2014年08月01日
A405・大関豪栄道の誕生と「大和魂」
1、大関豪栄道の誕生と口上
大相撲力士豪栄道が大関昇進を伝達された席で「これからも大和魂を貫いて参ります」と口上を述べました。
「大和魂」
私の好きな言葉の一つです。
豪栄道もまた応援しているお相撲さんです。
入幕の頃から注目していました。何処までも続く山坂を上ったり下ったり、ひたむきに汗を流し、一歩一歩実力を付けてきた!そんなお相撲さんだと思っています。
頭抜けた破壊力!があるわけではなく、派手さもないけれど、当人が「一つのことを一生懸命にやり抜けば必ず報われる」と語った言葉通りの力士であり、大きな魅力を感じます。
場所の終盤になって突然といった感じの昇進話でしたが、嬉しい大関誕生でした。
この先、厳しい戦いが続くでしょうが、更に着実に力を付けていくことを願っています。
前回のブログで書き始めた「ガン検診の無用論、有害論」についてですが、文献を読みながら自身が今後どう対応すべきか!を考え、やや頭が混乱しています。
「ガン検診」は一休みして、今回は話題を豪栄道の大関昇進と「大和魂」に致しました。
2、大和魂と日本人
「敷島の大和心を人問はば
朝日に匂ふ山桜花」
何故か私には、先ず第一に本居宣長のこの歌が思い浮かびます。
何時どういうきっかけで覚えたのか分かりませんが、花の頃も、青葉の頃も、紅葉の頃も、落葉したころも、里山や近郊の公園などを歩いていてヤマザクラに接すると、一人この歌をつぶやきます。
日本人であることを感じます。
文献によると、「大和魂」という語は、江戸時代中期の国学で、本居宣長が提唱した「漢意(からごころ)」と対比され、
「もののあわれ」
「はかりごとのないありのままの素直な心」
「仏教や儒学から離れた日本古来から伝統的に伝わる固有の精神」
のような概念が付与された。とあります。私は感覚的にこの様な概念に染まっているようです。
「やまとだましい」なる言葉は何時頃から使われていたのか?
と思い、時代を遡ると平安中期頃のようです。
・『大鏡』に、藤原時平(871~909)に対して、
「かくあさましき悪事を申し行ひ給へりし罪により、この大臣の御すゑはおはせぬなり。
さるはやまとたましいなどはいみじくおはしたるものを」
との記述がある由。
・『後拾遺和歌集』の歌で、「やまとごころ」が詠まれています。
「 はかなくも 思ひけるかな 乳もなくて 博士の家の 乳母せむとは」
これに対して
「さもあらばあれ 大和心し賢くば 細乳に附けて あらすばかりぞ」
(大和心さえ賢いなら、乳が出るとか出ないとかは対した問題ではない)
とこたえています。
・紫式部(973頃~1014頃)の「源氏物語〜乙女]には、
才をもととしてこそ やまとだましひの世に用ゐらるゝ方も強う侍らめ
(学問をもとにしてこそ、大和魂が世間にしっかりと認められる)
とあります。
大体、この頃から「やまとだましい」という言葉が用いられたようです。
時代は下って幕末から明治では、
・吉田松陰(1830~1859)
「かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂」
「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」
・明治天皇(1852~1912)御製
「しきしまの 大和心のをゝしさは ことある時ぞ あらはれにける」
多くの日本人の心に強く刻まれていることでしょう。
3、「大和魂」という言葉
「大和魂」は「和魂漢才」とも言われ、漢才(中国などから流入してきた知識・学問)という語・概念と対のものとして生まれたとされます。
即ち、中国などから流入してきた知識・学問をそのまま日本へ移植するのではなく、あくまで基礎的教養として採り入れ、それを日本の実情に合わせて応用的に政治や生活の場面で発揮すること。と解説されます。
「源氏物語」が生まれた平安中期は、国風文化という日本独特の文化が興った時代でしたが、当時の人々の中には、中国から伝来した知識・文化が基盤となって日本風に味付けしているのだ、という気風があった様です。
江戸時代中期以降の国学では「漢意(からごころ)」と対比されることが多くなり、「日本古来から伝統的に伝わる固有の精神」という観念が付与されたと言われます。
明治の時代になって、西洋の知識、学問、文化が一気に流れ入込んで来た際、岡倉天心らの「日本流に摂取すべき」という主張があって、大和魂とともに「和魂洋才」という語が用いられたとか。
これは「和魂漢才」をもじったもので、大和魂の本来的な意味を含んでいた一方、西洋の知識・文化を必要以上に摂取する事への抵抗感も併せもっていたいわれます。
明治時代以降、過剰に政治的な意味が付与されるようになり、
第二次世界大戦期には軍国主義的な色彩を強く帯び、現状を打破し突撃精神を鼓舞する意味で使われることが主となったのは、戦争を経験した年代の人々の記憶に残っていることでしょう。
日露戦争以降の帝国主義の台頭に伴い、国家への犠牲的精神とともに他国への排他的・拡張的な姿勢を含んだ語として用いられていき、「大和魂」という言葉も専ら日本精神の独自性・優位性を表現するものと解されるようになった。という説明もあります。
戦後は「大和魂」という語の使用が忌避されるようになり、今日に至っていますが、
経過はどうあれ、
「大和魂」とは、日本人の魂であると思っています。
日本人は、あらゆる雑念を除いて、純粋に日本人として自覚するとき、おそらく共通の魂を感じるだろうと思います。
それが「大和魂」なのだと思います。
日本という国が、他国との関わりにおいて、何かを決めるための根底にあるものが「大和魂」であろうと思います。
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-・「ハッピー健康習慣」バックナンバー(6)
4-2、「糖尿病」
-・「ハッピー健康習慣」バックナンバー(7)
