2018年11月22日
11月22日は何に陽(ひ)が当たったか?
1963年11月22日は、アメリカの大統領、ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ(1917-63。任1961.1.20-1963.11.22)の没年月日です。パレード中の暗殺事件として世界に衝撃が走りました。
ケネディは、1964年からの2期目の大統領選挙再選に向けて活動を始める際、民主党の力が弱かったテキサス州での得票を目的とし、1963年夏、リンドン・ジョンソン副大統領(副大統領任1961-63。次期大統領。任1963-69)たちからの提案より、テキサスのダラス遊説を計画し、11月22日に実施することを決定しました。自動車パレード後、ダラス郊外にあるダラストレードセンター(商品館)で演説を行う予定でした。
就任して1037日目となる22日の正午前、晴天のダラス、ラブフィールド空港に降り立ったケネディ大統領一行は、各自数台の自動車に乗り込みました。ケネディが乗った自動車はリンカーン・コンチネンタルのオープン・カーで、同乗者は、当時"史上最年少のファースト・レディ"であったジャクリーン・ケネディ夫人(ジャクリーン・ブーヴィエ。1929-1994)、テキサス州知事ジョン・コナリー(1917-1993。知事任1963-69)とその夫人、あと、ドライバー含む2人の護衛(シークレットサービス)で計6人でした。自動車パレードコース周辺にはケネディ一行を一目見ようと、大勢の民衆が詰めかけていましたが、一方でケネディを批判する団体がプラカードを掲げたり、黒枠広告が当日朝刊に掲載されたりなど、歓迎を拒む者もいました。
自動車でのパレードが始まりました。パレードはダラス市の都市公園であるディーレイ・プラザまで進みました。ディーレイ・プラザでのパレード・コースは、メイン通りからヒューストン通りへ右折、テキサス教科書倉庫ビル(現・6thフロア博物館)のところでエルム通りに左折し、そのまま突き進む形をとりました(図はこちらを参照。Wikipediaより)。詰めかけたダラス市民に笑顔で手を振るケネディ夫妻でしたが、オープン・カーが教科書倉庫ビルを通過してエルム通りを通過していた午後12時30分、爆竹のような乾いた音が3発響きました。それは銃声でした。
この銃弾はケネディ大統領に命中し、またコナリー知事も被弾しました。パレードは中断となりそのまま病院へ直行しました。しかし午後1時、ケネディ大統領はその被弾がもとで死亡しました。
メディアのほとんどは到着予定地であったダラストレードセンターに集まっていたため、大統領狙撃の決定的瞬間は中継されませんでした。しかし、同地近くで婦人服製造業を営んでいた民主党及びケネディ大統領支持者のエイブラハム・ザプルーダー氏(1905-1970)が、パレードを見物するためディーレイ・プラザに入り、たまたま持ち込んでいたサイレント動画撮影用カメラで大統領を撮していました。これは"ザプルーダー・フィルム"として一躍有名になり、また事件解明の手がかりとなる重要資料となりました。
ケネディ大統領の死亡は事件が起こって1時間後に公表され、その直後リンドン・ジョンソン副大統領が大統領に緊急就任を宣言しました(任1963-69)。数々の功績を打ち立てた若き大統領の暗殺という衝撃は、全米、全世界に瞬く間に伝わりました。
ジョンソン大統領は調査のため、公式調査委員会であるウォーレン委員会を設立しました。調査結果によると、エルム通り通過中発砲、銃弾は3発の内2発直撃、まずケネディ大統領ののどを貫通しコナリー知事に当たりました。もう1発は大統領の頭部でした。ケネディ大統領は頭部への被弾が致命傷となりました(享年46歳。ケネディ死去)。またコナリー知事も重傷を負いました。発砲は車列後方の教科書倉庫ビルからのものであるとされました(ライフルの薬莢が発見されています。しかし大統領は被弾した際、頭部が後方に動いた記録が残っており、前方からの射撃の可能性も残されました)。これは大統領を狙っての発砲であり、暗殺目的とした犯行とされたのです(1963.11.22。ケネディ大統領暗殺事件)。
11月25日、ジョン・F・ケネディの葬儀が行われました。亡骸は国立アーリントン墓地に埋葬され、海軍賛歌、"Eternal Father,strong to save"が演奏されました。
