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2022年10月09日

【物理学賞】量子計算機の礎に

物理学賞は量子もつれを実験的に実証した3氏が選ばれた。
量子もつれ状態にあるペア粒子は片方が上向きスピンを持つと、もう片方は下向きスピンを持つというように、片方を観測することでもう片方の状態が分かる。
オーストリアのウィーン大学のアントン・ザイリンガー教授はこの不思議な現象を利用して量子情報を転送することに成功した。
こうした量子のふるまいは不可解で、アインシュタインも懐疑的だった。
フランスのパリ・サクレー大学のアラン・アスペ教授と米国クラウザー研究所のジョン・クラウザー博士は量子もつれ状態の光子を観測することで歴史的な論争に決着を付けた。
観測値が上限を超えると不等式は成り立たず、量子力学が正しいと結論づけられる。
量子もつれは量子コンピューターの基礎となり、量子コンピューター同士を接続したり、量子通信、量子暗号など、さまざまな技術開発が進んでいる。

https://newswitch.jp/p/34120






【生理学医学賞】古人類学の扉開く

古代人の骨に含まれる遺伝子を抽出して解析する手法を取り入れた“古遺伝学”の先駆者で、遺伝子レベルで古代人の情報を手に入れられるようになった。
現生人類の進化につながる成果を生み出し、その功績が認められた。
ペーボ教授は沖縄科学技術大学院大学にも所属しており、5日に開かれた会見で「圧倒されるような時間が流れる中で成果が出ない時もあった。基礎研究を続けてきたことがノーベル賞につながった」と喜びを語った。
科学研究の分野では、例えば古代人の骨などにX線を照射して調べるといった、化学分析を利用して古代当時の生活環境などを調査する方法などが使われてきた。
進化の過程などを見いだす中で、より詳細な情報を得るには生化学的な知見が必要であり、そこに遺伝学を最初に取り入れたのがペーボ教授だ。
この手法を使って、古代人の「ネアンデルタール人」の全遺伝情報を解読することに成功。

https://newswitch.jp/p/34120






2022年10月08日

源頼朝公 落馬地<神奈川県藤沢市>

頼朝の死因の原因となった落馬の地。
将軍源頼朝公、稲毛重成の亡妻元子、追善供養のため造らるる、相模川橋の法要供養に臨席の、頼朝公が鎌倉の館へ帰途、 八的ヶ原に差しかかりし時、突然落馬する難に遭遇する。
落馬地は京・鎌倉往還(三浦藤沢信用金庫辻堂支店駐車場前)「保暦間記」に「建久九年の冬、右大将(頼朝)殿 相模川の橋供養に出で、還らせ給ひけるに、八的ヶ原という所にて、滅ぼされし、源氏・義広、義経、行家己下の人々の怨霊現じて、将軍の目を見合せり」と記され、八的ヶ原とは辻堂の地を指している。
源平物語り関係の書物には、将軍頼朝公は怨霊が目に現じて、落馬したと記述されているが果たして真相は
今を去るこの地にて頼朝公は落馬し、意識喪失し急遽鎌倉の館に護送された。
その後も昏睡状態が続き、 1月10日頃には一時回復し、京都の九条兼実宛「今年必ズ、シズカニノボリ他ノ事沙汰セント思ヒタリケリ、万一事存ノ外ニ候」と書状を認めた後に再発し、
住宅が立ち並び、正面は集合住宅の出入り口。

https://genpei.sakura.ne.jp/genpei-shiseki/yoritomo_rakubanoti/






旧相模川橋梁|源頼朝が落馬し死去する直前に参加した落成供養の地、国指定史跡

国道一号線と新湘南バイパスが交わる付近にある「ニトリ」の横にある、プールのような場所から木がにょきにょきを数本生えている不思議な場所が、旧相模川橋梁です。
駐車場はありません。
大正12年9月1日の関東大震災と翌年1月の余震によって、水田に橋杭が出現した全国的にもまれな遺跡だそうです。
この付近は鎌倉時代に「大庭景能」が懐島郷を領していた場所なので、「鶴峯八幡宮」とか「神明大神宮」を一緒に見ると良いと思います。
さらに面白いのが、当時、歴史学者の沼田頼輔によって、鎌倉時代の建久9年に源頼朝の重臣「稲毛三郎重成」が亡き妻の供養のために架けた橋の橋脚と考証されたこと。
これによって、大正15年に国の史跡に指定されました。
頼朝はこの橋の落成供養の帰りに落馬で亡くなりました
その時に、この橋をどうするかという話に当然なるわけですが、当時は神様とか祈禱とかを信じる時代、この橋を作った時に頼朝公が亡くなったから縁起が悪いということで、壊れたままで良いのでは?
その中で源実朝は、壊れたままだと民衆が船で渡らないと行けなくなる。
実朝は、縁起より実利を重んじた、立派なリーダーだったと言うことが分かるエピソードです。
源頼朝の墓は、鎌倉市西御門にあります。

