おとなも子どももお子さまランチを食べていいんだ。『みんなで』プリキュアを観よう、という話
ついに公開されたデパプリ映画。Twitterでは「#映画デパプリいいね」で感想が共有されている。
我がTLは非常に治安がいいのでFusetterがフル稼働して〇〇〇があふれまくっている。
毎年言っているのだが、観て良かった。今年も妻と娘と観ることができた。
どこまで伝わったかはわからないが、娘なりに感動していたようだ。そのことがうれしい。
今日のことがいつか何かの力になってほしい。そう祈らずにはいられない話だった。
以下はネタバレ注意である。
ぜひとも劇場へ行き、お子さまランチを食べてから読み進めてほしい。
映画鑑賞の注意
VTuberみたいなプレシャスが出迎えてくれる。
1人称視点なので「VRプリキュア」みたいだ。
モーションもかわいい。技術の進歩がすごい。
各プリキュアの紹介。コメコメの憧れ
セクレトルーさん操るウバウゾーとプリキュアのバトル。
ナレーションボイスで4人の紹介。映画だけ見てもどんなキャラかわかる。
コメコメはプレシャスのようなヒーローになりたいコメ、との憧れがかたられる。
プリキュア=ヒーローから始まるスタイルである。オールスター映画でよく使われた。
プリキュアと交流を深めることでプリキュア=少女でもあるの観点を獲得するドラマになることが多い。
私は訓練されたファンなので、すでにここらあたりでコメコメの成長を予感するのだった。
そしてセク姐さんのバトルデビューは劇場であった。大物やで!
ゆいの夢 幼いころにゆいとケットシーは出会っていた
街をさまよっていた少年(ケットシー)を幼いころのゆいが店に招き入れお子さまランチを振舞う。
「ごあんはえがおだぉ」みたいな発音のゆいがかわいい。推定2-3歳ぐらい。
なんかぐちゃっとした感じのおにぎりもかわいい。
最初は俯くだけだった少年もおにぎりを一口食べたらおいしい、と笑顔になる。
開始早々、ゆいとゲストキャラが「ごはんは笑顔」でつながっていることが明かされる。
そして幼馴染枠のゲストキャラである。
ヤベーぞ品田!! オメーにアドバンテージねえぞ!
夢から覚めるゆい。枕が骨付き肉(!?)
爆音。空から降ってきて裏山に完成するドリーミア。展開が早い。
和牛ボイスのロボットのチンドン屋がビラをまく。子どもは全部無料。食べ放題の遊び放題。
喜び勇んで子どもみんなでドリーミアへ。
一方スペシャルデリシャストーンとドリーミアが反応するのを訝しむマリちゃん。
ドリーミア入り口では身体検査。子どもはOK。妖精は未確認生物だからNG。
パムパムとメンメンが光線を浴びて人間に!
こうしてみんなでドリーミアを満喫する。
骨付き肉枕のインパクトよ。スゲー女だぜ。
今映画の目玉、エナジー妖精の人間体が早い段階でお出しされた。
目玉だけあってかわいい。劇場も反応していたようだった。
ひいき目だが、ここねちゃんがいちばん喜んでいたようだ。
外部のギミックで人に化けるのは意外だったが、ドリーミアで遊ぶ姿が楽しくていい。
あまねさんは絶叫マシーンも苦手なのね。。。
背伸びする子どもたちと大人は排除のドリーミア
食事時。はなまるうどんがデカデカと画面に。コラボスポンサー様だ! 道を開けろ!
たくみ一行と出くわすゆいたち。食事に誘うが、今更お子さまランチって年でもねーし、などと逆に恥ずかしいことを言う。
ヒーローになりたいコメコメはお子さまランチを拒否。物理的にも思いっきり背伸びして意地を張る。
それにしても拓海の友人のウィンナードデカワンポイントの服は何なんだ? 娘がプリンセスの和菓子屋か?
