三浦義澄らの参陣が洪水などで遅れ、兵力に劣る源頼朝らは、大敗を喫し、岡崎義実の嫡男・佐奈田義忠が、長尾定景に討ち取られています。
その後も、岡崎義実は、源頼朝に従い、富士川の戦いでは、合戦に勝利したあと、黄瀬川の陣に現れた、素性の知れない若武者を、源頼朝に取り次ぎましたが、この若武者が源義経でした。
その後、鎌倉公方となった足利成氏と関東管領・上杉憲忠が争った享徳の乱を経て、韮山には鎌倉に入れなかった堀越公方も誕生しますが、1486年、扇谷上杉家の上杉定正が太田道灌を暗殺する事件が起こります。
ちなみに、1498年に伊勢宗瑞は、上杉朝良・三浦道寸と同盟を一時結び、上杉顕定の伊豆に関して、北条早雲が伊豆半島をもらい三浦道寸が伊豆諸島を領有しました。
立河原の北条早雲と上杉朝良が上杉顕定を破ると、扇谷上杉家傘下の三浦道寸は再び対立し、1510年には小田原城を攻め、北条早雲も岡崎城を攻めています。
1516年に総攻撃を受けて、三浦道寸は家臣らと共に壮絶な最後を遂げ、三浦氏は滅び、北条早雲は相模を平定しました。
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