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2022年11月11日

長尾景春の乱

白井家が家宰職の占めた時期に同家と関係を結んで所領の給与や安堵を受けた山内上杉家傘下の武士の中には家宰職が白井家から惣社家に移る事で今までの権利を失うことを危惧して景春が家宰職を継いで従来通りの安堵を受ける事を望む者もいた。
景春は縁者(従兄弟)である太田道灌に同心を求めるが、道灌はこれを拒否して直ちに五十子陣にいた顕定と主君の扇谷家当主上杉定正のもとへ向かう。
道灌は顕定と定正に景春を懐柔すべく、忠景が景春に武蔵守護代を譲るように進言するが景春が自分に次ぐ立場になる事を嫌った忠景は異例の両職兼任を行い[4]、それならば忠景を一時的に退けるよう進言するも顕定はこれを受け入れず、ならば直ちに出兵して景春を討つよう進言するが、古河公方成氏と対峙している状況ではそれもできないと取り上げなかった。
何よりも足利長尾家(長尾景人)亡き状況で、長尾一族の長老である忠景が家宰に就任するのは当然で、景春の主張は不当のものだという考えが、顕定・忠景だけでなく他の上杉氏重臣の間にも強く、忠景を一時退ける様に顕定に諫言した道灌は却って父の道真に叱責される有様であった(『太田道灌状』)[1][2]。
顕定・忠景は未だ景春の力を軽視していたが、景春は優れた武勇の士であり、2代続けて家宰職を継いだ白井家の力は他の長尾氏一族よりも抜きん出ていた。
翌文明9年(1477年)正月、景春は2500騎を率いて五十子陣を急襲し、顕定と定正は大敗を喫して敗走。
文明9年3月、道灌は先手を打って兵を動かし溝呂木城と小磯城を速攻で落とし、さらに小沢城を攻めるが、守りが堅く景春が援兵を送ったため一旦兵を引いた。
道灌は江戸城の指呼に勢力を張る豊島氏を早期に潰さねばならず、同年4月、上杉朝昌、三浦高救らの援軍を得た道灌は軽兵を発して練馬城下を焼き払い、城を出て追撃してきた泰経・泰明を待ち伏せ、豊島勢を打ち破り、泰明を討ち取った。
5月、道灌は顕定・定正と合流して五十子を奪回。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B0%BE%E6%99%AF%E6%98%A5%E3%81%AE%E4%B9%B1






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