2014年04月27日
A385・生徒に慕われる「先生」であってほしい
1、新入生担任教諭が入学式を欠席した
「埼玉の県立高校で新入生担任教諭4人が入学式を欠席した。
自分の子の入学式に出席するためだが、事前に校長に相談し有給休暇を認められていたので手続き上は問題ない」
という新聞記事を見て、我が目を疑ったのですが、どうも本当らしいのです。
新入生担任教諭が欠席した入学式に出た埼玉県議の投書で賛否の議論が沸騰したといいます。
第一感、一部の無自覚な教師への戒めが寄せられた! と思ったのですが意外にもそうではなく、或るネット調査での35万票近い投票の結果が
「問題だと思はない」48%
「問題だと思う」44%
で、擁護派と批判派がほぼ拮抗していると報じられ、驚いています。
私は「平均的な日本人」と自認して今までを過ごしてきたのですが、世間の感覚と随分ずれていることを思い知らされました。
昭和10年生まれ、小学校低学年では軍国教育を受けたのでしょうが、敗戦後の混乱期、その後の復興期、1億総中流意識、温室ボケ、上り詰めた後のバブル崩壊を体験して今日に至って、80歳てまえの後期高齢者です。
冒頭の「自分の子の入学式に出るために、新入生担任教諭が自分の学校の入学式を欠席した」事に対して、ほぼ半分の人が「問題ない」と思っているとは!?
・日本人はこれ程までに変わってしまっているのか? いや、
・温室ボケ、平和ボケが抜けきらずにいる過渡期的な減少で、日本人魂を失っているのではない!と思いたい。などと自問自答しています。
新聞記事によると、休暇を許可した校長は、「こんな騒動になるとは予想しなかった。学校の名誉もある。今後、許可を認めるかどうか判断が難しい」と発言した由。
いじめで自殺する生徒が出ても「いじめの事実は認められなかった」とか「いじめと自殺の関係はない」とか他人事のように言い放つ学校関係者の報道が繰り返されること繋がる一部教職関係者の体質を見せられたように思います。
この度の4人の欠席教諭や許可した校長は特異な存在ではなく、世間一般と同様に教職者の半数はこういう考えの人だと見るべきなのでしょうか?
「ほとんどの先生が」よりよい教育を求めて日夜奮闘されておられる・・と思っていましたが、それが現状では「ほぼ半数の先生」に過ぎず、残り半数がこの度のような人物であり、望まれる先生の足を引っ張っているのが教育現場の実態なのでしょうか?
教育委員会とか教育制度の改革とかが論じられるにしても、この事態をどう評価するか?
から始めなければ砂上の楼閣になると危惧します。
2、自己都合と仕事への責任感、使命感
この度の欠席問題は、権利とか義務とかを言う前に、教職という己の仕事への使命感というか、責任というか、この最も基本的な意識が希薄になっているが故の出来事と思えるのですが、どうなのでしょうか?
小学校でも、中学でも、高校でも、新入学の最初の日に、誰もが期待と不安に満ちて登校し、担任の先生に笑顔で迎えられて、先ずはほっとします。私もそうでしたが、そして数十年経った今でも鮮明に思い出されます。これが普通のはずです。
・・であるはずなのに、別の人から「担任の先生は自分の子供の入学式に行ったので、今日は欠席です」と言われたら生徒たちはどう反応するか?!
この先が思いやられます。
今流の言葉で言えば「なんだ!俺たちの担任はこんな日に休むやつかよ!」「自分の子が大事で、俺たちのことなんかどうでもよいのかよ!」となるように思えます。
言葉に出すかどうかは別にしても、「自分を心から思ってくれる人ではない!」と敏感に感じ取るでしょう。
「苦渋の選択だった」などと言い訳しても、無視されるのが落ちでしょう。
「人格に惹かれ、師と仰ぐ」のが教育の根源だろうと思います。
在校中も、卒業した後も、何時までも慕われる「先生」が「真の先生」だと思っています。
責任感や使命感が希薄で、己の利害を優先させる教職者に対しては、児童も生徒も敏感に自分との隔たりを感じ取ることでしょう。
生徒たちにとっては、とても不幸なことです。
自分の子供の入学式に出るため、自分の職場の入学式をすっぽかした新入生担任教師と、それを許可した校長は、
事もあろうに生徒たちの新しい学校生活の船出の行事で
「自分は、師と仰ぎ慕われる人物ではない」と自らの行動で示したことになる。
・・と考えてしまいます。
私のような考えの人間は「古い人」で、時流に合わないのならば、自分を見直す積もりですが、今は自分の方が正論で、是認する考えはおかしい!と思っています。
教職に身を置くことは、生徒の人格形成を促すことを職業として選ぶことであり、それだけの責任感と使命感を求められるべきはずです。
だからこそ私たちは「先生」と呼び、大きな期待をもって子供を孫を預けます。
冒頭の調査結果で擁護派が半数いたのは、教職を一般の職業と横一列に見ての解答であったのではないかと思いたい気もします。
職業の貴賤を言うのではなく、教職は子供の人格形成に大きく関わるが故に、使命感・責任感を特段に求められ、期待されるのだと思っています。
「聖職か否か」などと言葉を操るのではなく、「子供たちを立派に育て導く」という「心」「気概」を持って欲しいと願うのです。
これに異論のある人は教職を選ばないでほしいのです。
学校は失業対策として仕事を提供する場ではないはずです。
この様に考えます。
世間の半分の人には「古い人間の考え!」と思はれるのでしょうか?
