当主渋谷重国の長子である渋谷光重が、本貫地である渋谷荘を長男の重直に与え、次男から六男には宝治合戦の恩賞として与えられた薩摩国の領地をそれぞれに分与、三男の吉岡重保には祁答院を与えた。
重保は最初、柏原(現:鶴田町)へ館を築き柏原氏を称した。
この地に館を築いた理由は、同じ渋谷一族である東郷氏が本貫地であるはずの東郷に館を築かなかったのと同様、在地郡司である大前氏(おおくまし)が一帯に大きな勢力を有していたからである。
島津内部の混乱は常に敵と味方が入れ替わる状況であり、文明16年10代重慶が東郷氏・入来院氏・菱刈氏・北原氏と島津氏征伐のために結託し領地を大隅国の姶良方面にまで広げたかと思うと、その翌年には重慶が守護方につき、東郷氏と入来院氏が豊州方と結び祁答院氏を攻めるといった有様であった。
島津宗家の混乱は続き、永正5年に守護の忠昌が自殺、その後継である次男忠隆も相次いで早世、さらにその後を継いだ14代勝久が薩州家よりの逼迫から守護職を伊作忠良の嫡子貴久に譲ったかと思うと、今度は再び守護に返り咲こうとした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/祁答院氏