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2022年08月12日

「赤壁の戦い」と「天下三分」の最大の黒幕は、孔明ではなく魯粛だった?

劉備と孫権の連合軍が、曹操の大軍勢を撃ち破った「赤壁の戦い」。
三国志のハイライトといえる大戦の一番の殊勲者といえば、まず総指揮官の周瑜(しゅうゆ)だ。
魯粛は『三国志演義』では諸葛亮や周瑜に振りまわされる道化役を演じる。
あるとき周瑜が支援を求めてくると、2つの穀物蔵のうち、1つを丸ごと差し出して意気投合した。
孫権と膝を突き合わせ、酒を飲みながら魯粛は言った。
忠や孝を重んじた当時の風潮で、魯粛の策は型破りだが、確かに曹操から献帝を救い出すのは至難。
ならば天下を二分して対抗しようという合理的なものではあった。
パイオニアではなくとも、その実現に動いたことに価値がある。
魯粛が北へ向かうと、すでに襄陽は曹操に制圧され、劉備はからがら逃走していた。
何といっても、劉備には曹操との実戦経験があった。
諸葛亮を江東へ連れ帰り、周瑜に協力を頼んで「赤壁の戦い」をプロデュースし、孫権軍を勝利に導く。
赤壁大戦から2年後に周瑜が没し、軍事・外交を引き継いだ魯粛は、その後も劉備を支援し続ける。
知らせを聞いた曹操はショックを受け、持っていた筆を落としたという。
劉備との友好には、どんな意味があったのか?
その後、曹操が215年に漢中へ侵入すると、劉備は荊州南部の東半分を孫権に返還した。
孫権の機嫌を損ね、挟み撃ちされてはたまらないから譲歩したのだ。
事実、その直後に孫権は戦略をガラリと変え、なんと曹操に「降伏」を申し入れるのだ。
荊州を統治する関羽との仲は、魯粛の死をきっかけに悪化の一途をたどる。
後任の呂蒙は、魯粛とは逆の「強硬派」で、曹操と組んで関羽を背後から襲った。

https://www.rekishijin.com/18628







三国志の英雄「曹操」の生涯を語る

曹操、字は孟徳、沛国譙県(現在の安徽省亳州)で生まれました。
《三国志》は、曹操が“奸雄”としての評価が定着し、悪役として描かれていますが。
呉の周瑜は、「曹操は漢の丞相(宰相)であることをたてにしているが、実際のところは漢にとっての賊である」と決めつけています。
父を殺された恨みから193年秋、50万もの大軍で「陶謙」の領土である徐州に侵攻、十数城を奪い、数々の戦に勝利、数万人を殺害したのです。
通過した地域でもたくさんの人々を殺害し、曹操軍の通過したところは鶏や犬の鳴き声も聞こえず、死体のため川の流れがせき止められたと言われています。
曹操は文学の面での功績を高く、才能のある人材を積極的に登用、軍閥を抑制し、中央集権を強化し、屯田制と呼ばれる農政を行い、水利プロジェクトを構築し、これにより、黄河流域はある程度の政治的明晰さを持ち、経済は徐々に回復し、階級の抑圧はわずかに軽減され、社会的雰囲気は改善されました。
近代の中国においては、多くの知識人によって曹操を悪玉とすることを見直し、再評価されたことで、曹操の人気が高まりました。
例えば、中国では毛沢東が自らの政治的立場や主張に合わせて曹操は偉大な政治家、軍事戦略家、そして偉大な詩人と肯定的に評価したことがありますし、日本ではそれ以前に吉川英治が小説『三国志』の中で熱情をもって曹操を描き、『三国志演義』とは一味違う、単なる悪役ではない一個の血の通った人間として新たな曹操像を提示しました。

https://www.arachina.com/attrations/sanguo/renwu/cc.htm







三国志、「正史」と「演義」の違いとは?

