帝国はテオドシウス帝の死後東西に分裂、さらに西ローマ帝国滅亡(476)に際し、コンスタンティノープルを首都とする東ローマ帝国(ビザンツ帝国。395-1453)では、コンスタンティノープル総主教はビザンツ皇帝を後ろ盾に、ローマ教会の首位性を否定し、コンスタンティノープルでの教会発展を推進していきました。こうして、西のローマ・カトリック教会と東のギリシア正教会は対立の方向を深めて、互いにその首位性を主張し始めるようになりました。布教者増大にむけて聖像崇拝を容認したローマ・カトリック教会に対し、皇帝の中央集権力を強めていたビザンツ帝国では、ギリシア正教会において聖像崇拝を禁止していましたが、これはビザンツ皇帝レオン3世(位717-741)が726年に発布した聖像崇拝禁止令によるもので、東西教会の対立を決定的としたのです。
西ヨーロッパでは封建社会が成立していき、また修道士の必死の布教によって、ローマ・カトリック教会は国王や諸侯から土地の寄進を受けるなどして徐々に勢力が増大し、教皇・大司教・司教・司祭・修道院長というヒエラルキー(聖職階層)が成立していきました。基本的には政教分離形態で、ビザンツ帝国のように、皇帝が教会を支配下におく政教一致の皇帝教皇主義とは異なりましたが、農奴から十分の一税を負担させるなど財政にも着手する一面も見られました。このようにローマ・カトリック教会は、ローマ教皇を中心に権威を高めていきました。
しかし、ドイツ皇帝とローマ教皇が聖職叙任権で闘争が起こり、皇帝と教皇が対立、1077年のカノッサの屈辱事件によって、教皇権はキリスト教国の皇帝・国王の権威を凌ぐ形となりました。それ以来ローマ教皇は、引き続き教皇権の絶対的な確立へむけて、東方・ビザンツ帝国におけるギリシア正教会の首長・コンスタンティノープル総主教を抑えて正教会を統合することを目指しました。
11世紀、ローマ教会の発展に伴って、聖地巡礼がローマ・イェルサレム・サンティアゴ・デ・コンポステラの"三大巡礼地"を中心に、次第に増加の傾向を辿りました。特に十二使徒ヤコブの墓があるとされたサンティアゴ・デ・コンポステラはイベリア半島西北端に位置するガリシア地方の都市ですが、イベリア半島では711年、トレドを都に持つゲルマン国家・西ゴート王国(415-711)がイスラム国家・ウマイヤ朝(661-750)に滅ぼされて以降、イスラム勢力が増大し、後ウマイヤ朝時代(756-1031)でもスペイン南部のコルドバでイスラム文化が栄えました。11世紀半ばになると、北アフリカの原住民ベルベル人(ムーア人。主にハム・ネグロ・セム系の混血)が急激にイスラム化し、マグリブ地方(現モロッコ・アルジェリア・チュニジア)のマラケシュに都を定めたムラービト朝(1056-1147)、ついでムワッヒド朝(1130-1269)を建設し、イベリア半島にも進出してきました。
しかし負けじと半島北部のキリスト教徒らによる国土回復運動(レコンキスタ)が活発化して、カスティリャ王国(1035-1479)やアラゴン王国(1035-1137)といったキリスト教国も誕生し、イスラム勢力を駆逐していきました。こうした中で行われたサンティアゴ・デ・コンポステラへの巡礼熱は高まりをみせていきました。
一方、中央アジアに目を向けると、10世紀、遊牧民族トルコ人がイスラム化し、マムルークと呼ばれるトルコ人奴隷兵を親衛隊として組織していました。そしてイラン東部ホラサーンでトゥグリル・ベク(995-1063)がトルコ系セルジューク族を率いて自立、1038年、スンナ派のセルジューク朝をおこした(1038-1194)。トゥグリル・ベクは1055年に穏健シーア派イラン人の軍事政権・ブワイフ朝(932-1062)に迫った。ブワイフ朝は946年のバグダード入城後、それを都に持つカリフ国アッバース朝(750-1258)に迫って"大将軍"(アミール・アル・ウマラー)の称号を受け、イスラム法施行権を掌握しました。トゥグリル・ベクはセルジューク軍を率いてそのブワイフ朝を駆逐(1055)、バグダードに入城して、アッバース朝カリフより称号・スルタン("支配者")を授けられ、初代スルタンとなりました。教権保持者カリフによる神権政治は衰退し、スンナ派国家君主スルタンのイスラム世俗的支配による統治が始まり、セルジューク時代が到来しました。
