氏は, 心の病における「あいだ」という概念を創出した.
自分がどこまで理解しているのかは不明だが, 大雑把に言えば「あいだ」とは人の現存在を規定している内在的な主体が, 各自の自発性を保ちながら集団の中で協調して振る舞おうとする「集団主体性」との関係を指す. この「あいだ」がうまく機能しなくなるのが心の病だという説である.
たとえば自分の罹っている鬱病では, 現存在の自発性が集団主体性の前において機能不全に陥ってしまう病と言えるのではないだろうか. このようなときに患者は集団的協調に支障をきたしてしまったことで, 取り返しのつかないことをしてしまったという強い罪責感に捕われる.
ちなみに, 氏が最初にドイツに留学した一つの目的がドイツ人の鬱病患者の罪責感を調査して, 帰国後に日本人のそれとの比較を行う研究を行うことであった. 本書に書かれているこの研究の結果が興味深かった.
ドイツ人鬱病患者の場合は, その罪責感は自己の内面的な側面が強い. それは自分は人として道徳的に, あるいは神への信仰の点で問題がある, 駄目な人間だという罪責体験である.
一方で日本人鬱病患者の場合に圧倒的に多いのは, 自分が他人に迷惑をかけているということの罪による罪責体験である.
自分も幼児期から「人に迷惑をかけてはいけない」ということを, 家庭や学校で強く言い聞かせられた. そのことが現在でも精神的な重荷になっている.
一体この「迷惑をかけてはいけない」という異常な意識は何なのだろうか.
患者の存在の在り方を臨床の現場で解き明かしていく立場を, 氏は臨床哲学と呼んでいる. それは, 患者の病理を哲学的・現象学的な立場から論じていくという研究の方向性を持つ.
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このような臨床の立場は, 現在の多くの精神科やクリニックでは行われていないし, 行うことができないだろう. 精神科医は多くの患者を診なければならないから, 患者に対する哲学的な視点からの対応などを行っている時間は無い.
患者の病の原因を特定するより, 薬によって症状が一時的にでも治まれば患者は楽になるのである.
精神科医は数分の問診で患者への薬の処方を行う. もし患者が自分の症状に関してより多くの話を聞いてもらいたければ, カウンセリングを受けるという方法がある. 一般にカウンセリングの料金は安くない.
また, 自分のようにデイケアに参加したり, 作業所に通うという道も用意されている. これもカウンセリングほどではないけれども参加料が必要になる.
このように現代の精神医療は製薬会社を巻き込んだ総合的なビジネスとして確立している. 自分が現在通っているクリニックもその枠組みに沿っている. 比較的良心的ではあると思うけれど.
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ただ, このクリニックで以前自分を担当してくれた老医師には, 木村氏の言う臨床哲学の香りがあったように記憶している.
一回の診察に一時間近くの時間をとって, 自分の過去の体験・そのときに感じたこと・行為の意味などを明らかにしていく. この診察によって, 自分の鬱病には子ども時代の両親との関係から引き起こされた PTSD 的な症状, それへの内的な対応として現れた「解離」という症状があることがわかったのである.
自分を発見していくような興味深い時間だった.
そのような症状によって失われた社会との関係性を回復するという目的のために, デイケアに参加することになった.
今の主治医の診察は, 問診に 5 分もかかっていない. 体調を話していつもの薬を処方してもらってそれで終わる.
ただ, 今の主治医も精神病に関する哲学的な立場からの論文を書いている. 待ち合い室に置いてあったクリニックの月報 (?) で知った.
もしかしたら彼も, 木村敏氏のような診察の在り方を模索していた時期があったのかも知れない.
臨床哲学の方向による診療というものが存在する必要性はある. 自分の体験からそう思う.
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デイケアを抜けられたのですね. Takeo さんが感じたデイケアでの違和感に関してはそれなりの葛藤や苦しみがあったのではとお察しします.
私は Takeo さんの文章を読んで, あらためて一体精神医療とは何だろうと思いました.
私の勝手な解釈になってしまって申し訳無いのですが, Takeo さんが「みなとは違う」と感じたのは, Takeo さんの病への向き合い方も一つの理由ではないかと思います.
明らかに Takeo さんは自らの存在に直接に向かい, なぜ自分自身が存在し得るのかという問題を深く考え, 同時に苦しんでおられるのだという印象を受けます.
