頼朝亡き後の1199年11月、景時は、結城朝光を讒言したことがきっかけとなり、御家人66人の弾劾によって鎌倉を追放された。
一族とともに一宮に退いた景時は、城郭を構え鎌倉幕府に抵抗する姿勢を見せていたが、翌年正月には、上洛するために密かに一宮を発った。
景時の夫人を守って信州に逃れていた家臣七人は、世情が変わったのみて、鎌倉に梶原氏の復権・所領安堵を求めるが、許されることはなく、七士はその場で自害して果てたのだという。
景時が鎌倉を追放されると屋敷は解体され、永福寺の僧の住居に使用されたと伝えられている。
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