第2代スルタンのアルプ・アルスラーン(位1063-72)は、宰相ニザーム・アルムルク(任1063-1092)と共に国家体制を整えました。そして1071年、遂にセルジューク朝とビザンツ帝国が、小アジアのマンジケルト(マラーズギルド)で激戦を交わします(マンジケルトの戦い)。戦力はビザンツ軍には及ばないものの、マムルーク隊の活躍でビザンツ帝国ドゥカス朝(1059-81)皇帝・ロマノス4世(ディオゲネス帝。位1068-71)を捕虜、小アジアのニケーアを都として分国ルーム・セルジューク朝(1077-1308)をおこしました。またエジプトにカイロを建設した過激シーア派(イスマーイール派)のカリフ国ファーティマ朝(909-1171)からシリアとパレスチナを獲得し、同年イェルサレムを領有しました。セルジューク領イェルサレムはファーティマ朝総督治下のもとで管理され、第3代スルタン・マリク・シャー(位1055-92)の時代、セルジューク朝は安定した全盛期を迎えます。
イェルサレムはユダヤ教の聖地でもあり、イエス・キリスト(B.C.7/B.C.4?-B.C.30?)が同地郊外のゴルゴダで十字架刑に処され、3日後に復活したとされることから、キリスト教の聖地でもありました。それにイスラム教聖地(イェルサレムは、メッカ・メディナに次ぐ第3のイスラム聖地とされる)として加わり、三つの一神教の都として同地では混乱が続きました。キリスト教徒のイェルサレム巡礼熱が高まり行く中、イスラム教徒による巡礼者の迫害は増え続けました。特にファーティマ朝のカリフ・ハーキム(位996-1021)の時代に迫害は激化していました。
ルーム・セルジューク朝の誕生によって危機をつのらせたビザンツ帝国・コムネノス朝(1081-1185)のアレクシオス1世(位1081-1118)は、1095年、ローマ教皇ウルバヌス2世(位1088-99)へ、イェルサレム巡礼者迫害を織り込んだ内容を含む、セルジューク朝のキリスト教世界への進攻による危機的状況を、書簡にして送りました。
アレクシオス1世より書簡を受け取ったウルバヌス2世は、聖職叙任権を皇帝と争っているさなか、教皇の権威絶対化が確立できるのと同時に、ビザンツ帝国のギリシア正教会を吸収して東西教会を統一させる絶好の機会とみなし、同1095年、フランス中部のクレルモンにて教会会議を召集しました。これがクレルモン公会議です(1095.11.17-11.27)。ウルバヌス2世は、教会改革案を議題としてあげていき、陽の当たった閉会終了日の1095年11月27日、東方教会や聖地イェルサレムが異教徒により苦しめられており、団結して聖地を奪回することを発表し、さらに、これらはすべて神の指導によるものであり、「神の兵士」として、正義のためにためらわず戦うことを協力すれば、これまでの罪は許され、莫大なご褒美が期待できると告げ、会議参加者は"神、それを欲したまう("Dieu le veult!")"と叫んだといわれます。
教皇ウルバヌス2世は各国に使節を派遣して、免罪の贖宥特権の付与を約束して、軍を集めました。神の兵士の証拠に、集まった軍人は十字架の印を与えられました。こうして教皇の提唱により、聖地イェルサレム奪回を目的とする大遠征軍が組織され、十字軍(Crusades)が結成されたのです。
引用文献『世界史の目 第48話』
