アフィリエイト広告を利用しています

広告

この広告は30日以上更新がないブログに表示されております。
新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
posted by fanblog
プロフィール

評論家
36歳・独身、親元実家暮らし、第一子で長男、現住所は東京都内。 35歳の時に痛感したのは、自分の宿業(カルマ)=宿命というテーマ。 私は既に以前までの生き方や生活を変えているのに、周囲の私に対する印象は変わっていない。 私は既に何人かの女性たちとオフパコしている(中出しも経験済み)のに、周囲には未だに童貞だと勘違いされている。 子供の頃は据え置き型ゲームの熱心なプレイヤーでしたが、それはもう15年以上前に辞めていて、今は自宅に一機もゲーム機を持っていないのに、周りの同世代からは未だにゲーマーだと誤解されている。 また、18歳〜20代前半までは確かにひきこもり系ニートでしたが、今は外で働ているのに、未だにニートではないかと周りは疑っている。 真面目にやっているのに、誤解しかされていない。これが私の宿業(カルマ)=宿命です!\(^w^)/
リンク集
<< 2013年01月 >>
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    
カテゴリアーカイブ
月別アーカイブ
最新記事

広告

この広告は30日以上更新がないブログに表示されております。
新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
posted by fanblog
2013年01月31日
彼等が望んでいることは何か?
 果たして、普通の家庭の幸福を築く為だけに、目を見張るような仕事をしたいと考えている男が世の中にどれだけいるだろうか?

 男の欲望とは、正妻の他にも、何人かの側室や妾を持つことであり、既婚者であっても、それなりの富を一代で築いた人は、子供を学校に通わせる為だけに働いているのではない。

 東大出身のエリートにしたって、子供の頃から、富裕層の彼等の親たちと同じように、何人もの妾や愛人を持つことを心の片隅に夢見て、勉学に励む一面もあったに違いない。

 女だって、自分の美貌に磨きをかけるのは、お金のある男たちの収入の分け前に預かる為であり、彼女たちの我が儘を富裕層の男たちに叶えて貰う為である。

 私が以前に、このブログで強調したように、世の中の人間たちが求めているのは、

 情報価値、利益価値(利的価値)、性的価値、の三価値しかない。

 学校を卒業した後は、就職し、結婚したら、子供を産み、子供の育児費と教育費を稼ぐ為に、定年まで働くという、これまで当たり前だと信じられてきた、「人間の成長のスパイラル」、「人生のモデル」があったとして、

 現役で大学に進学した私にとっては、

 この「人生のスパイラル」そのものを根底から否定してしまうことが、自らの目的に含まれていたのである。

「大学の連中なんか、馬鹿ばっかりだ!」

 等々、中退した後も、真面目に働き、生きている人たちを全否定していたのは、

 この「人間の成長のスパイラル」そのものに異議を差し挟みたかったからだ。

 そして、自分自身もまた、この「成長のスパイラル」に飲み込まれない為である。

 大学まで進学した以上は、私だって、自分なりの意見を持って良いと、18〜19歳の時は考えていたし、

 果たして、自分がしたい事や自分が真に否定したいことを列挙すると、

 私は、「人間が家庭を営み、子供を育てること」それ自体が、

 一般社会の大人の成長の条件として、

 一種の道徳的命法の機能を有していることに対し、

 反対と批判の意を唱えていただけなのだ!


 先の記事で、「一戸建ては不幸だ」と書いたが、

 これは、あくまで分譲マンション(集合住宅)購入の礼賛であり、

 私は、「シェアハウス」のような若者の集いも、基本的には、つまらないものだと信じている。

 話をさらに転じて、

 例えば、それまで学生や浪人だった人に対して、

 世間は、「人生にはけじめが必要だ」と煩いが、さて、その「けじめ」とは一体、どんなものか?

