今回は割と重苦しいタイトルの記事を作ったわけですが、これは本記事を書いた日(2017年4月25日)が管理人一家の飼っていたウサギの月命日であることに関わります。
管理人一家は2007年の春先にウサギを迎え、ルナと名付けて家族全員で大事に可愛がりました。
もっとも、そのルナはウサギの中でも殊更人間嫌いだったらしく、飯や菓子が食えてケージの外で遊べれば人間に用はないとでも言わんばかりのドライぶりで、管理人一家に慣れはしても懐きはしませんでした。
ルナは腹を詰まらせたり斜頚(首が勝手に傾く病気)にかかったりと幾度か危なくなりつつも行きつけになった動物病院のお陰で復活していましたが、9年半ほど連れ添った末、2016年12月25日に寿命を全うしました。
そのルナが亡くなって管理人が特に強く思うことが、「死が終わりでなければいいな」ということです。
もっともこれは、晩年に足を悪くしてこの世で苦しんだであろうルナが生前より幸せな世界に流れ着いていてほしい、という単なる願望からきている感情論に過ぎませんが。
世の中、死ねば無になるという主張もあれば、死んでもそこで終わりじゃないという説もあります。
時折どちらの考えが正しいのかという論争が起こることもありますが、それについては生きている人間には断言しようがないことなので、躍起になって追及しない方がいいでしょう。
管理人の身近なところでも、死ねば無だと考えていた亡き母方の祖父と、死後の世界があると考える母との間でしばしば平行線の議論が交わされていたそうですが、それは想像するだけでも不毛な光景だと言わざるを得ません。
どうせ白黒つけられない話題なのだから、どちらが正しいかと言い争うのではなく、どういう根拠をもってどちらを信じるかという雑談に留めておくのが無難だと思います。
死ねば全部終わって安らかに眠っていられると信じるのもいいし、死んだ後も自分の存在は続いていくと信じるのもいいでしょう。
実際の死後がどうであれ、そこは個人の自由であるべきです。
ただ管理人は、どんな考えを持つにしても、亡くなった人が大事だったならその人がいたことは絶対に忘れるべきでないと強く信じています。
忘れれば亡くした苦しみや悲しみを感じなくて済むかもしれませんが、それと一緒にその人と楽しく顔を付き合わせた思い出も捨てなければならなくなります。
それでは貴重な生涯の時間を自分のために割いてくれた相手に対して失礼だし、何よりも生前の交流を無駄にすることにもなりかねません。
死者への敬意を示す意味でも、大切だったその人をずっと覚えておくべき。
管理人はそういう発想から、亡くなった親戚や知人、ルナや他の動物達のことも必死で記憶に残しています。
そうしていれば、亡くなった人達も自分の心に生き続けると感じるから。
長文になりましたが、今回はこの辺で終わりとしておきます。
管理人は死後に関する話題に興味を持っている人種なので、今後も時々この手の話題を記事にするかもしれませんが、予定は未定です。
それでは。
これからもずっと憶えてる
以下、管理人の死生観についての余談です。
管理人は昔「DEATH NOTE」を読んで「死ねば無」という考えを初めて知り、衝撃を受けると同時にすっかり鵜呑みにしていました。
デスノートや死神といったあからさまに漫画的な要素を除けばかなり現実的な世界観の作品だったため、その考えに説得力を感じたのです。
それから少しの間は命はいつか必ず死ぬという事実に怯えたものの、結局はいつ来るか分からない死などを怖がるほど暇があるなら精一杯生きて楽しんだ方がいいと思い至って、落ち着きました。
一方で管理人は近年、「死ねば無」ではないと思わせるような話にもよく耳を傾けています。
こっちの説の方が単純に面白くて心地良いし、実際のところがどうあれ、死んでも永遠の無じゃないと信じていれば死別に順応することもできるのではないかと思うからです。
ルナを見送ったとき、管理人は嘆くよりも悲しむよりも先に「よく生きたな」と誇らしい思いで声をかけました。
これは「死ねば無」だと考えて別れが来るときまで一日一日を大切にして付き合ってきたからこそできたことであり、その後もうつ状態などにならずに済んだのは内心で死後の世界というものをそれなりに信じたお陰だと思っています。
要するに管理人の死生観は双方の説のいいとこ取りをしているずるい考えと言えるわけですが、その結果、管理人は死に対して自分なりに向き合えている(と思う)ので、これはこれでいいだろうと開き直っています。
【このカテゴリーの最新記事】
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image