そもそも三国志とは何か、いかにして後世に伝えられたのか、英雄たちの実像がいかなるものだったのか、基本を知りたいという方も多いだろう。
ひとつは、14世紀の明の時代に羅貫中がまとめた小説『三国志演義』。
三国志は魏・呉・蜀の三国が争った時代ですが、『演義』は劉備が樹立した蜀を正統な王朝とします。
『演義』の特徴として、「奸絶 (奸のきわみ)」である曹操、「智絶 (智のきわみ)」である諸葛亮に、「義絶 (義のきわみ)」である関羽を加えた三人が、物語の中心に位置づけられていることがあります。
清の史家は『演義』を、「七分の史実に、三分の虚構」と評していますが、まさにその通りで、大筋は史実に基づいていながら、巧みに虚構も取り入れている。
『正史』は、勝者である魏を、正統な王朝とします。
そのため、魏の礎を築いた曹操に関する悪いことは隠そうとし、蜀と呉を貶めるというのが基本的スタンスで、全てが正しいとは限らないのです。
『正史』は紀伝体という形式で記され、皇帝の年代記である本紀、臣下の伝記である列伝から成り、劉備も孫権も列伝に記され、名目上は魏の臣下とされています。
この文章は、『正史』の先主 伝の中には入っているのですが、曹操の息子で魏の初代皇帝となった曹丕の本紀には、意外なことに入っていません(後世の史家が、注釈では補っています)。
とはいえ、魏を否定するのは、西晋の正統性を否定することにもつながり、それを表立ってすることはできません。
余談ですが、『正史』は呉の記述に関しては不十分な面がありました。
『演義』が蜀を正統としたのにも、理由があります。
『演義』がまとめられた明の時代は、朱子学が官学でした。
彼が生きた12世紀後半は、漢民族が異民族に圧迫されて華北を失った時代で、そうした境遇を、蜀と重ね合わせていたのです。
『演義』の作者である羅貫中も、朱子学に影響されて蜀を正統とし、正義である蜀が敗れていくという「滅びの美学」を描いた文学として昇華させたわけです。

https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/6702#google_vignette







2022年08月05日

ロシア兵捕虜、厚遇の跡 日露戦争時の大阪に収容所

日露戦争の際、満州(中国東北部)などの戦闘で捕虜になった約7万2千人ものロシア兵が日本に送られた。
全国29カ所に捕虜収容所が設けられた中、最大だったのが、約2万8千人が収容された大阪・浜寺公園近くの施設だ。
甲子園球場の6倍を超える26万平方メートルの土地を柵や板塀で5区域に分け、捕虜宿舎100棟や病舎、病院、パン工場、ロシア正教やカトリックの教会が建てられた。
当時の日本は捕虜の処遇などを国際的に取り決めたハーグ条約を批准して間もない時期。
傷病兵が多く、収容所があった06年2月までの約1年の間に89人が亡くなった。
日露戦争は米国の仲介で講和条約が締結され、ロシア兵は次々に帰国した。
泉大津市のロシア兵の墓はソ連時代に同国からも忘れ去られていたが、1965年に同市がソ連大使館に墓の存在を連絡して以降、認知され、節目の年に慰霊祭などが開かれてきた。
浜寺公園内には2002年、ロシア兵捕虜をイメージした日露友好の像と碑が建立された。
06年には、収容所の所長を務めていた陸軍少将、隈部潜氏の子孫から、当時の収容所の様子を写した写真帖などが高石市に寄贈され、それらを基に収容所の資料集が作られた。

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO63348550S0A900C2960E00/






関西最大級!関空の対岸に「泉南りんくう公園」がオープン!

関西国際空港の対岸に、関西最大級のレクリエーションスポット「泉南りんくう公園(愛称:SENNAN LONG PARK)」がオープンしました。
敷地内は、アクティビティ、コミュニティ、マルシェ、グランピングの4つのエリアに分かれており、スポーツ・食・レジャーをまとめて楽しむことができるんです。
高さ約15メートル、4階層からなる六角形のコロシアムには、綱渡り、バランスボード、吊りタイヤなど、100種類以上のアクティビティが楽しめます。
展望デッキまで上ると、飛行機が離着陸を繰り返す関西空港が一望できます。
“コミュニティエリア”には、バーベキュー場を中心として、テラス席が並ぶレストラン&カフェ、そしてグランピングが楽しめるオートキャンプ場などがあります。
“コミュニティエリア”のレストラン&カフェには、海と空を同時に感じながらリラックスタイムを過ごせるグルメスポットがあります。
大阪府内では唯一、店内からオーシャンビューが臨める「スターバックス」、本格四川麻婆豆腐、麻婆麺が自慢の中華バル「FUYO EN(フヨウエン)」、そして直火で焼き上げるハンバーガーが味わえる「ALL GOOD BURGER(オールグッドバーガー)」など、こだわりの名店ばかりです。

https://www.travel.co.jp/guide/article/43979/






岸和田だんじり祭 - Wikipedia 概要

1745年に、北町の茶屋新右衛門が大坂の祭を見聞し、牛頭天王社の祭に献灯提灯を掲げたいと藩主に願い出て許可されたのが始まりである[1]。
1703年、当時の岸和田藩主であった岡部長泰が伏見稲荷大社を岸和田城三の丸に勧請し、五穀豊穣を祈願して行った稲荷祭を始まりとする説がある。
岸城神社では、疫病退散の祭として町方の人々が始めたのが起源としている[2][3]。
速度に乗っただんじりを方向転換させる「やりまわし」が醍醐味で、曳行コースの曲がり角は大勢の観客であふれる。
もとは関西の一地方の祭であったが、昭和の終わり頃から多くのメディアで紹介されるようになり、一気に全国区の祭となった。
2009年度の観客数は2日間で56万人。

