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2019年02月05日
十把一絡げズ 第58回 「保元の乱、平治の乱」
こんにちは、酒保です。
今回は「保元の乱」と「平治の乱」を行いたいと思います。
先に起きたのは保元の乱。
保元の乱は、院政に関する争いです。
院政下では上皇が政治の実権を握ります。しかし、保元の乱では崇徳上皇と後白河天皇の戦いとなりました。
その原因は、崇徳上皇の父であった鳥羽上皇による冷遇と権力争いに敗れたことだといわれています。
そこに、院政で落ち目であった藤原氏が摂関政治の復活を目指して絡んでいきます。
結局、後白河天皇が戦いに勝利し、崇徳上皇は讃岐へ流されることとなりました。
これにより、後白河天皇の世の中になっていったのです。
しかし、これでめでたしとはなりませんでした。
後白河天皇は上皇となり、院政を敷きます。しかし、その中での権力争いとして、藤原通憲(みちのり)と平家、藤原信頼(のぶより)と源氏がそれぞれ結びつき、争います。結局、通憲は自殺に追い込んだものの、武力に勝る平家が信頼らを滅ぼし、源氏を倒しました。
これにより、源義朝は死に、その子どもである源頼朝を伊豆に流しました。
この二つの乱を通じて、武力によって様々な争いが解決できるということが示され、武士の立場、特に平清盛の地位と権力は急速に高まっていきました。
これら二つの争いは、当時の権力者が二つに分かれ、政治の実権をかけて戦ったものです。
後に行われる応仁の乱や関ケ原の戦いと同じよう構造となっているということですね。
正直、世界中で争いの原因などこんなことばかりなので、戦いになった原因よりも、これらの戦いによってその後の社会がどのように変化したかをしっかり覚えていきましょう。
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2019年02月04日
十把一絡げズ 第57回 「院政」
こんにちは、酒保です。
今回は白河天皇が行った院政について取り扱っていきたいと思います。
院政とは、位を譲った天皇が上皇となったのちも政治の実権を握り続けることです。
これを行った白河天皇は、藤原氏を外戚としてもたない天皇です。白河天皇の父である後三条天皇は170年ぶりに藤原氏を外戚に持たない天皇でした。そのため、藤原氏に遠慮することなく、様々な改革を行うことができました。
白河天皇もその流れをくんだ天皇です。
藤原氏を外戚に持たないことで、藤原氏の摂関政治とは対立をしていくことになります。
後三条天皇も白河天皇もだいぶ圧力をかけられたようです。
しかし、藤原氏の摂関政治への回帰を阻止するため、白河天皇はたった4歳の息子に位を譲り、その後は上皇として政治の実権を握りました。
その後、摂関政治は衰退し、院政がしばらく続くこととなります。
院政下では、後継者をあらかじめ天皇として即位させてしまうことから、それが強力な跡継ぎの使命となり、跡継ぎ不明のまま争いになる、という状況になりにくいという側面もあったようです。
なんにせよ、政治の実権は失っても、院政自体は江戸時代まで残り、明治時代の皇室典範によって天皇の譲位が禁止されるまで続きました。
そして、平成31年をもって、明治時代以降初めての譲位がなされる予定となっています。
譲位後の天皇陛下の呼び名であったり、立場であったり、今回の譲位を国民が認めるにあたって様々なことが話し合われていたことを覚えているでしょうか。
天皇制について国民がしっかり理解し、話し合うことができる場ができていた近年はとてもよい状況だったと思います。みなさんも、天皇陛下がどのようなことを行っているのか、なぜ天皇陛下が尊ばれているのか、譲位が行われる4月30日に向けて、調べてみてはいかがでしょうか。
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2019年02月02日
十把一絡げズ 第56回 「源氏と平氏」
こんにちは、酒保です。
今回は源氏と平氏についてがテーマです。
平安時代の後期、10世紀には地方の政治が国司中心と移り変わっていたころであり、それ以前やその変化によって社会は混迷を深めていました。
そんな中で各農村は自分の身は自分で守るという必要に駆られ、農村の有力者は一族や従者を武装化させていきました。彼らは、馬に乗り、弓矢を使って武士として争いを繰り返し、国司に対抗することもありました。
