2014年11月15日
「輝ける金と銀ー琳派から加山又造まで」 山種美術館
山種美術館で開催中の「輝ける金と銀ー琳派から加山又造まで」を見て来ました。日本絵画の金銀の表現を追う展覧会です。
古くは平安期の料紙装飾から江戸の琳派、又兵衛に浮世絵、そして時代を超えて近現代の日本画家までを辿る。全70点(展示替えを含む。)が展示されています。
本展で重要なのは技法について細かく見ていることです。
いくつか作品を紹介しますと、まず、酒井抱一「秋草鶉図」。
薄、女郎花、露草、楓の中にウズラが群れています。薄の葉は細くリズミカルに描かれ、繊細なデザイン感覚に満ちています。銀で描かれた月も低く置かれ、落着いた風情と品の良い華やかさがあります。
月の黒いのは銀が酸化したのではなく、銀の上に黒を塗ってあるそうです。
ウズラは土佐派のよく描いた画題で、この作品も土佐派に倣った画風です。
金箔地に描かれているので、照明の具合によってかなり作品の雰囲気が変わるのでしょうね。
速水御舟「名樹散椿」。背景は一面の金地ですが、これは金砂子で画面を埋めるという蒔きつぶしの技法が用いられています。
金箔、あるいは金泥であったらどう見えるのか。会場では「技法サンプル」なるものを展示し、それぞれ箔、泥、蒔きつぶしにおける金色の質感についての比較を試みていますが、蒔きつぶしが金地の中で特にマットな質感であることが分かります。この「技法サンプル」こそがこれまでにない面白い試みでした。
金や銀の使い方は時代によって大きく変化します。一例が「神護寺経」と川端龍子の「草の実」です。
前者は12世紀の紺紙金泥経ですが、昔は「神護寺経」のように神聖なる対象物を描くものとして金を用いました。
しかし龍子は端的に絵具として金を使っています。しかも描いているのは決して神聖視されない草、雑草です。ようは神聖、荘厳なものを描くための金を、身近なモチーフに置き換えて利用してしまう。ここに龍子の面白さがあります。
俵屋宗達(絵)・本阿弥光悦(書)の「四季草花下絵和歌短冊帖」。飛び立つ鳥の模様が今では黒くなって見えています。
それが銀だったらどう見えていたか。上に描かれている文字が良く見え、そして鳥の模様が視点の角度によって見えたり見えなかったりする面白さ。和歌の台紙としてグッと面白くなってます。
そして鈴木其一「芒野図屏風」。今ではススキは黒い濃淡で描かれているように見えます。
ところが薄いところは銀で、濃い黒は墨で描かれていると言うのです。後の黒く酸化しているのを見越してこうしたのかもしれません。銀と黒のコントラストで月の光を反射して輝いている様を表現しているのかもしれません。
宗達の扇面貼交屏風にインスピレーションを得たという加山又造の「華扇屏風」も興味深い。一面の銀が目に飛び込んできますが、扇の部分、よく見るとワイン色であったり濃い緑色をしています。これは酸化によって変色する銀の性質を利用したものだとか。「満月光」もススキの風にしなる様子、月の光が幻想的で美しい作品でした。
ラストの2点、田渕俊夫の金銀2点、「輪中の村」と「好日」も美しい。「好日」は裏から前面金を貼り付けているとか。収穫の輝くような光景が印象的でした。
金箔、金泥、金砂子、プラチナ泥に雲母。言葉では何となく分かっているようでも、ここまで作品を参照しながら見られる展覧会はありません。日本絵画の金と銀の技法から、その背後の表現の意味までを探ろうとした好企画だったと思います。
古くは平安期の料紙装飾から江戸の琳派、又兵衛に浮世絵、そして時代を超えて近現代の日本画家までを辿る。全70点(展示替えを含む。)が展示されています。
本展で重要なのは技法について細かく見ていることです。
いくつか作品を紹介しますと、まず、酒井抱一「秋草鶉図」。
薄、女郎花、露草、楓の中にウズラが群れています。薄の葉は細くリズミカルに描かれ、繊細なデザイン感覚に満ちています。銀で描かれた月も低く置かれ、落着いた風情と品の良い華やかさがあります。
月の黒いのは銀が酸化したのではなく、銀の上に黒を塗ってあるそうです。
ウズラは土佐派のよく描いた画題で、この作品も土佐派に倣った画風です。
金箔地に描かれているので、照明の具合によってかなり作品の雰囲気が変わるのでしょうね。
速水御舟「名樹散椿」。背景は一面の金地ですが、これは金砂子で画面を埋めるという蒔きつぶしの技法が用いられています。
金箔、あるいは金泥であったらどう見えるのか。会場では「技法サンプル」なるものを展示し、それぞれ箔、泥、蒔きつぶしにおける金色の質感についての比較を試みていますが、蒔きつぶしが金地の中で特にマットな質感であることが分かります。この「技法サンプル」こそがこれまでにない面白い試みでした。
金や銀の使い方は時代によって大きく変化します。一例が「神護寺経」と川端龍子の「草の実」です。
前者は12世紀の紺紙金泥経ですが、昔は「神護寺経」のように神聖なる対象物を描くものとして金を用いました。
しかし龍子は端的に絵具として金を使っています。しかも描いているのは決して神聖視されない草、雑草です。ようは神聖、荘厳なものを描くための金を、身近なモチーフに置き換えて利用してしまう。ここに龍子の面白さがあります。
俵屋宗達(絵)・本阿弥光悦(書)の「四季草花下絵和歌短冊帖」。飛び立つ鳥の模様が今では黒くなって見えています。
それが銀だったらどう見えていたか。上に描かれている文字が良く見え、そして鳥の模様が視点の角度によって見えたり見えなかったりする面白さ。和歌の台紙としてグッと面白くなってます。
そして鈴木其一「芒野図屏風」。今ではススキは黒い濃淡で描かれているように見えます。
ところが薄いところは銀で、濃い黒は墨で描かれていると言うのです。後の黒く酸化しているのを見越してこうしたのかもしれません。銀と黒のコントラストで月の光を反射して輝いている様を表現しているのかもしれません。
宗達の扇面貼交屏風にインスピレーションを得たという加山又造の「華扇屏風」も興味深い。一面の銀が目に飛び込んできますが、扇の部分、よく見るとワイン色であったり濃い緑色をしています。これは酸化によって変色する銀の性質を利用したものだとか。「満月光」もススキの風にしなる様子、月の光が幻想的で美しい作品でした。
ラストの2点、田渕俊夫の金銀2点、「輪中の村」と「好日」も美しい。「好日」は裏から前面金を貼り付けているとか。収穫の輝くような光景が印象的でした。
金箔、金泥、金砂子、プラチナ泥に雲母。言葉では何となく分かっているようでも、ここまで作品を参照しながら見られる展覧会はありません。日本絵画の金と銀の技法から、その背後の表現の意味までを探ろうとした好企画だったと思います。