デリシャストーンの反応の真相を探りにマリちゃんが来る。
まともな大人なので正面から来るがドリーミアは大人NG。警官ロボに追い回される。
ドタバタの捕り物劇の末にゆいたちと合流。
さらにドタバタの結果、ゴミ箱から全員ドリーミア内部へ。
大人と子どもという対立軸と、それに呼応する成長の要素が示された。
ゴミ箱を通って遊園地から退場する明確な排除の構図である。
また子どもの世界から大人の世界、遊園地のバックヤードへ転換するという意図も感じられる。
大人と子どもが振るい分けられていくドリーミア内部
ドリーミア内部でロボットたちとの闘い。
全員和牛ボイスだっただろうか?(自信なし)
明らかに大人のマリちゃんが人形になって退場。若返っていくような心地らしい。
プリキュアは△。ようわからんので排除!
戦いは劣勢。フィナーレ以外は変身解除。
妖精たちは子どもなので保護。園長のもとへ行きもてなされる。
ブラペに助けてもらったプリキュアたちはコメコメたちのもとへ向かう。
ケット・シーの不穏さがそれほど出ておらず、お子様ランチづくりなど楽しいシーンが続く。
丁度中盤で中だるみしそうな時間なので、お子様ランチづくりの手拍子や指輪点灯はいいタイミングだった。
展開はなかなか油断ならない。
単なるバトルではなく、園長ケット・シーが受け入れるもの、拒絶するものを示すような展開だ。
大人のマリちゃんは早々に排除。子どもの妖精たちは保護。
ケット・シーの子どもを大事にする気持ちにも本物感がある。それだけに簡単に排除しにくい。
ロボットのスキャン結果でプリキュアは△。
この△がとてもプリキュア的で良い。大人でも、子どもでもない。
この揺らぎの期間にいる人物からこそ大人と子どもを分断する敵に立ち向かえるだろう。
ブラペ! おまえもだぞ! 「はじめましてでは?」とかカッコつけてる場合じゃないぞ!
『ごはんは笑顔』をシェアした相手なのに…
ケット・シーのもとにたどり着くプリキュアたち。
ケット・シーのデザインでゆいは気付く。あの時のお子さまランチに描いたネコだ。
一度は『ごはんは笑顔』を分かち合った相手と戦うのか?
和実ゆいの人生哲学にとって最大のピンチである。
さらにドリーミアの真相へ行きエネルギーの根源へ。
そこでゆいはケット・シーの悲しみを知る。
ケット・シーはファンタジーでもよく使われる猫の妖精の名。
ネコなのは自明だが、どう見ても熊みたいなデザインなので「なんじゃこりゃ」と思っていた。
しかしゆいが書いた子ども絵がモチーフだったとは。。。
ケット・シーにとって、夢の思い出がいかに大きかったかが分かる。
ひょっとしてコイツがいちばんの強火ゆい推しじゃないだろうか?
一方で、「それなのに敵対している」という事実がつらい。
『ごはんは笑顔』は既にシェアした。それでも分かり合えていない。
その上でお出しされるケット・シーの悲しみである。
これをどう料理するかが問われる。
ケット・シーの大人排除のきっかけが示唆的で好きだ。
ドリーミアのゲートを飛び越えようとする父親らしき男性。同時に放たれるぬいぐるみビーム。
大人がドカドカ子どもの世界に入り込んでくる暴力性みたいなものが伺えるシーンだった。
単純にゲート越えようとする治安の悪い感じの楽しさというのもある。
悲しみもシェアする食卓
全員そろって腹も決めて、変身そしてデリシャスフィールド!
ココはどこだ!? と驚くケット・シー。「ここから出せ!」という叫びが示唆的だ。
カトキデザインのロボと化したドリーミアを操りながら叫ぶセリフだが、その姿は閉じ込められているようだ。
ケット・シーの本心がこじれにこじれて出られなくなってしまっているのを示しているようだ。
これはプリキュアとして語り掛けねばならない。
とにかく動きまくるすごいバトル。
ドリーミアの力はスペシャルデリシャストーンを使ったもの。
妖精たちがドリーミア光線を受け止める。ケット・シーよりも想いが強いなら、なりたい姿になれる!