実際に, 心の病の問題は自らの存在への問いかけにならざるを得ないと思います.
一方で多くの病院やクリニックで行われている精神医療やデイケアは, そのようなことに関わる場所ではないと感じています.
それらの場所は対症療法として薬で苦しみを和らげたり, 社会に復帰するためのトレーニングをしたり, あるいは私がやっているように認知療法で認知の歪みを治そうとしたりする場所です.
それで私が良くなったかと言えば, 確かに苦しみの一部分は認知療法により回復しましたが, 相変わらず過去の記憶には苦しんでいます. 非常に苦しいです.
理由はわかりませんが, 薬も常に効果があるわけではなく効いたり効かなかったりといった具合です.
先日読んだ木村敏氏の自伝『精神医学から臨床哲学へ』の後書きに次のような記述があります.
「私が独自の現象学的・人間学的な精神病理学を展開している間に、世界の精神医学事情はそれと真っ向から相反する方向へ大きく舵を切っていた。(中略) 従来のように各学派間、各大学間で、基礎的な精神病理学観の相違によって同一患者に対する診断名が異なってくるというような状況は、薬物万能の時代にはもはや許されるものではなかった。(中略) 現象学的あるいは人間学的な言述の入り込む余地はどこにも見あたらなくなった。」
現在の精神科医は, アメリカ精神医学会が定めた『診断と統計のための精神障害マニュアル』(最新版は DSM-5) に従って患者の症状から診断を行い病名を定め, その病名に応じて薬を処方します.
これにより, 全世界で統一的で正しい診断が行えるということなのですが, 私の経験ではそうでもないようです.
二度目の入院の際に受けた診断では, 私は鬱病ではなく双極性障害と診断されました. 「私は躁になったことは全くありません. 鬱病だと思います」と言ったのですが診断は変わりませんでした. 後に退院して主治医にそのことを話したら「双極性障害は最近のはやりなんですよ」とのことでした. 何と言ったらいいのか...
「治療を受ける患者の主体性とは、先ず、自分の病気を認めることである」という Takeo さんの示された医師の言葉も, このようなマニュアル的な診断が背景にあってのことでしょう. DSM というマニュアルに従って決められた病名を受け入れなさい, と.
木村敏氏は「患者と医者のあいだの濃密な人間関係の場でのみ可能となるような思索」を追い求める医師だからこそ「臨床哲学」という立場を取るに至ったのでしょう.
そして Takeo さんはその「臨床哲学」という枠組みの中において, 自己の分裂病的な存在の不安を見出だしたと思うのです.
私も Takeo さんとは異なる道筋ではありますが, 鬱病という病を通じて自分とは, 自我とは何かという問題の答えが知りたいと考えています.
その過程で, また Takeo さんとこのような対話を行えたら嬉しいです.
体調が芳しくないようですが, どうか Takeo さんが少しでも穏やかな時間を過ごせるようになりますように, 祈っております.
>デイケアに「社会との繋がり」を取り戻す以外の役割があるとすれば, そういった、社会に馴染めない者・社会から弾き出された者が孤立しないように寄り添う場を提供することではないでしょうか.
わたしも(弟もそうですが)そのような場所にすら馴染めずに孤立感を深めるということは何故なのでしょう・・・
勿論ただ単純に、わたしと、「そこの」デイケアの在り方や客筋(笑)とがあまり相性が良くなくて、底彦さんは偶然ご自分に合ったデイケア及びメンバーと知り合うことが出来た、ということなのかもしれませんが。
体調が上向いてきているようでなによりです。
といっても、ここでわたしの駄弁に付き合っているほどの体力はないでしょうから、適当に読み飛ばしてください。
先ずデイケアの期限が今日で切れました。底彦さんのお返事によると、底彦さんは、デイケアに通っている人たちを、「自分の同類」であると感じておられるようです。
もしそうであれば、わたしもおそらくデイケアを続けていたでしょう。
彼らとわたしと、じゃあ具体的になにが、どう違うと感じるのか?それをうまく言葉にすることはできません。底彦さんに説明できないということだけではなく、自分が感じている違和感、そしてデイケアのメンバーとの隔たりを言葉にすることは、少なくとも今のわたしの思考力では無理のようです。
ただ、辛うじて言えることは、ここでもわたしは「みなとは違う」という感覚を覚えるのです。違うというのは言うまでもなく優劣の問題ではありません。
仮に「優劣」を言うのであれば、「皆」が上ということになるでしょう。
中井久夫や木村敏などの老医師たちが言うように、ひとりの人間の現存在と向き合うなどということが所詮絵に描いた餅でしかない以上、治癒というのは結局薬の力で症状を抑える、軽減させるということに留まるしかありません。じゃあその方法で、どれほどの人が、「かなり」と言えるほどに改善されているのでしょうか?
