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2016年05月10日

第158回『エロス+虐殺』






文●ツルシカズヒコ




 野枝にとってショッキングな事件が起きたのは、一九一五(大正四)年五月ごろだった。

 辻はこう書いている。


 ……僕らの結婚生活ははなはだ弛緩してゐた。

 加ふるに僕はわがままで無能でとても一家の主人たるだけの資格のない人間になつてしまつた。

 酒の味を次第に覚えた。

 野枝さんの従妹に惚れたりした。

 従妹は野枝さんが僕に対して冷淡だと云ふ理由から僕に同情して僕の身のまはりの世話をしてくれた。

 野枝さんはその頃いつも外出して、多忙であつた。

 屢々(しばしば)別居の話が出た。

 僕とその従妹との間柄を野枝さんに感づかれて一悶着起したこともあつた。

 野枝さんは早速それを小説に書いた。

 野枝さんは恐ろしいヤキモチ屋であつた。


(「ふもれすく」/『婦人公論』1924年2月号_p13~14/『辻潤全集 第一巻』_p395~396)

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 野枝はこのときの心境を『青鞜』に書いた。


 遂には私の信を奪つた、踏みにぢつた彼の行為を染々情なく思ひ出すより他はない。

 ……私はふれてはならない疵口(きずぐち)にさはらないではゐられなくなる……。

 私はひとりでゐる時に気が違ふのぢやないかと自分でも思ふ位だ。

 彼には私、彼女には他に愛の対象たる男がある。

 さうして、ひよつとしたはづみに二人は私を裏切つた。

 彼は私の愛人としてまた良人としての愛を、彼女は私のうとい肉親の中の唯一の者として愛した従姉の愛を、また男に対する愛を。

 それは私には二人のふとした出来心であるとして、二人の過ちにしやうとした。

 併し私の穏やかな顔色を伺つた二人は却つて二重に私を踏みつけた。

 私の真実を踏みにじったことに対して二人は何の感情も表はさない。

 私の苦しみは極めて安価に眺められてゐる。

 それは私をどうしても二人の愛がさうした一時のいたづらな出来心からでなく本物でなければならないと云ふ結論に導いてゆく。

 もしさうならば彼が再び私にかへつて来たと見えるのは虚偽でなくてはならない、私たちはそれによつて、どうにか解決をつけなければならない。

 併し彼はそれを拒否する、さうして私もその拒否を受け入れてはゐるけれども私の不安がすつかり落ちついて仕舞ふやうな力強いものを彼は決して私に与へやうとはしない。

 そうして私はそれを強ひて彼に求めたくない。

 それはまた決して強ひて求むべき性質のものではない。

 それが与へられさへすれば私はすつかり落ちつけることがわかつていゐ。

 けれども私はどうしてもそれを要求することは出来ない。

 彼自身から気がついて与へてくれる迄は私はおなじ苦しみをつゞけなけらばならない。

 何時までも/\。

 そして私の愛は、不安であればある程だん/\深みへはいつてゆく。

 私はぢつとして自身のすがたを見つめているのだ。


(「偶感二三」/『青鞜』1915年7月号・第5巻第7号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p244~245)





 瀬戸内寂聴『美は乱調にあり』は、辻の不倫相手を野枝の「従姉の代千代子」として描いている。

 以下、その下りを引用。


 辻が自分の目をかすめて浮気をする。

 しかも相手は、人もあろうに、従姉の代千代子だった。

 千代子も結婚してその頃上京してきていたが、野枝の家庭を見舞ううち、野枝が「青鞜」に夢中で、ほとんど夫も子供もかえりみない状態に目をみはってしまった。

 その上、あれだけ周囲を騒がせ、犠牲を強いて辻の懐に走った野枝が、まるで自分の結婚が失敗のようなことをいう。

 平凡で律儀なだけの入婿の夫にあきたらなく思っていた千代子は、辻の繊細さや知的な雰囲気は魅力だった。

 昔の教師としての畏敬の気持ものこっている。

 妻にまったくかまわれない辻の姿が、家庭的な躾だけを身につけている千代子には世にも不運なみじめな夫のように見えてきた。

「あんまり寛大すぎるから野枝ちゃんがいい気になってるんじゃないかしら」

 一(まこと)をつれてミツや恒が親類の祭りに出かけた留守に、たまたま訪ねて来た千代子は、辻の書斎に座りこんで話していた。

「いくら、仕事が大切だって旦那さんあっての仕事じゃありませんか。夜まで出かけるなんてあんまりよ」

「毎度のことだからな」

「まあ、毎度のことですって」

 ……(中略)

