2015年04月04日
京都国立博物館 名品ギャラリー 2015年4月
京都の花見のかたわら、平成知新館に行ってきました。
名品ギャラリーとはいえ、充実した内容ですね。
室町時代の社寺縁起絵のコーナー
神社や寺院の創建の由来、あるいはその祭神や本尊の霊験を、絵巻物として物語る社寺縁起絵は、中世に多く制作されるようになりました。社寺への尊崇を促す絵巻物は、室町時代に入ると受容層が広がり、耳目を惹く平易な題材が語られるようにもなります。
しかし、今回展示されているのは上級貴族や将軍が関わったと考えられる作品です。
清凉寺の釈迦像にまつわる霊験を描く「釈迦堂縁起」、後に堂宇が設けられる桑実山を舞台とした「桑実寺縁起」、開山真阿上人の高徳を語る「十念寺縁起」、これらはいずれも狩野派や土佐派といった本格的な画風の流派による作品です。
「桑実寺縁起」は絵巻の物語に即して描かれた一場面であり、物語では次のような話が語られています。
天智天皇の御代、志賀(滋賀)の都に疫病が蔓延し、天皇の第4皇女、阿閇皇女(あべのひめみこ)も病に罹ってしまいました。 ある夜、皇女は琵琶湖の湖面が瑠璃色に光る夢を見ました。 天皇がこの夢の意味を護持僧の定恵和尚に尋ねると、和尚は薬師如来の出現を予言します。 そこで天皇は定恵和尚を導師として湖水に向かって法要を営ませました。 すると、湖水から薬師如来が出現し、四方に光を発しました。 その光によって、皇女をはじめ国中の人々の病は、たちまち快癒しました。
出現した薬師如来は、まず牛(大白水牛)の背に、次に馬(岩駒)の背に乗って、繖山の瑠璃石に降り立ちました。 石の表面には、仏足と岩駒の蹄の跡が歴然と残っています。 この薬師如来を本尊として、定恵和尚によって白鳳6年(678)に開創されたのが、桑実寺です。
やがて、阿閇皇女は即位して元明天皇となりました。 そして、元明天皇は桑実寺に行幸され、瑠璃石にも詣でたのです。 面の右手には緑の小高い山があり、そこに白馬に乗って飛ぶ薬師如来一行がいます。山から左に目を移すと広々とした田が広がり、その先には遠くの山並みが見えます。
この景色は、金泥や群青や緑青を使い美しく、しかもある場所から一望したかのごとくに表されています。
保存状態がとてもよく、人物や動物の表現も生き生きとして見事です。
戦乱を避け近江に逗留していた将軍足利義晴によって天文元年8月にこの絵巻は奉納されました。
その制作過程は三条西実隆の日記に記されています。 詞書は後奈良天皇、青蓮院尊鎮法親王、三条西実隆、三人の寄合書き。
「釈迦堂縁起絵巻」は、インドのコーシャンピ国の優填王(うてんおう。ウダヤナ王)が釈迦生存中に親しく教えを聴くことができず病気になってしまいました。これを心配した家臣が牛頭山(ごずさん)の栴檀(せんだん)で釈迦の姿を写した像を造ったのが、インドにおける仏像の起こりといわれています。
後に鳩摩羅琰(鳩摩羅什の父)が、その瑞像を亀玆国に運ぶ際、昼は鳩摩羅琰が像を背負ったが、夜は像が鳩摩羅琰を背負って道を進めたという場面が今回展示されいました。面白いですね。
観元年(983)に東大寺の僧「然(ちょうねん)が入宋したおり、台州の開元寺で瑞像を拝し、模像を作成し、日本に持ち帰ろうとしました。すると、ある夜夢枕に瑞像が立ち、模像と入れ替わって「然とともに日本に渡ることを告げた・・・・・とのことです。この場面は今回は展示されていませんでした。
瀟湘八景図のコーナー