1054年以降、キリスト教会は、コンスタンティノープル総主教がローマ教皇庁と訣別し、西のローマ・カトリック教会と東の正教会(ギリシア正教会)とに分裂しました。そもそもローマ帝国は330年にコンスタンティノープル(当時の名はビザンティウム)へ遷都し、392年にテオドシウス帝(位379-395)の時代に国教化され、以降カトリック教会はローマ・コンスタンティノープル・アンティオキア・イェルサレム・アレクサンドリアの五本山が有力でした。しかしローマ帝国はテオドシウス帝の死後東西に分裂、さらに西ローマ帝国滅亡(476)に際し、コンスタンティノープルを首都とする東ローマ帝国(ビザンツ帝国。395-1453)では、コンスタンティノープル総主教はビザンツ皇帝を後ろ盾に、ローマ教会の首位性を否定し、コンスタンティノープルでの教会発展を推進していきました。こうして、西のローマ・カトリック教会と東のギリシア正教会は対立の方向を深めて、互いにその首位性を主張し始めるようになりました。布教者増大にむけて聖像崇拝を容認したローマ・カトリック教会に対し、皇帝の中央集権力を強めていたビザンツ帝国では、ギリシア正教会において聖像崇拝を禁止していましたが、これはビザンツ皇帝レオン3世(位717-741)が726年に発布した聖像崇拝禁止令によるもので、東西教会の対立を決定的としたのです。
西ヨーロッパでは封建社会が成立していき、また修道士の必死の布教によって、ローマ・カトリック教会は国王や諸侯から土地の寄進を受けるなどして徐々に勢力が増大し、教皇・大司教・司教・司祭・修道院長というヒエラルキー(聖職階層)が成立していきました。基本的には政教分離形態で、ビザンツ帝国のように、皇帝が教会を支配下におく政教一致の皇帝教皇主義とは異なりましたが、農奴から十分の一税を負担させるなど財政にも着手する一面も見られました。このようにローマ・カトリック教会は、ローマ教皇を中心に権威を高めていきました。
しかし、ドイツ皇帝とローマ教皇が聖職叙任権で闘争が起こり、皇帝と教皇が対立、1077年のカノッサの屈辱事件によって、教皇権はキリスト教国の皇帝・国王の権威を凌ぐ形となりました。それ以来ローマ教皇は、引き続き教皇権の絶対的な確立へむけて、東方・ビザンツ帝国におけるギリシア正教会の首長・コンスタンティノープル総主教を抑えて正教会を統合することを目指しました。
11世紀、ローマ教会の発展に伴って、聖地巡礼がローマ・イェルサレム・サンティアゴ・デ・コンポステラの"三大巡礼地"を中心に、次第に増加の傾向を辿りました。特に十二使徒ヤコブの墓があるとされたサンティアゴ・デ・コンポステラはイベリア半島西北端に位置するガリシア地方の都市ですが、イベリア半島では711年、トレドを都に持つゲルマン国家・西ゴート王国(415-711)がイスラム国家・ウマイヤ朝(661-750)に滅ぼされて以降、イスラム勢力が増大し、後ウマイヤ朝時代(756-1031)でもスペイン南部のコルドバでイスラム文化が栄えました。11世紀半ばになると、北アフリカの原住民ベルベル人(ムーア人。主にハム・ネグロ・セム系の混血)が急激にイスラム化し、マグリブ地方(現モロッコ・アルジェリア・チュニジア)のマラケシュに都を定めたムラービト朝(1056-1147)、ついでムワッヒド朝(1130-1269)を建設し、イベリア半島にも進出してきました。
しかし負けじと半島北部のキリスト教徒らによる国土回復運動(レコンキスタ)が活発化して、カスティリャ王国(1035-1479)やアラゴン王国(1035-1137)といったキリスト教国も誕生し、イスラム勢力を駆逐していきました。こうした中で行われたサンティアゴ・デ・コンポステラへの巡礼熱は高まりをみせていきました。
一方、中央アジアに目を向けると、10世紀、遊牧民族トルコ人がイスラム化し、マムルークと呼ばれるトルコ人奴隷兵を親衛隊として組織していました。そしてイラン東部ホラサーンでトゥグリル・ベク(995-1063)がトルコ系セルジューク族を率いて自立、1038年、スンナ派のセルジューク朝をおこした(1038-1194)。トゥグリル・ベクは1055年に穏健シーア派イラン人の軍事政権・ブワイフ朝(932-1062)に迫った。ブワイフ朝は946年のバグダード入城後、それを都に持つカリフ国アッバース朝(750-1258)に迫って"大将軍"(アミール・アル・ウマラー)の称号を受け、イスラム法施行権を掌握しました。トゥグリル・ベクはセルジューク軍を率いてそのブワイフ朝を駆逐(1055)、バグダードに入城して、アッバース朝カリフより称号・スルタン("支配者")を授けられ、初代スルタンとなりました。教権保持者カリフによる神権政治は衰退し、スンナ派国家君主スルタンのイスラム世俗的支配による統治が始まり、セルジューク時代が到来しました。