本質的な治療は求むべくもない。では底彦さんの実感として、所謂解熱・鎮痛的な対症療法で、どれだけの人の熱が下がり、痛みがやわらげられていると感じますか?
仮にわたしが、今の状態から逃れんがために、「戦場にいることに平気になりたい」と望めば、「それなら話は簡単」ということになるのでしょうか?
二点間の最短距離というものが、最も安直でまた最も確実であるのならわたしにとっても一考の余地はあるかもしれません。
けれどもそれが確かに「最も安直」ではあるけれど、有効性・確実性については何の保証もない道であるのなら、それは単なる「危険で険しい近道」でしかないのではありませんか?
思ったままを書き散らしました。今はブログも中断しています。何を書いても・・・という徒労感だけしか残っていないのです。
わたしがグズグズ言っているので、母が、自分の持っている「こころのかがく」の分裂病の本を貸してくれました。中で、福岡大学名誉教授という肩書の医師が「治療を受ける患者の主体性とは、先ず、自分の病気を認めることである」と書いていました。
「先ず自分が病んでいるということを認めるところから主体的な治療が行われる・・・」
木村敏はひょっとしたら、精神医学界では極めて「異端」なのではないでしょうか?
彼が患者はまず自分が病んでいるということを認識しなければならない・・・などというとは思えないのです。
余りに非現実的でありすぎるから、ここまでわたしが惹かれるのかもしれません。
同書で、中井久夫氏は当初の編集部からの「分裂病に治療は必要か?」というテーマに対し、自分は「分裂病にはどのような治療が必要か?」として書きたいということいい、治療は必要という前提で、ではどのような治療は必要ではないのか?ということと併記しています。
「べてるの家」の標語(?)は「勝手に治すな俺の病気!」です。
あまりにもそれぞれがそれぞれの考えを持ち、なにを指針にしたらいいのかがまるでわかりません。
最後になりましたが、上の、理路整然とした文章でのお返事をありがとうございました。
長い期間ブログの更新ができなかったのは, 体調が芳しくなかったことと, 暑さにやられてしまっていたからです.
ようやく体調が上向いてきたので, しばらくはほぼ毎日というペースで更新していけると思います.
Takeo さんの文章を読んで考えたことを書いてみます.
私がデイケアに参加することになったのは, Takeo さんが引用してくれたように病とその原因によって失われてしまった社会との繋がりを回復するという目的のためでした.
このときの私は, 「社会との繋がり」という言葉を, 鬱病から立ち直って仕事に復帰する, という具体的なイメージで捉えていたと思います.
しかしその結果はどうだったでしょう. 確かに鬱病から回復して一度は復職しました. しかし一年ほどで再び鬱が酷くなり結局退職することになりました. いわゆるリストラされたわけですね.
その後も一人で仕事を続けましたが, 大きな失敗をし, 全てを放り出して逃げるように今の小さなアパートに越してきました. 何度か簡単なバイトを試みましたが, 鬱が悪化するばかりでしたね. 今は世の中から隠れるようにして生きています. 鬱病も良くなったとは思えません.
ですから, デイケアに参加はしたけれど, 当初の目的である社会との繋がりの回復には失敗したと言えるのです.
デイケアへの参加の先に「社会との繋がり」が待っているのではないと思います.
現在, 私が感じていることは, 現在の社会のありようにどうしても馴染めない者が存在するということです. 私はおそらくその一人なのでしょう.
そのような者は多くの場合, 周囲からうとまれ, 非難の対象になることもあります.
私も「怠け者」「自己管理ができない」「社会人失格」など散々言われました.
デイケアに「社会との繋がり」を取り戻す以外の役割があるとすれば, そういった社会に馴染めない者・社会から弾き出された者が孤立しないように寄り添う場を提供することではないでしょうか.
