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2017年11月25日

闇の雄叫び 13 (闇の雄叫び)







菓子折を手に、父が世話になっていた認知症患者特化型の施設を訪れたのは、父を退所させてから10日ほど経ってからの事だった。
施設の食堂ロビーでは馴染みの顔の入所者達がそれぞれテレビを眺めていたり、ソファにぼんやり腰掛けるなどしており、暴言を吐く父を、よく叱り付けていたあの女性の姿もあった。

会釈をしながらその中を通り抜ける。
ただテレビに目を向けたままの者、「こんにちわ」や「ご苦労様です」と、丁寧に挨拶を掛けてくる者など、入所者様々である。
それにしても本当に静かな環境であることに気付く。
それは父が退所したことによってもたらされた静寂なのだろうと、再び悟りもする。

ひとえに認知症と言っても様々な特性があるだろう。
それは物忘れや記憶の欠如だったり、論理的な認識の衰退による日常生活自体の困難だったり、さらに細かく言えば異常食欲だったり状態的な排用の失敗だったり徘徊など様々だ。
だが父の場合、それらに加えること激情型というのか、激昂型というのかは知らないが、診断名としては同じ認知症ではあるものの、やはりそこは父のような粗暴な者が居れるような場所ではなかったのであろう。
久しぶりに訪れたそこは本当に平穏で、平安なる老人施設というものだったのだ。

施設の事務所を訪ね、責任者にこれまでの礼を述べるとともに、急転なる経緯の退所を詫び、洋菓子の詰め合わせをテーブルの隅に置く。
他のスタッフ達も顔をのぞかせ、互いに「その節は」「こちらこそご迷惑を・・・」などと礼を述べ合う。そして話題は「その後お父様は?」といった具合に運ばれる。

医師に危篤を告げられたあの日、急慮自宅で看取ることにして連れ帰ったままだったので、やはりその辺は気にされていたようである。日々あれほど朝夕なく大騒ぎしていた入所者の、その後の顛末は果たしてどうなったのであろうかと。



「実のところ、持ち直したようでして・・・」



管理人がそう呟くと「ええっ!?」と、一斉にどよめきが上がり、直後には皆しーんと押し黙った。
そこでは誰一人「良かったですね」「それは何よりでした」などといった社交辞令すら口にする者もなく、皆、どう次の言葉を発して良いのか分からぬと言った風に戸惑いの表情を並べている。
ようやくにして「そうでしたか・・・」「それはそれは・・・」との神妙めいた言葉が小さく漏れ出すことになるが、まるでそれはお悔やみの挨拶というものだ。



「ええ・・・ まさか、あの状態から、”復活”するとは・・・」



管理人がまたそう呟くと、一堂はただ眉をひそめて頷くだけである。



” この息子さん、これからどうやって暮らしていくんだろ? ” 

” またウチの施設に連れて来られたら、どどど、どうしよう・・・ ”


まさにそう哀れむような、そして言いたげな彼らの表情を、そこではしっかり掴み取ることになった。実際のところ、「これからどうなされるのですか・・・?」と神妙に尋ねてきたスタッフもいた程である。

本来これは人の生き死にの話で、常識的に考えれば多分に言葉が選ばれるべき筈の話題ではあろう。
だが、たとえ仕事と割り切ってやってきたとは言え、これまで存分以上に振り回されてきた彼らからしてみれば、やはり父の復活劇は「まさか」のショックだったらしい。
察するにあの日、父の危篤を知らされた彼らからしてみても、きっとこのご家族、そして我々施設にも、ようやく平安が訪れるのだろうなと、皆思うことになったのだろう。
万事に順番順序があるように、あの日の父の危篤の知らせは、そんな新たな生活再建へ向けての節目のサインにも聞こえていた筈だった。これで1つが終わり、新たなる次が始まるという様に。
だが、そう易々とは予定調和と行かないのが人の世というものであり、やはり父という人間なのだろう。
苦笑いの施設スタッフ達と、苦笑いの管理人。
まさにお笑いの場面である。



「どうか、あまり無理なさらず、ご自愛ください」

「お母様に宜しくお伝えください」



施設の玄関口では、責任者とスタッフ数人に見送られることになった。
そこでは様々なる励ましの言葉を受けることになったが、誰一人「またいつでも御相談ください」という者はいなかった。さもあらん、君子危うきに近寄らずである。

車に乗り込み、玄関先で見送る彼らをミラー越しに覗きながら、もうここには何らかの手土産の類なんかを携え平身低頭しながら訪れる用向きも無くなったのだと知り、一方では、これまでのお礼を伝えたいが為だけに寄ったつもりだったのが、2度とここへ父は連れてこられないのだということを、切に知らされたような気もしてならなかった。

どの道、経済的な理由からも、こんな高額な施設に父は預けられないのだと知りながら、”万事休す”といった言葉と意味とが頭の中を支配する。
それにしても、これまでの経緯はいったい何だったのであろうかと、呆れ、戸惑うしかなかったのは言うまでも無い。
まさに一寸先は・・・である。




事実上、父が持ち直したのは、施設から戻して1週間くらいしてからだろうか。
この分なら、もう点滴は必要ないだろうと外され、経口での栄養食投与が行われることになり、そうなると当然ながら、今後の介護体制をどうして行くのかという話になった。

急遽、我が家ではケアマネージャーを初め、医療や看護のスタッフ、日々のオムツ交換や身体の清拭を行う介護ヘルパー、さらには訪問入浴サービスのスタッフ、介護ベッドや機器の業者、薬局などを交えての、今後父の介護に携わってゆくことになるであろう全体での顔合わせ会議が執り行われ、我が家の狭いリビングの小さなテーブルを15、6名の関係者が取り囲むことになった。

その光景たるやは、いったいこの家では何が起きようとしているのだろうかと唖然とするしかなく、あれほど他人が我が家へ出入りするのを激しく拒絶していた母にしろ、もうそこまでなっては為す術もなく諦めざるをえない様子となった。
すでに自分の身体では夫の介護は無理であることは判っており、だからと言って、全てを息子に託すのも憚られる気もしたのか、それまでの頑ななプライドを緩めるしかなくなったのであろう。

以来、朝昼晩と日々の介護ヘルパーが入ることになり、医師による週一の巡回、看護師による週一の摘便、さらに体調が回復していけば週一程度の訪問入浴を取り入れようということになった。

ここでおそらく、かなり罰の悪い思いをする羽目になったのは、父の危篤を示唆した医師だったであろう。
その医師の見立てにより家族は慌てて動くことになり、周囲のサポートもそれに追従することになったのだ。その後、決して父の旅立ちを今か今かと待ちわびていたわけでは無いのだが、いつまで経っても訪れないそのことに、結局は両者とも振り回され、仕舞いには疑問を抱くことにもなっていた。この手の話は、よく聞く話といえば話になるが、やはり人の生き死にだけは天のみぞ知るといったことなのだろう。
おそらくは、あの日の医師の見立てとしてはそれが事実だったのであろう。だがそれ以上に父の生命力が強かったのだと、綺麗にまとめるしか他になさそうだ。

