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2019年02月25日
十把一絡げズ 第68回 「封建制度」
こんにちは、酒保です。
今回は封建制度について話していきましょう。
封建制度とは、土地を仲立ちとした主従関係のことです。
先日のテーマである御恩と奉公がまさにその関係ですね。
この封建制度はヨーロッパや中国など広くで見られます。
ヨーロッパでは、国王と諸侯、諸侯と騎士の間が土地を仲立ちとして結ばれています。
土地を仲立ちとした主従関係というのは割と国際的にみても一般的な考え方だったといえるでしょう。
しかし、日本において若干他とちがうところがあるとすれば、結ばれているのは天皇(王)と貴族(諸侯)ではなく、将軍と御家人だった、という点です。
そのため、鎌倉時代の歴史をひも解く有力な資料である、吾妻鏡という書物の中では、貴族の立場から守護・地頭の設置を反対されたということが書かれています。
国際的に一般的なことでも、やはりそれぞれを取り上げてみればそれぞれの国で別々の事情が見え隠れしています。
それは現代でも同じことです。
地理や公民はそういったところに焦点を当てた科目ですので、どこが同じなのか、どこが違うのかをしっかり見据えて、学習をしていきましょう。
2019年02月24日
十把一絡げズ 第67回 「御恩と奉公」
こんにちは、酒保です。
今回は御恩と奉公をテーマにしていきましょう。
御恩とは、鎌倉将軍が御家人に土地を与えたり、先祖から伝わる土地の所有を認めること。
奉公とは、御家人が将軍に忠誠を誓って戦うこと。
ここで大切なのは、御恩とは「褒美」ではあるけれど、「お金」或いは「宝」ではないということです。
あくまで「土地」を媒介とした褒美なんですね。ここを間違えるとテストでもを食らいますよ。
なぜ土地を媒介とするのか、というと土地があればすべてがそろうからです。
ここでいう土地は、土地と人民がセットとなっていますので、そこからは毎年収入があります。
そして、そこには税を徴収するための仕事(地頭)やそこを納めるための軍事力(守護)が必要となるため、役職もあります。
また、先祖代々の土地を認めてもらうことで、よそ者に取られて不本意な統治を受けることもなくなるわけで、土地をもらうことには大きな利があったと見れるでしょう。
ただ、昔学習したことをうろ覚えで書いているところもあります。
今回のテーマとしては、前半のみで中学の歴史としては完全となります。それ以降の話は今回裏付けが取れなかったので、半分字数稼ぎです。
とはいえ、こういった歴史の「なぜ」「どうして」を考えることには大きな意味があります。
「なぜ」「どうして」と思うことを自分で調査することが、歴史に限らずすべての学習を面白くする唯一の方法です。
皆さんも、ぜひ不思議に思ったことに仮説を立てて、調べてみるという勉強を試してみてください。
2019年02月23日
十把一絡げズ 第66回 「御家人」
こんにちは、酒保です。
今回は御家人がテーマです。
何かと忠義にあふれるイメージを持たれる御家人ですが、鎌倉時代の将軍と御家人の関係は意外とドライでした。
将軍と御家人は、戦う代わりに褒美として土地をもらう、土地をくれないならば言うことは聞かない、という程度のつながりです。
もちろん、現代人が自分の会社に帰属意識を持ったり、簡単には転職しなかったりするのと同様に、御家人も不満があればすぐに反旗を翻す、というほど忠義がなかったわけではありません。
しかし、武士のイメージとして持っている、「どんな不利益があっても、主君の為にすべてをささげる」というような忠義者ではないのは確かでした。
そもそも、「やあやあ我こそは〜」という名乗りも、多くの褒美がもらえる「先縣」や「一番槍」の功績を認めてもらいやすくする目的があったともいわれている。
鎌倉時代末期の元寇でも、「元軍に名乗りをあげている間に攻撃されているあほ」という評価も聞こえますが、あれは味方に武功を認めてもらうために、名前を覚えてもらうためにやっていたのかもしれないし、実際にそれによって恩賞をもらうための証人となってもらった例もあるようです。
そして、結局恩賞を与えることができなくなったところで鎌倉幕府は滅亡するわけなので、忠義にあつい鎌倉武士のイメージはあまり正確ではないのだろうと私は思います。
もちろん、そういった人もいたと思いますが、一致団結してことに当たるより、一所懸命に自分の領地を守るのが御家人である、という方が私のイメージに近いです。
調べてみると別の側面や、別の受け取り方が出てくることはよくあります。皆さんも、今回の話で御家人について興味を持ってもらえると嬉しいです。
2019年02月22日
十把一絡げズ 第65回 「征夷大将軍」
こんにちは、酒保です。
結局インフルエンザということで、しばらく動けませんでしたが、ようやく復活できました。
再出発の今回は征夷大将軍がテーマです。
実は太字語句としてはもっと早く、藤原氏より先に出てくる征夷大将軍。
私の見落としのせいで、鎌倉時代での紹介となりました。
さて、皆さんは征夷大将軍といわれて誰を想像するでしょうか。
坂上田村麻呂?源頼朝?足利家のだれか?それとも戦国の雄、徳川家康でしょうか?