瀟湘八景図とは、景勝地として名高い洞庭湖(中国湖南省)付近の八通りの景観を絵画化したもので、北宋時代の文人画家・宋迪が創始したと伝えられます。八景の内訳は、山市晴嵐・遠(煙)寺晩鐘・漁村夕照・遠浦帰帆・瀟湘夜雨・洞庭秋月・平沙落雁・江天暮雪。いずれもこの地域に限定される風景ではなく、ごくありふれた身近な光景といってよいでしょう。そうした画題としての自由度やバリエーションの豊かさ、そして中国有数の名所への憧れが、わが国で瀟湘八景図が好まれた大きな要因です。
瀟湘八景図 相阿弥筆 4幅 大仙院 今回は一部の展示で残念でしたが、 相阿弥がいかに牧谿画を学んで自分のものとしていたかがよくわかる作品。静謐かつ雄大な名作です。
平沙落雁図 思堪筆 最古の水墨山水画
煙寺晩鐘図 単庵筆 相阿弥の弟子
瀟湘八景図 鑑貞筆 唐招提寺の総持坊、山水画を得意とする。直線が基調の絵で、背景の山々の重相感がすごかった。
遊楽図―逸名の画人たちのコーナー
現在を生きる人々の営み、つまり風俗を、日本人は浮世絵誕生のはるか以前から連綿と描き残してきました。なかでも、風俗画が量産された近世初頭には、ときに猥雑ささえも伴う自由で活力に満ちた作品が数多く生まれ、往時の空気を今に伝えてくれています。花の下に集い、あるいは踊り戯れる古人の、その生き生きとした姿が印象的。
風流踊・水掛祝図屏風 6曲1双 十念寺 絵は金箔、外側は銀箔は貼られています。
宋元の道釈人物画のコーナー
「道釈人物画」とは、道教や仏教関係の人物を描いた絵画のことです。中国の宗教絵画のなかには、礼拝対象として制作された尊像のほかに、絵画としての鑑賞性を高めた人物像も数多く描かれてきました。禅宗を中心に白衣観音像や羅漢像が好まれ、高僧たちの問答図などとともに「悟り」に近づくための手がかりにもなりました。今回は宋時代から元時代の水墨による道釈人物画の名品を展示されています。
特に薬山李翺問答図 1幅 南禅寺 伯 馬遠の伯父馬公顕の作だそうです。
京博の所蔵品、寄託品の充実ぶりがわかる展示でした。これからもマメにチェックして京都通いを続けるつもりです。
名品ギャラリーとはいえ、充実した内容ですね。
室町時代の社寺縁起絵のコーナー
神社や寺院の創建の由来、あるいはその祭神や本尊の霊験を、絵巻物として物語る社寺縁起絵は、中世に多く制作されるようになりました。社寺への尊崇を促す絵巻物は、室町時代に入ると受容層が広がり、耳目を惹く平易な題材が語られるようにもなります。
しかし、今回展示されているのは上級貴族や将軍が関わったと考えられる作品です。
清凉寺の釈迦像にまつわる霊験を描く「釈迦堂縁起」、後に堂宇が設けられる桑実山を舞台とした「桑実寺縁起」、開山真阿上人の高徳を語る「十念寺縁起」、これらはいずれも狩野派や土佐派といった本格的な画風の流派による作品です。
「桑実寺縁起」は絵巻の物語に即して描かれた一場面であり、物語では次のような話が語られています。
天智天皇の御代、志賀(滋賀)の都に疫病が蔓延し、天皇の第4皇女、阿閇皇女(あべのひめみこ)も病に罹ってしまいました。 ある夜、皇女は琵琶湖の湖面が瑠璃色に光る夢を見ました。 天皇がこの夢の意味を護持僧の定恵和尚に尋ねると、和尚は薬師如来の出現を予言します。 そこで天皇は定恵和尚を導師として湖水に向かって法要を営ませました。 すると、湖水から薬師如来が出現し、四方に光を発しました。 その光によって、皇女をはじめ国中の人々の病は、たちまち快癒しました。
出現した薬師如来は、まず牛(大白水牛)の背に、次に馬(岩駒)の背に乗って、繖山の瑠璃石に降り立ちました。 石の表面には、仏足と岩駒の蹄の跡が歴然と残っています。 この薬師如来を本尊として、定恵和尚によって白鳳6年(678)に開創されたのが、桑実寺です。