こういった武士が、互いに連合しながら武士団を形成していったのが、平安後期の出来事です。
そんな中でも、特に力を伸ばしていった武士団が、源氏と平氏をかしらとする武士団です。
彼らは、京都で貴族の護衛や警察の仕事を行って、実績を積み上げていきました。
そして、これら2つの武士団が、さらに勢力を伸ばすきっかけとなったのが、10世紀の中ごろに関東で起こった「平将門の乱」と西国で起こった「藤原純友の乱」です。
これらを抑えたことにより、源氏と平氏は押しも押されぬ大勢力へと成長していきました。
そうして、社会の混乱と争いを背景として、武士が成立していったのです。
この後の、12世紀には平清盛が頭角を現し、武士としては初めて太政大臣になります。
結局、争いが絶えないことで、軍事力を背景とした武士たちが物理的、政治的に力をつけていくことは時代の必然だったのでしょう。
武士による世の中になったことは、歴史上重要な出来事だったと思いますが、その背景として争いの絶えない時代であったことを考えると、少し複雑な気持ちになります。
中国や韓国、北朝鮮とGDP比での軍事費が多い国に囲まれた現代日本も、この時代の貴族たちのようにならないよう、気を付けなくてはいけませんね。
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2019年02月01日
十把一絡げズ 第55回 「浄土の教え」
こんにちは、酒保です。
今回は浄土の教えがテーマです。
国風文化で様々な文学作品が世に出される一方で、10世紀は疫病などにより人々の不安が高まった時代でもありました。
そんな中で、念仏を唱え阿弥陀仏にすがれば、死後には極楽浄土に生まれ変わることができる、という浄土の教えを説く僧が現れました。
そもそも、浄土の考え方は7世紀前半には日本に伝わり、阿弥陀仏の像が盛んに作られていました。
これが社会不安などを背景として、強く受け入れられます。
特に平安時代後期には、「末法」と呼ばれる「どんなに修行をしても悟りを開けなくなる時代」が到来したため、これが災害や戦乱が頻発する現状と合わさり、世界の終わりを感じさせて、社会不安が増大したのでしょう。
現世での救済が望めないことから、死後の救済を望み、それが極楽浄土へのあこがれにつながったのだと思います。
この後、鎌倉時代に入ってこういった信仰はだんだんと別の形に変化していきます。
しかし、その根底にあるのは救済されたいという生きることがつらい人々の切なる願いです。
そういった感情の受け皿となる機能は、現代の宗派、宗教でも同じなのかもしれませんね
2019年01月31日
十把一絡げズ 第54回 「平安時代の作品」
こんにちは、酒保です。
今回は、平安時代に書かれた文学作品について触れていきましょう。
かな文字が誕生した国風文化で、とくに有名な作品は源氏物語と枕草子でしょう。
これらは、国語の教科書にも古典として載っているほどです。
源氏物語というのは、紫式部が書いた小説です。
早くに母を亡くした光源氏が様々な女性と恋をしながら、母とよく似た紫の上という少女を引き取って育てつつ、浮世を流す、といった内容です。簡単に言ってしまうとマザコン、ロリコンの浮気性というかなりひどい男になりますが、こういった古典文学に触れる時に気を付けなくてはいけないのは、当時の世の中の常識を知っておくことです。
この小説はのちの世にまで大きな影響を与え、様々な人が読んだというのだから、彼は受け入れられるキャラクターだったと想像することもできます。現代では、平安の貴族社会を表した資料ともみられ、貴重かつ重要な文芸作品になっているようです。
一方の枕草子は、清少納言が書いた随筆です。
「春はあけぼの、やうやう白くなりゆく山ぎは、少し明かりて紫だちたる雲のほそくたなびきたる」の歌いだしで有名ですね。
随筆というのは、そのときの感情や気分、考えたことをつらつらと書き述べたものです。
そのため、枕草子は小説のように起承転結もなく、論文のように結論もありません。
ただ、「春は夜明けがよい。だんだんとあたりが白くなっていき、山の上のほうが明るくなり、紫色に染まった雲がたなびいている様子がよい」と自分の好きな風景を語っているだけです。
他にも、「すさまじきもの」「心ときめきするもの」など、様々なテーマで自分の思うことを書き連ねています。
どちらの作品もその後の日本文学に与えた影響は大きく、今回取り上げなかった土佐日記や古今和歌集と合わせて、覚えてもらいたい4作品となっています。
