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2022年11月25日

「厚木駅」なのに海老名市 お隣の市の名前が付けられた理由とは?

神中鉄道は翌1917(大正6)年に設立されましたが、1918(大正7)年には輸送力を大きくするため、計画の変更を申請。
計画変更の申請書類では、終点の場所こそ変更前の計画とほぼ同じですが、その表現は「河原口」ではなく「愛甲郡厚木町(現在の厚木市)ト相模川ヲ挟メル対岸高座郡海老名村ニ於ケル相模鉄道厚木停車場附近」に変わっています。
ちょっとややこしいですが、戦時中に相鉄が神中鉄道を吸収合併する一方、相模線が国鉄線に編入されて相鉄の手を離れたため、現在の相鉄は神中鉄道の路線だった相鉄本線や厚木線を運営しているのです。
厚木市は神奈川県中部にある人口約22万5000人の大都市ですが、「厚木駅」は厚木市内ではなく、相模川を挟んで東隣にある海老名市の河原口地区にあります。
1980年に発行された小田急電鉄の社史『小田急五十年史』によると、相鉄の重役を兼ねていた海老名村長が、河原口に設ける駅に「厚木」と名付けることを考えたといいます。
厚木市議会は1998年6月の定例会で駅名の問題を取り上げ、当時の市長が「JR及び小田急に対し、駅名改称を継続的に要望いたしているところでございます」と答弁しています。
駅名の改称には億単位の費用がかかるともいわれており、鉄道会社としては簡単に変更できるものではありません。

https://trafficnews.jp/post/80140

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2022年11月18日

本家と分家がつぶし合い、上杉家の抗争「長享の乱」

扇谷定正は表向きの暗殺理由を「謀反の疑い」としましたが、実際には、両者の個人関係、そして主を上回るほどの権威を持ち始めた太田道灌への警戒心からの暗殺と考えてよさそうです。
扇谷上杉軍に太田道灌はいませんでしたが、戦上手だった扇谷定正は数回の戦闘で山内上杉軍に連勝し、一時は本家を飲み込まんばかりの勢力を擁するようになります。
勇名を轟かせていた太田道灌を暗殺したことが他の配下から疑問視されていたこともあり、抗争が長期化するにつれ離反する武将が相次ぎます。
特にその家宰(かさい=家長に代わって取り仕切る人)を務めた太田道灌(おおた・どうかん)の活躍は凄まじく、享徳の乱後期に起こった「長尾景春の乱」で上杉家勢力が窮地に追い込まれた後は、実質的に彼一人の活躍によって形勢を逆転させるに至っています。
というのも、扇谷定正と太田道灌の主従関係は決して良好なものではありませんでした。
挙句には、「扇谷上杉家が躍進したのは自分のおかげ」と公言して憚らず、主君の定正の意見さえも軽んじる有様だったそうです。
扇谷定正は表向きの暗殺理由を「謀反の疑い」としましたが、実際には、両者の個人関係、そして主を上回るほどの権威を持ち始めた太田道灌への警戒心からの暗殺と考えてよさそうです。
扇谷上杉軍に太田道灌はいませんでしたが、戦上手だった扇谷定正は数回の戦闘で山内上杉軍に連勝し、一時は本家を飲み込まんばかりの勢力を擁するようになります。
勇名を轟かせていた太田道灌を暗殺したことが他の配下から疑問視されていたこともあり、抗争が長期化するにつれ離反する武将が相次ぎます。
両上杉家が関東各地で勢力争いに明け暮れていた中、伊豆では後に関東を支配する北条家の祖こと北条早雲(1432〜1519年)が進撃し、その躍進の足掛かりを築いていました。
早雲は、姉(もしくは妹)が今川家当主に嫁いだ縁から、家督を巡りお家騒動に入った今川家の仲裁のために駿河(現静岡県)へ赴き、仲裁を終えると一旦は京都へと戻ります。
当時、伊豆は堀越公方家の足利茶々丸(あしかが・ちゃちゃまる、足利政知の子)が支配していました。
この北条早雲の伊豆討ち入りの背景については、足利義澄は茶々丸の異母弟であり、茶々丸によって実母と弟を殺された恨みがあったことと、山内上杉家勢力の多かった伊豆を抑えるため、扇谷定正が手引きしたためだとみられています。
北条早雲が伊豆を支配するなど周辺状況に変化はありつつも、両上杉家の抗争はその後も長く続きました。
この抗争の間、扇谷定正が落馬によって死んだことで扇谷上杉家の当主を養子の上杉朝良(うえすぎ・ともよし:以下、便宜上「扇谷朝良」)が継ぎましたが、その後も山内上杉家とは一進一退の争いが続きます。
両上杉家が関東各地で勢力争いに明け暮れていた中、伊豆では後に関東を支配する北条家の祖こと北条早雲(1432〜1519年)が進撃し、その躍進の足掛かりを築いていました。
早雲は、姉(もしくは妹)が今川家当主に嫁いだ縁から、家督を巡りお家騒動に入った今川家の仲裁のために駿河(現静岡県)へ赴き、仲裁を終えると一旦は京都へと戻ります。
当時、伊豆は堀越公方家の足利茶々丸(あしかが・ちゃちゃまる、足利政知の子)が支配していました。
この北条早雲の伊豆討ち入りの背景については、足利義澄は茶々丸の異母弟であり、茶々丸によって実母と弟を殺された恨みがあったことと、山内上杉家勢力の多かった伊豆を抑えるため、扇谷定正が手引きしたためだとみられています。
北条早雲が伊豆を支配するなど周辺状況に変化はありつつも、両上杉家の抗争はその後も長く続きました。
この抗争の間、扇谷定正が落馬によって死んだことで扇谷上杉家の当主を養子の上杉朝良(うえすぎ・ともよし:以下、便宜上「扇谷朝良」)が継ぎましたが、その後も山内上杉家とは一進一退の争いが続きます。
転機が起きたのは、長享の乱勃発から17年後の1504年です。
山内顕定が扇谷上杉家の拠点であった川越城(現埼玉県川越市)を攻めていたところ、北条早雲、そしてその背後の今川家の軍勢が川越城を救援するため迫ってきました。
迎え撃つのは困難とみた顕定は、川越城の包囲を解いて一時離脱します。
その後、北条家と今川家の軍勢が帰還して戦力が弱まっていた朝良の軍を、越後守護代であった長尾能景(ながお・よしかげ:上杉謙信の祖父)の援軍を得た山内顕定が急襲します。
この急襲を受け朝良は降伏し、長享の乱は終結します。
扇谷上杉家は要所の戦いでことごとく勝っていながら、最終的には敗北することとなったのは、やや皮肉な結果だと筆者は思います。
享徳の乱、長享の乱を経て、かつて関東を支配した足利家、上杉家はともにその権威を大きく落とすこととなり、最終的には北条家が両家勢力を排除して関東を支配するに至ります。

