《三国志》は、曹操が“奸雄”としての評価が定着し、悪役として描かれていますが。
呉の周瑜は、「曹操は漢の丞相(宰相)であることをたてにしているが、実際のところは漢にとっての賊である」と決めつけています。
父を殺された恨みから193年秋、50万もの大軍で「陶謙」の領土である徐州に侵攻、十数城を奪い、数々の戦に勝利、数万人を殺害したのです。
通過した地域でもたくさんの人々を殺害し、曹操軍の通過したところは鶏や犬の鳴き声も聞こえず、死体のため川の流れがせき止められたと言われています。
曹操は文学の面での功績を高く、才能のある人材を積極的に登用、軍閥を抑制し、中央集権を強化し、屯田制と呼ばれる農政を行い、水利プロジェクトを構築し、これにより、黄河流域はある程度の政治的明晰さを持ち、経済は徐々に回復し、階級の抑圧はわずかに軽減され、社会的雰囲気は改善されました。
近代の中国においては、多くの知識人によって曹操を悪玉とすることを見直し、再評価されたことで、曹操の人気が高まりました。
例えば、中国では毛沢東が自らの政治的立場や主張に合わせて曹操は偉大な政治家、軍事戦略家、そして偉大な詩人と肯定的に評価したことがありますし、日本ではそれ以前に吉川英治が小説『三国志』の中で熱情をもって曹操を描き、『三国志演義』とは一味違う、単なる悪役ではない一個の血の通った人間として新たな曹操像を提示しました。
https://www.arachina.com/attrations/sanguo/renwu/cc.htm