興味を持った方は、ぜひ現代語訳でも読んでみてもらえると、周囲に自慢もできますし、教養が深まった気分にさせてくれると思いますよ。
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2019年01月30日
十把一絡げズ 第53回 「かな文字」
こんにちは、酒保です。
今回はかな文字についてやっていきましょう。
かな文字は現在のひらがなやカタカナです。
もともと、日本語を表記するために漢字の音を借用して用いられた万葉仮名というものがありました。
これは、万葉集でもつかわれているものです。
しかし、そこからさらに一歩進み、漢字を崩したり、一部のみを使用することでさらに書きやすい文字を作り出したのが、当時の日本人でした。
これにより、日本人は当時の話ことばそのままで文章を書くことができるようになります。
自分の母国語をそのまま文字としてあらわすことの利点は、複雑かつ繊細な考えや感情を自由に表せるようになることです。
現代にたとえて言うならば、英語で手紙を書くことと日本語で手紙を書くことを比較して考えてもらうとよくわかるのではないでしょうか。
お互いに英語は異文化の言葉です。伝えたい気持ちに適する言葉が見つからなかったり、誤解のもととなってしまったりする恐れがあります。
それに対して、お互いの母国語である日本語で書いた手紙はそのリスクがはるかに少ないと納得できるのではないでしょうか。
私は、このかな文字の登場によって、中国文化からの完全な脱却を果たしたと考えています。
古墳時代の雄略天皇は、朝貢をやめ、中国から与えられていた暦や法を独自に作っていくことを決断しました。
これにより、日本が中国の一部とならずに済んだという考えもあります。
そして、その集大成として、中国から与えられていた文字を、日本独自のものに昇華させたかな文字は、日本が中国とは全く関係ない新しい文化を作っていく歴史の始まりにあたるのではないでしょうか。
そのように考え、かな文字の登場は日本の歴史上重要なポイントだったと、私は信じています。
2019年01月29日
十把一絡げズ 第52回 「寝殿造」
こんにちは、酒保です。
今回は寝殿造がテーマです。
寝殿造とは、平安時代から中世にかけての建築様式です。
その特徴は、内部が柱だけで壁がほとんどないということです。
中と外を分けるのは蔀(しとみ)という上に開くタイプの扉などが使われ、昼間は解放され、夜は閉じていました。そのため、中も外もほとんど壁がない開放的な空間を作ることができます。
さらに、外に関しても、庭に大きな池があったり、木々があったりと整えられていて、平安時代の貴族はそういった風景を肴に酒やお茶を飲んでいたのだろう、と想像が掻き立てられます。
そういった開放的な空間だったため、プライベートルームというのはあまりありません。
個人の空間は、屏風などを使って仕切っていました。正直、現代の人間からすると全く仕切られた個人の空間という感じはしませんね。
この時代から使われたものはたくさんありますが、畳もその1つです。
畳は何枚もむしろ(藁やイグサを編んで作った敷物)を積み重ねる、という意味の言葉ですが、平安時代の畳はまさにそのようなものでした。
もともとが敷物であり、平安時代のベッドであることから、畳の上は土足厳禁なわけですね。
このような寝殿造で作られた有名な建物は10円玉に描かれた平等院鳳凰堂や世界遺産にもなっている中尊寺金色堂が挙げられます。
今でもみられるものですので、機会があればぜひご覧になってみてください。
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2019年01月28日
十把一絡げズ 第51回 「国風文化」
こんにちは、酒保です。
今回は国風文化です。
国風文化は、10世紀から11世紀に発展した文化で、様々なものが日本風に変化していった文化でもあります。
以前は、遣唐使を通じて唐からはいってきたものをまねする形で日本の彫刻や絵画が発展していきました。
しかし、唐の勢力が衰えると、菅原道真は「危険な航海をしてまで唐から学ぶものはもうない」と考え、遣唐使を廃止します。
その結果、それまで流入していた唐の文化を日本人の感性で発展させていくことになるのです。
これは、歴史上何度も繰り返されることになります。