 やはり、一生、勉強を続けたり、叶わない夢を追ったりすることではなくて、

 きちんと職に就き、恋愛をし、結婚した後は、子供を産み、家庭を営む。

 そして、その後は、子供を育てる為に、一生、働く。

 というように、

 人間の成長として一般的に信じられている一定のスパイラルをこなしていくことが、社会人としての義務と責任を全うする事であって、

 それが、世間的には、大人になることだと言われてしまう風潮がある。

 しかし、極端な例外を言えば、

 社会人としての義務を全うし、都内在住勤め人でありながら、

 司法試験に合格した人は何人もいるし、会社に勤めたからといって、「学び」を止めなければいけないという義務はない。

 例え、その学問が道楽や趣味だったとしても、人間は、自分のしたいことを諦めるように、他から強制されるべきではないと思う。

 私は、自分のしたいことを一生、続けることが、真に人間らしい道だと信じる。

 以上。

マクロミルへ登録

Posted by 評論家 at 03:34 | この記事のURL
2013年01月30日
24時間フル稼働でトランス状態に陥る現代社会!(^0^)


 私たちはこれまで、子供の頃は学校へ通い、高校や大学を卒業した後は、就職し、職場で恋愛をすれば、結婚し、子供を産み、家庭を持ち、子供を育てる為に定年までは働くという、人間の成長のスパイラルといわれるものを一顧だにせずに、当たり前のように受け容れて来た。

 しかし、そうした「人間の成長」のスパイラルそれ自体は、本当に、人間自身の幸福に寄与したのか?

 これは、私が子供時代から疑問に思っていた事であり、だから、小学校時代の私は、大人の男女の恋なんか、碌に知りもしない癖に、周りにいる友達に向かって、「独身主義」を標榜したりして、皆を笑わせていました。

 大企業の終身雇用制度は、既に崩壊しているし、これまでの社会で通用していた、「定言命法」とか「仮言命法」みたいなものは、今ではあってないようなものだ。

 1980年代までに20代の青春を過ごした人たちにとっては、昼間は働き、夜は寝るという、当たり前の生活の循環があったが、

 今では、コンビニの24時間営業化に倣い、ファミレスだって年中無休だし、インターネットだって固定料金さえ支払えば、課金サイトに登録しない限り、いくらでもアクセスしたり、書き込みを繰り返したりすることが出来る。

 17歳から20歳までの私は、ゲームをしないケータイ依存者だったので、夜中の三時にも、友達や女の子に電話やメールをすることがあった。

 無論、自分の両親からは、深夜に電話やメールをすることは、相手にとって失礼になり迷惑になることだとは、子供時代に教わっている。

 だが、年がら年中、LINEにアクセスし、フェイスブックやツイッターに書き込みを繰り返している現代人にとって、

 生活はコンビニの営業のように24時間、稼働していくものであり、深夜に仕事をしている立場の人からすれば、睡眠のリズムだって、皆バラバラである。

 村上春樹の『1Q84』で、女子高生作家・深田絵理子(略称「ふかえり」)の未完成の原稿を川奈天吾にリライトするように要請する、変わり者のプロ編集者・小松は、

 大きな仕事をする為なら、どんな時間にも(その時間が深夜であっても)、相手に電話する、という習慣の持ち主で、川奈天吾は、彼のその奇癖を大変嫌っている、

 という箇所があるが、こういうタイプの人間には、社会に出れば、一人や二人、付き合ったことがあるというような人も多いと思う。

 コンビニの営業時間と同じく、私の夢も、自らの日常を24時間フル稼働させることだったので、いくら両親から注意され、友達や女の子に嫌がられ、怖がられても、

 私自身は、

 深夜三時に、電話やメールをすることは悪いことではない!

 と確信していた。

 24時間フル稼働で、トランス状態の日常を経験することが、

 私が作家になる目的だったのだ!