(そうなんか?)と思わんではないが、実際にお子さまランチフォームが誕生する。
そしてプレシャスとケット・シーの対話が始まる。
語り掛けるのはあの日の約束。おなかがすいたらまたおいで。
そしてあの日分け合えなかった悲しみをもう一度分け合おうと語り掛ける。
ここまででも十分説得力があるが、ここでは終わらないのがデパプリのすごいところだ。
ケット・シーは自分が許せない。人を傷つける汚れた大人になってしまった。
それを救ったのがコメコメだった。
ケット・シーの作ってくれたお子さまランチをコメコメはおいしく食べた。そこにある思いを受け取った。
ケット・シーがシェアしたものを受け取ってくれる。
そんなコメコメがケット・シーにとってのヒーローになったのだった。
スッキリしたケット・シーは大人として罪を償いに行くのだった。
考察:ゆいとコメコメの成長 〜プリキュアはどんなヒーローなのか?
謎多き大食い主人公であったゆいとパートナーのコメコメについに焦点の当たったドラマだった。
「ごはんは笑顔」で道を拓いてきたゆいだがついに限界が来る。
そこで出てきた「悲しみもシェア」。この説得力には思わずうなった。
同じ食卓を囲むことの意味の多様さがすごい。デパプリの食モチーフの解釈の深さに感心する。
この悲しみは幼いころにはシェアできなかったものだ。
そして子どもの悲しみを受け止めるのは本来大人の役割だ。
ゆいが △ になるまで成長したからこそシェアできるようになったのだろう。
そしてコメコメである。
ヒーローに憧れて大人の役割にばかり目が向いていたコメコメだったが、
最後にケット・シーを救ったのはコメコメの子どもの部分だったのだろうと思っている。
喜びをシェアする最良の相手としての子ども。
その役割をコメコメが果たしたからこそコメコメはヒーローに、プリキュアになれた、と考えている。
かのようにプリキュアというヒーローは強く正しいだけの存在ではない。
根源的な悲しみを取り除くことはできないし、時に迷うこともある。
それでもそばにいてくれるような存在がプリキュアだ。
さらに助けられるような面もあったっていい。
喜びも悲しみもシェアして共に歩んでくれるヒーロー像がデパプリで示された。
考察:ケット・シーという敵役 〜多面的な解釈ができるいい敵
プリキュアの本質を引き出してくれたのはケット・シーだ。
とてもいい敵役だったと評価している。
大人と子どもという対立軸で子ども側の立場をとるのだが、本人は大人になりかけという微妙な年ごろ。
子どもから大人になっていくプリキュアたちの鏡像として機能する。
子どもへの配慮が本物であることもよくわかる描写が多かった。
プリキュアとの闘いの前、イベントを告知して子どもたちを集め、避難させるということをシレっとやってのけている。
大人になるのを拒否している大人という捉え方もできる。
それは日々大人としての役割に疲れている我々に刺さる。
正直、私もぬいぐるみになってしまいたいと思う日の方が多い。
それでも子どもたちがいる限り大人の役割を果たさねばならない。
喜びを分け合い悲しみも分け合う、食卓を支える大人の役割を。
見終わっていろいろ考えていると背筋が伸びる思いがする。
そしてケット・シーというモチーフそのものだ。
ファンタジーで有名なネコの妖精でありシャルル・ペローの「長靴をはいた猫」もケット・シーである。
ケット・シー=ペロ、要するに東映アニメーションのコイツ↓である。
だとすると『ケット・シーにとってのお子さまランチ』にもう一つの意味が生まれる。
もうお分かりのように『東映アニメーションにとってのプリキュア』である。
ケット・シーが大人になれと笑われるシーンなど、製作陣にも長年の苦労があるのだろうなあと思わずにはいられない。おのれ! バ〇ダイ!
最後、大人も子どももお子さまランチを食べるエンディングは、私たちもプリキュアを見ていいと言われているようだった。
大人ファンがこんなに優遇されていいのか!? と戸惑うぐらいだった。
あと、ゆいと面識のある相手で、中性的な美少年というデザインもクるものがある。
時間があれば拓海の敵役もできたんじゃないかと思うが話がぶれるし尺がない。
東映アニメーションがプリキュアというシリーズに込めた祈り
そういえばプリキュアの父こと鷲尾Pがプリキュアを「お子さまランチ」と例えていたのではなかったのではなかったか?
子どもたちの楽しくてキラキラする原体験になりたい。
そして卒業した大人たちにもいつでも帰って来てほしい。
そういうストレートで純粋な願いを受け取った。
長くなったが、大人も子どももぜひ見てほしい映画だった。