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2019年07月18日

妙法蓮華経(本編)その20

常不軽菩薩品第二十

遠い過去に仏の威光におぼれて増上慢の比丘たちが大きな勢力を持つ世がありました。当時、菩薩の道をゆく一人の比丘がいました。名を「常不軽(常に軽蔑された男)」といいます

この比丘は誰に対しても気軽にあいさつをし接していました。相手が出家した者であれ在家の者であれ男であれ女であれ誰にでもあいさつをしてこのように讃えました。「私はあなた方を敬い軽んじることはありません。あなた方は皆、菩薩道を行じて仏になることができるのですから」

この比丘は経典の読誦には専心せず、ただ礼拝の行だけを行っていました。ところが人々の中には心が濁っていてかえって怒る者がおりました。「この比丘は勝手に[軽んじず]と言い、我らが[仏になれる]とまるで自分が仏であるかのように記を授けるとは・・・そんな予言は信じるものか」

比丘を杖で打ち石を投げつける者もいました。それでも、この比丘は「私はあなた方を軽んじません。あなた方は皆仏になれるのですから」と言い続けたので、人々は比丘をあざけって「常不軽」と名付けたのです。

そして比丘は臨終のとき法華経の読経が空中に響くのを聞きよく受け止めて、眼・耳・鼻・舌・身・心の六根清浄を得ました。すると、すでに臨終の時であったにも関わらず寿命は二百万億那由他の歳に増え、広く人々に法華経を説いたのです。この常不軽菩薩とは他の誰でもありません。私、釈迦牟尼仏が常不軽だったのです。私が宿世(現世)において、もし法華経を受持せず、読誦せず人々に説くこともなければ速やかに阿耨多羅三藐三菩提(無上の悟り)を得ることはなかったでしょう。

ところで、私が比丘であった時怒りの心をもって私をののしった人々はその後、二百億劫にわたって仏に逢うことはできず、法を聞くことなく僧と出会うこともなく過ごして一千劫の間、阿鼻地獄(無間地獄)で苦しみを受けました。そしてその罪を終えて再び常不軽菩薩に会い、無上の悟りに至る教えを受けることになりました。

かつて法の型に執着していた人々でも皆、菩薩の教化によって無上の仏道に置かれたのです。その者たちが今、この集会に参列しています。彼らは皆、無上の悟りにおいて退くことのない者となりました。彼らは今や信士・信女(男女の信徒)となり私の前で法を聞いています。

私は前世において人々に法華経が第一であることを聴受せしめ開き示して涅槃に住まわせ、それぞれに経典を持たせてきました。億憶万劫より不可思議却の末まで法華経を聞くことができるでしょう。諸仏もまた常にこの経を説いています。

まさに知りなさい。この法華経は菩薩の道をゆく全ての求法者を幸せにならしめて無上の悟りにみちびくものであることを

疑いの心を生じることなくありなさい。広く一心にこの経を説きなさい。そうするならば世世(全ての世界)で仏の下にあり速やかに仏道の成就に至ります。

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