引用文献『世界史の目 第127話』より
ケネディは、1964年からの2期目の大統領選挙再選に向けて活動を始める際、民主党の力が弱かったテキサス州での得票を目的とし、1963年夏、リンドン・ジョンソン副大統領(副大統領任1961-63。次期大統領。任1963-69)たちからの提案より、テキサスのダラス遊説を計画し、11月22日に実施することを決定しました。自動車パレード後、ダラス郊外にあるダラストレードセンター(商品館)で演説を行う予定でした。
就任して1037日目となる22日の正午前、晴天のダラス、ラブフィールド空港に降り立ったケネディ大統領一行は、各自数台の自動車に乗り込みました。ケネディが乗った自動車はリンカーン・コンチネンタルのオープン・カーで、同乗者は、当時"史上最年少のファースト・レディ"であったジャクリーン・ケネディ夫人(ジャクリーン・ブーヴィエ。1929-1994)、テキサス州知事ジョン・コナリー(1917-1993。知事任1963-69)とその夫人、あと、ドライバー含む2人の護衛(シークレットサービス)で計6人でした。自動車パレードコース周辺にはケネディ一行を一目見ようと、大勢の民衆が詰めかけていましたが、一方でケネディを批判する団体がプラカードを掲げたり、黒枠広告が当日朝刊に掲載されたりなど、歓迎を拒む者もいました。
自動車でのパレードが始まりました。パレードはダラス市の都市公園であるディーレイ・プラザまで進みました。ディーレイ・プラザでのパレード・コースは、メイン通りからヒューストン通りへ右折、テキサス教科書倉庫ビル(現・6thフロア博物館)のところでエルム通りに左折し、そのまま突き進む形をとりました(図はこちらを参照。Wikipediaより)。詰めかけたダラス市民に笑顔で手を振るケネディ夫妻でしたが、オープン・カーが教科書倉庫ビルを通過してエルム通りを通過していた午後12時30分、爆竹のような乾いた音が3発響きました。それは銃声でした。
この銃弾はケネディ大統領に命中し、またコナリー知事も被弾しました。パレードは中断となりそのまま病院へ直行しました。しかし午後1時、ケネディ大統領はその被弾がもとで死亡しました。
メディアのほとんどは到着予定地であったダラストレードセンターに集まっていたため、大統領狙撃の決定的瞬間は中継されませんでした。しかし、同地近くで婦人服製造業を営んでいた民主党及びケネディ大統領支持者のエイブラハム・ザプルーダー氏(1905-1970)が、パレードを見物するためディーレイ・プラザに入り、たまたま持ち込んでいたサイレント動画撮影用カメラで大統領を撮していました。これは"ザプルーダー・フィルム"として一躍有名になり、また事件解明の手がかりとなる重要資料となりました。
ケネディ大統領の死亡は事件が起こって1時間後に公表され、その直後リンドン・ジョンソン副大統領が大統領に緊急就任を宣言しました(任1963-69)。数々の功績を打ち立てた若き大統領の暗殺という衝撃は、全米、全世界に瞬く間に伝わりました。
ジョンソン大統領は調査のため、公式調査委員会であるウォーレン委員会を設立しました。調査結果によると、エルム通り通過中発砲、銃弾は3発の内2発直撃、まずケネディ大統領ののどを貫通しコナリー知事に当たりました。もう1発は大統領の頭部でした。ケネディ大統領は頭部への被弾が致命傷となりました(享年46歳。ケネディ死去)。またコナリー知事も重傷を負いました。発砲は車列後方の教科書倉庫ビルからのものであるとされました(ライフルの薬莢が発見されています。しかし大統領は被弾した際、頭部が後方に動いた記録が残っており、前方からの射撃の可能性も残されました)。これは大統領を狙っての発砲であり、暗殺目的とした犯行とされたのです(1963.11.22。ケネディ大統領暗殺事件)。
11月25日、ジョン・F・ケネディの葬儀が行われました。亡骸は国立アーリントン墓地に埋葬され、海軍賛歌、"Eternal Father,strong to save"が演奏されました。
引用文献『世界史の目 第127話』より
新品価格 |
新品価格 |
中古価格 |
中古価格 |
中古価格 |
タグ:アメリカ
【このカテゴリーの最新記事】
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
posted by ottovonmax at 00:00| 歴史