 創価学会二代会長戸田城聖先生だって、広宣流布の歴史に残るような大闘争の時には、夜中の三時に、当時、20代だった池田先生を電話で呼び出すこともあったそうです。

 これは、泣く子も黙る夕張炭鉱労働組合との闘いや、昭和30年・「大阪の戦い」の規模の大きさを考慮に入れれば、

「確かにそれくらい厳しい戦いだったに違いない」と、容易に納得できる話です。

 本当に大きな仕事に没頭している人というのは、一日中、睡眠を取らずに活動することもあるわけで、

 仕事の空いた時間に睡眠を取っておく習慣ならば、最早、インターネットが高速通信の手段として、世界中に張り巡らされている現代ですから、

 LINEにしろ、ツイッターにしろ、フェイスブックにしろ、コンビニやファミレスの営業時間帯と同じく、24時間いつでも書き込みが可能。

 最近は、深夜の一時に出歩いても、まだ外をうろついている若い女性の姿が、その辺にも、あの辺にも、チラチラ。

 時代は最早、24時間フル稼働で、トランス状態に陥る世の中です!

 だから、深夜三時に、電話やメールをするのは、別に悪くないんです。









 写真は、ヒンドゥー教のシヴァ神や、密教美術の仏像だったりしますが、私は一応、創価学会員ですので、少し前の『空海と密教美術展』だけは、観たくても、観に行きませんでした。

 日蓮大聖人は、空海の教義を真っ向から否定していますが、空海が図式化したり、建築化したりした密教の曼荼羅というのは、要するに今でいうディズニーランドみたいなものです。

 親鸞の「踊念仏」が、今でいうクラブミュージックやディスコだったのとほとんど同じです。

 私自身は、創価学会の御本尊しか信じていませんが(汗)













マクロミルへ登録

Posted by 評論家 at 23:54 | この記事のURL
2013年01月26日
「最高」とは、何か?(^0^)


