人生には楽しいことも苦しいこともあるでしょうが、
基本的には、自分にとって、「最高の幸せ」を追求することに、その意義があるのだと考えます。
しかし、各自にとって、何を幸せとするか、その基準は様々です。
旅行に行くのが趣味の人もいれば、グルメツアーに参加することが楽しみな人もいる。
カフェにまで出掛けて、本を読むのが習慣の人もいれば、
頭を使わずに、休日は、一日中、家でテレビを観て過ごすことが好きな人もいる。
ジムに通って、運動したり、汗を流したりすることが、自らの幸福感覚に直結すると考える人もいれば、
海水浴やスキーに行って、女の子をナンパしている方が楽しいと思っている輩もいる。
個人にとって、その幸せの形態は多様であっても、本人が「最高だ!」と思っている以上は、それは人生で最高の瞬間なわけです。
某掲示板で、天才論議を紛糾させている間、ずっと訝しく思っていたのですが、
天才になりたい! とか、歴史に名を残したい! と、考える人の思考というのは、
単に、褒められたいとか、称賛されたいという意図よりも、
周囲から、そのような評価をされることで、
「自分が過ごした時(人生)は、こんなに最高だった!」
と思えるようになりたい、 ということであって、コレは、単純な被承認欲に還元できるものではないというのが、私の感想でした。
例えば、高校時代、私は、毎朝、コンビニパンとコーヒーを朝食にするのが日課で、こうしたいつもの習慣に従って生きていることが、「最高の幸福」だったのですが、
私の周りでは、私の極めて個人的なこの習慣にすら、唾棄してくる友人がいました。
私が最も思い悩んだのは、
自分にとって、最も個人的な「最高の幸せ」を追求する時間や権利を周りの友人たちから否定され、
いつの間にか、その友人たちが是とする価値観に参加を強制されるような出来事が多々あったことで、
これは、今の十代や20代に最もありがちな、昭和初期の「全体主義」の全く別の形式だったのではないか? と、疑っています。
彼等の言い分としては、
「それが最高だったかどうかは、皆で決めること!」 という事になるのでしょうが、皆(彼等)の価値観を肯定した場合、
私の過ごしている青春や「最高の幸福」といったものが、彼等にとって、唾棄すべきものとなるのは、当時の価値イズムに照らして明白だったわけです。
地元の公立図書館で、熱心に、宗教書や文学書を物色し、政治評論を読み、旧約聖書や新約聖書関連の絵画資料を閲覧するという「最高の幸福」が、私の実生活上にあった場合、
この価値イズムとは全く正反対の方向から、私が異を唱える皆の価値観に迎合することを強要され、その価値観に強制的に参加するように求められる、
私にとっての青春とは、このパターンの繰り返しだったわけです。
漫画やサッカーが価値の中心軸に据えられている彼等(皆)の価値観というのは、
私の立場からすると、非常に「貧しい世界」に他ならなかったのです。
すると、真の意味で、「精神的な豊かさ」とは一体、何なのか? という問いがここで成立します。
現在は、国政に復帰した石原慎太郎氏が、都知事時代に、今の若者を揶揄して、
「昨今の若者の退化には、三つのスクリーンが起因している。それは、テレビと、ケータイと、インターネットだ」
と、堂々と公言しており、私自身、今の若者の立場で、「確かにそうかもしれないなぁ」と、思ってしまったのですが、
石原氏の価値を基軸に据えると、テレビのある生活は貧しい、インターネットやケータイがある生活も実は豊かではない、という事になるわけです。
しかし、昭和30年代以前は、明らかにこれとは逆の価値観が日本中に蔓延していた筈で、
家にテレビがある生活というのは、戦後復興を遂げ、所得倍増真っ只中の日本という国の豊かさの象徴だったわけです。
ですが、現在は、テレビは一人に一台(一家に一台ではない)、インターネットやケータイで、人々が交信するのは当たり前という時代が到来すると、
今度は、その「豊かさ」の負の側面が浮き彫りになり、実は、テレビがある生活も、インターネットやケータイに支配された生活も、それが普及する以前の人々の生活と比較して、決して、「豊か」になったとは言えない、という価値観が蔓延します。
ミステリ好きの人にとっては、純文学しか読まない人の価値観とは、貧しいものでしょう。
逆に、村上春樹ばかり読んでいる人にとっては、それ以外の作家は、大したことではない。論ずるに値しない(!?)とすら考える人もいるかも知れない。
同じように、漫画ばかり読んでいる人にとっては、「小説のどこが面白いの?」、「文学って楽しいの?」という事になるわけですし、
小説ばかりに生活を囲い込まれてしまえば、漫画を読むことそれ自体が「生活が貧困である」、「精神性が豊かではない」という風に、価値の基軸が変わっていく筈です。
聖書や仏典の世界に傾倒する私の立場からすれば、少年漫画やサッカーしか信じられない周りの若者の価値観というのは、言うまでもなく、「貧しい世界」に他ならなかったですし、
逆に、彼等の立場からすれば、宗教や信仰を論じている世界それ自体が貧困、という事にもなりかねないわけです。
しかし、私の立場からすると、
当たり前のことですが、少林寺拳法や合気道にだって、根底には、宗教的な精神が宿っていますからね(笑) ブルース・リーの「ジークンドー」だって、コレは同じです。
『ワン・チャイ』で、黄飛鴻(ウォン・フェイフォン)役を演じたジェット・リーだって、身長165センチのチベット仏教の強信者なのだから(笑)
マハトマ・ガンジーやキング牧師の非暴力主義の運動だって、アレは純粋に宗教的なものだった筈ですし、マルコムXの黒人解放運動だって、根底にはイスラム教の精神があったわけでしょう。
宗教的な精神を否定するのは、根底に宿る社会変革の理念や、肉体改造の意義を否定してしまうのと同じ事なんですよ。
すると、宗教と言えば、「オウム事件」のような負のイメージしか思い出さない我々の世代からしても、
「宗教や信仰の世界を否定する事それ自体は、本当に豊かと言えるのか?」という問いが、ここで成立する筈です。
過去の私や石原慎太郎氏に代表されるように、
一方的に、相手の価値観を「貧しい生活だ!」
と断じている人間のタイプがあるとして、
逆に、その相手の立場からしたら、本人の生活の方が貧しかった、 なんてことは、現在の世の中からしてみたら、珍しい事でも何でもない。
良くある事なんですね。
「自分の生活が最高!」と思っているのが、過去や現在の私だとすると、
周囲にとっては、
「それを最高とは思わないでね」と、いつも釘を刺されていたのが、
これまでの私の典型的な生活パターンだったのかも知れません。