歴史上様々な人が任命され、日本を動かしてきました。しかし、歴史上初の征夷大将軍は、大友弟麻呂(おおとものおとまろ)という人です。
全く聞き覚えのない人が出てきましたね。歴史の教科書では、ある程度大きなことをした人は取り上げますが、初めてその役職に就いた人や初めて行われたタイミングをあまり取り上げない傾向があります。
征夷大将軍のほかにも、初代天皇なんかもスルーされている一人ですね。初代天皇を聞いて生徒が「卑弥呼」「推古天皇」「聖徳太子」などと答えることも慣れてきました。
閑話休題、征夷大将軍とはもともと征夷、東北地方にいる蝦夷征伐を指揮する立場でした。
しかし、源頼朝以降その意味は変わっていきます。
・ただ単に、「大将軍」という点に目をつけて、武士の棟梁であることを強調して使われている説。
・地方を統治する権力も征夷大将軍にはあったことから、政治の実権を握るために就任した説。
いくつかの説がありますが、頼朝以降の征夷大将軍には、蝦夷討伐という意味合いはほとんどありません。
しかし、名前を変えずに本質を変えて現状に対応する、ということは日本人の得意技。
いつものことと思いながら、征夷大将軍という語句や就任した人たちのことを覚えていきましょう。
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2019年02月15日
2019年02月14日
十把一絡げズ 第64回 「鎌倉幕府」
こんにちは、酒保です。
今回は鎌倉幕府がテーマです。
この鎌倉幕府は、源頼朝が征夷大将軍に任命されたことで開かれた幕府です。
しかし、1185年には国ごとに守護を、荘園や公領ごとに地頭をおくことを朝廷から認められました。
これをもって、鎌倉時代が始まったという考え方もあります。
征夷大将軍に任命されてから開かれた幕府は、その後の幕府にも踏襲される「侍所」「政所」「問注所」が置かれました。
立法府を将軍と考えると、現在でも同じような分けられ方をしているようにも見えますね。まあ、将軍の権力が強すぎて、三権分立が図られているわけではないのですが。
中学歴史において、もっとも覚えてもらいたい役職が「執権」と「六波羅探題」です。
執権は将軍の補佐、のちに政治の実権を握る役職。
六波羅探題は朝廷が反乱を起こさないように監視する役職です。
どちらも鎌倉幕府特有の役職なので、しっかり覚えておきましょう。
武家政治の基礎となった鎌倉幕府のしくみは、室町時代に移っても同じような形で使われ続けます。
おそらく、それだけ鎌倉幕府のしくみが、当時の武士たちにとって理にかなったものだったのでしょう。
江戸幕府においてはまた違う形のしくみがとられていますが、戦国時代を経ることで武士を取り巻く環境も大きく変わっていますので、それが統治機構のあり方にも影響を与えているのだと思います。
なんにせよ、テストなどでは特有の役職や統治機構の組織図から幕府の名前をこたえるものが多いですので、覚えていない人はぜひ復習をしてみてください。
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2019年02月11日
十把一絡げズ 第63回 「鎌倉時代」
こんにちは、酒保です。
今回は鎌倉時代について書いていきます。
鎌倉時代は平安時代のあと、室町時代の前に当たる、鎌倉(今の神奈川県)に政治の中心があった時代です。
鎌倉時代にもいろいろなことがありました。
まずもって、一番大事なことは武家政治の土台ができたことでしょう。
鎌倉幕府の成立によって、武家が政治を行うということがおかしなことではなくなります。
これがなければ、以降の室町幕府、江戸幕府もなかったでしょう。以降の政治は、鎌倉幕府の政治を手本としていますからね。
次に、元寇という対外戦争が起こったことも重要です。
この戦い、勝利したからよかったものの、負けて入れば日本終了、中国(モンゴル)の一部となる未来もあり得た大変なものでした。
結局、この戦いが鎌倉幕府衰退の一因となってしまいましたが、勝利をもたらした北条時宗は文句なしの偉人でしょう。
そして、教科書には書かれていませんが、地味に大事なことは、武家政治となってからも天皇を頂点とする形を崩さなかったこともあげられると私は思います。
天皇が権威を、将軍が権力をと分けて考えることで、将軍は天皇を利用して政治をやりやすくしていたことは事実でしょうが、天皇家を滅ぼして日本の王となることも可能だったでしょう。
実際、中国やヨーロッパではそういう事例に欠きません。
しかし、それをせずに天皇家を残したことで、世界で最も古くから続いている天皇家の血統が絶えることがありませんでした。
実をいうと、私にとって鎌倉時代最も重要なことは最後に話をした国体の保持だったりします。
鎌倉時代に天皇家が滅ぼされなかったおかげで、天皇が政治権力を時の権力者に委任し、政治の実権を握るという古代からやってきた日本の形が崩れなかったのですから。
途中より鎌倉時代の話ではなくなってしまいましたが、皆さんも日本にしかない王と民の形をぜひ調べてみてください。きっと日本のすごいところを再発見できると思います。