 人生には楽しいことも苦しいこともあるでしょうが、

 基本的には、自分にとって、「最高の幸せ」を追求することに、その意義があるのだと考えます。

 しかし、各自にとって、何を幸せとするか、その基準は様々です。

 旅行に行くのが趣味の人もいれば、グルメツアーに参加することが楽しみな人もいる。

 カフェにまで出掛けて、本を読むのが習慣の人もいれば、

 頭を使わずに、休日は、一日中、家でテレビを観て過ごすことが好きな人もいる。

 ジムに通って、運動したり、汗を流したりすることが、自らの幸福感覚に直結すると考える人もいれば、

 海水浴やスキーに行って、女の子をナンパしている方が楽しいと思っている輩もいる。

 個人にとって、その幸せの形態は多様であっても、本人が「最高だ!」と思っている以上は、それは人生で最高の瞬間なわけです。

 某掲示板で、天才論議を紛糾させている間、ずっと訝しく思っていたのですが、

 天才になりたい! とか、歴史に名を残したい! と、考える人の思考というのは、

 単に、褒められたいとか、称賛されたいという意図よりも、

 周囲から、そのような評価をされることで、

「自分が過ごした時(人生)は、こんなに最高だった!」

                       と思えるようになりたい、


 ということであって、コレは、単純な被承認欲に還元できるものではないというのが、私の感想でした。

 例えば、高校時代、私は、毎朝、コンビニパンとコーヒーを朝食にするのが日課で、こうしたいつもの習慣に従って生きていることが、「最高の幸福」だったのですが、

 私の周りでは、私の極めて個人的なこの習慣にすら、唾棄してくる友人がいました。

 私が最も思い悩んだのは、

 自分にとって、最も個人的な「最高の幸せ」を追求する時間や権利を周りの友人たちから否定され、

 いつの間にか、その友人たちが是とする価値観に参加を強制されるような出来事が多々あったことで、

 これは、今の十代や20代に最もありがちな、昭和初期の「全体主義」の全く別の形式だったのではないか? と、疑っています。

 彼等の言い分としては、

「それが最高だったかどうかは、皆で決めること!」

 という事になるのでしょうが、皆(彼等)の価値観を肯定した場合、

 私の過ごしている青春や「最高の幸福」といったものが、彼等にとって、唾棄すべきものとなるのは、当時の価値イズムに照らして明白だったわけです。

 地元の公立図書館で、熱心に、宗教書や文学書を物色し、政治評論を読み、旧約聖書や新約聖書関連の絵画資料を閲覧するという「最高の幸福」が、私の実生活上にあった場合、

 この価値イズムとは全く正反対の方向から、私が異を唱える皆の価値観に迎合することを強要され、その価値観に強制的に参加するように求められる、

 私にとっての青春とは、このパターンの繰り返しだったわけです。

 漫画やサッカーが価値の中心軸に据えられている彼等(皆)の価値観というのは、

 私の立場からすると、非常に「貧しい世界」に他ならなかったのです。

 すると、真の意味で、「精神的な豊かさ」とは一体、何なのか? という問いがここで成立します。

 現在は、国政に復帰した石原慎太郎氏が、都知事時代に、今の若者を揶揄して、

「昨今の若者の退化には、三つのスクリーンが起因している。それは、テレビと、ケータイと、インターネットだ」

 と、堂々と公言しており、私自身、今の若者の立場で、「確かにそうかもしれないなぁ」と、思ってしまったのですが、

 石原氏の価値を基軸に据えると、テレビのある生活は貧しい、インターネットやケータイがある生活も実は豊かではない、という事になるわけです。

 しかし、昭和30年代以前は、明らかにこれとは逆の価値観が日本中に蔓延していた筈で、

 家にテレビがある生活というのは、戦後復興を遂げ、所得倍増真っ只中の日本という国の豊かさの象徴だったわけです。

 ですが、現在は、テレビは一人に一台(一家に一台ではない)、インターネットやケータイで、人々が交信するのは当たり前という時代が到来すると、

 今度は、その「豊かさ」の負の側面が浮き彫りになり、実は、テレビがある生活も、インターネットやケータイに支配された生活も、それが普及する以前の人々の生活と比較して、決して、「豊か」になったとは言えない、という価値観が蔓延します。

 ミステリ好きの人にとっては、純文学しか読まない人の価値観とは、貧しいものでしょう。

 逆に、村上春樹ばかり読んでいる人にとっては、それ以外の作家は、大したことではない。論ずるに値しない(!?)とすら考える人もいるかも知れない。

 同じように、漫画ばかり読んでいる人にとっては、「小説のどこが面白いの?」、「文学って楽しいの?」という事になるわけですし、

 小説ばかりに生活を囲い込まれてしまえば、漫画を読むことそれ自体が「生活が貧困である」、「精神性が豊かではない」という風に、価値の基軸が変わっていく筈です。

 聖書や仏典の世界に傾倒する私の立場からすれば、少年漫画やサッカーしか信じられない周りの若者の価値観というのは、言うまでもなく、「貧しい世界」に他ならなかったですし、

 逆に、彼等の立場からすれば、宗教や信仰を論じている世界それ自体が貧困、という事にもなりかねないわけです。

 しかし、私の立場からすると、

 当たり前のことですが、少林寺拳法や合気道にだって、根底には、宗教的な精神が宿っていますからね(笑) ブルース・リーの「ジークンドー」だって、コレは同じです。

『ワン・チャイ』で、黄飛鴻(ウォン・フェイフォン)役を演じたジェット・リーだって、身長165センチのチベット仏教の強信者なのだから(笑)

 マハトマ・ガンジーやキング牧師の非暴力主義の運動だって、アレは純粋に宗教的なものだった筈ですし、マルコムXの黒人解放運動だって、根底にはイスラム教の精神があったわけでしょう。