https://1192-diary.com/old_sagamigawa_bridge/






”藤沢のソウルフード”、大新のラーメン 自販機で販売へ

創業から半世紀近くになる藤沢市の老舗中華料理店「大新(たいしん)」が10日から、冷凍自動販売機で販売を開始する。
特徴的なあんかけの味を忠実に再現するため、1年近くかけ製品化にこぎ着けた。
同店は1973年、葛山晶和社長の義父の内山勝明さんが藤沢駅南口で創業。
現在は藤沢、茅ケ崎、鎌倉市内で3店舗を構え、湘南エリアを代表する中華料理店として知られ、親子3代にわたるファンも多い。
大新ラーメンは元々まかないだったが、30年ほど前に、茅ケ崎市に新規出店する際、店で提供するように。
ザーサイとひき肉を炒め、ニンニクやショウガで風味付けしたあんかけと、あっさり味の醤油スープが絶妙にマッチし、たちまち看板メニューになった。
昨年2月に本社工場で急速冷凍したギョーザと春巻きを自販機で販売したところ、名店の味が自宅で味わえると評判が広がり、同市のふるさと納税の返礼品にもなった。
最近は来店客も増えつつあるが、テイクアウトも定着していることから、葛山さんは大新ラーメンを持ち帰り商品のラインナップに加えられないか検討。
“ソウルフード”の名に恥じないよう、店で出すものと遜色のない味を再現するため、試行錯誤を重ねた。

https://onl.tw/pgQCBWp






2022年09月30日

“ザリガニ料理”中国で大ブームのワケは? 現地記者「若者が剥きながらビールを飲むスタイルが定着」

夏の定番料理として「ザリガニ」が人気を集めている中国。
「ザリガニの町」と呼ばれている湖北省・潜江市では、ザリガニ料理に舌鼓を打つ客で大賑わいを見せていた
街の中心にそびえ立つ「巨大ザリガニ」のモニュメント※05:28ごろ〜 この「ザリガニの町」を取材したANN北京支局のANN中国総局の記者・千々岩森生総局長は「ここ10年ぐらいで、一気にザリガニ料理がブームになった」と話す
「潜江市では、街の真ん中に巨大なザリガニのモニュメントが設置され、さらに4年前、ザリガニ博物館まで建設されました。極めつけは2017年、地域内の大学にザリガニ学部を設立、1学年86人で、2019年には283人を募集するまでに拡大しました。そういったことが『ザリガニの町』と呼ばれる理由になっています」千々岩総局長によると、ザリガニを食べる文化は、もともと中国になかったという
「そもそもザリガニは日本と同じ外来種で、100年前ぐらいに中国に入ってきました。ザリガニの産地は、今回取材した湖北省以外にも、江蘇省や安徽省などがあります。地域が隣り合っていますが、特徴は中国最大の長江が流れている点です。特に湖北省は盆地で、湖や沼が多く、ザリガニの生育しやすい地形といえるでしょう」ザリガニ料理は「基本的には殻付きで出てくる」といい、客は手袋をして、手で剥いて食べる

https://news.yahoo.co.jp/articles/ddf92fd157265006f76b3aa5703efd9c6aa8bb87







2022年09月24日

鎌倉時代に発展した海と陸の輸送

敦賀では荷物を荷車に移しかえました.そこから塩津までは陸路を進みます.敦賀-塩津間は直線距離で30キロ程度ですから約一日の行程です.塩津で荷物は荷車から舟にのせかえられます.舟は荷車よりたくさん積めますから一定量がたまったら積み込んだのだでしょう.もちろん,運送料も払いました.舟は大量の荷物を少ない人数で運べますからとても便利な運搬手段です.塩津から大津までは90キロの行程ですから,舟だと約半日の行程ですね.
奈良時代に朝廷が日本全土を支配すると,「租・庸・調」という税を集めるためや軍隊を送るための「道路」を整備しました.当時の道は計画道路ですから,役所のある国府と国府のあいだや大きな村や町を直線で結びました.そして約16キロごとに「駅」を作りました.朝廷の命令や地方でおきた戦の情報を素早く伝えるために,駅には決められた数の馬が用意してありました.使者はその馬を乗りついでいったわけです.主な街道が海に近いところを通っているのは,山国の日本では多くの人が海の近くに住んでいて,町が海辺に発達したからです.
朝廷のある京都と武士の政権がある鎌倉を結ぶ東海道は最も大切な道として,幕府によって整備が進みました.それまで板東と呼ばれる「東国」と京都を結ぶメインルートは現在の中央自動車道とほぼ同じルートをとる「中山道」でした.幕府が道や駅を充実させため旅行者が増え「旅籠」も整ってきました.今で言う旅館ですね.これが江戸時代の「東海道五十三次」の元になりました.幕府にとっての東海道は京都の情報をいちはやく知るための道.京都にある六波羅探題(ろくはらたんだい=西国を治める幕府の役所)に行き来する武士のための道.いざというときに大軍隊を送る道.でした.記録によると京都と鎌倉間はふつうに歩いて16日かかりましたが,早馬では3日という記録が残っています.これは承久の乱の知らせで,朝廷が幕府を討てという命令書より一日早くついたおかげで,幕府は素早い行動がとれたと言われています.当時も今も「早くて正確な情報」が大切という証のような出来事でした.

