その後も島津氏とは抗争を続けるも、今川了俊の失脚によって劣勢に転じ、島津元久や島津伊久らの攻撃によって居城の清色城が包囲され、重頼は降伏して清色城を去った。
島津元久と島津伊久は不和となり、重頼は伊久に味方して失地の回復を図った。
伊久と重頼は協力して元久を破り、応永18年には元久が病に倒れ、入来院重頼・重長父子は清色を回復した。
島津奥州家の島津久豊は永利城を落として重長に与え、重長は奥州家に帰順した。
島津忠国と島津用久との対立では忠国に味方したが、忠国と忠国嫡子の立久との対立においては、重豊は立久に協力した。
入来院氏はその後も島津氏の勢力拡大に貢献し、広大な所領を手に入れたが入来院重朝の代になると島津貴久との間に齟齬が生じ、重朝は、蒲生茂清らと結んで、再び島津氏と対立するようになる。
島津氏が勢力を拡大し、豊後国の大友宗麟が勢力を衰退させると宗麟は天下人豊臣秀吉を頼り、秀吉は九州平定を開始した。
各地で島津軍は敗戦を続け、入来院重時も抗戦したが大敗を喫し、島津氏は豊臣秀吉に降伏した。
慶長5年の関ヶ原の戦いでは、入来院重時は島津義弘に従って出陣。
https://ja.wikipedia.org/wiki/入来院氏