それにしても、この顛末は何なのだろうか。
あの日以来、みな覚悟し、気持ちを整え、準備していた筈だった。
出入りの看護師の一人が、「あの医者め・・・」と漏らし、「この程は、なんて言ったら良いのやら・・・」と苦笑いするケアマネージャーからも、それが窺える顛末となった。
もう、笑うしかない。

点滴が外れても横たわったままの父ではあったが、日々食欲は増していき、液体の経口栄養食から、お粥状の流動食へと切り替えられた。
そしてやがては何か声を発するようになり、それは食事の催促へとなっていく。

ある日のこと、けたたましい騒音で真夜中に叩き起こされた。
それは人の悲鳴か、誰かが喧嘩でもしているような怒号にも聞こえ、しかも外ではなく家の中から聞こえているようである。嫌な予感を覚えながらも、あまりにも凄まじい音なので起き上がる。
そこで覚醒した耳に届いたのは、紛れも無い父の叫び声だった。





「お゛ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーい!!!!!!」

「お゛ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーい!!!!!!」

「お゛ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーい!!!!!!」

「お゛ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーい!!!!!!」

「お゛ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーい!!!!!!」

「お゛ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーい!!!!!!」

「お゛ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーい!!!!!!」

「お゛ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーい!!!!!!!」


「メシ持ってこーーーーーーーーーーーーーーーーーい!!!!!!」

「メシ持ってこーーーーーーーーーーーーーーーーーい!!!!!!」

「メシ持ってこーーーーーーーーーーーーーーーーーい!!!!!!」

「メシ持ってこーーーーーーーーーーーーーーーーーい!!!!!!」

「メシ持ってこーーーーーーーーーーーーーーーーーい!!!!!!」

「メシ持ってこーーーーーーーーーーーーーーーーーい!!!!!!」

「メシ持ってこーーーーーーーーーーーーーーーーーい!!!!!!」

「メシ持ってこーーーーーーーーーーーーーーーーーい!!!!!!」





家の外まで響き渡るその叫び声は、深夜の住宅街に果てることなく繰り返された。
つい先日まで、あの世とこの世の境を行き来していた筈の老人が、到底出せよう筈もないくらいの巨大な声量と底知れぬスタミナで、延々延々、さらに延々と叫び続ける。
耳を塞ぎ呆然とする管理人。
起きだした母も為す術はない。




「おおおおおおおおおおおおおーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーい!!!!!!!!!」



「おおおおおおおおおおおおおーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーい!!!!!!!!!」



「おおおおおおおおおおおおおーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーい!!!!!!!!!」



いっそ殴って気絶させたほうが良いのかと迷うくらい、その大音響は繰り返される。
まるで我が家で殺人事件でも起きているかの如く、断末魔の悲鳴にも似た叫びが轟き渡る。



「うわああああああああああああああああああああああああああああああーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!!!!!!!!!!」


「ぐぅぅうわああああああああああああああああああああああああああああああーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!!!!!!!!!!」



恐れていた父の復活である。


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posted by ココカラ at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 介護

2017年11月23日

闇の雄叫び 12 (凱旋)





いわゆる”虫の息”で帰宅した父だったが、そのまま数日が過ぎた。
管理人は日々仕事に出向き、家にいる母から何らかの連絡が入るのを待つ形となった。
その間、日に1度医師が巡回に訪れ、訪問の看護師も点滴の交換や容態の確認に出入りしていた。
看護師が入るたび、床ずれ防止の姿勢変換やオムツ交換が行われたが、父の寝かされている環境が、そんな作業に困難を極めさせた。それは足場の狭さや変えようの無いベッドの位置に加えること、なによりその高さが「低い」ということが問題だった。

傍で見ていても、そこでは看護師2人掛りでさえ辛そうな低い姿勢で作業するしかなく、やがて看護師側から申し入れされることになった。

「昇降機能と、出来れば床ずれ防止機能の付いたベッドを用意していただけないだろうか」

・・・と。

なにやら大袈裟な話になったと思いつつ、申し訳なさも募らせながらも、やはりこのままじゃ難しいでしょうか?と尋ねると、「とても辛い」と即答され、すぐさま介護ベッドを導入することにした。

当初は、施設で逝かせるより家族で看取ってあげようとの思いで、急遽施設から引き上げてきた筈だった。
だが本人自身は医師の見立てや家族の覚悟、そして”納得”とは相反し、まさかの健闘を続けることになっていた。

ただそれにしても、やはりもうすぐ父は旅立ってしまうのだろうといった、他に考え様のなかった家族側としての諦めがあったので、まさかそこへきて、新たに介護ベッドの導入を促されることになろうとはと、正直「今更か?」と戸惑ってしまったのを否めない。すでに葬儀社の選別をしていた最中でもあったのだ。
しかし何より、実際の現場の介護者が父の世話で困窮しているのは間違いないので、何処か呆気にとられながらも、ケアマネージャーに連絡し、急遽介護ベッドを手配することにした。


介護ベッドは翌日の午後には業者によって搬入組立てされ、それまで父が使っていたベッドは管理人により解体され片付けられた。
昇降と、背のリクライニングと足上げ機能、そして床ずれ防止機能を持った循環エアマット付きの介護ベッドは、沢山のボタンが配列された操作パネルとリモコンを備える、いわば最新鋭の”ハイエンドモデル”ということだった。

とくに昇降については床上10cmの低さまでペッタリと下げられるというのが特徴で、それは万が一の使用者落下による怪我の防止対策性能というものであり、おそらく現状の父については必要なさそうな性能ではあったものの、その特筆した新機軸に機械好きな管理人としては感心させられることになった。

使い方の説明を受け、ベッドを上げ下げし、やたらボタン数の多い床ずれ防止マットの操作パネルを父の特性に合わせポチポチ押し、また何度かベッドの高さやリクライニングを弄って練習してみる。
それにしても、我が家に凄いベッドが来たもんだなぁと、その大袈裟で壮観な眺めに唖然とさせられる。

そこへ点滴に繋がれた父が移されると、そこはまるで病室の様相を一気に呈し、またしてもその異質な自宅室内の眺めに圧倒されるというか、とうとうこんな大袈裟なことになってしまったのかと、やはり呆然とする。

老夫婦の寝室に忽然と鎮座しだした最新鋭の高級介護ベッド。
点滴の薬や流動食が詰められ重なる、医療メーカーのロゴ入りダンボール。
部屋の隅に所狭しと並び重ねられたオムツや尿取りパッドのパッケージ。

そんな有様を眺めていると、なにやら父はこのまま逝くのではなく、むしろ生きるのではないかといった想像すら不意に沸き起こる。確かに医師には危篤を告げられたが、果たしてそれはどうなのだろうかと、大袈裟な介護ベッドと、そこに横たわる父を見ているうちに、そんな思いに呑まれて行く。

ただ、それならそれで喜ばしいことであるのかもしれない、とも考える。
これまでこの父には色々煩わされ、とことん散財させられてはきたが、それは認知症による致し方ない事由からで、もしもこのまま父が回復するならしたで、それに文句を言う気は毛頭無い。
親の健康や長寿を否定する気などまったく無いのだからして。

だが、そこに一抹の不安も覚える。
もし父が回復したらしたで、その後は誰がどうやって、父の面倒を見ていったら良いのかと。
このほどの一連の事態にしても、結局は家族で介護することに行き詰まり、父を施設に入れるしかなくなったのだ。

父が回復したら、また以前のように昼も夜もなく騒ぎ出し、誰の手にも負えなくなったら、いったい我が家は、家族の生活は、母は、俺は、そして父自身はどうなってしまうのだろうか。

やはりまたしても、あの高額な施設に騙し騙し父を入れなければならないのか?
まぁおかげで母は療養に専念することができ、管理人にしても社会生活を取り戻しつつあったのだ。
ゼニ金の問題ではなく、やはりそうするしかないのか?