https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/50856?page=3






2022年11月11日

CBDとは何?ストレス軽減やリラックスにも。効果や使用方法をご紹介

「CBD(カンナビジオール)」は、大麻草などに含まれる成分のひとつで、そのリラックス感が人気となり欧米をはじめ世界で話題となっていますが、CBDとは一体何でしょうか。
大麻には数百種類のカンナビノイドが含まれており、大別するとCBD(カンナビジオール)とTHC(テトラヒドロカンナビノール)の2つがあります。
CBDは合法ですがTHCは日本で麻薬に指定されている禁止成分です。
CBDに期待できる効果の一つは、セロトニンやドーパミンなどの神経伝達物質に影響を与え自律神経を整えてくれるので、ストレスを緩和し、不安を軽減してリラックス効果を得られることです。
てんかんに関しては国内外での研究が進み、海外ではてんかん用の医薬品が、米国で2018年6月に販売承認されました。
海外のCBD製品の原料について成分分析表・製造工程表をメーカーから取り寄せて厚労省の確認を取ってから、税関でTHCの含有検査を行い、問題がないと判断されない限り、届くことはありません。
海外から化粧品やサプリメントを個人輸入をする人は増えていますが、CBD製品に関しては個人輸入ではなく、国内で販売されている合法の物を使用することをお勧めします。