 宗教的な精神を否定するのは、根底に宿る社会変革の理念や、肉体改造の意義を否定してしまうのと同じ事なんですよ。

 すると、宗教と言えば、「オウム事件」のような負のイメージしか思い出さない我々の世代からしても、

「宗教や信仰の世界を否定する事それ自体は、本当に豊かと言えるのか?」という問いが、ここで成立する筈です。

 過去の私や石原慎太郎氏に代表されるように、

 一方的に、相手の価値観を「貧しい生活だ!」

 と断じている人間のタイプがあるとして、

 逆に、その相手の立場からしたら、本人の生活の方が貧しかった、


 なんてことは、現在の世の中からしてみたら、珍しい事でも何でもない。

 良くある事なんですね。

「自分の生活が最高!」と思っているのが、過去や現在の私だとすると、

 周囲にとっては、「それを最高とは思わないでね」と、いつも釘を刺されていたのが、

 これまでの私の典型的な生活パターンだったのかも知れません。





























マクロミルへ登録

Posted by 評論家 at 05:43 | この記事のURL
2013年01月25日
「求めよ、さらば与えられん」、「門を叩け、さらば開かれん」


 私は、キリスト教徒ではないが、19歳で大学を中退してから、ずっと座右の銘にしている言葉がある。

 それは、新約聖書・マタイ伝の「求めよ、さらば与えられん」、「門を叩け、さらば開かれん」の二句である。

 類句に、「尋ねよ、さらば見い出さん」の一句があるが、常に念頭にあったのは、上の二句だった。

 旧約聖書や新約聖書に関連する絵画資料などを本で閲覧している時も、この句は常に、頭の中にあったし、ジミ・ヘンドリックスやセックス・ピストルズ、ザ・ローリングストーンズ、等々の洋楽クラシックを聴き齧っている最中にも、この言葉は繰り返し、頭の中に浮かんでいた。

 この言葉の命ずるままに、本屋や図書館で資料を物色し、果てしもない時間を潰しているのが、若い時の自分にとって、どれだけ魅惑的な青春だっただろう。

 私にとっての青春とは、高校の部活やスポーツに参加することではなく、ましてや楽器演奏やバンド活動をすることでもなく、但、延々と、図書館の中で、政治資料や宗教的文献、古典文学に関連する知識を蒐集することだけだった。

 私の青春は、図書館の本と、貸出資料のCDくらいなものだった。

 しかし、バイトをする才能もなく、お金もなかった私にとっては、こうした青春こそが、最も貴重な人生の財産だった。

 闇雲に参照する資料の山に埋もれて、十代の私は、一体、何を求めていたのだろう?

 最終的には、その試行錯誤も、創価学会編纂の『日蓮大聖人御書全集』へと導かれていくのであるが、コレは幾多の思想の峰々を踏破した哲学の冒険家が、若い青春のある一時期の内に、エベレストの山を登ったのと同じ事だった。

 私は、カントすら、まだ真面目に読んでいなかったし、ハイデッガーも中途半端だった。

 しかし、自分の思考を常に先取りして、自分の頭と心が求めるままに、真剣に学んだ。

 哲学書を読む傍ら、十代の頃、真剣に不思議に思っていたことがある。

 何故、日本人が若者に説くところの「スケールの大きさ」というのは、会社の社長が考えるような型にハマった枠の大きさでしか、語られることがないのか?

 結婚し、家庭を持った多くの大人は、自分よりも若い人間に対しても、同じように、就職し、結婚し、家庭を持つことを要求する。

 また、それらの大人たちが語るところの「スケールの大きさ」というのは、実はいつも、限定されている。

 例えば、食料品や飲料の製品開発や広報担当の仕事をしているサラリーマンは、世の中に多い。ビジネスの現場とは一口に言っても、私はこの分野の仕事には、最初から全く関心がない。

 食料品や飲料をセールスする仕事に携わるくらいなら、お金なんかなくても良いから、大学の象牙の塔に籠って、フランス文学やドイツ哲学の研究をしている方が、私の場合は、ずっと幸せだろう。

 日本のエンターテインメント小説の隆盛だって、コレは同じで、「小説と言えば、今はミステリ」だと思い込んでいる一般的読者は、純文学を志望する若者に対し、「そんな狭い世界にばかり閉じこもっていないで、もっと広い世界を見れば?」、「もっと、イロイロ経験すれば?」、等々、良く口を挿むが、

 それだって、どことなく、中小企業の経営者的な視点から、そうした生き方を勧めているに過ぎないのではないか?

