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2017年05月08日

土佐七雄(とさしちゆう)

土佐七雄(とさしちゆう)
土佐七守護(とさしちしゅご)とは
室町時代末期から戦国時代にかけて土佐国に存在した7つの豪族の総称。
tosasichiyu.JPG
戦国時代土佐七雄勢力図


土佐物語」には香美郡楠目城主・山田氏
高岡郡法巌城(ほうごんじょう)片岡氏を加えた9氏が記されている

土佐七雄の成り立ち
土佐国は古来より罪人などが流される地であり、北を四国山脈に塞がれ、南は太平洋に面しているため、どこにも行けぬ陸の孤島であった。南北朝時代に細川頼益守護代として入国し安定を見せたが、応仁の乱により細川氏が衰退すると、在地の豪族達が勢力を伸ばし始めた。これが土佐七雄である。

土佐七雄一覧
(『長元物語』より。1貫 = 1〜2石)

土佐一条氏 - 土佐国司。七雄にとって盟主的存在。幡多郡中村城 16,000貫
本山氏 - 長岡郡本山城 5,000貫
吉良氏 - 吾川郡吉良城 5,000貫
安芸氏 - 安芸郡安芸城 5,000貫
津野氏 - 高岡郡姫野々城 5,000貫
香宗我部氏 - 香美郡香宗城 4,000貫
大平氏 - 高岡郡蓮池城 4,000貫
長宗我部氏 - 長岡郡岡豊城 3,000貫

本山氏- 長岡郡5000貫を支配した。
本山氏 家臣団
本山養明(もとやまやすあき)
本山茂宗(もとやましげむね)など。
居城は本山城

吉良氏 - 吾川郡5000貫を支配した。
吉良親貞(きらちかさだ)
吉良親実(きらちかざね)など。
安芸(安藝)氏 - 安芸郡5000貫を支配した。
安芸 国虎など

津野氏 - 高岡郡5000貫を支配した。
津野親忠など。

香宗我部氏 - 香美郡4000貫を支配した。
香宗我部 親秀
香宗我部親泰など。
香宗我部氏の代わりに香美郡の山田氏を入れる場合もある。

大平氏 - 高岡郡4000貫を支配した。
大平元国など。

長宗我部氏 - 長岡郡3000貫を支配した。
長宗我部氏歴代当主
長宗我部国親・長宗我部元親など。
この他、
長宗我部氏のルーツは一説には、蘇我氏一門の子孫説や秦の始皇帝説が言われている。元々、泰氏を名乗っており平安期から、鎌倉期に掛けて土佐に移り、長岡郡宗部郷(宗我部郷)に定住し、宗我部氏を名乗った。しかし、近隣の香美郡宗我郷に同じ宗我部を名乗る一族がいたため、それぞれ郡の一文字をいれ長宗我部、香宗我部と名乗った。
 「土佐物語」によると長宗我部兼元秀(元親の祖父)の時、守護細川氏の権威をかさに着て傲慢な振る舞いを行ったため長宗我部氏は本山氏と周りの諸氏に攻められ自刃、一時衰退してしまう。 元秀の子千雄丸(国親、元親の父)は家臣に連れられて、一条氏の保護を受けその助力を得て旧領に戻ることが出来た。
 その後は、元親の活躍があり土佐、四国をほぼ統一するも、豊臣秀吉の侵攻を受け降伏し、土佐一国のみを安堵された。長男信親の死以降長宗我部家は衰退していき、盛親の時代には関ヶ原で西軍につき、土佐を没収されることとなった。

土佐一条氏 幡多郡16000貫を領する土佐下向後も土佐国司、正二位の家格を誇り七雄の別格的存在である。

土佐七雄の成り立ち
土佐国は古来より罪人などが流される地であり、北を四国山脈に塞がれ、南は太平洋に面しているため、どこにも行けぬ陸の孤島であった。南北朝時代に細川頼益が守護代として入国し安定を見せたが、応仁の乱により細川氏が衰退すると、在地の豪族達が勢力を伸ばし始めた。これが土佐七雄である。

他、国人領主

土佐吉田氏

加久見氏(かくみし)

居城
加久見城(上城)
加久見 左衛門(かぐみ さえもん)
藤原姓。有力豪族で一条房家の生母は加久見土佐守宗孝の娘。
天正3年(1575年)長宗我部氏に降る。

天竺氏(てんじくし)
居城 大津城
別名 天竺城、大津御所

細川氏一族。天竺氏の滅亡に関しては諸説あり文明10年(1478年)津野基高または天文16年(1547年)頃に長宗我部国親に攻められ滅亡したともされる。




長宗我部 元親(ちょうそかべ もとちか)

chousokabe-motochika.jpg
長宗我部 元親
(ちょうそかべ もとちか)
(1539−1599)
背が高く、色白、物静か
姫若子(姫のような男の子)と呼ばれた。
四国土佐八家の中で最も弱小、
最下位にあったのが長宗我部家(ちょうそかべけ)
祖父の代には居城を失う、財力、兵力が無く
いつ滅亡しても、おかしくない家だった
元親が家督を継ぐとまさかの連戦連勝で土佐を統一
のちに四国制覇する
父は
長宗我部 国親(ちょうそかべ くにちか)
祖父 長宗我部 兼序(ちょうそかべ かねつぐ)
tosasichiyu.JPG
土佐七雄勢力地図

徳川 家康(とくがわ いえやす)

徳川 家康(とくがわ いえやす、旧字体 コ川家康)または松平 元康(まつだいら もとやす)は
生誕 天文11年12月26日(1543年1月31日)
死没 元和2年4月17日(1616年6月1日)74歳没
日本の戦国時代武家
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