いやいやいやいや、それこそもう無理だ。
これ以上、あんな出費を続けていたら、我が家は近いうち必ず経済破綻する。
下手すりゃ一家心中だ。

まさに堂々巡りである。
何やら息が詰まりそうになり、そしてこれまでも何度となく抱くことのあった、”介護離職”という言葉が再び脳裏に蘇える。
体に不具を抱えることになった母が、以前の様に父の介護をするのはもう無理なことで、だとすると、やはり息子である管理人が主介護者となり、父の面倒を見ていくしか無いのである。きっとそれがセオリーなのだろう。
そういえば、それも覚悟していたなぁと、父が施設を退所させられそうになっていたあの頃を振り返る。


(ただし、果たして俺がずっと見られるのだろうか?)


見ていくしかないのは当然なのだが、もしそうなったらそうなったで、この先ずっと、父の面倒を見ていくことに日々を費やす意識が維持出来るのだろうかと不安を覚える。
さらには、果たしてそれはいつまで続くことなのか、仮にもしそれが終わったとして、いったい自分はそのとき何歳になっていて、そこからどうしたら良いものか、再就職なんてことは出来るのだろうか、社会に戻れるのだろうか、さらにはその頃の母は・・・などと、どうにも想定しようもない筈の後先を考え怯え震える。

超高齢社会という現実。
老いた親、老いた子、介護するのもされるのも老人同士。
昨今決して珍しくは無い世の現状を知るからこそ、そして何やら自分の家がその当事者世帯になりつつ気配があるからこそ、あまり想像したくはない未来が窺え、言いようの無い戦慄さえ覚える。


(もし父が持ち直したら・・・・・・)


このとき、医師が見立てていた父の旅立ちを、一瞬でも思わなかったと言えば、それは嘘になるであろう。
医師がそう言うのなら仕方ない、俺が願ったことじゃないのだと、気持ちの矛先を他者の言葉に転化していたのが偽らぬところである。

そんな管理人の目線の先には、真新しい介護ベッドに横たわる父が、落下防止の柵に囲まれ小さな寝息を立てている。
どちらになるのだろうかと、そればかりが纏わり付いて離れない。
一方では親の回復を思い、一方では回復後の後先を考え悪寒する。
嫌な気分だった。


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posted by ココカラ at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 介護

2017年11月20日

闇の雄叫び 11 (かりそめの月日が終わるとき)


父危篤 ――――

勤務中に知らせを受けたので、早退して一旦自宅に寄り、そういう連絡が入ったと母へ伝える。
外出着を準備するのに母が寝室のドアを開け放つと、そこでは施設をたらい回しにされる直前まで父が寝起きしていたベッドがあり、長年使っていた布団や枕が整然と延べられたままである。
あの日まで、認知症在宅介護の修羅場と化していた筈のベッドだが、いまやそれは用途も温度も必要としないただの物体でしかなく、もうここに父は戻らないのだなと、なにやら虚無感に囚われてゆく。


(本当に、これで良かったのだろうか・・・)


日々あれほど翻弄され、辟易とさせられながらも、息子である自分が追い遣った先で消え入ろうとしている父を哀れに思ったのは、やはり親子だからなのであろう。

それにしても急転といえば急転だった。
施設内でインフルエンザが流行し、父を含めた数人の入所者が羅患してしまったとの詫びと連絡が来て以来、外部の人間の出入りは制限されることになった。
その後、事態の収束と同時に面会制限も解かれることになったが、父1人の容態だけは芳しくなく、インフルエンザ自体の症状が治まっても衰弱しきったまま予断を許さない状態へと陥った。

面会に行ってみると、あれほど大騒ぎしていた父が急に静かになったことで施設はしーんと静まり返っており、きっと元々こういう施設だったのだろうと気付かされることにもなった。
若い女性介護士の1人が、「なんだか急に寂しくなっちゃって・・・」「拍子抜けしちゃったというか・・・」などと、まじまじと呟くのを聞かされ苦笑いもさせられる。

以来、また以前のように毎日足を運ぶことになったのだが、既に父は食事すら摂ろうともせず、日々栄養と補水と薬の点滴だけを打たれ、ただベッドに横たわったまま朦朧とし、誰が話しかけようが何ら反応を示さなかった。
医師からは、インフルエンザでの消耗に加え、高齢ということもあり、このまま衰弱が続けば万一の事もありえると言われたが、ああ、そうなってしまうのかと納得する以外、他になかった。

ただ、なにやら妙な気分でもあった。
狐につままれると言うが、そんな感覚だったであろう。
あれほど誰彼構わず煩わせていた人物が、あれほど暴力的に捲くし立て、日々騒いでいた人間が、たった一時の流感で、このまま逝くことにもなるのかと。
はぁ?なんだこの様(ザマ)は。と・・・
そんな掴み様のない中途半端な憤りを覚えた数日後、父の危篤は知らされたのだ。


母を連れ施設に着くと、父は居室のベッドに仰向けに寝かされ、傍では看護士が点滴の交換作業を行っていた。
「お父さん?」と、母が何度か呼び掛けたが父の表情は動かなかった。
少しすると医師と施設の責任者がやってきた。
医師によると、ここ数日が目安でしょうとのことだった。手は尽くしているが既に衰弱が著しく、あとはただ見守るだけしかなく、もし知らせたい方がいたら早めに願いますと、そこでも言われることになった。
そうですか、わかりましたと、やはり頷くしか他はない。

おそらく父は生きてきた。
十分生きてきたのかどうかは本人ではないので知りようもないが、父はこれまで生きてきたのだ。もし、あえて、平均寿命とかいう、あくまで数字的な観点を持ち出してみても、ほぼそれを全うするくらい父は生きてきた筈である。
やはり、ああそうですか、と納得するより他はない。
とくに異存も異論もなく、その時が近づいたということなのだ、

妻と息子、施設の責任者、医師、看護士と、父に関わるそれぞれの立場の者達に囲まれて、その渦中の人物は開いているかどうかすら分からない薄目を覗かせながら、しゅーしゅー、しゅーしゅーと、半開きの口元から小さな呼吸音を立てている。
ついこの前までギラリギラリと邪険な眼光を放ち、まるで仁王の顔がごとく常に周囲を睨み付け怒鳴り散らしていた人物が、いまはこうして力なく横たわり、ただ憔悴衰弱の一途を辿っているだけである。
それは随分と、あっけないというか、あっさりした光景なのだった。
そんな静物的な父の様子を見定めながら、ここへ向かう途中に母と話してきたことを言うことにした。


