重忠は、遅くとも1187年までには畠山の地から交通の要衝だった菅谷に移った。
義信は、平治の乱で源義朝に従い、多くの御家人を遠ざけて行われた勝長寿院での義朝の埋葬にあたっては、源頼朝の命により源氏一門として参列している。
翌1205年(元久2年)4月11日には、北条時政が娘婿の稲毛重成を鎌倉へ呼んでいる。
翌21日、平賀朝雅は、牧の方を通じて北条時政に畠山重忠父子の謀反を訴え、それを受けた時政は、子の義時と時房に畠山討伐を諮った。
その頃、畠山重忠は、稲毛重成の虚偽報告を受けて6月19日に菅谷館を出発し、鎌倉へと向う途中だった。
重忠が鎌倉へ向かっているとの噂が流れると、重忠誅殺の命が下り、北条義時らが鎌倉を出発。
激戦が繰り広げられたが、重忠は横山党の愛甲三郎季隆の矢を受けて最期を遂げた。
重忠に恨みがある平賀朝雅が重忠一族の謀反を牧の方に告げ口し、北条時政が重成と示し合わせ、
閏7月19日、時政と牧の方による平賀朝雅を将軍に据えようとする企てが発覚し、時政らは伊豆に追放され、閏7月26日、京都にいた平賀朝雅は追討軍によって討たれた。
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