この地に館を築いたのは、東郷別府には既に鎌倉御家人で在地郡司である大前氏(おおくまし)が斧淵城を本拠に大きな勢力を有して東郷氏を称しており、これに対抗するための措置であった。
その混乱は渋谷一族にも波及し、まず高城(たき)氏が領地を逐われ没落、祁答院氏は守護方に就き、東郷氏と入来院氏は豊州方に就く有様であり、水引城にあった東郷氏は薩州家に与した同族の祁答院氏に攻められている。
島津宗家は求心力を徐々に低下させていったが、そんな中、永正5年(1508年)に守護の忠昌が自殺、その後を継いだ嫡男忠治、次男忠隆が相次いで早世し、その後を継いだ14代勝久が薩州家よりの逼迫に窮するあまり守護職を伊作忠良(島津忠良)の嫡子貴久に譲ったかと思うと、今度は薩州家に諭され貴久を廃嫡し守護に返り咲こうとするなど、益々混迷を加速させていった。
やがて祁答院当主の良重が自らの妻に殺害されて家が没落、東郷氏16代の重尚は入来院氏13代重嗣と連合し島津家と対立し続けたが、永禄12年(1569年)12月28日ついに全領地を献上の上で島津宗家に降伏を申し入れた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/東郷氏_(薩摩国)