「父を、動かしても・・・ 連れて帰っても、問題ないでしょうか?」


管理人の問い掛けに、施設の責任者と医師は一瞬顔を見合わせ、どういうことですかと、聞き返した。


「その・・ もしこのままここで亡くなっても、葬儀やら何やらで、一度は家に連れて帰ることになります。でももし、この状態でも動かして構わないのであれば、いっそのこと、このまま家に連れて帰り、家から旅立たせてあげようかなと、そう思いまして・・・」


施設の責任者は戸惑いながらも神妙といった表情を見せると医師を向き、「先生・・」と、意見を求めた。
医師は頭を小刻みに頷かせ始めると、父の様子を窺いながら押し黙る。


正直なところ、危篤と告げられた父をそのまま施設に残すのは気が引けた。
そしてその間、家族としてはどう過ごしたら良いのだろうかと戸惑うことにもなった。
加えては、医師には”ここ数日が目安”と告げられることにはなったが、それも不確かなことである。それはここ数日に必ず起きることなのか、それとも必ずしもそうではないのかと、誰しも正確な予想など出来ないことで、予想する自体なにやら憚られるような気もする。
しかもその間家族が父を施設に置いたまま、いまかいまかと待ち暮らすというのも落ち着かない話で、どうにもそれは妙でおかしなことにしか思えない。
果たしてこういう場合、家族としてはどうしたら良いものなのか。

病み上がりの母はようやく普段の生活を取り戻したばかりで、その日が訪れるまで施設に詰めることなど到底出来る筈もなく、だからと言って管理人が傍で見守り続けるにも限界があった。
やはりそれは明日起きることなのか、数日後のことなのか、それとも医師の見立てを越えて、ずっと先のことなのか、まったくもって定かではないのだ。

ならば、もし可能なら、せめて父が生きている内にでも住み慣れた家に連れ帰り、逝くなら逝くで、そこから旅立たせてあげようと、母とそういう話になったのだ。

「もう、こうなったら家に連れて帰ろうか」 と、そう結論づけたのだ。

父を動かしても大丈夫かという家族の問いに、医師は「そういうことであれば」と頷いた。
既に今となっては持ち直し様のない状態でもあるので、担架で寝たままの姿勢で運びさえすれば問題は無いだろうとの見解も示してくれた。
施設の責任者は些か戸惑いの色を浮かべていたが、「最初から最後まで、ずっとドタバタで申し訳ありませんでした」と言って詫びをし、その日のうちに退所する旨を伝えた。
さすがにその日という申し出についてはハッキリと驚かれてしまったが、いま生きている父を帰宅させる為にも、”後日改めて”という訳にはいかなかった。



ストレッチャー付きの大型の搬送車両を手配し、父が自宅に戻ったのは夕方だった。
それと同時に父を施設で診ていた訪問医療チームも到着し、点滴や諸々の薬品、器材、流動食品の類などを運び込み、簡易な病室というか医療体制らしき環境を整えた。

彼ら訪問医療チームについては、父の施設入所と同時に、そこで利用するための連携訪問医療として契約したのが始まりだったが、施設退所後も在宅訪問医療として継続利用が可能だったので、特に煩雑な手続きも必要とせずにそのまま来て貰えたのは大いに助かることだった。

これを急転直下と言うのかどうかは知らないが、そんな経緯で、その日、にわかに我が家は騒然となった。
医師を始め、その助手や専属の看護士、ソーシャルワーカー、また、日々の看護を専門に行う看護士のチームなども訪れ、それぞれに打ち合わせや申し送りが行われ、入れ替わり立ち代り多数の人間が出入りした。
それは父危篤の知らせを受けてから、わずか半日にも満たない間の出来事となり、皆が帰った頃には母も管理人も大きな溜息を漏らすことになった。
いよいよもって、自宅での看取りの準備が整ったのだ。


「お父さん・・・ ここアンタの家だよ、帰ってこれたんだよ・・・」


チューブに繋がれた父に母は呼び掛ける。
相変わらず父に反応は無く、施設に居たときから薄っすら開いたままの瞼も同じだった。
前年の秋、息子によって最初の施設へと送られ、その後施設を転々とさせられながらもこうして帰宅となったのは、明けて春のことだった。
おそらく主が戻らない筈だったベッドは、また再びその主を横たえさせることになり、ひいてはそれは、我が家にとっての、かりそめの安息が潰えた日ともなった。


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2017年11月17日

闇の雄叫び 10 (急変)

その後母が回復し、日常生活を取り戻すまでの間、施設から父の退所を促す連絡が来なかったのは、我が家にとって何よりの救いとなり奇跡だったといえよう。

施設へは毎日足を運び、父の様子を窺い話しかけ、何回かに1度はスタッフや他の入所の皆様へということで菓子や飲み物といった差入れもしていた。
本来、家族からの付け届けの類については、どこもそうだが一切断られるのが普通であった。だがそこではいつも素直に受け取って貰えており、それがこちらとしてはなにより安堵できることでもあった。

もしそのことについて下衆な勘ぐりをするならば、”あの入所者のとこだけは別だ”と思われていたのかもしれないし、おそらく、きっとそうだったのであろうと窺えもする。そう、あれほど施設全体を煩わせているのだからして。
ただこちら側としては、それでもどれでも納めて貰えれば良かったし、どんな切欠や、”恩着せがましさ”と捉えられようとも、出来るだけ長く、せめて母が起き上がれるようになるまでは、父を預かっていて欲しかったのが切なる部分だ。

そんな、いつの間にか習慣づいてしまった付け届け。
それはほんの僅かながらでも普段の罪滅ぼしになっているような気もして、車のトランクに菓子やペットボトルの飲み物を詰め込んで向かうときなどは、ある意味訪問し易かったという気持ちも否めない。
いつのまにか卑屈でいやらしいマネをする人間になってきたなと毎回感じるようになってはいたが、当然、素直な感謝の気持ちであったのも確かだ。
おそらくこういうのを贖罪の心理というのだろう。
下衆な贖罪ではあるが。

そうこうしながら、辛くも父はそこを追い出されずに暮らし続けた。
面会に行くと、変わらず声を上げている日が殆どだったが、時には落ち着いている日も見受けられるようになった。当然そこには施設スタッフの尽力が窺え、一方では、スタッフもそうだが本人自身や他の入所者達の慣れも生じてきたのかもしれなかった。
追い出されずにいたことに限定して言えば、ひょっとしたら普段の差入れの類なんかも、ほんの僅かではあるが功を奏していたのかもしれないなぁと、やはり下衆な思考を働かせてみたりもする。
いずれにしろ、父は相変わらず騒いではいたものの、そこの住人として居続けた。

やがて母も辛うじて杖をつきながら動けるようになり、暫らくしてからは管理人に付き添われ、父のいる施設を訪ねる事になった。
そこで母は、あの凄惨だった日々以来の、父との再会をすることになり、老人施設で暮らす夫の姿というものを、初めて目の当たりにすることになった。
父は不意に訪れた杖を手にする老妻の姿をぼんやり見つめ、いつもの怒号や罵声は吐かなかった。


「父危篤」の知らせが施設から入ったのは、母がようやく普段どおりの日常を取り戻し始めた頃だった。
どなたか呼んでおきたい遠方の親類がいれば、早めに連絡をして下さい、とも告げられた。


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闇の雄叫び 9 (”我”というもの)

