新田義貞の軍勢は化粧坂の三方から攻めかかり、ついに稲村ヶ崎を突破して鎌倉へ乱入したと言います。
この戦闘に小坪一帯が巻き込まれたという記録は残っていませんが、後の戦国時代になると小坪でも合戦が行われました。
三浦半島を拠点とする三浦氏の家督を継いだ道寸(1451ないし1453〜1516年)は、永生七年になると相模国中央部にまで支配を広げていました。
三浦道寸と北条早雲が武力衝突したのは永生九年8月のこと、道寸が拠点としていた岡崎城に早雲が攻撃を仕掛け、はじめは籠城していた道寸方は城外に打って出て合戦を挑んだものの敗北。
翌永生十年一月に道寸は玉縄城の攻撃を試みるも、早雲を撃退するには至らず、その後道寸は住吉城の防衛を弟の道香に任せ、本拠の三崎城へ移ります。
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