https://onl.sc/aZbpYYW






諸葛亮(孔明)の八陣図

戦いに臨んで、陣を布(し)く際の、8種の陣備えの形をいう。
わが国に古代中国の兵学思想が正式に移入されたのは、735年(天平7)に帰国した、遣唐留学生吉備真備(きびのきび)(695-775)らによるとされる。
方・円・曲・直・鏡の五行(ごぎょう)の陣形や、易(えき)の八卦(はっけ)あるいは井田法(せいでん)などの図式に基づいて考案された諸葛亮(しょかつりょう)の八陣や、孫子の九地結営(きゅうちけつ)の法などである。
なかでも亮(孔明(こうめい))の八陣図は、中国古来の天地風雲・竜虎(こ)鳥蛇の八陣に、八卦の乾坤巽艮(けんこんそんごん)(四隅)・震兌離坎(しんだりかん)(四方)を結合させたもので、これに洞当(どうとう)・中黄(ちゅうおう)・竜騰(りょうとう)・鳥翔(ちょうしょう)・連衡(れんこう)・握奇(くき)・虎翼(こよく)・折衝(せっしょう)の名を冠している。
孫子・呉子・諸葛孔明などにそれぞれの八陣の説があるが、日本には吉備真備によって天平年間に孔明の八陣の法が伝えられ、大江維時伝来と称する八陣も伝えられている。
中国古来の八卦の方位にもとづく八陣は、それぞれ天履・地載・風揚・雲垂・龍飛・虎翼・鳥翔・蛇幡と名づけられている。
大江維時の伝えた八陣は、それぞれ魚鱗・鶴翼・雁行・彎月・鉾矢・衡軛・長蛇・方円の名を当てる。

https://onl.sc/Vf766T3






岸和田城庭園(八陣の庭)が国の名勝に指定されました

岸和田城庭園は、昭和28年に日本の昭和期における代表的な庭園研究家であり作庭家でもあった重森三玲氏によって、設計、作庭されました。
本庭園は、上・中・下3段の基壇の中央に、大将の石組みを配置し、これを中心に8つの石組みが円形に配置されています。
本庭園は、岸和田城天守閣の最上階の眼下にあって、その全容を眺望することができます。

上段中央に「大将」を表す石組を配置し、中・下段には大将を守るように8組の石組が配置されています。
これは諸葛孔明の「八陣法」をテーマとしたもので、中段には「虎」、「風」の各陣を配置し、下段には「天」、「地」、「雲」、「竜」、「鳥」、「蛇」の各陣を配置しています。
三玲は八陣法は本来敵を攻める陣形ではなく、平和確立のために外敵から守る陣形であるとして、平和への願いをこの庭に込めたと自ら記しています。
全国の古庭園実測調査の成果を『日本庭園史図鑑』全26巻に結実して庭園史研究の基礎を築き、晩年には長男の重森完途と共に『日本庭園史大系』全35巻を刊行し、庭園史研究家として多大な功績を残しました。

https://www.city.kishiwada.osaka.jp/soshiki/70/hachijin.html






2022年07月29日

梶原八幡神社〜梶原景時創建の社〜

梶原八幡神社は、梶原景時が鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請した社。
1191年4月、景時は源頼朝から鶴岡八幡宮の古神体を譲り受け、6月、所領である八王子に奉祀したのだという。
『吾妻鏡』によると、すぐさま再建にとりかかった頼朝は、4月26日、大臣山の中腹に神殿を造営し、上棟式を行っている。
建久2年の大火の後、再建された鶴岡八幡宮は、火事による被害を防ぐため、山の中腹に本宮を建てられ、現在のような上下両宮の姿となった。

https://www.yoritomo-japan.com/kajiwara-hatiman.html







梶原景時館址(寒川町の遺跡)

梶原景時は、1180年の石橋山の戦いで平家方でありながら源頼朝の命を救ったと伝えられ、頼朝の鎌倉体制を固めるための中心人物として活躍した。
頼朝亡き後の1199年11月、景時は、結城朝光を讒言したことがきっかけとなり、御家人66人の弾劾によって鎌倉を追放された。
一族とともに一宮に退いた景時は、城郭を構え鎌倉幕府に抵抗する姿勢を見せていたが、翌年正月には、上洛するために密かに一宮を発った。
景時の夫人を守って信州に逃れていた家臣七人は、世情が変わったのみて、鎌倉に梶原氏の復権・所領安堵を求めるが、許されることはなく、七士はその場で自害して果てたのだという。
景時が鎌倉を追放されると屋敷は解体され、永福寺の僧の住居に使用されたと伝えられている。

https://www.yoritomo-japan.com/kajiwarakan-itinomiya.htm






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