結局は、施設側に折れてもらったのだろう。
後ろ髪を引かれる思いを胸に、父のいる施設を後にしながら、帰りの車中ではただただそんな気持ちに苛まれた。
「どうか宜しくお願いします」と、施設の責任者に玄関口で頭を下げたときも、相変わらず父の叫び声は轟いており、こちらをじっと窺っていた何人かの他の入所者達の顔も目に入った。
その中には、父を一生懸命に叱り付けていた女性の姿もあり、隠れるか消えてなくなりたい気持ちとで一杯になる。


「ちょっとあなた!どうしてそんな酷いこと言うの!この人が何をしたって言うの?謝りなさい!ちゃんと謝りなさい!!」


それは以前、施設の食堂ロビーでのこと、いつも静かに過ごしている他の男性入所者に対し、父がなにやら絡み出したとき、その女性は真っ先に立ち上がって父を叱り付けた。
にわかに食堂ロビーは騒然となり、居合わせたスタッフが制する事態となった。それは管理人と施設のスタッフが、同じ食堂ロビー内のテーブルで、病院から預かった父の処方についての申し送りをしていたときだった。
ただただ、その場に居合わせた全員に謝るしかなかった。
施設のスタッフは「まあ、良くある事ですよ」と微笑んでくれてはいたが、当事者(主犯)のリアルな身内としては気まずいどころの話しではない。
施設に面会をしに行くたび、いつしか自分もあの女性に叱られるのではないか、「早く連れて帰りなさい!」と叫ばれるのではないかと、いつのまにかそこを訪れるたび卑屈になっていく自分を覚えた。
今後、この先、父のことではどれだけ皆に頭を下げ、どれだけ周囲に対し卑屈になっていくのだろうかと。
脳溢血で搬送された際の救急病院での有様といい、その後のリハビリ施設での醜態といい、ショートステイを追い出される羽目になった顛末といい、はなからこうなることは容易に察しがつくことだった筈なのに。

そう。こうなることは分かり切っていたのだ。

それでも外に頼るしかなかったから、結局同じ事を繰り返してきたのだ。ましてや今度は認知症患者専門の施設でもあったから、いい加減大丈夫だろうとの思いからも託したのだ。
しかしそれは父の意思でもなければ願いでもなく、管理人自身の都合によるものだった。
すべては管理人自身の”我”なのだった。

当初は、倒れた母にこれ以上負担を掛けたくないがため、断腸の思いで父を施設に入れた筈だった。
だが一方では、管理人自身が父の世話を負えなくなってしまい、外に託さざるを得なくなったというのが事実でもある。おかげで母は療養に専念でき、管理人は社会生活を取り戻せるようになりつつあり、日々仕事に出向き、夜も眠れるようになった。
しかしそんな家族の安堵とは裏腹に、同じ家族である父の行く先々では皆が困惑し、そして途端に窮地へと追い込まれてゆく。施設としての受け入れ度合いのキャパシティーを超えて脅威となる。
これを”致し方ない懸案”として享受して貰っても良いことなのだろうか。
それでも管理人は父を施設に残し、建物の外まで聞こえる罵声や怒号を耳に、そこで怯える他の入所者達を尻目に、微かにでも自分の生活や将来を見据えていくことを選んだ。
なんたることだろう。

人は誰しも、それぞれの事情を抱えながら生きているものであろう。
”何もない人なんてこの世に居る訳ないよ”と、誰かの声も甦りもする。ひょっとしてそれは自分自身の言葉だったのか、やはり何処か誰かの声だったのかは不確かだが、誰もが当たり前に知るように、人が生きる上で”無事情”なんてのはありえる筈もなく、皆それを踏まえ、それを噛み締め、そして互いに享受し合いながら生きている。生きていく。
だが今の自分は間違いなく、自分が生き残るために人は心を忘れてゆく、側の人間なのだろうと、本当の意味で知ることになった。

もう一度、施設から退所を促すような連絡が入ったなら、今度こそ父を連れて帰ろうと決めたその日の帰りの車中だった。
ただせめて、母が起き上がれるようになるまでは、それは待って欲しいという”我”も踏まえながらではあった。
いずれにしろ、父を連れ帰った以上は、もう管理人は会社勤めどころでは無くなると悟り、そして今後もし母が回復したにしろ、父の世話はさせられないのだと悟りもする。
なぜなら、仮に母が順調に回復しても、母の体には障害が残ることが確定しており、なにより母にしても十分な高齢者なのである。いい加減、休んで貰いたい。
そこはかとなく、そんな決意へと呑まれて行くのを覚えながら、夕闇の車窓に目を向ける。皆仕事帰りの時間帯ということもあってか、地方の田舎町の国道とはいえ、今日も車列は混んでいる。
ハンドルを握りながら、いつしかこの車列の中にもいられなくなるのだろうなと、ふと感じた。


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2017年11月15日

闇の雄叫び 8 (折衝)






直接的に「連れ帰ってくれ」と言われた訳ではないものの、話し合いの中では「万一の場合は退所をお願いするかもしれない・・・」と、何度も言われることになった。やはり他の入所者やその家族への配慮、そして施設自体の今後の運営においても父の存在はかなりの脅威になっていたのだ。
そうなると、いくらお金を払って預けているからとは云え、家族としてはただ謝るしかない。他の入所者やその家族にしろ、決して安くはない費用を負担してそこで暮らし、暮らさせているのだ。誰だって快適に暮らしたいのは当然だし、そこへ預けた家族側にしても余計な心配事は抱きたくないだろう。

本来、認知症特化型という、高額な費用負担の対価として受入れ間口の広い施設ではあるものの、その中の、たった一人の振る舞いの度が超え過ぎてしまうと、やはりそこは共同生活の場なので皆の暮らしは途端に崩壊してしまう。日の明るいうちは誰彼かまわず罵声を浴びせ、皆が寝る時間になったらなったで夜通し父の雄叫びがこだまする。

そんな施設に誰も居たくはないだろうし、家族としても置いておきたくはないだろう。だが、だからといって都合よく退所出来るわけなどあろうはずもない。皆それぞれ致し方ない事情を携え、そこで暮らしている者達ばかりなのだ。他に行く当てもなければ、引き取れない家族の事情だってある。そう、我が家もそのひとつなのだ。だから預けたのだ。
よく、”愕然とするしかない”、とは言うが、まさにそんな心境だった。


「こんなことを言うのは、大変失礼だとは思うのですが・・・」


施設の責任者が、またも遠慮がちに言葉を続けた。
なんでも構わないので仰って下さい、と返す。


「お父様の状態なのですが・・・ 一度、精神科の病院で診てもらったほうが良いのかも知れません」

「精神科、ですか?」

「ええ・・・そうです・・・精神病院です」

「はあ・・・」

「確かに認知症のせいで様々な抑制が効かなくなっているのには違いないのでしょうが、ただ、あの連日連夜の持続的な興奮状態からすると、ひょっとしたら”そっち”の専門医の管轄になってしまうのかなと・・・」