 千代子は辻の着物の袖付がほころびているのを見かねて、針を持ってきた。

「そのままで、すぐにつけますわ。ちょっとそうしていて」

 辻は香油の匂いのする千代子の髪を首筋に感じながら、着たままの袖付のほころびを縫ってもらった。

 ぴちっと糸切歯で糸をきる音をきいた時、冷たい髪が辻の首筋にふれた。

 ふと、手を廻した時、千代子は無抵抗に崩れこんできた。

「気の毒なお兄さん」

 千代子のふるえ声が辻のためらいを払い落とした。


(瀬戸内寂聴『美は乱調にありーー伊藤野枝と大杉栄』_p289-290)





 矢野寛治『伊藤野枝と代準介』は、辻の不倫相手を代千代子にしている間違いを指摘している(矢野寛治が間違いを指摘しているのは、『美は乱調にありーー伊藤野枝と大杉栄』以前に刊行されていた角川文庫版などの『美は乱調にあり』に対してだが、両者ともに記述は同一)。

 まず辻が不倫の相手を「野枝さんの従妹」と書いているし、野枝も「私のうとい肉親の中の唯一の者として愛した従姉の愛」と書いている、つまり辻の不倫相手にとって野枝は従姉であり、野枝にとっては従妹なのである。

 一九一五年当時、代千代子は福岡の今宿(現・福岡市西区)で暮らしていて、長男が二歳、一九一四(大正三)年の暮れには長女を出産していた。


 福岡に新婚所帯をもち、九州鉄道に勤務する夫は毎日帰宅する。

 二歳の子と、乳飲み子を抱えて、どうして今宿から上京し、辻と懇ろになることができようか。


(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p95-96)


 吉田喜重監督の映画『エロス+虐殺』(一九七〇年三月公開)でも、高橋悦史演ずる辻と新橋耐子演ずる千代子が関係するシーンが描かれている。


 このよく調べられてない誤解の表現で、亡き義母(代千代子の娘、代準介の孫)も、私の妻(代千代子の孫)も、ずっと濡れ衣であることを歯がゆく思い、かつ長い年月我慢をしてきた。

(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p96)





 では、辻と関係したのは誰なんだろうという疑問が湧いてくる……。


 野枝にはもう一人いとこの「従妹」がいる。

 こちらは当時東京で暮らしており、しょっちゅう辻の家にも出入りしていた。

 名は判明しているが、あえてここには記さない。


(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p97)


『定本 伊藤野枝全集 第二巻』の口絵に写真が掲載されている。

 辻、野枝、一(まこと)、野枝の叔母・渡辺マツ、野枝の従妹・坂口キミが写っている。

「一九一四(大正3)年頃」とある。

 つまりこのころ、坂口キミは野枝と親密な関係だったのである。

 野枝が婚家から出奔して最初に身を隠したのも福岡県三池郡二川村大字濃施(のせ)の叔母・坂口モト、従妹・坂口キミの家だった。

 野枝にとって気が置けない従妹は坂口キミしかいない。

 野枝は婚家から出奔した経緯を「従妹に」に書いているが、「従妹に」は「きみ」ちゃんこと、坂口キミに宛てた書簡スタイルで書かれてもいる。





 ちなみに坂口キミに関しては後日譚がある。

『定本 伊藤野枝全集 第二巻』に「書簡 木村荘太宛(一九一三年六月二十四日)」が収録されているが、その解題によれば、辻はこの原書簡を死(一九四四年十一月)の直前まで持っていて、形見に伊東キミ(旧姓・坂口キミ)に手渡した。

 野枝の魂のこもった手紙を、辻はよりによって野枝を裏切った不倫相手に形見として遺したわけだが、辻のこの行動を堀切利高『野枝さんをさがして』は「あの頃の野枝さんの思い出を共有できる唯一の人と考えたのではなかろうか」と指摘している。





 さて、瀬戸内寂聴『美は乱調にあり』の間違いについて、矢野寛治『伊藤野枝と代準介』は、さらにこう指摘している。


 瀬戸内寂聴は西日本新聞連載「この道」(二〇一二年連載、フリーラブ 三)の項で、「美は乱調にあり」とは別の書き方をしている。

 引用してみたい。

「野枝の身辺に突然予期しない事件が起こった。辻の母方の従妹と間違いを起こしていたのだった。ツネが早く気づき、それとなく野枝に注意しても、野枝は全く気付かなかった。夫も子供もある彼女はとかく操行が悪く、これまでも問題を起こしがちの女だった」