5、「福祉・介護・看護」
「ジャンルなし」
-・「ハッピー健康習慣」バックナンバー(8)
大相撲力士豪栄道が大関昇進を伝達された席で「これからも大和魂を貫いて参ります」と口上を述べました。
「大和魂」
私の好きな言葉の一つです。
豪栄道もまた応援しているお相撲さんです。
入幕の頃から注目していました。何処までも続く山坂を上ったり下ったり、ひたむきに汗を流し、一歩一歩実力を付けてきた!そんなお相撲さんだと思っています。
頭抜けた破壊力!があるわけではなく、派手さもないけれど、当人が「一つのことを一生懸命にやり抜けば必ず報われる」と語った言葉通りの力士であり、大きな魅力を感じます。
場所の終盤になって突然といった感じの昇進話でしたが、嬉しい大関誕生でした。
この先、厳しい戦いが続くでしょうが、更に着実に力を付けていくことを願っています。
前回のブログで書き始めた「ガン検診の無用論、有害論」についてですが、文献を読みながら自身が今後どう対応すべきか!を考え、やや頭が混乱しています。
「ガン検診」は一休みして、今回は話題を豪栄道の大関昇進と「大和魂」に致しました。
2、大和魂と日本人
「敷島の大和心を人問はば
朝日に匂ふ山桜花」
何故か私には、先ず第一に本居宣長のこの歌が思い浮かびます。
何時どういうきっかけで覚えたのか分かりませんが、花の頃も、青葉の頃も、紅葉の頃も、落葉したころも、里山や近郊の公園などを歩いていてヤマザクラに接すると、一人この歌をつぶやきます。
日本人であることを感じます。
文献によると、「大和魂」という語は、江戸時代中期の国学で、本居宣長が提唱した「漢意(からごころ)」と対比され、
「もののあわれ」
「はかりごとのないありのままの素直な心」
「仏教や儒学から離れた日本古来から伝統的に伝わる固有の精神」
のような概念が付与された。とあります。私は感覚的にこの様な概念に染まっているようです。
「やまとだましい」なる言葉は何時頃から使われていたのか?
と思い、時代を遡ると平安中期頃のようです。
・『大鏡』に、藤原時平(871~909)に対して、
「かくあさましき悪事を申し行ひ給へりし罪により、この大臣の御すゑはおはせぬなり。
さるはやまとたましいなどはいみじくおはしたるものを」
との記述がある由。
・『後拾遺和歌集』の歌で、「やまとごころ」が詠まれています。
「 はかなくも 思ひけるかな 乳もなくて 博士の家の 乳母せむとは」
これに対して
「さもあらばあれ 大和心し賢くば 細乳に附けて あらすばかりぞ」
(大和心さえ賢いなら、乳が出るとか出ないとかは対した問題ではない)
とこたえています。
・紫式部(973頃~1014頃)の「源氏物語〜乙女]には、
才をもととしてこそ やまとだましひの世に用ゐらるゝ方も強う侍らめ
(学問をもとにしてこそ、大和魂が世間にしっかりと認められる)
とあります。
大体、この頃から「やまとだましい」という言葉が用いられたようです。
時代は下って幕末から明治では、
・吉田松陰(1830~1859)
「かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂」
「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」
・明治天皇(1852~1912)御製
「しきしまの 大和心のをゝしさは ことある時ぞ あらはれにける」
多くの日本人の心に強く刻まれていることでしょう。
3、「大和魂」という言葉
「大和魂」は「和魂漢才」とも言われ、漢才(中国などから流入してきた知識・学問)という語・概念と対のものとして生まれたとされます。
即ち、中国などから流入してきた知識・学問をそのまま日本へ移植するのではなく、あくまで基礎的教養として採り入れ、それを日本の実情に合わせて応用的に政治や生活の場面で発揮すること。と解説されます。
「源氏物語」が生まれた平安中期は、国風文化という日本独特の文化が興った時代でしたが、当時の人々の中には、中国から伝来した知識・文化が基盤となって日本風に味付けしているのだ、という気風があった様です。
江戸時代中期以降の国学では「漢意(からごころ)」と対比されることが多くなり、「日本古来から伝統的に伝わる固有の精神」という観念が付与されたと言われます。
明治の時代になって、西洋の知識、学問、文化が一気に流れ入込んで来た際、岡倉天心らの「日本流に摂取すべき」という主張があって、大和魂とともに「和魂洋才」という語が用いられたとか。
これは「和魂漢才」をもじったもので、大和魂の本来的な意味を含んでいた一方、西洋の知識・文化を必要以上に摂取する事への抵抗感も併せもっていたいわれます。
明治時代以降、過剰に政治的な意味が付与されるようになり、
第二次世界大戦期には軍国主義的な色彩を強く帯び、現状を打破し突撃精神を鼓舞する意味で使われることが主となったのは、戦争を経験した年代の人々の記憶に残っていることでしょう。
日露戦争以降の帝国主義の台頭に伴い、国家への犠牲的精神とともに他国への排他的・拡張的な姿勢を含んだ語として用いられていき、「大和魂」という言葉も専ら日本精神の独自性・優位性を表現するものと解されるようになった。という説明もあります。
戦後は「大和魂」という語の使用が忌避されるようになり、今日に至っていますが、
経過はどうあれ、
「大和魂」とは、日本人の魂であると思っています。
日本人は、あらゆる雑念を除いて、純粋に日本人として自覚するとき、おそらく共通の魂を感じるだろうと思います。
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日本という国が、他国との関わりにおいて、何かを決めるための根底にあるものが「大和魂」であろうと思います。
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