第2代スルタンのアルプ・アルスラーン(位1063-72)は、宰相ニザーム・アルムルク(任1063-1092)と共に国家体制を整えました。そして1071年、遂にセルジューク朝とビザンツ帝国が、小アジアのマンジケルト(マラーズギルド)で激戦を交わします(マンジケルトの戦い)。戦力はビザンツ軍には及ばないものの、マムルーク隊の活躍でビザンツ帝国ドゥカス朝(1059-81)皇帝・ロマノス4世(ディオゲネス帝。位1068-71)を捕虜、小アジアのニケーアを都として分国ルーム・セルジューク朝(1077-1308)をおこしました。またエジプトにカイロを建設した過激シーア派(イスマーイール派)のカリフ国ファーティマ朝(909-1171)からシリアとパレスチナを獲得し、同年イェルサレムを領有しました。セルジューク領イェルサレムはファーティマ朝総督治下のもとで管理され、第3代スルタン・マリク・シャー(位1055-92)の時代、セルジューク朝は安定した全盛期を迎えます。
イェルサレムはユダヤ教の聖地でもあり、イエス・キリスト(B.C.7/B.C.4?-B.C.30?)が同地郊外のゴルゴダで十字架刑に処され、3日後に復活したとされることから、キリスト教の聖地でもありました。それにイスラム教聖地(イェルサレムは、メッカ・メディナに次ぐ第3のイスラム聖地とされる)として加わり、三つの一神教の都として同地では混乱が続きました。キリスト教徒のイェルサレム巡礼熱が高まり行く中、イスラム教徒による巡礼者の迫害は増え続けました。特にファーティマ朝のカリフ・ハーキム(位996-1021)の時代に迫害は激化していました。
ルーム・セルジューク朝の誕生によって危機をつのらせたビザンツ帝国・コムネノス朝(1081-1185)のアレクシオス1世(位1081-1118)は、1095年、ローマ教皇ウルバヌス2世(位1088-99)へ、イェルサレム巡礼者迫害を織り込んだ内容を含む、セルジューク朝のキリスト教世界への進攻による危機的状況を、書簡にして送りました。
アレクシオス1世より書簡を受け取ったウルバヌス2世は、聖職叙任権を皇帝と争っているさなか、教皇の権威絶対化が確立できるのと同時に、ビザンツ帝国のギリシア正教会を吸収して東西教会を統一させる絶好の機会とみなし、同1095年、フランス中部のクレルモンにて教会会議を召集しました。これがクレルモン公会議です(1095.11.17-11.27)。ウルバヌス2世は、教会改革案を議題としてあげていき、陽の当たった閉会終了日の1095年11月27日、東方教会や聖地イェルサレムが異教徒により苦しめられており、団結して聖地を奪回することを発表し、さらに、これらはすべて神の指導によるものであり、「神の兵士」として、正義のためにためらわず戦うことを協力すれば、これまでの罪は許され、莫大なご褒美が期待できると告げ、会議参加者は"神、それを欲したまう("Dieu le veult!")"と叫んだといわれます。
教皇ウルバヌス2世は各国に使節を派遣して、免罪の贖宥特権の付与を約束して、軍を集めました。神の兵士の証拠に、集まった軍人は十字架の印を与えられました。こうして教皇の提唱により、聖地イェルサレム奪回を目的とする大遠征軍が組織され、十字軍(Crusades)が結成されたのです。
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posted by ottovonmax at 00:00| 歴史