2013年01月06日
人生で最大の不幸とは何か?
今回は、私にとっての不幸とは何か、「幸せ」とは何かについて、綴っていきます。
◎
私にとって、最大の不幸とは、一戸建ての家を買うことだ。
一戸建ての家だけは嫌だ、という先入観がある。
マンションの数がこれだけ増えているなら、持ち家で、マンションを買ってしまえば良い。
一戸建ては、不幸以外の何物でもない。
家庭を持ち、子供を養うことも、私にとっては、不幸だ。
ある人にとっては幸福なことが、私にとっては、大変不幸な事のように思える。
会社帰りに、新橋のガードレールの下で、安居酒屋を梯子する、これも、今の私にとっては、不幸としか思えない。
どのオヤジたちも、生命の根源に巣食っている焦燥感を酒でごまかしているとしか思えない。
酒なんか飲んだって、人間は幸せになれるものではない。お喋りで時間を潰したって、世の中の景気が良くなるわけでもない。
スマホや携帯電話を持つことだって、私にとっては不幸だ。
音楽を有料でダウンロードできるサービスやアプリがあることくらい知っているが、果たして、人生がそれだけになってしまえば、これも不安や焦燥の根源となる。
中毒になってしまえば、私の買い物依存症と同じ症状を呈することになるだろう。
OSを持っていることは、不幸だとは思わない。
自分に専用のOSを2台も、3台も持っているのは、私にとって、実に幸せなことだと思う。
デジカメの中毒になっている人は、私の場合、余り幸せなことだとは思わない。
実際にそんな人いるのかどうか知らんけど、私は、写真、等を始めとする視覚的(ヴィジュアル)的なもの、造形的なものに余りこだわりたくない。
本を選ぶ場合には、装丁に、視覚的(ヴィジュアル)なものを求めて当たり前だが。
インターネット全盛期に、たくさんの紙の本を買い揃える私の衝動買いは、多くの人にとって、不幸と映るかも知れないが、実は逆で、私にとっては、これ以上の幸福はない。
私は家庭を持ち、子供を育てることが、絶対的な意味において、「人間の成長である」とは捉えていないし、そんなことが人間として偉い事だとは考えたくない。
田舎から上京して来た人間でない限り、東京に持ち家がある子供なら、20歳を過ぎたって、親元にいても良いというのが、私の元々の考えだ。
親と離れないと自由になれないから、一人暮らしをしたいと、昔の若者は考えたものだが、今の若者の中には、「親の苦労が分かっていないと成長が出来ないから、一人暮らしをしたい」と考えている人の方が、圧倒的に多いのではないか。
人間の成長を考える上で、一人暮らしをし、寂しくなったら恋愛して結婚して、子供を産むというのが、産業社会成立以来の定言命法となっていて、それが道徳規律として機能し、それを果たしてない人は、「幸福」ではない、という価値観が今も蔓延している。
私は、この人間が成長していくスパイラルそのものに対して、異議を唱えたい。
人の成長は様々であり、人間も自然の一部であるにせよ、一生独身の人もいれば、結婚した後に数回の離婚を経験する人もいる。
動物が成長し、死んでいくプロセスとは異なり、人間の場合は、各個人の人生の局面において、常に本人が、選択の主導権を握っている。
だから、成長も自立も、幸福も不幸も、実際は、本人の自由なのだと思う。
学校行事やイベントや催しで、友達や周りに併せている方が、自分は楽しいと感じる人もいれば(当然ながら、これは、女の子に多い)、そんな連帯感を否定できなければ、人間は不幸に陥ると、状況をシリアスに考察する人(私だ!)もいる。
だから、何が「勝ち組」で、何が「負け組」なのか? 本人にとっての「幸せ」や「不幸」の尺度がどこにあるかを考えた上で、コレは改めて、捉え直した方が良いと思います。
◎
私にとって、最大の不幸とは、一戸建ての家を買うことだ。
一戸建ての家だけは嫌だ、という先入観がある。
マンションの数がこれだけ増えているなら、持ち家で、マンションを買ってしまえば良い。
一戸建ては、不幸以外の何物でもない。
家庭を持ち、子供を養うことも、私にとっては、不幸だ。
ある人にとっては幸福なことが、私にとっては、大変不幸な事のように思える。
会社帰りに、新橋のガードレールの下で、安居酒屋を梯子する、これも、今の私にとっては、不幸としか思えない。
どのオヤジたちも、生命の根源に巣食っている焦燥感を酒でごまかしているとしか思えない。
酒なんか飲んだって、人間は幸せになれるものではない。お喋りで時間を潰したって、世の中の景気が良くなるわけでもない。
スマホや携帯電話を持つことだって、私にとっては不幸だ。
音楽を有料でダウンロードできるサービスやアプリがあることくらい知っているが、果たして、人生がそれだけになってしまえば、これも不安や焦燥の根源となる。
中毒になってしまえば、私の買い物依存症と同じ症状を呈することになるだろう。
OSを持っていることは、不幸だとは思わない。
自分に専用のOSを2台も、3台も持っているのは、私にとって、実に幸せなことだと思う。
デジカメの中毒になっている人は、私の場合、余り幸せなことだとは思わない。
実際にそんな人いるのかどうか知らんけど、私は、写真、等を始めとする視覚的(ヴィジュアル)的なもの、造形的なものに余りこだわりたくない。
本を選ぶ場合には、装丁に、視覚的(ヴィジュアル)なものを求めて当たり前だが。
インターネット全盛期に、たくさんの紙の本を買い揃える私の衝動買いは、多くの人にとって、不幸と映るかも知れないが、実は逆で、私にとっては、これ以上の幸福はない。
私は家庭を持ち、子供を育てることが、絶対的な意味において、「人間の成長である」とは捉えていないし、そんなことが人間として偉い事だとは考えたくない。
田舎から上京して来た人間でない限り、東京に持ち家がある子供なら、20歳を過ぎたって、親元にいても良いというのが、私の元々の考えだ。
親と離れないと自由になれないから、一人暮らしをしたいと、昔の若者は考えたものだが、今の若者の中には、「親の苦労が分かっていないと成長が出来ないから、一人暮らしをしたい」と考えている人の方が、圧倒的に多いのではないか。
人間の成長を考える上で、一人暮らしをし、寂しくなったら恋愛して結婚して、子供を産むというのが、産業社会成立以来の定言命法となっていて、それが道徳規律として機能し、それを果たしてない人は、「幸福」ではない、という価値観が今も蔓延している。
私は、この人間が成長していくスパイラルそのものに対して、異議を唱えたい。
人の成長は様々であり、人間も自然の一部であるにせよ、一生独身の人もいれば、結婚した後に数回の離婚を経験する人もいる。
動物が成長し、死んでいくプロセスとは異なり、人間の場合は、各個人の人生の局面において、常に本人が、選択の主導権を握っている。
だから、成長も自立も、幸福も不幸も、実際は、本人の自由なのだと思う。
学校行事やイベントや催しで、友達や周りに併せている方が、自分は楽しいと感じる人もいれば(当然ながら、これは、女の子に多い)、そんな連帯感を否定できなければ、人間は不幸に陥ると、状況をシリアスに考察する人(私だ!)もいる。
だから、何が「勝ち組」で、何が「負け組」なのか? 本人にとっての「幸せ」や「不幸」の尺度がどこにあるかを考えた上で、コレは改めて、捉え直した方が良いと思います。