「そうですか・・・」

「おそらく、今の主治医の先生では、出来ることにしろ、処方してくれる薬にしろ、限界があるかと思うのです」

「そうですね・・・」

「我々としては、今後も出来うる限り、お父様の生活のお手伝いをして行きたいと思ってはいるのです・・・ ですが、やはり他の入所者さんの生活や健康面のこともありますので、万が一のときは、その、精神科の病院に”入院”ということも含めて御相談なさったほうが宜しいのかなと思うのです・・・」


やれやれ、ウチの父は”気違い”になってしまったんだなぁと、こうなってからずっと納得はしていたが、いま改めて他の誰かからそう言われてしまうと、なにやら複雑な気分でもある。だがもし、本当にここでの生活が無理だとなってしまった以上は、もう、その選択肢しかないのだろうと、やはり納得するしかなかった。

その後両者の間で、こんな取り決めというか、様子見をしながら、今後も父の入所を見守っていこうという話に落ち着いた。それは出来る限り、出来れば毎日でも家族の誰かが父の元へ面会に訪れるという内容だった。施設側の話では、家族が面会に来ている間だけは、父の興奮も和らいでいるということで、察するに、そこには父の強烈無比たる帰宅願望が窺え、そして元来の人間性がもたらすであろう幼さや堪え性の無さ、いわゆる”わがまま”が垣間見えた。

こうなる以前に脳溢血で倒れ入院した際も、日々入院先の病院から連絡が入っていたのを思い出す。とにかく「帰りたい!」「家族を呼べ!」と喚き散らしているので大部屋だと他の患者の迷惑になるから個室に移しても構わないか?と連絡が入れば手続きに出向き高額な差額分を負担することになり、点滴や尿カテーテルの管を勝手に外して部屋を脱走するので困っていると一報が入れば行って傍に付いててやることとし、やはり脱走が頻繁化すると”拘束”の同意を求められ、拘束すればしたで昼夜問わず連日雄叫びを上げ続けているので、やはり誰か家族に付いていて欲しいと懇願され、結局のところ、入院中も父の元に日参していたことを思い出す。


(お前はどうしてそうなんだよ・・・ ホントに堪え性が無いって言うか、なんて言うか・・・・・・)


その後転院したリハビリ先の病院でも、父はかなりの問題児だったらしく、そこの職員からもよく連絡が入ることとなった。「あれをしろ!」「これをしろ!」「あれを持って来い!」「これを用意しろ!」「電話をさせろ!」「家族を呼べ!」「早く家族を呼べ!」「今日は誰も来ないのか!」「このヤロー、いいから黙って言うことを聞け!」「なにやってんだ馬鹿ヤロー!」・・・その傍若無人ぶりに病院側は随分と戸惑い、呆れ、奔走させられていた。そんな病院側から懇願するかの如く連絡が入るたび、真冬の猛吹雪の中、車で片道100キロ近い距離を何度通うことになっただろう。
ある日、父から何らかの暴言を浴びせられたらしい年配の女性看護士が、その日ちょうど面会に訪れたばかりの管理人に、病室前の廊下でブチ切れたこともあった。日々色んな患者を相手にしているベテランの看護士でさえ、その家族に対してブチ切れないワケにはいかぬほど、我も立場も忘れ飛ぶほど腹が立ち、そして悔しかったのだろう。


(自分の気さえ済めば、人なんかどーでもイイんだよな・・・ 昔からお前はさ・・・・・・)


そういう男だった。

「精神病院に相談してみてはどうか」とは言われたものの、決してそればかりではないなと、長年ともに暮らしてきた家族としては頷けた。だが同時にそこでは、子である自分自身の老い先をも見せられている気もしてならず、俺もいつかこういう厄介な年寄りになるのだろうかと思うと、なにやら憂鬱になる。


(いや、俺もコイツと何ら変わらん・・・・・・)


施設や他の入所者達の迷惑も顧みず、いまだ父を引き上げないでいる自分こそ、すでに他人のことなどお構いなしといった自己中心者であることに気付かされ身震いした。
それは、とても嫌な気付きというものだった。


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2017年11月05日

闇の雄叫び 7 (何事にも限界はある)






認知症特化型有料老人ホームという付加価値が高い高額な施設の割りには、そこからは頻繁に連絡が入るようになった。もちろん父本人からではなく施設の職員、しかも管理責任者からである。それは父が入所して半月ほど経ってからとなり、まさかとは思ったが、ひょっとして施設側に我慢や対応の限界がきたのかな、と嫌な想像を馳せることにもなった。


「今日は、どなたか面会に来られますか?」

「オムツがそろそろ足りなくなったので、替えを持ってきて頂けますか?」


そう言われて残業を早々と切り上げる。
施設が用意するオムツを購入するのは相当割高になるので、替えのオムツをホームセンターで購入し父のいる施設へと行く。ついこの前もそう言われて大量に購入して持っていった筈なのだが、数日もしないうちに「どなたか面会に・・・」「オムツが足りない・・・」の連絡が度々入る。持って行くとまだまだ余っていて、その都度「交換の頻度が早いので、早めにお伝えしておいた方が宜しいかと思いまして・・」と、なにやら曖昧に返す施設の管理責任者。

父の居室で、実際のところを現場の介護士に伺ってみると、オムツは十分足りているので当分持ってこなくても大丈夫だと言われる。なるほど居室の押入れの中は未開封のオムツが山積みになっている。にもかかわらず、施設からの面会やオムツの催促が度々入る。ほぼ日参に近い頻度で父のいる施設に伺うことになる。これだと以前ショートスティに預けていたときと変わらない。電話の向こうからは、間違いなく父の声だとわかる怒号が聞こえてくる。
何度目かのとき、


「あのぅ、お父さんのことで御相談したいことが・・・」


やはりそう来たかだった。
職員の話によると、父は相変わらず大声で騒ぎ捲くし立てているらく、それぞれ個室に暮らすそこの入所者達ではあるが、そのせいで寝不足や不安や恐怖を訴え、全体的にざわつき始めているという。しかも入所者全員が認知症ということもあり、一度おかしな雰囲気になると、どうにも施設の日常事態の収拾がつかなくなり、場合によってはそれはトラブルや脅威となり困り果てているといった旨の話を打ち明けられた。
打ち明けられたものの、どう返せば良いのか分からない。取り敢えずは「申し訳ございません」としか返せない。だが、ここはそういう”特化型”の、しかも高額な施設ではないのか?あれほど「任せて下さい」と言ったじゃないか!と返したくもなるが、それではあまりにも即物的であり下衆でしかない。
しかしながら、入所の初日に「大丈夫です」「心配要りません」「安心して我々に任せて下さい」などなど、たくさんの励ましや応援を受け、申し訳なさと情けない思いに苛まれながらも家族を託してきた筈だったのだ。不意にあの日の職員の言葉を思い出す。