 古井由吉のようなスケールの小説家こそが、作家としては一番本物なのだ、とするのが、私の考え方だったとしても、大衆ポップ志向の強い良い歳の大人たちや若者たちには、狭い世界を是とするような私の意見など、きっと聞いていられないのだろう。

 食料品や飲料、グルメ関係のセールスに関していえば、

 私は、食べることに関心がないので、この種の仕事には向いていないと思う。十代の頃、食べることは苦痛だったので、敢えて、昼食を抜きにして、一日二食主義を摂っていたくらいだ。もちろん、間食もしない。デザートやお菓子も食べない。

 だから、ビジネスの現場にしろ、「食」やグルメに携わる仕事だけはしたくない。私は、その方面の仕事に関心が薄い。

 結婚や家庭にしても、それが本人たちにとって、果たして、本当に幸せと言えることなのかどうか、大いに疑問が残る。

 結婚後のDV(ドメスティック・バイオレンス)に悩む若妻だって多いし、結婚後に浮気に走る旦那もいる。結婚した後も、人間は恋をするのに、入籍の前だけは、二人とも、「コレがお互いの人生にとって、最後の恋だ」と思っている。これは、その場だけの御都合主義としか言いようがない。

 一番最悪なパターンは、結婚し、家庭を持ち、育児に翻弄される中で、自分が昔から憧れていた本当の夢をいつの間にか、忘れてしまうというような事態だろう。

 これを考慮に入れれば、人間には最初から、家庭なんかない方が良い。子供なんか、最初から邪魔だ。

 抑々、一夫一婦制の従来の日本の結婚制度が、本当にこれまで愛し合った男女や夫婦の生活を幸福にしたと言えるのか?

 結婚した後も、人間は恋をするのに、何故、従来の世界の結婚制度は、一夫一婦制か、一夫多妻制しか、用意されていないのか?

 人間の価値観が多様なら、結婚制度にも、様々な種類が用意されていても宜しいのではないだろうか?

 私は、我が国日本で、一夫多妻制を採用する余地があっても良いと考えている。

 麻原彰晃は、オウム真理教の内部に、百人を超える妻を抱えていたそうな。宝の船や、援交哲学者の宮台真司と意見を同じにするわけではないが、肉体関係を持った異性の数が軽く三桁を超えてしまうというような男がいた場合、そうした権限を行使することが許されているのは、新興宗教の開祖だけだ、というのは如何なものだろうか?

 果たして、従来の一夫一婦制とか、結婚した後は、夫婦で子供を育てるという従来の家庭制度が、これまで愛し合ってきた男女を本当に幸福にして来たと言えるのだろうか?

 少子高齢化が叫ばれる世の中において、この事実は大いに議論するべきだと思う。

 いずれにしろ、先の読書の件に関していえば、

 私は但、自らの内なる声に従った。

 マハトマ・ガンジーやキング牧師、マルコムXの信念から学んだことも、結局は、自分自身の本当の声を聴く、ということではなかったか?

 私が求め、先取りしたものが何であったか、時代を経るに従って、それは徐々に明らかになっていくだろう。

 しかし、その時には既に、これまでとは異なる信念が、未来の私を衝き動かしているのだろうが(笑)

















マクロミルへ登録

Posted by 評論家 at 01:39 | この記事のURL
2013年01月20日
紀伊國谷レーベルで、ゴダール監督作品が続々リバイバル!

ゴダール/ソニマージュ初期作品集 [DVD]

新品価格
¥3,730から
(2013/1/20 16:25時点)




右側に気をつけろ [DVD]

新品価格
¥3,730から
(2013/1/20 16:26時点)




フォーエヴァー・モーツァルト [DVD]

新品価格
¥3,698から
(2013/1/20 16:28時点)




はなればなれに [DVD]

新品価格
¥3,730から
(2013/1/20 16:29時点)




 ジャン・リュック・ゴダール監督の名作シネマが、紀伊國谷レーベルで続々とリニューアルされます!

 BD盤は価格が高いので、DVDを紹介しておきます!(^0^)

 今すぐ予約しておきましょう!

オクラホマ・キッド [DVD]

新品価格
¥3,730から
(2013/1/22 22:57時点)




アパッチ族の最後 [DVD]

新品価格
¥3,730から
(2013/1/22 23:11時点)




マクロミルへ登録

Posted by 評論家 at 16:23 | この記事のURL
2013年01月14日
セルゲイ・ポルダンチュク監督、『戦争と平和』、レフ・トルストイ原作の紹介!

