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2022年08月05日

ロシア兵捕虜、厚遇の跡 日露戦争時の大阪に収容所

日露戦争の際、満州(中国東北部)などの戦闘で捕虜になった約7万2千人ものロシア兵が日本に送られた。
全国29カ所に捕虜収容所が設けられた中、最大だったのが、約2万8千人が収容された大阪・浜寺公園近くの施設だ。
甲子園球場の6倍を超える26万平方メートルの土地を柵や板塀で5区域に分け、捕虜宿舎100棟や病舎、病院、パン工場、ロシア正教やカトリックの教会が建てられた。
当時の日本は捕虜の処遇などを国際的に取り決めたハーグ条約を批准して間もない時期。
傷病兵が多く、収容所があった06年2月までの約1年の間に89人が亡くなった。
日露戦争は米国の仲介で講和条約が締結され、ロシア兵は次々に帰国した。
泉大津市のロシア兵の墓はソ連時代に同国からも忘れ去られていたが、1965年に同市がソ連大使館に墓の存在を連絡して以降、認知され、節目の年に慰霊祭などが開かれてきた。
浜寺公園内には2002年、ロシア兵捕虜をイメージした日露友好の像と碑が建立された。
06年には、収容所の所長を務めていた陸軍少将、隈部潜氏の子孫から、当時の収容所の様子を写した写真帖などが高石市に寄贈され、それらを基に収容所の資料集が作られた。

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO63348550S0A900C2960E00/






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