http://www.tamagawa.ac.jp/SISETU/kyouken/kamakura/michi/index.html







和賀江島(わかえじま)

光明寺から小坪の方向へ少し歩き、海へ出ると材木座海岸の一番南側に来る。
鎌倉付近の相模湾は西端の稲村ケ崎からこのあたりまで海岸線が弓なりになっていて小さな湾のようになっているが、この小さな湾の東端は飯島岬という。
海岸には「てんがしま」と呼ばれる大岩があり、その上に鎌倉町青年団が石碑が立っている。
碑には「和賀とは今の材木座の古い呼び方であって、この地には昔、木材などを運んできた港であったことから、やがて材木座と呼ぶようになった。和賀江島はその和賀の港を守る築堤を言ったもので、今から690余年の昔の貞永元年(1232)に勧進上人の往阿弥陀仏が申請をして、平盛綱が監督となって、7月15日に起工、8月7日に竣工した」といった意味の言葉が刻まれている。
承久の乱を経て幕府の朝廷に対する優位が確立したこの頃、幕府の安定化とともに鎌倉が都市として発展し、このような港の必要性も高まったということが考えられる。
鎌倉には金沢の六浦という外港もあり、海上輸送が都市鎌倉の発展に大きな関わりを持っていたことがわかる。
和賀江島の石碑は平成21年10月8日、台風18号による高波の被害で倒壊してその後市が引き揚げ、近年ようやく再建された。

http://www.nikaido-kamakura.net/data01/224/224.html

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中世の面影を求めて〜入来文書の世界を訪ねて入来の武家屋敷散策〜

アメリカで出版されたのは1929年のことで、エール大学の朝河貫一教授によって翻訳されたものであった。
つまり世界中の研究者にとって入来は特別な地域であり、おそらく中世を研究する人が一度は訪れたいと思う地であろう。
それだけに入来の、特に地域の方々によってその景観が美しく保たれている麓地区には、武家屋敷とともに名所・旧跡が点在している。
始めにここを築いたのは入来院氏ではなく平田増宗という琉球出兵の副将だった人物だが、故あって暗殺されている。
御祭神は月読命などで、境内には六地蔵がある。
そのため、戦時中などは軍神として信仰され、武運長久を祈る参拝者が大勢いたという。
残念ながら廃仏毀釈によって廃寺となったが、歴代領主などの墓が現存している。
「まち歩き」を活動の中心に据え、地域資源の情報発信や、県内及び九州各地での観光ボランティアガイドの育成・研修、まちづくりコーディネートなどに従事する、自他ともに認めるまち歩きのプロ。
講演活動、大学の非常勤講師などを通しての持論展開のほか、新たな地域資源の価値づけとして「世間遺産」を提唱するなど、地域の魅力を観光・教育・まちづくりに展開させる活動に従事している。

https://kokuhoren-kagoshima.or.jp/ippekoppe/5013

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渋谷氏の興亡 一冊の本に

市内在住のジャーナリストである浅田勁さんが、現在の綾瀬市を中心にした「渋谷庄(しぶやのしょう)」を本拠地としていた武将・渋谷重国とその一族に焦点を当てた「綾瀬・相模のもののふ 渋谷一族の興亡-平家から源氏へ」を一冊の本にまとめた。
同氏が所属する「渋谷一族を語る会」の協力を経て発行したもので、市制施行40周年を迎える11月1日に合わせ発行した。
元神奈川新聞の記者である浅田さんは、現役時代や定年退職後にも歴史に関する6冊の書籍を発行している。
今作は、神奈川新聞相模・県央版で今年4〜7月にかけ全12回にわたり連載した「平家から源氏へ〜渋谷一族の興亡」に、大幅加筆したものとなっている。
今回協力を得た「渋谷一族を語る会」は小・中の同級生の集まりで、年に数回、綾瀬の風土について語り合っている。
著書には平家方として源頼朝を攻撃する側だった渋谷重国が頼朝側の有力御家人になった経緯や、源平合戦・奥羽合戦での活躍、鎌倉幕府樹立への貢献、頼朝死後の一族の変遷など、複雑な命運をたどった渋谷一族について詳しく描かれている。
著書は渋谷一族を縦軸に置き、横軸として鎌倉の歴史を織り交ぜた。

https://www.townnews.co.jp/0406/2018/11/16/457776.html







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