「はっきり言って、ご家族さんだけで介護をするのは無理なのです。ご家族さんが24時間眠りもせず付き切りで面倒見られわけないでしょう。我々のような施設だからこそ、3交代勤務で見てあげられるんです。例えその日がどんなに大変で忙しくても、我々の仕事は引き継ぎを合わせてもせいぜい9時間程度で終わりなんです。あとは家に帰ってゆっくり休めるのです。けどご家族さんは違うでしょう?こうなってしまうと、もう目も離せないし、排泄の後始末にも追われ通しだったでしょうし、きっとこうなってから何日も何週間も寝不足とか続いたでしょうし、お仕事にも行けなかったでしょう。間違いなく生き地獄だったと思います。でも、もう安心して我々に任せて良いのです。我々はこういう仕事を選びこういう仕事をして対価を頂いているのです。どうかこちらに対し「悪い」とか「すまない」とか絶対に思わないでください。我々は仕事でやっており、日々ぐっすり眠って休日もしっかり頂いてますので、どうかお気遣いなさらずに安心してすべてを任せて下さい。ご家族さんも、どうか日常を取り戻してください、我々のやってることって、そういうお手伝いをする仕事でもあるんです」


それは入所の初日、喚き散らす父を傍に「本当にこんな状態の者を置いて行っても良いのか、あまりにも申し訳が立たず、自分の親なのに自分らで見ることが出来なくなって本当に情けない限りである」といった旨を漏らしたときに、励ますように述べてくれた施設管理者の諭すような言葉だった。半分泣きながら聞いていたのを思い出す。

だが、それから僅か半月程度で、その神々しいほど堂々たる演説をしてくれた施設管理者は根を上げた。
何かにつけては面会を促し、十分足りているはずのオムツの催促をし、少しでも多くの時間を誰か家族に来てもらいたかったほど困惑し困窮し続けたのだろう。一言で認知症といっても、その症状や特性は人それぞれあり多岐にわたるであろう。だが、父の場合、おそらくはそんな業界に長年プロとして暮らしてきた者達の経験則や経験値をもゆうに越えた異質異端の存在だったのだろう。


「我々も、どうしたら良いものか分からなくなっており・・・・・・」


そう言わしめさせるほどの、いわゆる「気違い」の領域なのだった。
事務所のテーブルで向かい合った施設管理者は、まるで子供が反省するかのような面持ちで、両手を膝に乗せたまま、ただその手元に目を落としているだけである。そんな姿からは、家族側から何らかの解決策を導き出してはくれないだろうかと訴えらるような思いすらが、ひしひし伝わってくるのを覚えた。



(クソジジイ・・・ お前という男は・・・・・・)



だが、連れて帰るわけにはいかなかった。
では、いったいどうしたら良いのか?

家族の責任として”一家の破綻”を選ぶか、プロの施設としてとことん奮闘してもらうか、やはりどちらかしかない。
前者を選択したとき、いずれ近い将来ガソリンを被って火をつける自分の姿が一瞬脳裏をよぎった。
限界を超えるとこうなるのかもなと、脳裏をよぎったものを追っていた。


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2017年10月30日

闇の雄叫び 6 (沙汰も金次第)






認知症特化型有料老人ホーム。
その諸々の入所費用や連携医療サービス費用を合わせると、月額ざっと30万円近くになる。

そこは別段、優雅でグルメでリゾートチックな老後を過ごせるような海辺のハイエンド施設という風情のものではなく、ごくありふれた住宅街の片隅に建つ小規模のグループホームといったところであり、建物自体もごくごく普通の木造2階家屋である。

もちろん温泉が湧いてるわけでもなく、一流のシェフが日々の料理を提供しているわけでもない。
そこは認知症を起因とする様々な生活事情により、他の家族との同居、または一人暮らしが困難となった老人たちが、一時的に、または終の棲家として看取りまでを任せて生涯を託すための居場所だった。

月額の30万円近い費用は、すでにそれ自体が認知できない入所者本人にしろ、その本人の面倒を到底見切れなくなった当事者家族にしろ、それがその特化された事情に対する”対価”なのだと納得する他はない額面と言うしかない。

それにしてもやはり高額費用負担であることには違いない。
ある者は、自身の蓄えや年金だけでその対価を賄い、ある者は、家屋や土地といった、それまで自身が持っていた家財の一切合財を処分し入所に当てる者もあり、またある者は、子や誰かの費用負担が無ければ皆目賄えない場合だってある。
ウチの場合が最後者のそれだった。

地方暮らし、一介の安月給サラリーマン家計で負担できる金額では到底なかった。
しかもそれまでのゴタゴタにより、すでに収入は目減りの一途を辿っている状況での顛末である。
恥ずかしい話をすれば、余程の好景気や繁忙期ではない限り、月収が父の入所費用の同等額やそれを超えることなんて滅多にない管理人の懐事情。

だがこれからは、 【 管理人の収入 < 父の施設入所費用 】 というのが現実として横たわる。

もっとも、管理人の収入全てが父の入所費用で消えてなくなるという訳ではないが、実際に父が支給されている年金額を考慮すれば、やはりそれは言わずもがなとなり、ほぼほぼ管理人側の”人生インフラ分”は投入することになったのだ。

そんな懐事情でありながら、父を高額な認知症専門の施設に入れるということは、すなわち自分自身の人生を捨てる、諦める、ということでもあった。
そう。いくら働こうが働こうが、その収入の殆どは父の施設入所費用となるので、もはや自分の将来やら人生なんてあったもんじゃない。それどころか最低限の自身の生活インフラさえ賄え切れなくなるかもしれない。

それでも預けなくてはならない事情があったから預けるしかなくなったのだ。
母は床に臥せったまま、まだまだ思うようには動けず、管理人は仕事があるので四六時中目が離せず食事や入浴や排泄の介助が必ず必要な父に付き切りになれる筈もなく、特養や老健には微塵の空きも無く、療養型の病院も断られ、ショートスティは”乱暴者”という理由で即追い出されるか、入れても単発的にしか空きがなく、いいかげん介護ヘルパーを雇おうと言えば、母は烈火のごとく「ウチに他人は絶対入れたくない!」と猛烈な拒否を示し、騒ぎ、怒り立てる。
なので毎月30万払ってでも父を預けるしかなくなったのだ。
いわば、子の義務というやつなのだろう。




ああ、俺は・・・ 俺の人生はここまでなのかな・・・




入所契約を終え父を預けた。
相変わらず父の雄叫びは激しく、さっそく他の入所者に対して恫喝のようなことも始めていた。



「ウチはこういう専門の施設ですから、どうか気にしないで任せてください」



そんな若いスタッフの言葉が何より心強く、そして救われた思いがした。
だが同時に、いじましい思いや妄想というかも浮上する。



もしも俺が”高給取り”だったなら、父の入所費用も難なく賄え、自己の生活もしっかり歩めたのにな・・・

きっと俺にも今後の人生ってモノがあったんだろうな・・・

なんで俺はこんな安月給サラリーマンの道を歩んでしまったのかな・・・

ほんと、悔やまれるよな・・・

けど、そもそも俺ってそんなに安月給かな・・・?