https://onl.tw/u4LA3Ui






長尾景春の乱

白井家が家宰職の占めた時期に同家と関係を結んで所領の給与や安堵を受けた山内上杉家傘下の武士の中には家宰職が白井家から惣社家に移る事で今までの権利を失うことを危惧して景春が家宰職を継いで従来通りの安堵を受ける事を望む者もいた。
景春は縁者(従兄弟)である太田道灌に同心を求めるが、道灌はこれを拒否して直ちに五十子陣にいた顕定と主君の扇谷家当主上杉定正のもとへ向かう。
道灌は顕定と定正に景春を懐柔すべく、忠景が景春に武蔵守護代を譲るように進言するが景春が自分に次ぐ立場になる事を嫌った忠景は異例の両職兼任を行い[4]、それならば忠景を一時的に退けるよう進言するも顕定はこれを受け入れず、ならば直ちに出兵して景春を討つよう進言するが、古河公方成氏と対峙している状況ではそれもできないと取り上げなかった。
何よりも足利長尾家(長尾景人)亡き状況で、長尾一族の長老である忠景が家宰に就任するのは当然で、景春の主張は不当のものだという考えが、顕定・忠景だけでなく他の上杉氏重臣の間にも強く、忠景を一時退ける様に顕定に諫言した道灌は却って父の道真に叱責される有様であった(『太田道灌状』)[1][2]。
顕定・忠景は未だ景春の力を軽視していたが、景春は優れた武勇の士であり、2代続けて家宰職を継いだ白井家の力は他の長尾氏一族よりも抜きん出ていた。
翌文明9年(1477年)正月、景春は2500騎を率いて五十子陣を急襲し、顕定と定正は大敗を喫して敗走。
文明9年3月、道灌は先手を打って兵を動かし溝呂木城と小磯城を速攻で落とし、さらに小沢城を攻めるが、守りが堅く景春が援兵を送ったため一旦兵を引いた。
道灌は江戸城の指呼に勢力を張る豊島氏を早期に潰さねばならず、同年4月、上杉朝昌、三浦高救らの援軍を得た道灌は軽兵を発して練馬城下を焼き払い、城を出て追撃してきた泰経・泰明を待ち伏せ、豊島勢を打ち破り、泰明を討ち取った。
5月、道灌は顕定・定正と合流して五十子を奪回。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B0%BE%E6%99%AF%E6%98%A5%E3%81%AE%E4%B9%B1






玉縄城

初代城主氏時は早雲の実子であるが享禄4年に急逝、そのため、氏綱の実子である2代城主為昌が玉縄城に入ったがまだ少年であり、扇谷上杉家との戦いや里見氏の攻撃で焼失した鶴岡八幡宮の再建指揮も兼ねて父である氏綱が小田原城と玉縄城を往復して政務をみた。
豊臣秀吉による天正18年の小田原征伐においては、玉縄城主北条氏勝は山中城の守備に就いていたが落城が迫り責任をとり自害を考えた、しかし弟の北条直重らに諌められ思い留まり、敗残兵(毛利家が残した文書には700騎とある)を伴い落ち延び、諸将が集結する小田原を素通りして本拠地玉縄城に戻り籠城したことにより小田原城の北条氏政の疑心を招いた。
けまり場と呼ばれる郭には土塁が残り、けまり場とその先に有る、月見堂と言われる郭の間に堀切が残る、更に月見堂の郭の先に2条の小堀切が残るが、立ち入りは出来ない。
現在は2006年に設立された任意団体「玉縄城址まちづくり会議」が、龍寶寺境内の玉縄歴史館などを拠点に玉縄城跡の保護活動を推進しており、城の遺構を守るため、市に働きかけて「市民緑地制度」を活用して太鼓櫓跡を「植木1号市民緑地」として公園化したほか、市による城跡の史跡指定の方針が決定したという。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E7%B8%84%E5%9F%8E






鎌倉きっての悲劇の舞台。比企氏を偲ぶ深い谷〜妙本寺〜

鎌倉を囲む丘陵の南東、比企ヶ谷(ひきがやつ)という谷があります。
鎌倉期、幕府で重きをなした比企氏がこの地を与えられ、現在も比企氏ゆかりの妙本寺が建立されています。
源頼朝の乳母は比企氏総帥の妻・比企尼であり、伊豆に流された頼朝は比企一族による援助を20年もの間受けてきました。
頼朝は比企一族に並々ならぬ恩があり、この恩と信頼の高さからこの地が比企一族に与えられたと考えられます。
比企一族は必然的に幕府で重きをなし、幕府で絶対的な地位を得ようとしました。
ところが、この比企氏台頭に危機感を抱いていた頼朝の妻である北条政子の父・時政が建仁3年、比企氏当主を館に呼んで騙し討ちをすると、この谷を襲って火を放ち、比企一族100余名を皆殺しにしました。
総門を抜け、谷へ進み、方丈門から狭い脇の石段を上ります。
庇が深く、威風堂々とした佇まいがあります。
祖師堂の右脇には比企一族の墓が並びます。
これらに対して猛攻を加え、1艦を沈没させ、残り2艦も廃艦同然にした第2艦隊の大将・上村彦之丞の墓所です。

