奈良時代に朝廷が日本全土を支配すると,「租・庸・調」という税を集めるためや軍隊を送るための「道路」を整備しました.当時の道は計画道路ですから,役所のある国府と国府のあいだや大きな村や町を直線で結びました.そして約16キロごとに「駅」を作りました.朝廷の命令や地方でおきた戦の情報を素早く伝えるために,駅には決められた数の馬が用意してありました.使者はその馬を乗りついでいったわけです.主な街道が海に近いところを通っているのは,山国の日本では多くの人が海の近くに住んでいて,町が海辺に発達したからです.
朝廷のある京都と武士の政権がある鎌倉を結ぶ東海道は最も大切な道として,幕府によって整備が進みました.それまで板東と呼ばれる「東国」と京都を結ぶメインルートは現在の中央自動車道とほぼ同じルートをとる「中山道」でした.幕府が道や駅を充実させため旅行者が増え「旅籠」も整ってきました.今で言う旅館ですね.これが江戸時代の「東海道五十三次」の元になりました.幕府にとっての東海道は京都の情報をいちはやく知るための道.京都にある六波羅探題(ろくはらたんだい=西国を治める幕府の役所)に行き来する武士のための道.いざというときに大軍隊を送る道.でした.記録によると京都と鎌倉間はふつうに歩いて16日かかりましたが,早馬では3日という記録が残っています.これは承久の乱の知らせで,朝廷が幕府を討てという命令書より一日早くついたおかげで,幕府は素早い行動がとれたと言われています.当時も今も「早くて正確な情報」が大切という証のような出来事でした.
http://www.tamagawa.ac.jp/SISETU/kyouken/kamakura/michi/index.html