2013年02月21日
「賞賛」が機能するメカニズム(^0^)
某掲示板で、鶏ガラ野郎に散々、罵倒されていれば自然に分かって来ることなのだが、
人間は、自分が不利益を被ることは、絶対に称賛しない。
これは、芸術作品の批評にしろ、人物の風評にしろ、対象が何であれ、通底している事であり、
オリンピックの競技種目から、柔道やレスリング、テコンドーを除外するかどうか論議する際にも、責任者の側には必ずと言って良いほど、この計算が頭の中に入っている。
学校でいじめがあった場合にも、自殺した生徒がいるにも関わらず、学校側は、遺族からの賠償請求から逃れる為に、いじめはなかった事とする。
それがあったことを認めてしまえば、自分たちが不利益を被るからである。
逆に、
自分たちが利益を被る立場なら、その対象は、幾らでも賞賛される筈だ。
これは、私が明らかにした三価値、情報価値、利的価値(利益価値)、性的価値、の観点からしても、明らかな事である。
対象との関わり方で、
その対象を賞賛することで、自分たちの懐が潤うなら、
彼等は幾らでも、その対象を賞賛するのだ。
初日映画の舞台挨拶などで、新人女優が競演の男優を「どんな仕草も、本当に格好良くて」、等々、観客の前で褒めまくるのも、最初から、そうすることで彼女たちの懐に入って来る利益が計算に入っているのである。
数年前のポプラ社小説大賞だって、水嶋ヒロの作品それ自体は、小説としての体裁が整うように様々な配慮がされていたのだろうが、
その背景には、彼のような有名タレントがこの賞を受賞すれば、自分たちは甘い汁を吸うことが出来ると画策した、老獪な玄人たちの計算が働いていたのではないか?
まぁ、これは、綿矢りさも同じだが。
恋愛にしたって、意中の異性の前で、本人の恋敵を称賛する人というのは皆無だろうし、もし、そんな人がいるとしたら、単なる愚か者だろう。
多くの人の視線が集まる中で、ある人が最も苦手とすることをわざとやらせようとするタイプの人間がいる。
この人間の目的は、その相手が衆人の前で恥を掻き、皆の前で立場を損なうことで、本人の階層(ヒエラルキー)を上げたいと目論んでいるのだ。
香取勇進が、私に対し、企んだのは、まさにコレである。
この友人が私に対し、企んだのは、
叩けば、儲かる(得する)! という真理によるもので、卑近な例を挙げれば、
少し前の塩谷瞬の二重婚騒動だとか、数年前の酒井法子の薬物依存・逮捕騒動の報道を思い出してみれば良い。
こうした騒動自体も、根底にあるのは、「賞賛」が機能するメカニズムと同じで、
叩いて儲かる(得する)なら、徹底的に叩く!
とする利益追求型のマスコミ側の極端な反応である。
鶏ガラ野郎の立場は、ネット上で、私を叩けば、
ボロ儲け出来る地位にいたのかも知れない。
少し次元は異なるが、アメリカでもこれは同じで、エミネムが「Stan」などのシングルを矢継ぎ早にヒットさせていた時、多くの音楽評論家や社会評論家が新聞やコラムを売る為に、彼を批判する記事を書いた。
確か、1960〜70年代に、レイ・チャールズがゴスペルをリズム・アンド・ブルースに編曲して、全米でヒットを飛ばしていた際にも、同じような騒動が持ち上がっていたと思う(勿論、この楽曲は、今ではリズム・アンド・ブルースの定番中の定番となっている)。
つまり、叩いて、お金になる場合は、人間は徹底的に、その相手をダメ出しするのだ。
鶏ガラ野郎にしろ、香取くん(アンダーソン?)にしろ、彼等が私に求めたのは、
彼等の損な役回りを私が引き受けることだったのだろう。
つまり、私が自らの目的(我が儘)を追求することに関しては、彼等はきっと反対だったのだ。
しかし、私は、人生の脇役ではない。主人公である。
だからこそ、私小説を書き、会社を経営するのだ。
自分にとって損になることが、
社会にとっては、大きな利益になるのだ!