まぁ、高給取りではないにしろ、これまでそこそこ暮らして来れた筈なんだけどなぁ・・・

でも、親の介護費用必要なった途端、右往左往してるから、やっぱ安月給かぁ・・・ 

平均的なところで暮らしてきた筈だったけど、こうなると途端にダメだな、平均って・・・

じゃあ、いったい、今までどう生きてくれば良かったんだろうな・・・



などと、何度も何度も無い物ねだりを反芻する日々の始まりにもなった。
それでも、まずは社会からあぶれたくは無かった。
働いても働いても、今後はもう自分の身になる収入は得られないが、兎にも角にも社会という土俵には居続けたいのである。居れば居たで、きっと何らかの将来には繋がって行く筈だ。それは、誰しも当たり前に持っているであろう先への希望というものであり、せめて人並みには暮らしてみたいといった”我”や”自尊心”でもあった。
それがなかったら、父を高額な施設に預けはしなかっただろう。




以降、それまでより少しはマシに勤務を再開できるようになった。
いわば、久しぶりの社会生活だ。
社会の風は痛くもあれば、やはり有難く尊いもので、そこに暮らす既存社会の一員としての自覚と有り難味を改めて知ることとなり、そこに嬉々し、そしてある種の感慨さえ覚える。
これまで、これが当たり前の生活だったのになぁと今現在を噛み締める。
だが、その一見取り戻したかに見える日常は、多大な対価を支払い辛くも維持しているだけのかりそめという現実でもあった。


(いつまで続くのだろうか・・・ いや、いつまで続けられるのだろうか)


あの世の沙汰も、そして当然ながら、この世の沙汰こそ金次第なんだと改めて理解する。
まぁ、足りない生活費は預金から取り崩すしかないだろう、と、楽観に頷いてもみる。
だが、やはり人生というものは、かくも脆弱頼りないものなのだということを強烈に知らしめさせられる日に至るまで、それからさほど時間は掛からなかった。
ただただ、にわかに取り返したつもりの日常に安堵しながらも、やはり怯えていただけに過ぎなかったのだ。
父は、そんな家族の安堵を許すような人間ではなかった。


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posted by ココカラ at 19:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 介護

2016年10月25日

闇の雄叫び 5  (迷走)






父は1箇所目のショートスティ先を辛くも満了し、2箇所目のショートスティ先へと移った。
ただしそこは数日しか空きがなく、3箇所目もやはり数日しか受け入れられないとのことで、それ以降は空きが確保できずにいた。
母はまだ起き上がることも困難で、どう考えても父を帰宅させるわけにはいかなかった。


どうしたものか・・・


結果、ほぼ連日、特養の入居申し込みと面談に奔走するしかなかった。
もちろん特養も空きは無かったが、それでも万が一、空いた場合のために申し込みだけでもしておく他はなかったのだ。

その合間を縫って、母の世話と通院介助と、そして父の居る施設への日参となる。
父は相変わらず四六時中雄叫びを上げているようで、施設の職員からその旨を報告されることになる。日々凹む。

仕事にもほぼ行けない。
社会に戻りたい。
戻りたい。
戻りたい。
ああ戻りたい。
まともに収入を得てみたい。

そんな遣り切れなさがだけが輪を掛けて募ってゆく。




2箇所目のショートスティが満了し、3箇所目へと移った時点でも、それ以降の受け入れ先は決まっていなかった。
ただし、それはあくまで介護保険の適用範囲内での施設でのことで、もし、すべて実費負担でも構わないと言うのなら、あることはあった。いわゆる、有料老人ホームというやつだ。
しかも、認知症特化型の有料老人ホーム。

見学を兼ねて月額費用をざっくり算出してもらうと、特養の倍、もしくは倍以上。
ようするに、めちゃ高額・・・
そんな金、我が家のどこにあるんだよ?

なのでこういう高額の施設は、やはり高額ゆえに通年空きがあるらしく、「金さえあれば」順番を待たずして即入所が叶うものでもあるらしい。
だがそのことは、あくまで心の片隅の最終選択肢に抑えることとし、父のような状態の者でも何処かに受け入れてくれそうなショートや特養がないものかと奔走し続けた。しかしながら当然と言おうか、やはりそれが現実と言おうか結局受け入れ先は見つからず、心の片隅に仕舞い込んでいた最終選択肢を引き出すしかなくなった。

やがて3箇所目のショートスティ先を終えた父は、晴れて(?)、認知症特化型の有料老人ホームの住人となった。我が家の経済破綻のカウントダウンが始まった。


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posted by ココカラ at 00:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 介護

2016年09月25日

闇の雄叫び 4 (社会の立ち位置)






久しぶりに仕事に行くと、そこでは相変わらず目まぐるしい業務が展開している。
休んでいるあいだの業務も山積しているので、輪を掛けて忙しい。
上司がやってきた。


「大変だな、おい」

「皆に迷惑掛けて申し訳ありません」

「出てきて大丈夫なのか?」

「ええ、今日のところは・・」


”今日のところは” と、口を突いて出てしまったことに、なんとも遣り切れない思いに苛まれる。すでにサラリーマンとしての責任能力から一脱してしまっている自分を知る。
こんな状態では、業務を遂行する上で何の頼り気もなく、計画や進行の一部を担う者としての立ち位置が危ぶまれて然りだ。自分自身も困惑しているが、周囲にしてもどう対応して良いのか困惑するだけであろう。
基本的にサラリーマンは、日々労働能力を提供し、その対価を得て生活するものである。それはサラリーマンに限らず、どんな職業形態においても、自身がまともに働けなくなったら、そこで終わりだ。
そんな基本的な足元が急激に揺らぎ出してしまっていることを、仕事に出向くたびに痛感するようになった。


「どなたか親戚や御兄弟にでも来て頂いて、手伝って貰えばいいのに」

「そうよ、そうした方がいいわよ、そうなさいよ」


休憩時間などの雑談では、良くそんなことを言われた。


(じゃあ、身内達に仕事や”そっち”の生活を放ったらかして、住み込みでウチに来て、無償、無給で親の面倒を見に来てくれと、頼めばいいのか!! ああ!?) 


と、何度もそう叫び返しそうになるが、それは呑み込む。


「まぁ、誰か頼めればイイんですけどね・・ ハハ・・」


そう返すしかないのが現実だ。
世間とは、周囲とは、大方こんなものである。
そこに悪気はなく、単に当事者では無いと言うだけの無知がもたらす罪なのだ。

人はいずれの場合においても、そのどちらかに居るものであろう。
まさしく管理人と家族は、その ”こちら側” に立たされていた。
このような状況を携えながら社会に出るということは、こんな波乱や葛藤も付き纏う。
なんとも歯痒く、具合の悪い立ち位置というやつだ。



父をショートスティに預けているにも関わらず、仕事帰りは毎日父のところに寄るしかなかった。
相変わらず父の言動や帰宅願望は暴力的に激しいようで、日々誰か家族が顔を見せないと、常に興奮状態が続いているのである。もっとも、家族が帰れば途端に騒ぎ出すことになるのだが。

認知症によるところの理性や抑制の効かない精神状態なのだと医師は言うが、一方では、父本来の我儘で堪え性のない性格が剥き出しになっているのであろうと、長年共に暮らし続けてきた家族としては納得したりもする。
そう、元々こういう男なんだと。

それは小さな子供が入院し、早く家に帰りたい帰りたいと、半狂乱になって駄々をこねている状態と似ているのかもしれない。それほどまでに、睡眠薬や精神安定剤などはまったく効かないほど、父の脳内アドレナリンは噴出し続けているのだろう。
だが、やはり家に連れ帰る訳にはいかないのだ。

幸いにも、このショートスティ先を退去させられることは無かった。
たとえ仕事とは言え、皆さんよく堪えてくれたと思う。
他の入所者さん達にしても・・・


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