戦争と平和 【完全版】 [DVD](発売日未定)

新品価格
¥11,401から
(2013/1/14 14:19時点)




戦争と平和 【普及版】[DVD](発売日未定)

新品価格
¥7,615から
(2013/1/14 14:20時点)




 いよいよです! 待ちに待った甲斐がありました!

 セルゲイ・ポルダンチュク監督、『戦争と平和』(レフ・トルストイ原作)が、DVDでニューリリース決定!

 本当に待っていました!

 本日から、堂々の予約開始です! これを買わないと、クラシックの新時代を見逃すぞ!

\(^0^)/

ファウスト [DVD]

新品価格
¥3,730から
(2013/1/14 14:30時点)




ドクトル・ジバゴ [DVD]

新品価格
¥8,000から
(2013/1/14 14:31時点)




マクロミルへ登録

Posted by 評論家 at 14:20 | この記事のURL
2013年01月10日
世界的人道主義者にして、創価学会初代会長・牧口常三郎特集!

柳田國男と牧口常三郎―ある遭遇と疎隔

新品価格
¥1,300から
(2013/1/10 13:08時点)




牧口常三郎と新渡戸稲造 (レグルス文庫)

新品価格
¥840から
(2013/1/10 13:09時点)




牧口常三郎の世界ヴィジョン―『人生地理学』のメッセージ

新品価格
¥1,835から
(2013/1/10 13:10時点)




牧口常三郎はカントを超えたか

新品価格
¥1,890から
(2013/1/10 13:12時点)




牧口常三郎 獄中の闘い―訊問調書と獄中書簡を読む

新品価格
¥1,365から
(2013/1/10 13:13時点)




マクロミルへ登録

Posted by 評論家 at 13:09 | この記事のURL
2013年01月09日
思想や批評が、市場(マーケット)で流通する原理!(^0^)
 マーケティングの世界では、世の中に存在するもの全てを「消費」と捉える。

「生産」も、「消費」の一形態である。

 最近は売れなくなったコンビニの漫画や雑誌、文房具、生活必需品、食べ物やデザート、飲料、等々も含め、マーケットで売られている品は、全てが「消費」される運命にある。

 芸能人の文学大賞受賞にしろ、派遣社員の文学賞通過、19歳の女の子が芥川賞を獲ることでさえ(ちと古いか?)、要は、世間が潜在的に求めている「需要」に対して、どうやって、「供給」を与え、「消費」を促進していくかという事が、文学マーケット上の一大定理となる。

 もちろん、作品が賞に値し、公にマーケットで流通させても恥じない完成度を誇ることは重要だ。

 綿矢りさの場合は、ほとんどの選考委員が、その天賦の才能を認めていたし、

 仮に、村上春樹が『1Q84』の作中で描いたように、十代の少女の作品をプロのライターにリライトさせる(?)ような出来事があったにせよ、

 未完成だった時の彼女の原稿を目にした時に、編集者のほとんどが、下読みの段階で、その子の作品だけは何故か、最後まで読んでしまった、

 という事実があるなら、まさに、その少女は、十代にして「完成され過ぎた天才」だったのだろう。

 だから、私は、「タレント作家の誕生背景」に関し、疑問を呈しつつも、彼女のことは敢えて批判はしていない。

 しかし、文学作品も、本という媒体で読まれる以上は、一つの「消費行為」であり、この点だけに絞るなら、コンビニのパンや牛乳を頬張るのと一緒、マクドナルドのポテトチップや、マンガ雑誌やアダルトDVDと全く同じように、人々の欲求(=「需要」)に対し、「マーケット(市場)」を用意し、「供給」を与え、人々の「消費」を促進させていく以外にない。