としても、自分が不利益を被るならば、
私はそんな対象は、高く評価しない。
これは、当たり前の事だ。
何を言われようと、私の意志は変わらない。
仮に、自分たちの利害の立場を超えて、
愛せる対象が存在したり、賞賛できる対象があるとすれば、
その人はきっと、偉大な人なんだろうなぁ。
後でまた書きます。
人間は、自分が不利益を被ることは、絶対に称賛しない。
これは、芸術作品の批評にしろ、人物の風評にしろ、対象が何であれ、通底している事であり、
オリンピックの競技種目から、柔道やレスリング、テコンドーを除外するかどうか論議する際にも、責任者の側には必ずと言って良いほど、この計算が頭の中に入っている。
学校でいじめがあった場合にも、自殺した生徒がいるにも関わらず、学校側は、遺族からの賠償請求から逃れる為に、いじめはなかった事とする。
それがあったことを認めてしまえば、自分たちが不利益を被るからである。
逆に、
自分たちが利益を被る立場なら、その対象は、幾らでも賞賛される筈だ。
これは、私が明らかにした三価値、情報価値、利的価値(利益価値)、性的価値、の観点からしても、明らかな事である。
対象との関わり方で、
その対象を賞賛することで、自分たちの懐が潤うなら、
彼等は幾らでも、その対象を賞賛するのだ。
初日映画の舞台挨拶などで、新人女優が競演の男優を「どんな仕草も、本当に格好良くて」、等々、観客の前で褒めまくるのも、最初から、そうすることで彼女たちの懐に入って来る利益が計算に入っているのである。
数年前のポプラ社小説大賞だって、水嶋ヒロの作品それ自体は、小説としての体裁が整うように様々な配慮がされていたのだろうが、
その背景には、彼のような有名タレントがこの賞を受賞すれば、自分たちは甘い汁を吸うことが出来ると画策した、老獪な玄人たちの計算が働いていたのではないか?
まぁ、これは、綿矢りさも同じだが。
恋愛にしたって、意中の異性の前で、本人の恋敵を称賛する人というのは皆無だろうし、もし、そんな人がいるとしたら、単なる愚か者だろう。
多くの人の視線が集まる中で、ある人が最も苦手とすることをわざとやらせようとするタイプの人間がいる。
この人間の目的は、その相手が衆人の前で恥を掻き、皆の前で立場を損なうことで、本人の階層(ヒエラルキー)を上げたいと目論んでいるのだ。
香取勇進が、私に対し、企んだのは、まさにコレである。
この友人が私に対し、企んだのは、
叩けば、儲かる(得する)! という真理によるもので、卑近な例を挙げれば、
少し前の塩谷瞬の二重婚騒動だとか、数年前の酒井法子の薬物依存・逮捕騒動の報道を思い出してみれば良い。
こうした騒動自体も、根底にあるのは、「賞賛」が機能するメカニズムと同じで、
叩いて儲かる(得する)なら、徹底的に叩く!
とする利益追求型のマスコミ側の極端な反応である。
鶏ガラ野郎の立場は、ネット上で、私を叩けば、
ボロ儲け出来る地位にいたのかも知れない。
少し次元は異なるが、アメリカでもこれは同じで、エミネムが「Stan」などのシングルを矢継ぎ早にヒットさせていた時、多くの音楽評論家や社会評論家が新聞やコラムを売る為に、彼を批判する記事を書いた。
確か、1960〜70年代に、レイ・チャールズがゴスペルをリズム・アンド・ブルースに編曲して、全米でヒットを飛ばしていた際にも、同じような騒動が持ち上がっていたと思う(勿論、この楽曲は、今ではリズム・アンド・ブルースの定番中の定番となっている)。
つまり、叩いて、お金になる場合は、人間は徹底的に、その相手をダメ出しするのだ。
鶏ガラ野郎にしろ、香取くん(アンダーソン?)にしろ、彼等が私に求めたのは、
彼等の損な役回りを私が引き受けることだったのだろう。
つまり、私が自らの目的(我が儘)を追求することに関しては、彼等はきっと反対だったのだ。
しかし、私は、人生の脇役ではない。主人公である。
だからこそ、私小説を書き、会社を経営するのだ。
自分にとって損になることが、
社会にとっては、大きな利益になるのだ!
としても、自分が不利益を被るならば、
私はそんな対象は、高く評価しない。
これは、当たり前の事だ。
何を言われようと、私の意志は変わらない。
仮に、自分たちの利害の立場を超えて、
愛せる対象が存在したり、賞賛できる対象があるとすれば、
その人はきっと、偉大な人なんだろうなぁ。
後でまた書きます。
新品価格 |
新品価格 |
JTX ブックエンド ブラック 大 2個入 B168J-L-BK 新品価格 |