https://www.travel.co.jp/guide/article/33071/






2022年11月04日

畠山重忠の乱

1180年に源頼朝が挙兵したときは、平家方の大庭景親に従っていたが、頼朝が安房に渡り、鎌倉を目指すとこれに従った。
重忠は、遅くとも1187年までには畠山の地から交通の要衝だった菅谷に移った。
義信は、平治の乱で源義朝に従い、多くの御家人を遠ざけて行われた勝長寿院での義朝の埋葬にあたっては、源頼朝の命により源氏一門として参列している。
翌1205年(元久2年)4月11日には、北条時政が娘婿の稲毛重成を鎌倉へ呼んでいる。
翌21日、平賀朝雅は、牧の方を通じて北条時政に畠山重忠父子の謀反を訴え、それを受けた時政は、子の義時と時房に畠山討伐を諮った。
その頃、畠山重忠は、稲毛重成の虚偽報告を受けて6月19日に菅谷館を出発し、鎌倉へと向う途中だった。
重忠が鎌倉へ向かっているとの噂が流れると、重忠誅殺の命が下り、北条義時らが鎌倉を出発。
激戦が繰り広げられたが、重忠は横山党の愛甲三郎季隆の矢を受けて最期を遂げた。
重忠に恨みがある平賀朝雅が重忠一族の謀反を牧の方に告げ口し、北条時政が重成と示し合わせ、
閏7月19日、時政と牧の方による平賀朝雅を将軍に据えようとする企てが発覚し、時政らは伊豆に追放され、閏7月26日、京都にいた平賀朝雅は追討軍によって討たれた。

https://www.yoritomo-japan.com/ikusa/hatakeyama.htm






2022年10月29日

相模・岡崎城の解説【岡崎義実】三浦同寸の城

源頼朝の軍勢は、8月17日に挙兵して、伊豆目代・山木兼隆の館を襲撃し、殺害しました。
三浦義澄らの参陣が洪水などで遅れ、兵力に劣る源頼朝らは、大敗を喫し、岡崎義実の嫡男・佐奈田義忠が、長尾定景に討ち取られています。
その後も、岡崎義実は、源頼朝に従い、富士川の戦いでは、合戦に勝利したあと、黄瀬川の陣に現れた、素性の知れない若武者を、源頼朝に取り次ぎましたが、この若武者が源義経でした。
その後、鎌倉公方となった足利成氏と関東管領・上杉憲忠が争った享徳の乱を経て、韮山には鎌倉に入れなかった堀越公方も誕生しますが、1486年、扇谷上杉家の上杉定正が太田道灌を暗殺する事件が起こります。
ちなみに、1498年に伊勢宗瑞は、上杉朝良・三浦道寸と同盟を一時結び、上杉顕定の伊豆に関して、北条早雲が伊豆半島をもらい三浦道寸が伊豆諸島を領有しました。
立河原の北条早雲と上杉朝良が上杉顕定を破ると、扇谷上杉家傘下の三浦道寸は再び対立し、1510年には小田原城を攻め、北条早雲も岡崎城を攻めています。
1516年に総攻撃を受けて、三浦道寸は家臣らと共に壮絶な最後を遂げ、三浦氏は滅び、北条早雲は相模を平定しました。

https://sirotabi.com/12213/






戦国時代の合戦場となった住吉城

源頼朝によって樹立され、北条得宗家によって受け継がれてきた鎌倉幕府は、元弘三年/正慶二年に新田義貞の攻撃によって北条高時が自害し、140年あまりの歴史を閉じました。
新田義貞の軍勢は化粧坂の三方から攻めかかり、ついに稲村ヶ崎を突破して鎌倉へ乱入したと言います。
この戦闘に小坪一帯が巻き込まれたという記録は残っていませんが、後の戦国時代になると小坪でも合戦が行われました。
三浦半島を拠点とする三浦氏の家督を継いだ道寸(1451ないし1453〜1516年)は、永生七年になると相模国中央部にまで支配を広げていました。
三浦道寸と北条早雲が武力衝突したのは永生九年8月のこと、道寸が拠点としていた岡崎城に早雲が攻撃を仕掛け、はじめは籠城していた道寸方は城外に打って出て合戦を挑んだものの敗北。
翌永生十年一月に道寸は玉縄城の攻撃を試みるも、早雲を撃退するには至らず、その後道寸は住吉城の防衛を弟の道香に任せ、本拠の三崎城へ移ります。

https://x.gd/aAxMR






【保存版】高知県に行くなら食べておきたいご当地グルメ10選。地元で話題の新グルメも!