 思想が世の中に敷衍するには、思想や哲学が「消費」される「マーケット(市場)」の存在が不可欠だった。

 文学作品も、マーケットの法則に則って、「消費」という一点に括ってみれば、それは、一つの「商品」でしかない。

 いくら私が「アナログだ!」、「前時代優越主義だ!」と声高に叫んでも、それは、消費の形態を一時代前の段階に戻して、思想を摂取しているに過ぎない、という事にもなるだろう。

 すると、たかが、小説にしても、最も不可欠な要素と言えるのは、市場の需要に応えることなのであり、人々の欲求を満足させる「消費媒体」としての文学作品を、いかにして、市場原理主義のマーケットの上で、流通を促進させていくべきか、ということが重要な難点になる。

 つまり、出版物にしろ、政党選挙にしろ、お笑いのネタにしろ、あるいは、アイドルのブログにせよ、最も、効果的な「消費」とは何か?

 世の中で流通する最も面白い「消費」の形態とコンテンツとは何か? が、スマートフォンや携帯電話、I‐Padが普及する今日の最大の関心事となるのではないか?

 つまり、文学作品や思想の批評にしても、それは、市場原理主義が支配するマーケットの世界では、やはり、「消費」の域を出ていないのである。

 福田和也が『作家の値うち』で、世界最高水準の文学と銘打った、古井由吉の『仮往生伝試文』は、出版当初、蓮実重彦氏も、「間違いなく傑作でしょ」と褒めていたが、やはり、当時は話題にならず、そのまま十年近い歳月、絶版の憂き目に遭っていた。

 文学作品ですら、市場の存在と「消費」の域を超えることは出来ない。

 これは、日本の論壇において、「批評」がしっかり機能していないからだ、と仰る先生方もいらっしゃるでしょうが、その「批評」ですら、私たち一般人は、コンビニのお菓子やマクドナルドのポテトチップを頬張るように、狭い自分の世界を満たす為に「消費」しているのです。

 逆に言えば、市場原理主義は、思想や批評ですら、「商品」やイベントとして、「流通」させることができる機能を持っている、ということになるのでしょう(^0^)

仮往生伝試文(新装版)

新品価格
¥3,675から
(2013/1/9 16:04時点)




古井由吉自撰作品【全八巻】

新品価格
¥28,560から
(2013/1/10 12:27時点)




幸福に生きるために―牧口常三郎の目指したもの

新品価格
¥1,050から
(2013/1/10 13:00時点)




デュルケムの教育論

新品価格
¥3,150から
(2013/1/10 13:01時点)




マクロミルへ登録

Posted by 評論家 at 15:08 | この記事のURL
2013年01月09日
ポスト20世紀の哲人・柄谷行人特集!

意味という病 (講談社文芸文庫)

新品価格
¥1,155から
(2013/1/9 09:46時点)




畏怖する人間 (講談社文芸文庫)

新品価格
¥1,260から
(2013/1/9 09:47時点)




マルクスその可能性の中心 (講談社学術文庫)

新品価格
¥924から
(2013/1/9 09:48時点)




トランスクリティーク――カントとマルクス (岩波現代文庫)

新品価格
¥1,575から
(2013/1/9 09:53時点)




<戦前>の思考 (講談社学術文庫)

新品価格
¥945から
(2013/1/9 09:59時点)




 ポスト哲学の巨人・柄谷行人の特集です!

マクロミルへ登録

Posted by 評論家 at 09:47 | この記事のURL
2013年01月09日
IVCベスト・セレクション、近日リリース予約開始!

悲恋《IVC BEST SELECTION》 [DVD]

新品価格
¥1,701から
(2013/1/9 09:29時点)




しのび泣き《IVC BEST SELECTION》 [DVD]

新品価格
¥1,701から
(2013/1/9 09:30時点)




愛情の瞬間《IVC BEST SELECTION》 [DVD]

新品価格
¥1,701から
(2013/1/9 09:30時点)




 ジャン・コクトー脚本の『悲恋』が、IVCから復刻ニュー・リリースされます!

 その他の商品も、クラシック映画ファンにとっては必携の品ばかりです!

 本日から、予約開始です!(^0^)













マクロミルへ登録

Posted by 評論家 at 09:28 | この記事のURL
>> 次へ

×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。