今回は、唐の文化を日本風に変えましたが、安土桃山時代にはポルトガルなどからはいってきた文化を、明治時代や大正時代にはヨーロッパやアメリカからはいってきた文化をどんどん日本風に変えていっています。
そして、それは現代でも同じです。
食べ物や電化製品など、様々な分野で新しいものを取り入れつつ日本風に変化させています。
新しいものを取り入れ、自国の中で昇華させていく姿勢は、1000年以上前から変わらない日本の特徴です。
ガラケー(ガラパゴス携帯)や軽自動車に代表される日本の風土に合わせて作られたものは、必ずしも世界的に受け入れられるわけではありませんが、日本国内では強く受け入れられています。
独自の文化とは、古い和風のものだけではなく、「これがよい」「しかし、これはダメ」と取捨選択をしながら新しいものに変化させていく、日本人の感性そのものなのではないかと私は思っています。
2019年01月27日
十把一絡げズ 第50回 「最澄と空海」
こんにちは、酒保です。
ついに第50回となりました十把一絡げズ。今回は最澄と空海をテーマにやっていきましょう。
最澄と空海は、どちらも遣唐使とともに唐にわたり、最新の仏教を学んできた僧です。
当時、最澄はエリート僧として、空海は無名の僧としての参加となりました。
そうして学んだ仏教が、現在まで続く日本仏教のもととなっているのです。
さて、最澄の天台宗は比叡山延暦寺に開かれました。
鎌倉仏教で活躍する法然、栄西、親鸞、道元、日蓮といったそうそうたる顔ぶれが天台宗にはそろっています。
こういったことから、比叡山は日本仏教の母山とも呼ばれているようです。
空海の真言宗は高野山金剛峰寺に開かれました。
当時、最澄が学んだ仏教よりも空海が学んだ仏教のほうが必要とされたようで、最澄は空海にも教えを乞うたと言われています。
空海は「弘法も筆の誤り」で有名な弘法大師です。
京の都の大内裏、応天門の応の字を間違えたことからこのことわざが生まれたそうです。
また、高野山の奥には空海が入定(瞑想をして生きたまま仏になること)した御廟があり、そこには1200年間、1日2回の食事が運ばれています。
これは、空海がまだ生きているとされていることから続けられているそうですが、その長い期間続けてきた伝統を考えると歴史の重みを感じることができます。
さて、最澄と空海では対照的なところがあります。
最澄は本人よりも彼の開いた天台宗が大きく成長しました。一方で、空海は本人がとてもすごかったため、彼を超える後継者がなかなか育たなかったようです。
エピソードもそのように、最澄は天台宗としての話、空海は本人の話が多くみられました。
中学教科書ではまとめて扱われている二人ですが、詳しく見ていくといろいろと違いがみられます。
こういった教科書外の知識こそ、歴史を学ぶ一番の面白さかもしれませんね。
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2019年01月26日
十把一絡げズ 第49回 「摂関政治」
こんにちは、酒保です。
今回は藤原氏が行った摂関政治についてやっていきましょう。
摂関政治とは、一族の有力者が、天皇が幼い時には摂政、成人したのちには関白という職に就き、天皇のそばで政治を動かす政治体制です。
摂政といえば、聖徳太子も務めていた役職ですね。
摂政とは、天皇が女性の時や幼い時に天皇に代わって政治を行う役職です。
現在でも天皇が女性のときや幼い時は、摂政は置くことができると皇室典範にも記載されています。
その場合、天皇が行っている国事行為を、天皇に代わって執り行う役職ということになりますね。
一方で関白というのは成人した天皇の補佐を行う役職です。
こちらは天皇に政治能力があるので、天皇の補佐だけです。最終的な決断は天皇が行います。
摂政と違い、こちらは現行制度にはなく、関白という役職は現在ありません。
平成の天皇陛下がご高齢を理由に譲位なさるという話が出たときにも、関白を置くようにして仕事を代行させる、という話も出ていました。しかし、現行制度では無理ということですね。
さらに、代行する仕事も国事行為のみで天皇は政治判断をしない、というのが日本国憲法下における天皇制ですので、関白をおいてもあまり意味がないのかもしれません。
正直、関白が担っていた役割は現在の内閣が果たしているのではないか、とも私は思います。
それぞれの役職がわかると、いかに天皇のそばで働く役職かが理解できると思います。
藤原氏は、何代にもわたってこの2つの役職を独占し続けたことで強い力を得ていたのですね。