 ここには一切「千代子」は出てこない。

 かつ従姉から「従妹」と書き変えられている。

 辻の「母方の従妹」となっている。

 変えてもらったのはありがたいが、辻は「ふもれすく」であくまで「野枝さんの従妹」と書いている。

 合点がいかない。


(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p96~97)






 この矢野寛治の指摘は、もっともである。

『美は乱調にあり』は、実在の人物や実際に起きたことをベースにしてはいるが、あくまで小説であるから、必ずしも事実に拘泥する必要はないという理屈は成り立つ。

 瀬戸内は辻の不倫相手を代千代子として描いたことに、小説家としてのこだわりがあったかもしれない。

 しかし、矢野寛治の指摘に対し、瀬戸内は作家としてしかるべきリアクションを公に示すべきだろう。

 矢野寛治『伊藤野枝と代準介』の刊行は二〇一二年十月である。

 それ以前に出版された『美は乱調にあり』(角川文庫など)は仕方ないにしても、それ以降に増刷されたり、新たに発刊される機会があれば、瀬戸内は矢野寛治の指摘に対する何らかのリアクションを盛り込むべきだろうーーそんなことを私は考えていた。

 そんな折り、二〇一七年一月、瀬戸内寂聴『美は乱調にありーー伊藤野枝と大杉栄』が刊行されたが、矢野寛治の指摘に対する言及はなされていない。

 同書の「はじめに」に 瀬戸内はこう記している。


 二十八歳からペン一本に頼り生きてきた私は、九十四歳になった今も、まだ一日もペンを離さず書きつづけている。

 四百冊を超えているらしい自作の中で、ぜひ、今も読んでもらいたい本をひつとあげよと云われたら、迷いなく即座に、「美は乱調にあり」「諧調は偽りなり」と答えるであろう。

 今、この混迷を極めた時代にこそ、特に前途のある若い人たちに読んで欲しい。


(瀬戸内寂聴『美は乱調にありーー伊藤野枝と大杉栄』)


 瀬戸内が記しているように、この本を読んで初めて伊藤野枝の存在を知り、彼女について興味を持つ若い人は多いだろう。

 だからこそ、矢野寛治の指摘を明記すべきだった。





『美は乱調にありーー伊藤野枝と大杉栄』刊行のひと月後の二〇一七年二月、その続編『諧調は偽りなりーー伊藤野枝と大杉栄』上下二巻が刊行された。

 下巻の巻末に瀬戸内と栗原康の対談「解説にかえて 恋と革命の人生を」が掲載されている。

 二〇一六年十一月十六日に「寂庵」で行なわれた対談である。

 その中にこういう下りがある。


栗原 辻潤が野枝と一緒にいたときに不倫をした相手ですが、僕もずっと従姉の千代子さんだと思っていたんですけど、矢野寛治さんの『伊藤野枝と代準介』を読んだら、もうひとりの従妹、きみちゃんだったみたいですね。

瀬戸内 そう。あれは私が間違っていたのね。

栗原 矢野さんは親類だから間違えられて嫌かもしれないですが、でも、いいな。僕だったら、おばあちゃんが辻潤と不倫してたって間違えられたらうれしいですね(笑)。


(瀬戸内寂聴『諧調は偽りなりーー伊藤野枝と大杉栄』下巻_p325)


 ようやく、瀬戸内が自分の間違いを認めたのである。

 しかし、対談の場を借りてというおざなり感が漂っているし、謝罪の言葉もない。

 栗原の軽すぎるフォローが、そのおざなり感に拍車をかけている。

 瀬戸内寂聴はもっと潔く誠実な作家だったのではないか?

 という失望感を抱いた長年の愛読者もいたのではないだろうか。



★『辻潤全集 第一巻』(五月書房・1982年4月15日)

★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

★瀬戸内寂聴『美は乱調にありーー伊藤野枝と大杉栄』(岩波現代文庫・2017年1月17日)

★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)

★堀切利高編著『野枝さんをさがして 定本 伊藤野枝全集 補遺・資料・解説』(學藝書林・2013年5月29日)

★瀬戸内寂聴『諧調は偽りなりーー伊藤野枝と大杉栄』下巻(岩波現代文庫・2017年2月16日)






●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index




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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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