Takeo さんの症状について, 医師の診断はそれなりの意味を持つものです. しかし, 心の病を診断する定量的な基準が無いということも事実です.
Takeo さんが木村敏氏の書いたものから感じる, 自分の特性が分裂病のありように合致しているという感覚は正しいと思います.
私の理解ですが, 木村敏氏は分裂病を, 彼の言う「あいだ」において個の「主体性」が失われる不安であると記しています. つまり自己の存在への不安, 自明性の中に自分を位置付けることのできない不安だと.
心の病とは各々の個人の精神に直結した問題です. ですからどうしても, 自分とは何か・なぜ生きるのか・他者との関わりとは何かなどの問いかけから逃れることはできません.
Takeo さんが治癒に向かうとした場合に哲学的なアプローチが必須であるというのは非常にわかります. Takeo さんは自己の在り方について明らかな懐疑を感じておられる. 木村敏氏のいう分裂病の特質に合致していると思います.
私が受けている精神医療においては, 上に挙げたような深い問いかけを行う余地は残念ながらありません. けれども私の主治医に関しては何か明確な哲学的なバックグラウンドを持っていると感じたことはあります. 時間をかけて話し合ってみたいと思いますが, ビジネスとしての精神医療の中ではそのような時間も余裕もとても生まれないのでしょう.
数時間診察を待った後に, 体調に関する数十秒から数分の短い会話と薬の処方で終わるのです.
一体精神医療というものは何なのでしょう?
久し振りの更新ですね。わたしの知る限りこれだけの長い期間のブランクははじめてのような気がします。
以下に書くことは、勝手にこの場を借りて自分の気持ちを吐露するものですので、お返事に関しては底彦さんにお任せします。
◇
明日中にデイケアを継続するか、中止するかを決めなければなりません。
おそらくそのままなしくずしに利用を辞めることになるでしょう。
>そのような症状によって失われた社会との関係性を回復するという目的のために, デイケアに参加することになった.
と、底彦さんは書かれています。「失われたものの回復」であると。
けれども、わたしは嘗て、言葉の本来の意味で、「社会とのつながり」を持ったという実感がないのです。確かにデイケアに参加すること自体が社会とのつながりと言えなくもないのでしょう。全く未練がないと言えば嘘になりますが、やはり今のわたしには、デイケアに積極的に参加する意味を見出すことが出来ないのです。
◇
30歳の時から様々な精神科医と出会ってきて、これまで人格障害やら、発達障害などの「暫定的」な、或いは「仮の」病名を拝領してきましたが、かつてひとりも、分裂病/統合失調症と口にした医師はいませんでした。けれども、木村敏の本を読むと、彼の描出する分裂病というものが、わたしの特性にじつに似ているのです。
言うまでもなくそれは「自明性の喪失」・・・というよりも「自明性の欠如」です。
何故誰もが何の疑いもなく「あたりまえに」暮らしている社会で、わたしだけがそれを「不思議な世界」と感じるのでしょうか?
何故誰もが平気なことが、わたしにとっては途轍もない巨大な障害になるのでしょうか?
病名は変われど、わたしの一貫した主訴である、「他者と良好な関係を築けない」或いはその関係を保つことが出来ないというのは、根本的にわたしが「誰とも違う」からではないでしょうか?
そのような面からの哲学的なアプローチが存在しない限り、わたしの治癒というものはあり得ないと思っています。
底彦さんはその症状や過去に記憶により、自分は人間以下だ!人間の屑だということを想われるかもしれません。けれども、それは、わたしが感じている、「そもそも自分はみなと同じ生き物なのだろうか?」という深い懐疑とは異なると思うのです。
言い方を換えれば、「おれは人間以下だ!」という発想も、「自分が人間である」という前提があるからこそ言えることではないでしょうか?
わたしは何故誰とも似ていないのか?それは病理なのか?或いは単なる偶然なのか?
そして仮に精神科医が忙しくなくなれば、そのような疑問に対する答えは案外楽に手に入るものなのでしょうか?
底彦さんの主治医も、わたしの主治医も、木村敏が考えるくらいのことは当然考えていて、わたしの疑問に答える能力はあるが、如何せん時間がない、ということなのでしょうか。或いはわたしがあまりにも愚かだから、誰にも当たり前のことが当たり前と感じることが出来ないのでしょうか?