1.高知グルメの定番「カツオのたたき」
「おいしいカツオのたたきを食べたいなら高知県へ行け」といわれるほどご当地グルメの定番として定着している名物料理です。
カツオの旨みをダイレクトに感じることができる“塩たたき”もおすすめ
2.何個でも食べられる旨さ!グリーンロードの「屋台餃子」
グリーンロードには、夜になると屋台群が出現して、明け方近くまで酔客で賑わいます。
この屋台の大半では、土佐っ子が愛してやまない「屋台餃子」と呼ばれる餃子を提供しています。
こちらの屋台は「土佐のおきゃく文化」を体現するかのように、お客さんがいつもにこやかに談笑しています。
3.キモうまグルメ?高知では王道の絶品グルメ「ウツボ料理」
食べてみると意外に美味しく、高知県ではカツオに並ぶ人気食材として古くから親しまれています。
トラ柄がその凶暴性を強調しているウツボ。
味わいもフグに似ていて淡白ですが、旨みはウツボの方が強い!
4.土佐の宴会に欠かせない豪快な郷土料理「皿鉢料理」
高知の宴会や法事など、大人数が集う場では必ずと言っていいほど振る舞われる高知県の郷土料理です。
起源には諸説あるものの、家庭での宴会や法事のもてなしの際、一つの大皿で料理を提供することで、台所を預かる女性たちの片付けなどの手間が省け、一緒になって酒を酌み交わせるからという説もあります。
5.高知で“鍋焼き”といえばラーメンです。「鍋焼ラーメン」
一般的に“鍋焼き”といえば、うどんを連想しますが、高知県の須崎市では、ラーメンを土鍋で煮込んだ「鍋焼きラーメン」がポピュラー。
ラーメンを鍋焼きにしたのは、昭和20年代に須崎市の路地裏で営業していた食堂「谷口食堂」の店主が、出前の際にラーメンが冷めないようにとホーロー鍋を使ったことがきっかけといわれています。
平成14年には、全国に須崎市独自の食文化を広めようと「須崎名物・鍋焼きラーメンプロジェクトX」が発足。
6.朝からお腹いっぱい!高知の「モーニング」
高知のモーニングではトーストと一緒に「おにぎり」が提供されるお店が多い
2014年の総務省統計局調査で人口千人あたりの喫茶店軒数が日本一であることがわかった高知県。
家事から解放されたい女性たちのニーズから、休日に家族でモーニングを楽しむ文化があるというのも、県外の人にとっては驚きの対象となっています。
7.「日戻り」の新鮮なキンメダイをいただく「室戸キンメ丼」
ここ室戸では海岸近くの海底が急峻な斜面になっており、水深の深い漁場が近いのが特徴。
漁船は深夜に出航して漁を行い、午前中には帰港、獲ったキンメダイは午後にはまな板の上に載るという「日戻り」キンメダイを味わうことができるんです!
ちなみにキンメダイは年中楽しめますが、旬は梅雨から初夏の産卵前。
8.噛めば噛むほど溢れ出す旨み「土佐ジロー」
カツオをはじめ、さまざまな名物がある高知県ですが、高知が誇る地鶏「土佐ジロー」を忘れてはいけません。
土佐ジローはもも肉よりもむね肉に旨み成分が多い
そんな土佐ジローの食べ方は、炭火焼きはもちろん、お肉を卵にくぐらせて食べるすき焼きなどもおすすめ。
9.赤身と脂身のバランスが抜群に良い!「四万十ポーク」
高知自動車道・高知ICから西へ車で約50分の場所にある四万十町は、周囲を山々に囲まれた緑豊かな町。
町内の一角にある窪川地区は豚の飼養戸数・頭数ともに県内ナンバーワンを誇る養豚の盛んな地域です。
加盟店それぞれが趣向を凝らして四万十ポークを調理し、丼にのせて提供しています。
10.一日限定24ホール!幻の「チーズケーキ」
日本を代表する建築家・隈研吾氏によって設計された「雲の上のホテル」には、一度食べたら忘れられない1日限定24ホールのチーズケーキがあるんです。
ホテルのレストランでは、フルーツとカットされたチーズケーキが2つ盛りつけられて提供される
お土産に購入もできますが、レストランで出来立てを味わえば、ちょっぴりリッチなひとときを過ごせますよ。

https://gurutabi.gnavi.co.jp/a/a_2855/






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