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-・「ハッピー健康習慣」バックナンバー(1)
2-1、「身体の健康」
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2-2、「運動」
-・「ハッピー健康習慣」バックナンバー(3)
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-・「ハッピー健康習慣」バックナンバー(5)
4-1、「病気・傷害・医療」
-・「ハッピー健康習慣」バックナンバー(6)
4-2、「糖尿病」
-・「ハッピー健康習慣」バックナンバー(7)
5、「福祉・介護・看護」
「ジャンルなし」
-・「ハッピー健康習慣」バックナンバー(8)
「埼玉の県立高校で新入生担任教諭4人が入学式を欠席した。
自分の子の入学式に出席するためだが、事前に校長に相談し有給休暇を認められていたので手続き上は問題ない」
という新聞記事を見て、我が目を疑ったのですが、どうも本当らしいのです。
新入生担任教諭が欠席した入学式に出た埼玉県議の投書で賛否の議論が沸騰したといいます。
第一感、一部の無自覚な教師への戒めが寄せられた! と思ったのですが意外にもそうではなく、或るネット調査での35万票近い投票の結果が
「問題だと思はない」48%
「問題だと思う」44%
で、擁護派と批判派がほぼ拮抗していると報じられ、驚いています。
私は「平均的な日本人」と自認して今までを過ごしてきたのですが、世間の感覚と随分ずれていることを思い知らされました。
昭和10年生まれ、小学校低学年では軍国教育を受けたのでしょうが、敗戦後の混乱期、その後の復興期、1億総中流意識、温室ボケ、上り詰めた後のバブル崩壊を体験して今日に至って、80歳てまえの後期高齢者です。
冒頭の「自分の子の入学式に出るために、新入生担任教諭が自分の学校の入学式を欠席した」事に対して、ほぼ半分の人が「問題ない」と思っているとは!?
・日本人はこれ程までに変わってしまっているのか? いや、
・温室ボケ、平和ボケが抜けきらずにいる過渡期的な減少で、日本人魂を失っているのではない!と思いたい。などと自問自答しています。
新聞記事によると、休暇を許可した校長は、「こんな騒動になるとは予想しなかった。学校の名誉もある。今後、許可を認めるかどうか判断が難しい」と発言した由。
いじめで自殺する生徒が出ても「いじめの事実は認められなかった」とか「いじめと自殺の関係はない」とか他人事のように言い放つ学校関係者の報道が繰り返されること繋がる一部教職関係者の体質を見せられたように思います。
この度の4人の欠席教諭や許可した校長は特異な存在ではなく、世間一般と同様に教職者の半数はこういう考えの人だと見るべきなのでしょうか?
「ほとんどの先生が」よりよい教育を求めて日夜奮闘されておられる・・と思っていましたが、それが現状では「ほぼ半数の先生」に過ぎず、残り半数がこの度のような人物であり、望まれる先生の足を引っ張っているのが教育現場の実態なのでしょうか?
教育委員会とか教育制度の改革とかが論じられるにしても、この事態をどう評価するか?
から始めなければ砂上の楼閣になると危惧します。
2、自己都合と仕事への責任感、使命感
この度の欠席問題は、権利とか義務とかを言う前に、教職という己の仕事への使命感というか、責任というか、この最も基本的な意識が希薄になっているが故の出来事と思えるのですが、どうなのでしょうか?
小学校でも、中学でも、高校でも、新入学の最初の日に、誰もが期待と不安に満ちて登校し、担任の先生に笑顔で迎えられて、先ずはほっとします。私もそうでしたが、そして数十年経った今でも鮮明に思い出されます。これが普通のはずです。
・・であるはずなのに、別の人から「担任の先生は自分の子供の入学式に行ったので、今日は欠席です」と言われたら生徒たちはどう反応するか?!
この先が思いやられます。
今流の言葉で言えば「なんだ!俺たちの担任はこんな日に休むやつかよ!」「自分の子が大事で、俺たちのことなんかどうでもよいのかよ!」となるように思えます。
言葉に出すかどうかは別にしても、「自分を心から思ってくれる人ではない!」と敏感に感じ取るでしょう。
「苦渋の選択だった」などと言い訳しても、無視されるのが落ちでしょう。
「人格に惹かれ、師と仰ぐ」のが教育の根源だろうと思います。
在校中も、卒業した後も、何時までも慕われる「先生」が「真の先生」だと思っています。
責任感や使命感が希薄で、己の利害を優先させる教職者に対しては、児童も生徒も敏感に自分との隔たりを感じ取ることでしょう。
生徒たちにとっては、とても不幸なことです。
自分の子供の入学式に出るため、自分の職場の入学式をすっぽかした新入生担任教師と、それを許可した校長は、
事もあろうに生徒たちの新しい学校生活の船出の行事で
「自分は、師と仰ぎ慕われる人物ではない」と自らの行動で示したことになる。
・・と考えてしまいます。
私のような考えの人間は「古い人」で、時流に合わないのならば、自分を見直す積もりですが、今は自分の方が正論で、是認する考えはおかしい!と思っています。
教職に身を置くことは、生徒の人格形成を促すことを職業として選ぶことであり、それだけの責任感と使命感を求められるべきはずです。
だからこそ私たちは「先生」と呼び、大きな期待をもって子供を孫を預けます。
冒頭の調査結果で擁護派が半数いたのは、教職を一般の職業と横一列に見ての解答であったのではないかと思いたい気もします。
職業の貴賤を言うのではなく、教職は子供の人格形成に大きく関わるが故に、使命感・責任感を特段に求められ、期待されるのだと思っています。
「聖職か否か」などと言葉を操るのではなく、「子供たちを立派に育て導く」という「心」「気概」を持って欲しいと願うのです。
これに異論のある人は教職を選ばないでほしいのです。
学校は失業対策として仕事を提供する場ではないはずです。
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