やがて、阿閇皇女は即位して元明天皇となりました。 そして、元明天皇は桑実寺に行幸され、瑠璃石にも詣でたのです。 面の右手には緑の小高い山があり、そこに白馬に乗って飛ぶ薬師如来一行がいます。山から左に目を移すと広々とした田が広がり、その先には遠くの山並みが見えます。
この景色は、金泥や群青や緑青を使い美しく、しかもある場所から一望したかのごとくに表されています。
保存状態がとてもよく、人物や動物の表現も生き生きとして見事です。
戦乱を避け近江に逗留していた将軍足利義晴によって天文元年8月にこの絵巻は奉納されました。
その制作過程は三条西実隆の日記に記されています。 詞書は後奈良天皇、青蓮院尊鎮法親王、三条西実隆、三人の寄合書き。
「釈迦堂縁起絵巻」は、インドのコーシャンピ国の優填王(うてんおう。ウダヤナ王)が釈迦生存中に親しく教えを聴くことができず病気になってしまいました。これを心配した家臣が牛頭山(ごずさん)の栴檀(せんだん)で釈迦の姿を写した像を造ったのが、インドにおける仏像の起こりといわれています。
後に鳩摩羅琰(鳩摩羅什の父)が、その瑞像を亀玆国に運ぶ際、昼は鳩摩羅琰が像を背負ったが、夜は像が鳩摩羅琰を背負って道を進めたという場面が今回展示されいました。面白いですね。
観元年(983)に東大寺の僧「然(ちょうねん)が入宋したおり、台州の開元寺で瑞像を拝し、模像を作成し、日本に持ち帰ろうとしました。すると、ある夜夢枕に瑞像が立ち、模像と入れ替わって「然とともに日本に渡ることを告げた・・・・・とのことです。この場面は今回は展示されていませんでした。
瀟湘八景図のコーナー
瀟湘八景図とは、景勝地として名高い洞庭湖(中国湖南省)付近の八通りの景観を絵画化したもので、北宋時代の文人画家・宋迪が創始したと伝えられます。八景の内訳は、山市晴嵐・遠(煙)寺晩鐘・漁村夕照・遠浦帰帆・瀟湘夜雨・洞庭秋月・平沙落雁・江天暮雪。いずれもこの地域に限定される風景ではなく、ごくありふれた身近な光景といってよいでしょう。そうした画題としての自由度やバリエーションの豊かさ、そして中国有数の名所への憧れが、わが国で瀟湘八景図が好まれた大きな要因です。
瀟湘八景図 相阿弥筆 4幅 大仙院 今回は一部の展示で残念でしたが、 相阿弥がいかに牧谿画を学んで自分のものとしていたかがよくわかる作品。静謐かつ雄大な名作です。
平沙落雁図 思堪筆 最古の水墨山水画
煙寺晩鐘図 単庵筆 相阿弥の弟子
瀟湘八景図 鑑貞筆 唐招提寺の総持坊、山水画を得意とする。直線が基調の絵で、背景の山々の重相感がすごかった。
遊楽図―逸名の画人たちのコーナー
現在を生きる人々の営み、つまり風俗を、日本人は浮世絵誕生のはるか以前から連綿と描き残してきました。なかでも、風俗画が量産された近世初頭には、ときに猥雑ささえも伴う自由で活力に満ちた作品が数多く生まれ、往時の空気を今に伝えてくれています。花の下に集い、あるいは踊り戯れる古人の、その生き生きとした姿が印象的。
風流踊・水掛祝図屏風 6曲1双 十念寺 絵は金箔、外側は銀箔は貼られています。
宋元の道釈人物画のコーナー
「道釈人物画」とは、道教や仏教関係の人物を描いた絵画のことです。中国の宗教絵画のなかには、礼拝対象として制作された尊像のほかに、絵画としての鑑賞性を高めた人物像も数多く描かれてきました。禅宗を中心に白衣観音像や羅漢像が好まれ、高僧たちの問答図などとともに「悟り」に近づくための手がかりにもなりました。今回は宋時代から元時代の水墨による道釈人物画の名品を展示されています。
特に薬山李翺問答図 1幅 南禅寺 伯 馬遠の伯父馬公顕の作だそうです。
京博の所蔵品、寄託品の充実ぶりがわかる展示でした。これからもマメにチェックして京都通いを続けるつもりです。