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十把一絡げズ 第62回 「源義経」
こんにちは、酒保です。
今回は源頼朝の弟、源義経がテーマです。
義経が歴史の表舞台に出てくるのは、頼朝が挙兵した後です。
頼朝の挙兵を聞きつけて、兄の助けになろうとはせ参じたわけですね。
そして、頼朝と対面した後、平氏との戦いに参加していきます。
有名な戦いとしては、「一の谷の合戦」や「屋島の戦い」、「壇ノ浦の戦い」があります。
一の谷の合戦では、「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」と呼ばれる急斜面を駆け降りる奇襲戦法で平氏を打ち破り、大きく名をあげました。
しかし、その後、頼朝から命じられた京都での治安維持の間に、義経は後白河法皇から検非違使(けびいし)・左衛門少尉を叙任されてしまいます。
義経は朝廷に認められて源氏の名を上げられたと思ったかもしれませんが、これにより、頼朝が激怒。
勝手に朝廷から官職を受け取り朝廷により政治権力を削られることや、弟が勝手に官職を受け取って頼朝の顔に泥を塗ったことなど頼朝にとって不都合なことばかりでした。
結局、何度か和解のチャンスはありましたが、それらを生かせず、頼朝は義経が裏切ったと思い込み、義経は頼朝の期待を裏切り続け、最終的に奥州(現在の岩手県)にて討たれます。
義経も頼朝を裏切ろうと考えていたわけではないでしょうが、結局政争の具となってしまった形でしょうか。
この悲劇性と当時義経の人気が非常に高かったことなどから、様々な物語となって語り継がれています。
それどころか、実は生き延びてチンギス=ハンとしてモンゴル帝国を作ったという説すらあります。
判官びいきという言葉の元にもなった源義経は、実に日本人が好む物語性をもった人生を歩んでいきました。
正直、下手な小説よりも読みごたえがあるのではないかと思いますが、いかがでしょうか。
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2019年02月10日
十把一絡げズ 第61回 「源頼朝」
こんにちは、酒保です。
今回は源頼朝をテーマにしていきます。
源頼朝は最初の武家政権を確立した人物です。
征夷大将軍になって幕府を開くことで武家政治を行う、という形は頼朝から始まりました。
源頼朝は平治の乱において、ほかの源氏が処刑される中で伊豆への流刑となります。
しかし、伊豆の監視担当は北条時政などです。北条といえば、頼朝の奥さんの実家です。監視は全く意味がないですね。
結局、20年ほど伊豆で機を待ち、挙兵します。
そして、勝ったり負けたり紆余曲折はありますが、最終的に壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼします。
鎌倉幕府を開いたのはこのころですね。
その後義経追討や奥州藤原氏を滅ぼし、享年53歳でこの世を去ります。
その死は不明瞭なところが多く、吾妻鏡という書物の中にも書かれていません。
頼朝のすごいところは、その後の武家政治の土台を作ったところです。
その政治は、武家諸法度などの法のもととなり、江戸時代まで参考にされました。
しかし、ハイスペックな弟や頭の上がらない奥さんに囲まれ、大変そうな人生でもあります。
中学歴史の中では触れない偉人1人1人の人生も、調べてみるとそれまでのイメージから大きく変わるかもしれません。
こういったことを知ることも、歴史に触れる醍醐味ですね。
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2019年02月07日
十把一絡げズ 第60回 「平清盛」
こんにちは、酒保です。
今回は平清盛がテーマです。
平清盛は武士として初めて朝廷の最高の役職である太政大臣になり、政治の実権を握りました。
権力の握り方は、娘を天皇の后にして、一族も高いくらいや役職を占めるなど、若干藤原氏をほうふつとさせますが、行った政策はかなり重要です。
その中でも最も重要なことが、瀬戸内海の航路や摂津(今の兵庫県)の港を整備し、中国の宋と盛んに貿易を行ったことです。
これにより、宋銭が大量に輸入され、宋銭をもとにした貨幣経済が部分的に導入されました。これにより、経済は活発化し、清盛の軍資金にもなりました。
また、この貿易は平家滅亡後も続きました。そのため、鎌倉時代にも宋との国交はないものの貿易は行われ、商人や僧が行き来するなど、大陸との交流が活発になりました。
とはいえ、平清盛はやはり調子に乗ります。
「平家にあらずんば人にあらず」とはまで言われた権力は、貴族や寺社、諸国の武士たちの反発を招き、結局反乱を起こされることとなります。
平治の乱で、清盛が見逃して伊豆に流した源頼朝が中心となった挙兵です。
このころになると清盛は病でこの世を去っていますが、結局滅亡の種を積みきれなかった清盛の失策となるのでしょうか。
こういった歴史のつながりは、探してみると至る所にありますが、そういった関係性を見ていくことも歴史を学ぶときの面白さなのかもしれませんね。
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